「正直なところを言えば、AIRで泣くようなオナニー野郎とお近づきになりたくはないのだけれど」
動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会(東浩紀著、講談社現代新書)




 本書や、その前に出された「不可視なものの世界」(朝日新聞社)によって、東浩紀はすっかり「オタク系ライター」としての地位を確立したように思います。あたかも、岡田斗司夫の位置を代位するように。しかし彼は自ら出自を「批評空間」で柄谷行人や浅田彰の流れに沿って現れたものと明らかにしていますし、本来ハードな文芸批評の仕事に軸足を置いている(いた)ことは、彼の初期の仕事である「ソルジェーニツィン試論」(朝日新聞社「郵便的不安たち」所収)あたりを読めば一目瞭然です。
 さて、どうしてこんなことを最初に問題にしなければならないのかというと、結局のところ「東浩紀はオタクではないのではないか?」という問いが、当のオタクたちにとって、クリティカルであるからです。というのも、東浩紀本人が本書で明記しているとおり、「どちらかといえば反権威の空気が強いオタクたちには、オタク的な手法以外のものに対する不信感があり、アニメやゲームについてオタク以外の者が論じることそのものを歓迎しない」(11頁)風潮があるためです(それが「反権威の空気」を原因とするものである、という彼の主張には、私は反対なのですが)。
 もちろんそのことを東浩紀自身も十分に自覚していて、それゆえに彼は、オタク以外の言葉でオタク文化を語ることで、横断的なコミュニケーションを可能とするための、突破口を開こうとしているのです。しかし実際のところ、貴重な「オタク系思想家」として彼が担うべき役割は、そこではないだろう、と私は考えます。彼に求められる仕事は「オタク以外の言葉でオタク文化を語ること」ではなく、「オタク以外の言葉で『オタク文化について語るオタクの言葉』について語ること」ではないか、と私は思うのです。


 ギャルゲーマニアや同人ゴロを知人に抱え、自身も有明で盆暮れに友人のエロ本売り手伝ってる立場として、本書を一読して感じた違和感は、きっと私以外のオタク読者であっても、同じような躓きを覚えるものであろうと思います(控えめに言っても、私と同じように感じるオタクは少なからずいるだろうと思います)。
 それがもっとも顕著に現れるであろう部分は、パソコンゲーム「AIR」に対する評価の部分だと思います。本書で東浩紀が「AIR」について触れた部分について、引用しておきましょう。


「……一〇時間以上にも及ぶプレイ時間の後半は、実質的な選択肢もなく、ヒロインのメロドラマが語られていくのを淡々と読むだけだ。そしてそのメロドラマも、「不治の病」「前世からの宿命」「友だちの作れない女の子」といった萌え要素が組み合わされて作られた、きわめて類型的で抽象的な物語である。物語の舞台がどこなのか、ヒロインの病はいかなる病なのか、前世とはどんな時代なのか、そのような重要な箇所がすべて曖昧なまま、『Air』の物語はただ設定だけを組み合わせた骨組みとして進んでいく。……(中略)……彼らが「深い」とか「泣ける」とか言うときにも、たいていの場合、それら萌え要素の組み合わせの妙が判断されているにすぎない。九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。」(本書114〜115頁)


 私の周囲のみに顕著な現象なのかもしれませんが、オタクたちの間で「AIR」というゲームの評価は、決して高くありません。というより、ごく一部の熱烈なファンと、それよりはやや多数の「痛烈に批判する人々」との二極化が、私の知る限りでは発生しています。
 これだけのオタクが敵愾心をむき出しにするのは、いわゆるギャルゲーの世界では、非常に珍しいことです。例えば、いわゆる「葉っぱ系」(Leafというメーカーが出した一連のノベルゲームのことです)が広く支持されていたときに、このような露骨な反感は表立って出てくることはないか、あったとしてもごく少数派でした。
 東浩紀は、このような「AIR」というゲームの特殊性を無視して、これがギャルゲーの典型例であるかのように扱っています。しかし恐らく、多くのオタクたちがこれに反論するでしょう。簡単に言って、「To Heart」と「AIR」は同一視されてはいけないのです。

 それでは、東浩紀が「AIR」を論ずるに際して見落としているのは何なのか?なぜ「AIR」はこれほどまでにオタクたちからバッシングされるのか?それを読み解く鍵は、実は彼自身の言説、先に引用した中に、既に含まれているのです。繰り返し、引用します。


「九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、この点で猫耳やメイド服への関心の高まりと本質的に変わらない。」


 結論を言えば、九〇年代におけるドラマへの関心の高まりは、猫耳やメイド服への関心の高まりとは、決定的に異なるのです。これは本書の主張の実に根底的なところ(「物語のデータベース化」)を揺るがしかねないものです。
 「AIR」におけるドラマ=物語へのインタレストと、猫耳やメイド服へのインタレストとを決定的に分かつものは何であるか。それは、これらに接するときの自己の置き方にあります。
 既にこの世界に身を置いている方ならお分かりかと思いますが(逆に、こうした世界と無縁で来た方には分かりづらい感覚かと思いますが)、オタクたちが猫耳やメイド服や緋袴や変な語尾に接して「萌え」とか言ってるときには、少なからず自嘲、あるいは失笑の成分を含んでいます。
 東浩紀が「萌え要素」と呼ぶものたちを、当のオタクたちは「ダメ概念」とか呼んだりすることがあります。この「ダメ」は漢字の「駄目」ではなく、カタカナの「ダメ」でなければならないのです。その瞬間に「ダメ」は本来の意味を失効し、強力な自己肯定の言葉になります。オタクたちはこれらの萌え要素に「萌える」ことによって、自らを「ダメ人間」と規定し、まさにそのことによってコミュニティを形成するのです。
 しかし「AIR」はそうしたオタクたちのルールを破壊します。というのも、「AIR」は幾多の萌え要素のように、自らを「ダメ」というマイナスの意味で規定し、そのことで逆説的に肯定する、というような丁寧なプロセスを置かず、もっと露骨に、「いい人」として自己肯定を行うからです。


 ここで決定的に重要なのは、「AIR」が「プレイ時間の後半は、実質的な選択肢もな」いことなのです。つまり、主人公=プレイヤーは、展開されるメロドラマの場から、あらかじめ排除されています(ゲーム中では主人公は、ヒロインを隣で見守る一羽の鳥、という役割を与えられ、傍観者として、最後までひたすら物語に関与することなく、物語を見届ける役に徹します)。言い換えるとプレイヤーは、目の前に展開される悲劇に巻き込まれる心配がなく、安全な場所から物語を鑑賞することができるのです。
 安全な場所から悲劇を鑑賞し「泣けた」「深い」と口にすることの不気味さに、少々思いを馳せてみてください。そこでは実際に悲劇の当事者ではない人たちが、単に目の前で展開されたからというだけで、あたかも自分が当事者であるかのように振る舞い、そこで「泣けた」ということによって「悲劇に直面して泣くことのできる自分=優しい人、いい人」という自己規定をします。これこそが、オタクたちにとっては絶対的な禁じ手なのです。
 そしてそこに脈打っているのは、データベース化した小さな物語ではなく、むしろ失われたはずの大きな物語に対するどす黒い欲望なのです。自分が関与することのない、メロドラマ=悲劇を、ステレオタイプな「物語」の枠内に回収し、自己肯定の装置として発動させようとする欲望。それはあらかじめ「意味」や「脈絡」を失効し、断片化して無限に組み替えられる「萌え要素」とは明らかに一線を画するのです。


 東浩紀は「実際ぼくも『AIR』で泣いたということをいちおう公言しておくけど」と告白していますが(「新現実 Vol.1」カドカワムック156、111頁)、あれで泣いた時点で、一部の(決して少数ではないと思うのですが)オタクたちからは、失格の烙印を押されるに違いないと思うのです。ちなみに私はラストシーン(病身のヒロインが最期の力を振り絞って車椅子から立ち上がる)で「クララが立った!」と叫んで馬鹿笑いしてました。夜中にパソコンの前で一人で。
 結局東浩紀があれで泣けるというのは、単にいわゆるギャルゲーをそんなに数多くプレイしていない結果ではないか、と私は考えます。それは結局、押井守の「ビューティフル・ドリーマー」あたりからこの世界に入っていった東浩紀と、遡ってもせいぜい「ナウシカ」あたりが限界の私との、世代間の格差であるのかもしれません。
 もしもこの先、東浩紀がより若い世代のオタク文化と、それを語るオタクたちの言葉に耳を傾け、そこへ向けて手紙を発信するようになれば、オタクの世界には得がたい優れた批評家が誕生することでしょう。その代わり、従来の文芸批評の世界からは、優れた批評家が一人消えるのかもしれませんが。





〈参考図書〉


 そもそも、オタク文化を語る言語が、本書の登場以前は非常に限られた領域にしかなかったため、ここで参考図書として挙げられるようなものは、あまり思いつきません。
 しかしここで私が指摘している、「失われたはずの大きな物語に対するどす黒い欲望」――それは『AIR』の他にも、『プロジェクトX』や、『新しい歴史教科書』や、ハリウッド映画や、さまざまな場面に垣間見えます――との関わり合いをより詳しく見ようとするなら、岡真理『物語/記憶』(岩波書店「思考のフロンティア」シリーズ)は優れた図書なのではないかな、と思います。
 『AIR』と対比すべきサンプルとして、いわゆるギャルゲーの分野から『終末の過ごし方』(アボガドパワーズ)を挙げておきましょう。自らを「ダメ人間」と規定するオタクたちの、どちらかといえば厭世的な身体感覚には、こちらの方がマッチするように思います。