ドードー



 町外れの工場は黙々と薄黒い煙を吐き出している。金属と機械油と石炭の匂い。シャーロットはこの匂いが大嫌いだった。鼻と口をレースのハンカチで覆いながら、普段なら近づかないその一角へと足を進める。工場の入口に着くと、シャーロットはノックさえせずに扉を開けた。立て付けの悪い鉄の扉をこじ開けると、途端に熱気と湿気を帯びた空気が立ちこめた。
「……懲りないわね、あなたも」
 目をしばたたかせながら、シャーロットが言う。しゃがみこんで何やら作業をしていたハンスは、ふと手を止めて振り向いた。
「ああロッティ、ちょうどよかった。少し、買い物を頼んでもいいかな?」
 ハンスの顔は埃と油で、ところどころが真っ黒に汚れている。それを見たシャーロットが露骨に眉をひそめたので、ハンスは慌ててシャツの袖口で額を拭った。もとよりシャツも汚れきっていたから、ハンスの顔の汚れはますます広がっただけだ。シャーロットはため息をついた。
「いい加減、諦めたらどう?あんなのただの冗談だって言ってるじゃない」
「でも君は、見たいんだろう?」
 ハンスの手元には、組み立てている最中の「それ」がある。注意深く見ないとただの鉄の塊にしか見えないが、よく見るとそれは、鳥の骨格を形成している。ハンスはポケットをかき回すと、一シリング銀貨を二枚、シャーロットの方に投げてよこした。
「これで布団の仕立屋に行って、ガチョウの羽根を買えるだけ買ってきてくれないかな」
「……本気なの?」
「仮組ができたから、少し動かしてみたいんだ。羽毛の重さをあまりちゃんと計算していないから、羽根をつけてもちゃんと動くかどうか、確かめておかないとね」
「馬鹿馬鹿しい」
 シャーロットは銀貨を投げ返す。ハンスは慌てて銀貨を受け止めたが、受け損なった一枚が手からこぼれて転々と転がった。「あ、あ」這いつくばって銀貨を追いかけるハンスを尻目に、シャーロットは工場を後にする。もはやこんなところには一秒たりともいたくなかった。


 ハンスとシャーロットは幼なじみであった――紡績工場の経営者の娘とボイラー技師の息子、という関係を、幼なじみと呼ぶことが妥当であるならだが。わがまま放題でちょっとしたお姫様のように育てられたシャーロットに対して、ハンスはいつだって召使いのように絶対服従の立場だった。
 このシャーロットが十六になって、結婚することになった。相手は町の名士で、代々子爵号を授かり、三代続けて議会に席を置く名家の跡取りであった。結婚祝いを何か贈りたい、というハンスの申し出を、シャーロットは鼻で笑い飛ばしてこう言ったのだ。
「たかだか技師の家のあなたに、あたしの結婚に相応しいお祝いができるわけないじゃない?無理なことはしないのが身のためよ」
 そう言われても、ハンスは引き下がらなかった。
「だけどそれじゃあ、僕の気が済まないんだ。僕にできる範囲で、何か君の結婚を祝う方法って、ないかな」
 ハンスにそう言われて、シャーロットは渋面を作り上げた。余計なお世話だと言ってやりたかったのだが、さすがにそこまでは口に出せない。代わりにシャーロットが口にしたのは、こんなことだった。
「そうね、じゃあ、ドードーが見たいわ」
「ドードー?」
「そう、ドードー」シャーロットは勝ち誇ったように笑みを浮かべる。「知ってるでしょ?もう二百年も前に絶滅した鳥。どうしてもあたしの結婚のお祝いをするつもりだったら、ドードーを見せてよ。あたし、それ以外は認めない」
 絶滅した鳥。それはシャーロットなりの断りの文句だったのだ。既に世界のどこでも絶滅した鳥を見せることは、ハンスでなくとも世界中の誰にだって不可能だ。こうした無理な要求を突きつけることで、シャーロットはハンスの結婚祝いを断ったつもりだった。ところが。
「ドードーを、見せればいいんだね。分かった」
 ハンスは元気よくそう答えると、途端に「さあ、忙しいぞ」などと独語しつつ、走り出したのだった。シャーロットは慌てて取り消そうとしたが、もう遅い。冗談よ、という声が発せられる頃には、ハンスは既に彼女の視界のずっと外に行ってしまっていて――そしてシャーロットは、この冗談を撤回する機会を失ってしまったのだった。


 こうした経緯があってから、ハンスはずっと工場に籠もりきりだった。ボイラーの整備を行う傍ら、暇を見つけては、ネジやら歯車やらを集めてきて、何かを組み立てているのだ。シャーロットには最初ハンスが何をしているのか分からなかったが、次第に組み立てているものの形が明らかになってくると、どうやらハンスがドードーの模型を組み立てようとしていることが理解できた。
「ロッティ、ちょっと頼まれてくれる?中央図書館に行って、ドードーについて調べてきてほしいんだ。どうも、翼の付け根から背中までの構造が理解できなくってね」
 シャーロットが時折工場にハンスの様子を見に来るたび、ハンスはこうした注文をシャーロットに突きつけてきた。シャーロットはハンスのこうした態度が嫌いだったし、生真面目にドードーを見せようとする姿勢や、嬉しそうにネジ回しを手にする様子や、彼女の名を『ロッティ』と縮めて呼ぶことなんかも、何もかも嫌いだった。
「どうしてあたしが、そんなことしなきゃいけないのよ!」
 シャーロットはその都度不平をこぼすのだが、ハンスは動じない。曇りのない笑顔を向けると、
「だって、ドードーが見たいんだろ?」
 と言うのだった。
 シャーロットは半ば呆れ、残りの半ばで怒りを感じながら、ハンスに言う。
「……だからね、あれはただの冗談。誰もあなたが本当にドードーを見せてくれるなんて、思ってやいないんだから。いい加減諦めて、仕事に戻りなさいよ」
「大丈夫だって。ボイラーの点検はさっき済ませたばっかりだから、あと三十分は放ったらかしでも平気だよ。それにドードーの方だって、ずいぶん調子がいいんだ。ボイラー技術の応用さ。小さなシリンダーひとつで、ジョイントを上手く組み合わせることで、くちばしと首の動きはずいぶん滑らかに再現できるようになったんだ。あとは脚と羽の動きだけど、これもジョイントを工夫すれば、シリンダーを増やさなくても……」
 ハンスは目をきらきらさせながら、熱烈に語る。シャーロットは話の半分以上を聞き流していたが、それでもそのうち我慢の限界がきた。
「……勝手に、やってなさいよ」
 どうにかそれだけ言うと、シャーロットは踵を返そうとする。そんなシャーロットの背中に、ハンスの声が投げつけられた。
「ロッティ、中央図書館でドードーのこと、忘れずに調べてきてね」
「…………」
 振り返って怒鳴りつけてやりたい衝動をどうにか抑え、シャーロットは工場を離れた。こんなやり取りが、すっかり日常光景になっていた。


「『ドードー/dodo……鳥類の一種で、ハトの近縁種。体は七面鳥より大きいくらい。くちばしが大きく、脚が短い。飛ぶことはできない。モーリシャス島に一六八一年まで生息』……ねえロッティ、本当にこれしか分からなかったの?」
「うるさいわね。人がいちいち調べてきたんだから、文句言わないの」
 シャーロットが図書館で調べてきたメモを受け取ると、ハンスは途端に文句めいたことを言ったので、シャーロットはずいぶん機嫌を悪くした。正直、図書館など普段あまり使ったことのないシャーロットには、調べものをしてこいと言われてもどう調べたらよいものか分からない。どうにか分厚い百科事典と格闘した結果、それだけ調べてきたのであった。
「まあいいや。ハトの近縁だっていうんなら、ハトみたいに作っていけば何とかなるだろう。ロッティ、そこのニッパー取ってよ」
「ニッパー?」
「針金とかを切るやつ。……分からない?じゃ、いいや」
 ハンスはシャーロットの足元に転がっていた工具箱からニッパーを取り出すと、また何か作業を始めた。シャーロットが作業しているハンスの手元を覗き込むと、頼まれてもいないのにハンスが説明を始める。
「動力部がそんなに強くないからね。羽なんかは極力軽量化しないと、動かせないんだ。だから骨格は細い針金で組んで、その上に羽毛を貼り付けるようにして……」
「別に、聞いてないわよ」
 シャーロットは憮然とする。憮然としながらも、視線は不思議とハンスの手元に向かった。ハンスは夢中で蒸気仕掛けのドードーを組み立てている。シャーロットはため息混じりに呟いた。
「……あなた、どうしてそんなに真面目にドードーなんか作っちゃってるの?」
「だって、シャーロットが見たいって言ったんだろ?ドードー」
「それは言ったけど、あれは冗談だって……あなた、そんな作り物のドードーで、あたしが本当に喜ぶと思ってるの?」
「…………?」
 ここでハンスは初めて手を止め、きょとんとした顔でシャーロットを見上げた。呆れ顔のシャーロットが続ける。
「だって、どんなによく出来てたって、それは偽物のドードーじゃない。そんなの、嘘のドードーだわ。あたしが見たかったのは、本物のドードー。だから、もういいの。いい加減、そんなの終わりにしてよ」
 さすがにここまで言えば、ハンスも諦めてくれるだろうとシャーロットは思っていたのだが、その考えが甘いことをすぐに思い知らされた。ハンスはしばらく目をぱちくりさせていたが、やがて真剣な顔つきに戻って、ドードーの組立作業を再開したのだ。
「……だけど、僕がロッティの結婚祝いにしてあげられることは、これだけだから」
 顔を手元のドードーに向けたままで、ハンスは言う。その態度もまたシャーロットの気に入らなかった。
「……意地っ張り!」
 シャーロットはそう言って、工場を出ていってしまう。ハンスは黙々と作業を続けていた。


 数日経ったある日、シャーロットは婚約者の子爵令息と、市街を散歩していた。この縁談は政略結婚に過ぎなかったが、それでもシャーロットは婚約者をそれなりに気に入っていた。有名な大学の法学科に通う婚約者の口からは、ブリッジとビリヤードとピアノの話しか聞くことができず、そのいずれもシャーロットには理解しがたいものではあったが、それでも彼女はこの婚約者の生来持っている上流階級特有の空気が好きだった。むしろそれは、資本家といえど成り上がりに過ぎない、というシャーロット自身の劣等感ゆえであったのかもしれないが。
 この日シャーロットは、自分が持っている一番高いドレスを着込んで、日傘を片手に並木道を婚約者と歩いていたのだ。婚約者の男はいかにショパンが優れた作曲家であったか熱弁していたが、ショパンの楽曲などひとつも聞いたことのないシャーロットは、ただうなずくか微笑むかして相槌を打っていただけだった。正直、多少窮屈な感はあったが、それでも間もなく自分もこうした上流階級の仲間入りを果たすのだと思うと、この程度の困難などまるで気にならないのだった。
 ところが。
「ロッティ、ロッティ!見てよ、ドードーが!」
 シャーロットの思いは、乱暴な叫び声に寸断されてしまう。機械油まみれの汚いワイシャツを纏ったハンスが、ばたばたとシャーロットに駆け寄ってきたのだ。
「シャーロット、この汚らしい子は誰だい?」
「ロッティ、ドードーが歩いたよ!今まで何度やっても上手くいかなかったのに」
 婚約者とハンスに両側から同時に話しかけられ、シャーロットは混乱する。混乱はすぐさま怒りに変わり、シャーロットはハンスを怒鳴りつけたのだった。
「工場の外ではお嬢様って呼びなさい、って言ってるでしょっ!あたしに恥をかかせるつもり?」
 ハンスがびくり、と身体をこわばらせる。次いでシャーロットは、ひどく無理のある作り笑いを浮かべて、婚約者に釈明したのだった。
「ごめんなさい、騒々しくて。うちの工場の従業員なんですけれど、どうにも礼儀を弁えなくて……」
「そうだね。礼儀は厳しくしつけた方がいい」
 婚約者の男は、手にしていたステッキでハンスの胸をぐっと押した。もともとあまり体躯の立派でないハンスは、押された拍子にすとんと尻餅をつく。
「どきたまえ。邪魔だ」
 婚約者はシャーロットの肩に手を回し、ハンスにはそれ以上目もくれずに歩き出す。二人の背中に向かって、ハンスの声が微かに届いた。
「ロッティ、ドードーが歩いたんだ……」
「…………」
 シャーロットは振り返らない。ただ、少しだけ歩みを早めて遠ざかるだけだ。ハンスがもう一度何か言ったが、今度は声が小さすぎたせいか、十分に遠ざかってしまったせいか、発音が不明瞭で何を言っているのかシャーロットには分からなかった。


 この一件があってから、シャーロットは極力ハンスに会うことを避けた。気まずさもあったし、気恥ずかしさもある。ハンスに対し、悪いことをしたな、という気持ちはシャーロットにもあるのだが、それ以上にこれから子爵家に入ろうという自分はもうハンスとは違う身分なのだ、という妙な自覚が、仲直りを阻害している。
 それでも数日の冷却期間を置いて、顔くらいは見ておいてやってもいいか、と鷹揚な気持ちになったシャーロットは、ある日工場のボイラー室にハンスを訪ねてみたのだった。鉄扉を開けてみると、果たしてその向こうにハンスは――不在だった。
「……何よ、人がせっかく来てやったっていうのに」
 誰にでもなく不条理な文句をこぼしながら、シャーロットはボイラー室を歩き回る。ふと床の上に目をやると、作りかけのドードーが転がっていた。既にドードーの頭部は完成していて、出来損ないの七面鳥のような剽軽な表情が完全に再現されている。胴体部以降は針金と歯車とシャフトがむき出しになっているから、それは機械が鳥に変身している最中のような、奇怪な様相であった。
「何よ、こんなもの……」
 シャーロットはドードーを拾い上げると、シャフトの一本を手で前後に動かしてみる。それだけで様々に組み合わされた歯車やジョイントが動き出し、二本の脚はかしゃかしゃと交互に動き、首はきょろきょろと左右を見回し、翼はばたばたと羽ばたき、くちばしも時折開閉するのだった。まったくそれは器用であり精巧だった。思いのほか見事に作られていたドードーに、シャーロットは驚き、ため息をこぼす。
「うまく出来ているだろう?」
 背後から声がした。ハンスが戻ってきたのだ。手に何か紙袋を握っているところを見ると、材料の買い足しにでも行ってきたところらしい。シャーロットがドードーを床の上に戻すと、ハンスはドードーの組立作業を再開するより前に、本業であるボイラーの整備を開始した。
「ん、シリンダ、異常なしっと。石炭をもうちょっと足しておこうかな」
 ハンスは巨大なスコップを手にして、石炭をざっぱざっぱと掻き出す。シャーロットは何も言わずハンスの仕事ぶりを見守っていた――正直、この小さな少年が、自分の知らぬ間に思いのほか腕力をつけていたことを初めて知り、驚き見とれていたのだ。シャーロットの視線に気づくとハンスはふと作業の手を止め、額を拭いながら振り返った。
「どう?なかなか、ドードーらしくなってきただろう?もうすぐ、完成するから」
「…………」
 咄嗟に言葉が出てこず、シャーロットはハンスに背中を向けた。しどろもどろしている様子を、ハンスに見られたくなかったのだ。後ろを向き、咳払いをひとつすると、シャーロットはこの上なく刺々しく言葉を継いだ。
「こんなの、偽物じゃない」
「偽物?」
「言ったでしょう?あたしが見たいのは、本物のドードーだって。こんなドードー、嘘のドードーだって。嘘のドードーじゃ、あたし、納得しないからね」
「でも、こんなに本物そっくりなんだよ?」
「だけど所詮は嘘でしょう?」
「…………」
 しばらく会話が途絶えた。ハンスの側から何も反論がないことに不安になって、シャーロットは振り返る。ハンスは以外にあっけらかんとした表情をしていた。そのことがシャーロットをますます不快にさせた。
「とにかく。あたし、嘘は嫌いなの。石炭と蒸気で動くドードーの偽物を持ってこられて、さてこれがドードーです、なんて言うような嘘は、大っ嫌い。分かった?」
「…………」
「――分かったっ?」
 シャーロットは尋ね返す。ハンスは相変わらず無言で、寂しげな笑みを見せるだけだ。シャーロットはいよいよ忍耐の限界に達し、大股にボイラー室の出口へ向かうと、鉄の扉を勢いよく立てきった。――あんな奴のことを一瞬でも心配したあたしが馬鹿だった。シャーロットは独語した。


 やがて、シャーロットの結婚当日がやってきた。純白のドレスに身を包んだシャーロットは、すっかり準備万端で、あとは教会へ向かうばかりとなっている。ヴェールを被り、ブーケを手にして外に出ると、もう道の左右には人垣が出来ていて、口々に花嫁の美しさを讃え、吉日を祝った。
 シャーロットは人波の中に視線を泳がせる。――いない。彼女は思わずハンスの姿を探してしまっていたのだ。工場の従業員も総出でシャーロットの結婚を祝いに来ているのだから、ハンスが来ていてもいいはずなのだが。以前、喧嘩別れ同然に別れてから、ハンスとは一度も会っていなかったので、シャーロットとしてもさすがに気まずい思いでいっぱいだったのだ。
 ――このあたしの結婚式に、顔すら見せないってどういうことなのよ。祝う気持ちがあるんだったら、くだらないドードーの偽物なんかより、まず沿道に立って拍手するくらいのことはしなさいよ。
 シャーロットが言葉に出さず胸中でハンスの悪口を並べていると、やがて声がかかる。親しげな男性の声であったから、一瞬シャーロットはハンスであることを期待したのだが、冷静に考えればそれは明らかにハンスの声でないことが分かった。
「やあシャーロット、美しいね」
「ありがとう」
 婚約者との間に、儀礼的な挨拶を交わす。そのままシャーロットは花婿にエスコートされて、教会へしずしずと足を進めた。
 その時だった。
「――ロッティ!」
 無粋な大声が、辺りの空気を引き裂く。声のした方に、一斉に視線が集まった。シャーロットも例外ではなく声の主を見やる。大きなバスケットをぶら下げたハンスが、息を切らしながらシャーロットの方に駆け寄ってきているところだった。
「ハンス……?」
 ようやくシャーロットに追いつくと、ハンスはひとまず呼吸を整える。すっかり息が乱れていて、言葉を継ぐどころではなかったのだ。十分に間をおいて、呆然とする人々を尻目に、ハンスはにっこりと笑ってバスケットを差し出した。
「ロッティ、結婚おめでとう」
 シャーロットはバスケットの蓋を開ける。おそらく機械仕掛けのドードーが出てくるのだろう、と彼女は思っていた。だからバスケットの中から勢いよく一羽のニワトリが飛びだし、辺りに純白の羽毛をまき散らしたときには、すっかり面食らって尻餅までついてしまった。
「な……に?」
「ニワトリ」
 どうにか尋ねたシャーロットに対して、ハンスは邪気のない笑顔で答えた。しばらく呆然とニワトリの挙動を見守っていたシャーロットは、やがて頬を真っ赤に染めて、怒鳴りつける。
「何のつもりなのっ?どうして、ニワトリなのよっ!」
「だって、あのドードーは気に入らないんだろう?だったら、ニワトリならどうかって思って。ドードーも面白い鳥だけど、ニワトリだってよく見るとなかなか面白いんだよ。ほら」
 ハンスは道端で虫をついばんでいるニワトリを指さす。
「面白くないわよっ!」
 シャーロットはますます頬を紅潮させて怒鳴った。
「それじゃあロッティは、やっぱりニワトリよりドードーが見たいの?」
「当たり前でしょう!今さらニワトリなんか見せられたって、何にも面白くないわよっ!」
「……そっ、か」
 ハンスは少々残念そうな顔をすると、バスケットの中に手を差し入れる。そう言えばニワトリ一羽にしては大きすぎるバスケットだ、とシャーロットが気づいたのと同時に、ハンスはバスケットの中から灰色の塊を取り出す。
 ドードーだった。
「……へぇ……」
 シャーロットも言葉をなくした。彼女だけではなく、花婿も、道の両脇に居並ぶ人々も、皆が息を呑む。それほどハンスの手にしたドードーは、精巧で完璧な作りだったのだ。もはやどこから見ても、本物の鳥にしか見えなかった。
 ハンスはドードーの背中を開け、粉末状の石炭を注ぎ込むと、火を入れる。しばらくするとシュンシュンという小気味よい蒸気音が聞こえてきて、ドードーが動き出した。大きく短い足でべたべたと歩き回り、時折羽をばたつかせては首を回し、くちばしをかちゃかちゃ鳴らす。尻の先から煤けた蒸気を吐き出していること以外、それはまさしく生き物にしか見えない、見事なドードーだった。
「……すごいじゃない」
 シャーロットは素直に驚嘆した。ハンスは微笑む。しかしそれは誇らしげな笑みというより、どこか憂いを帯びた微笑だった。
「でもロッティは、嘘のドードーは嫌いなんだよね」
 ハンスはそう言うと、大股でドードーに近づく。何が始まるのか、と人々が予想する暇さえなく、ハンスは勢いよく足を振り上げると、ひょこひょこと歩いていたドードーを、勢いよく踏みつぶした。ドードーの体はぺしゃんこに潰れ、勢いよく蒸気を吹き出す。はじけ飛んだバネや歯車が二つ三つ、シャーロットの目の前をかすめて足元に転がった。
「これが、僕からの結婚祝い」
 ハンスはシャーロットに背を向けた。
「ドードーは、もうどこにもいないんだよ。だから僕は機械のドードーを作ったのに、それでも君は僕のドードーを嘘だって言うの?」
 シャーロットは呆気にとられて何も言えずにいる。ハンスは既にゆっくりと歩き始めていた。
「君にはニワトリの面白さも、機械のドードーを作る面白さも分からないんだ。それならずっと、世界のどこにもいない本物のドードーを探し続けるといい。お幸せに」
 ハンスは急速にシャーロットから歩み去る。
 シャーロットはしばらく、潰れたドードーの残骸を眺めていた。絵の具で着色された羽毛、ブリキのくちばし、針金の骨格を持ったドードー。それは偽物のドードーだったかも知れないけれど、果たして嘘のドードーだったろうか?
 シャーロットは走り出した。花婿の制止する声なんかもう、耳に入らない。ドレスの裾を踏みつけそうなくらい走って、走って、ようやくハンスに追いつくと、その背中に飛びついた。
「……ドレス、汚れるよ?」
 立ち止まって、しかし振り返らず、ハンスが言う。その背中にしがみついたまま、シャーロットは激しく首を振った。
「そんなこと、どうでもいいから……正直に答えなさい。ハンス、あなた、あたしのことが好きなんでしょう?――嘘ついたら、許さないからね」
 答えは聞くまでもなかった。



〈了〉