「宮台センセイ、この坊やも救っちゃってください」
どこにでもある場所とどこにもいないわたし(村上龍、文藝春秋)
卓越への欲望というのは、多かれ少なかれ誰もが抱くものであるのかもしれない。固形的な財の蓄積とか、名誉やステータスシンボルでなく、「このわたし」自分というユニークなパーソナリティに起因する、経済空間ではなく活動的空間で表される、卓越。
その中でも特に、「自分は何事かを分かっている、理解している」という種の卓越に対する欲望は、この上なく甘美であるように思えてならない。われわれが接することのできる世界は、不可解なものばかりであるかもしれないが、いや不可解なものばかりであるからこそ、「僕は分かるよ」と嘯きたいのだ。
小説家だとかライターだとか、モノカキで飯を食っていこうとする人種は、そうした矜持でも持ち続けていないと、自らの足場を保ち続けることはできないのかもしれない。自分が他の人々には理解できないような何かについて分かっている、という信念、もっと言えば、自分が時代の先端にいるという信念、あるいは幻想、そうした自分の能力に対する信頼が、大量の文章を世界に対し発し続ける原動力として絶対不可欠であり、この信頼が揺らいだ瞬間に、世界に対するリアリティもまた、揺らぐのだ。――村上龍なんてのは、その代表格である。
テレビでは、桑田が次の投球モーションに入ろうとしている。坂上か中上という人は直美のタンクトップの胸元を見ながら有線放送の音楽に合わせてハミングをしている。直美は唇から垂れていたイカの刺身を吸い込んだ。髪を茶色に染めているが根元が既に黒く伸び始めている。横のテーブルの黒い作業着のような服を着た女の肩が震えているのが見えるが泣いているのか笑っているのか、それとも単に肩を震わせているのかわからない。泣いていても不思議ではないし、笑っていても不自然ではない。ツヨシ君はテーブルにこぼれたコーンの粒を箸でつまんで灰皿に捨てようとしている。
(本書44p)
ソリッドな表現こそ村上龍の真骨頂だ。
本書は「コンビニ」「居酒屋」「公園」等と題された短編8編からなる作品集である。すべての物語は「ぼく」や「わたし」の一人称で語られるが、にもかかわらず、ここには主人公の主観とか内面だとか、そういった情念に類するものは一切介入しない。そこではただ物質的な表現だけが、ただ淡々と、そして執拗に繰り返され、そのまま何らの物語的な転回も発展もせず、淡々と終わる。
『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』
ひどいタイトルをつけたものだ。本文を読まなくても、何が書いてあるか概ね予想できてしまう。そして、その予想はさほど外れることはない。
舞台として選ばれたのは「コンビニ」「居酒屋」「公園」「カラオケルーム」「披露宴会場」「クリスマス」「駅前」「空港」の8ヶ所(「クリスマス」と銘打たれた作品の舞台はクリスマスの街中、新宿の伊勢丹前あたりである、一応)。それらの場所は日本全国どこにでもある空間を提供しており、それが新宿であるか渋谷であるか池袋であるかなんて、ここでは問題にされていないし、本文中に明記されていない限り、いくら読んでもそれがどこだか場所の特定はできない。つまりはこれが「どこにでもある場所」。
他方で、8編すべての主人公が、そうしたどこにでもある場所、ありふれた空間の、床の上を這う虫から向かいの女が手にした菓子包みのセロファンまで、微細にわたり観察を続け、そして「自分のこと」について、「自分が何を思ったか」については、いっさい語ろうとしない。相変わらずの村上龍イズム。その空間では「ぼく/わたし」はあくまで傍観者に過ぎず、決して空間の構成要因として自らを組み込むことをしない。「わたし」がいなくてもこの空間は成立する。「わたし」の不在。「どこにもいないわたし」。
他方でこの作品集の主人公たちは、例外なく、自らの生い立ちや境遇、来し方については、饒舌に語る。その語り口たるや、まるでテレビの「おもいっきり生電話」を見ているかのようだ。
磁器の会社の上司に夫のことを相談したら、ちょうど東京の直売店の販売員の仕事があるから、家を出たほうがいいと言われた。夫を見放してしまうような気がして決心がつかなかったが、家に閉じこもるようになって一年が経ったころから夫が急に暴力的になった。大声を上げたこともない大人しい人だったのに、料理を作りに来た母親を罵ったり、ものを投げつけたりするようになった。母親は、わたしに仕事を辞めるように言った。夫がおかしくなったのは私が家にいないからだと思っているようだった。去年の夏、みそ汁の味が薄いと夫が怒りだし、病気のときは薄味のほうがいいのだと言う母親と口論になった。そして夫は熱いみそ汁の入ったお椀を母親とわたしに投げつけ、母親の髪をつかんで殴りつけた。血だらけになった義理の母親はわたしに文句を言った。あなたが家にいないで働きに出ているのでこの人はこんなになってしまった、そう言った。
(本書149p-150p)
ちなみにこの主人公は「駅前」で、煙草の吸殻を拾い集めるホームレスを注視している。眼前に展開される光景と彼女の独白とは、少なくとも直結しないし、交差するポイントも希薄である。
「だからお前は現実を見ていないって言われるんだよ。現実を見るっていうのは、それこそ、期待とか希望的観測とか、先入観を除外して、ありのままに現実を見るっていうことで、これほどむずかしいことはないんだけど、そんなことに誰も気づいてないんだ。お前の作品論なんか誰も聞きたくないし、お前は誰からも期待されていないっていう事実をまず直視すべきだろう。違うか」
(本書34p)
ところで村上龍は、相当に「現実(real)」ということに拘る作家であると、私は見ている。ここに引用したのは「居酒屋」で酔っ払いが喋っている台詞、ということになっているが、村上龍はご丁寧にもこの台詞を一字一句欠くことなく主人公に反復させている。
村上龍はおそらくきわめて自覚的に、人間の内面や情念を描くことを拒否し、あくまでも事実関係=村上にとってのrealを描き続けることで勝負しようとしている。『場所:自分』と銘打ったあとがきで村上はこう書く。「近代化の陰で差別される人や、取り残される人、押しつぶされる人、近代化を拒否する人などを日本近代文学は描いてきた。近代化が終焉して久しい現代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない。」
――それで行き着いた先がこの作品集であり、「おもいっきりテレビ」の人生相談であり、相変わらず歯間に鶏肉が挟まっているのでは、目も当てられない。
こうしたサンプルは既に90年代の半ばから、宮台真司が徹底的に収集してきたのであり、村上の貧弱な想像力はもはや宮台の膨大なストックには到底追いつけない。残念ながら村上龍の行き着いた先は社会学者の領域であり、しかも文学者である彼の手にかかった社会学のレポートは、社会学のレポートとしてきわめて不完全である。「本職」の社会学者には遥かに及ばない代物だ。
離婚してからも夫は子どもに会いに来たし、わたしたちはときどき会って食事をしたが、最近はそういう機会が極端に少なくなった。たまに電話が来るが夫は元気のない声で、すまないなあといつも謝る。本人はそんなことは一言も言わないが、閉鎖した工場の後始末が大変なのだろうと思う。夫はもちろんわたしが風俗で働いていることを知らない。もし知ったら、教育に悪いと子どもを引き取ろうとするだろうか。三日前にサイトウと会ったとき、いろいろと話したあとに、わたしは勇気を出して、風俗で働いていることを軽蔑しない? と聞いた。サイトウはしばらく黙ったあとで、自殺したり、誰かに頼ったりするよりはいいと思う、と答えた。
(本書180p)
宮台 それで知らない男と会ってセックスした。どんな感じがした?
ミホ 割り切っていたつもりでも、最初は汚されるんだなーって思った。でも、オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかだけですけど。それでなんか、いい感じになって。今までずっと「自分はダメじゃん」とか思ってたのが、いろいろほめられて。(中略)
男友達はわたしの内面を知ってて、どんなにひねくれたヤツなのかって把握してるけど、オヤジは、内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。「気持ち悪いんだよ、このハゲ」とか思ってるのも知らずに、「キミは最高だよ」とか言ってる(笑)。苦しんでる内面を見ないでいてくれるから、気持ちいいんですよ。
(『自己決定原論〜自由と尊厳』宮台真司)
単純比較はできないが、読者へのパンチ力では後者の勝ち、だと私は思う。宮台のこの論が1998年に世に出ており、村上の本作品が2003年に出たことも、追い討ちをかけている。いま、ここに引用したような村上のセンテンスを目にして、何らかの目新しさを感ずることのできる者が、いるだろうか?
村上龍、という名前が確かにセンセーショナルであった時代は、存在した。しかし彼はあまりにも便利にメディアに使われすぎたために、自らの利用価値をすり減らしていってしまったのだ。私はそう見る。
ワイドショーや「ニュースステーション」に出て、イマドキの社会情勢や経済について、何事かを分かっているかのような口調で語る。そんな「知識人」としてのスタイルが、マスコミにとってあまりに便利すぎたために、村上龍はもはやそのスタイルに沿った形でしか現れることができなくなった。
村上がソリッドな、物質的な表現に拘泥し、内面の描写を拒否するのは、そうした強迫観念のようなものに由来するのではないだろうか? これは私の勝手な想像で、穿ちすぎかもしれないが、村上龍はありふれた社会問題に対し「一般人には分からない何事かを分かっている」知識人としてのスタンスを、死守しなければならない。もっと身も蓋もない言い方をすれば、村上はすべての社会問題に「原因を求めずにはいられない」。
「あなたは、死を恐れているのではなくて、死に理由のないことを恐れているんでしょう?」
(『amI?』涼風輝)
本作においては、村上龍は何かに怯えている風にしか見えない。
リアルなものに対する欲望と、すべての社会問題に原因を発見しなければならない強迫観念。それらが一体となった結果、主人公たちは「世界」の「現実」に希望を求めていく。日本全国「どこにでもある場所」でその欲望が満たされない=存在の希薄さに対する原因が発見できない彼ら/彼女らは、最後は国外への脱出=逃亡に追い込まれていく。
「お前は背負い過ぎなんだよ。他人にそうそう影響を及ぼせると思うな。朱に交わって赤くなるのは染まった方の弱さでしかない。己を律することさえできれば影響下に置かれることなどないのだよ。お前はそんなに誰かに迷惑をかけて生きているわけではない」
「……そうなのかもしれませんね」
所詮はただの自意識過剰。
ぼくは生きていても生きていなくても同じようなモノだから。
ぼくがいる場所に、
たとえば殺人鬼がいたところで、
世界は何も動かない。
(『クビシメロマンチスト〜人間失格・零崎人識』西尾維新)
二十歳をほんの少し過ぎただけのこの若者のほうが、よほど達観していて潔い。
(※西尾維新については稿を改めて、より詳細に触れる予定)
私には村上龍が、存在のリアルの欠乏に怯え、売春したりリストカットしたりする、宮台のフィールドワークに現れる少女たちと、同じに見えて仕方がない。そのことは村上龍の、これまでのスタンスからしてもっとも致命的である。すなわち「てんで時代遅れである」。
だから村上龍は早く気づいた方がいい。そんなところに、希望はないのだと。海外=「日本語の外側」へ脱出することは、社会学者には可能であっても文学者には絶対に不可能なのだ。リアルを求めるな、真に不可解な世界と向き合え。原因を求めるな、ことばを求めろ。――逃げるな。どのみちお前に逃げ場はない。
〈参考図書〉
本稿で引いた『自己決定原論〜自由と尊厳』を含む論集『〈性の自己決定〉原論』(紀伊国屋書店)の他にも、宮台真司は「リストカット」や「援助交際」をする少女たちへのインタビューに基づく著書を多数出しており、その仕事は村上龍の描く援助交際少女や風俗で働く女たちの物語より、緻密な仕事であるように思います。(――宮台真司のメディアでの言動にはいろいろと問題は多いのですが、彼は社会学者である、という点をことさらに強調した上で、私は彼の仕事をある程度支持したいと思います)
村上龍と対置するには、きわめて凡庸なチョイスですが、やはり村上春樹しかないだろうと思います。彼は社会的な出来事を個人の内面とことばの問題として引き受けており、その点において間違いなく、龍に比べて「文学者の使命」に自覚的であると言えるでしょう。こうした春樹の特徴がもっとも現れているのはやはり『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)でしょうか。『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)も挙げておくべきでしょう。