「近代小説の終わりとハルキ・ムラカミ・ワンダーランド」
海辺のカフカ(村上春樹、新潮社)
浅学ながら小説の来歴について考えてみた。そもそも、小説novelなる文学様式の形成そのものが、「近代」の生成と軌道を並行的に成すものであろうが、特に日本語の世界では、様々な近代的概念と同様に「小説」なる用語と概念も、明治時代に入ってから、輸入した。すなわち日本語文学の世界にあっては、小説の隆盛こそが「近代」の到来そのものであったのだと言っても過言ではあるまい。
元来、日本語の話者にとっての文学世界にあっては、教養人たるもの漢詩のひとつくらい嗜まなければならない時代が長くあったし、そうでなくても、二葉亭四迷が話しことばと書きことばのコラボレーションを実現するまで、あるいは芥川が『羅生門』のような作品を小説世界に持ち込むまで、本来が口承文芸である「物語」と日本語のエクリチュールの間には、容易には越え難い溝が穿たれていたのではなかったろうか?
かくして日本語文学における「近代」は、「小説」なる新たに輸入された様式が、古典的な「物語」を飲み込み吸収するところからスタートした、という仮説を立てることができる。
このようなことを考えたのは、文庫化されたのを契機にふと手にとってみた村上春樹『海辺のカフカ』が、どちらかといえば「前−近代的」な様式である「物語」を強く意識しているような、そんな気がしてならなかったからである。
そんな気がする、などと曖昧な言い方をしなければならないのは、もちろん私の力量不足に由来するところが大だが、他方で、村上春樹という作者の性質そのものに由来するところもあるのではないか、と思う。村上春樹のように捉えどころのない作家は、今日他に類をみないのではなかろうか。
村上春樹の小説は大概において、どのようにも読むことができる。作中に散りばめられた様々なメタファーが、重大なテーゼを暗示しているようにも、まったく関係がない風にも読み取れる。
一方で村上春樹の小説は、通俗的であることを拒否しない。世間一般の村上春樹に対する好悪は、概ねこの通俗性を受容できるか否かにかかっているようである。(正直私も、本作における「さくら」なる女性キャラクターの登場シーンや、「大島さん」が自らの秘密を語るくだりについては、勘弁してくれ、と半ば辟易した。昼メロじゃあるまいに)
そのような村上春樹の作中における、妙に教条的で端正な、登場人物たちの「語り」を、どこまで真摯なものとして捉えていいのか、躊躇は残る。しかしあえてこの『海辺のカフカ』における登場人物たちの語ることを信頼するならば、そこには、「小説」に象徴される「近代」の枠組みがもはや困難になりつつあること、「小説=近代」の崩れ落ちた後には、前−近代から通低してきた「物語」の枠組みが亡霊のように立ち現れること、そのような「近代小説の終焉とその先」を穿ち見る村上春樹の視点が、表わされていると言えるのではないだろうか。
これから展開するのは、私なりの『海辺のカフカ』の読み方であり、いかようにも読めるこの小説の、多種多様な読み方のうちのほんのひとつである。村上春樹の小説を読む際、読んで何かを語る際には、そのように前置きを置かなければいけないのだと、私は思う。実際彼が作品中に散りばめる多種多様なシンボルやメタファーは、様々に置換可能であり、いかなるものに置き換えるかによって読み方が変わってくるのも当然なのだ(それが村上春樹の手際の見事なところであり、また、卑怯なところでもある)。
したがって、この小説を読んで「カフカ少年とは僕のことだ」とか「ナカタさんはまさに私そのもの」とかいった感想を抱く人がいることを、私はまったく否定しないし、むしろそれは『海辺のカフカ』の正しい読み方だと思う。しかしそれはどちらかといえば口唇的な欲求を満たす行為に類似するものであり、文字を読むことに特有の快楽というのはもう少し別のところにあるのではないか、と個人的には思っている。
閑話休題。
カフカ――その名から、かのカフカFranz_Kafkaの名を想起しない者は皆無か、いてもごく少数だろう。不条理と孤独の不安のうちに近代文学の扉を開いた彼はまた、父の名において厳命される、古典的な「物語」の番人でもあった。グレーゴルが毒虫にメタモルフォーゼを遂げるや否や、父はその絶対的な権威において彼を抹殺し、復権する。そして彼の背には父の投じた林檎が最期まで呪いのように残り続ける。
その名を掲げながら村上春樹が「父を殺し、母を犯し、姉を犯す」という、フロイト=カフカ枢軸とも言うべきシンボルを作中に導入したのは、いささかあざとい真似ではある。主人公が15歳の少年であり、かようにシンボリックな物語をビルドゥングス・ロマンとして生きなければならない必然性に貫かれており、同時にこのような物語に抗い続けなければならない必然性に貫かれていることも、あるいは直截に過ぎるとの謗りを免れえないだろうし、またその意味で古典的である。
他方でカフカ少年の物語と交錯する、ナカタさんの物語もまた、ドラクエばりの古典的なクエストである(ご丁寧にラスボスまで登場する)。彼ら二人の主人公は共通して、物語のくびきから逃れられずにあり、その背後には父(ジョニー・ウォーカー)の命令が見え隠れする。
だが、その物語とは何なのだ?
ふたつの物語の行き着く先には、図書館が待ち受けている。図書館とは文字を入れるハコであり、記憶の墓場である、とこの際言ってしまうことにしよう(もちろん村上春樹の小説を読む際に、このようにある種のシンボルやメタファーに特定の意味を充填することは、極めて危険な賭けであるということを、常に自覚しておかなければなるまい)。『海辺のカフカ』の世界は、図書館を中心に、時間や空間を座標軸とし、記憶の糸を重ねて物語を織り上げていく。
記憶は物語られることで物語になる。だがわれわれは、そこに記憶と物語の齟齬を発見しなければならないのではないだろうか。もちろん、言葉に依存することなしに記憶を維持することはできない。他方で、言葉によって固定され、時間的空間的な距離において隔離された記憶は、もはやそれが本来有していた出来事としての温度や痛みや生々しさを失している。物語化された記憶はアルバムの中の写真のように、可視化され、そのことによって決定的に遠ざけられる。それは物語の本質的な宿命である。
ところで近代とは、このような物語から自らを遠ざけようとする運動であり、だから後近代post modernとは「物語の死」の快哉をことさらに叫ぶムーヴメントだったのではないだろうか?
近代の重大な側面は自我の覚醒であることを思い出してみてもいい。「私」という語りが成立することは、近代小説の重要なファクターである(もちろん、それが三人称小説であろうとも)。かような近代的自我は、目覚めたときからもうずっと、「主体的な選択」を希求し、それが可能であると信じてきたのではなかったろうか?
「それは僕のほんとうの名前じゃない。田村というのはほんとうだけど」
「でも君が自分で選んだんだろう?」
僕はうなずく。名前を選んだのは僕だし、その名前を新しくなった自分につけることをずっと前からきめていた。
「それがむしろ重要なことなんだ」と大島さんは言う。
(第17章)
「(一部略)ナカタは、正直に申し上げまして、これまで何かをやりたいと思ったことはありません。まわりからやれと言われたことをそのまま一生懸命やってきただけです。あるいはたまたまそうなったことを、そうであるようにやってきただけです。でも今は違います。ナカタははっきりと普通のナカタに戻りたいと願うのです。自分の考えと自分の意味を持ったナカタになりたいのです」
(第32章)
しかし現実的には、名だたるポスト・モダン論者の名を挙げるまでもなく、このような「主体化の欲望」はいずれも中途で挫折することを余儀なくされる。
僕はうなずく。「うん、むずかしいことはよくわからないけど、そういうことかもしれない。三四郎は物語の中で成長していく。壁にぶつかり、それについてまじめに考え、なんとか乗り越えようとする。そうですね? でも『坑夫』の主人公はぜんぜんちがう。彼は目の前にでてくるものをただだらだらと眺め、そのまま受け入れているだけです。もちろんそのときどきの感想みたいなのはあるけど、とくに真剣なものじゃない。それよりはむしろ自分の起こした恋愛事件のことばかりくよくよと振りかえっている。そして少なくともみかけは、穴に入ったときとほとんど変わらない状態で外に出てきます。つまり彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんどなにもないんです。なんていうのかな、すごく受け身です。でも僕は思うんだけど、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択したりできないものなんじゃないかな」
(第13章)
近代小説は寓話的な、あるいは神話的な、人称不明の語りによる「物語」を飲み込み、一人称の「私」による語りにおいて発展した。それは主体的な選択と個としての存在に固有の意味とを、ほとんど無邪気に信ずる、一種の信仰でもあった。
そのような信仰の根拠が揺らぎ、近代的自我というめっきの剥がれた裏側に何があるか、それを気づかせる契機となったものの一つは、あるいはビルケナウやトレブリンカやヘウムノ、その他色々な場所に建設されたあの、殺人のための工場であったのかもしれない。われわれはあの戦争の経験から、主体的な主体とは本質的な自己矛盾であることを学ばされる。なにしろ「そこには、何故は無」かったのだから。
村上春樹はこの『海辺のカフカ』で、繰り返しアイヒマンについて触れ、銃剣について触れ、あるいはジョニー・ウォーカーの口を経由して、戦争について言及する。それらが持つことの意味のひとつは、「私」の一人語りへの無邪気な信奉に立脚して成り立っていた、近代小説という枠組みは、もはや取り返しのつかない形で失われてしまったのではないか、ということへの気づきを喚起することだ。
しかしそれは、一般的な「ウルトラ・モダンとしてのポスト・モダン」の到来を喜ぶ声のような、別の意味で無邪気な喜びに満ちたあのムーヴメントとは、明らかに一線を画している。ひとたび近代的自我という甘い夢を見てしまったわれわれは、それが瓦解した後に、亡霊のように立ち上がる物語の姿を見る羽目になる。大きな物語は凋落した?それどころか、それは今までにないくらい、プレ・モダンの時代より一層強固な形で、かつ巧妙な形で、われわれを縛り続けているのではないか?『海辺のカフカ』からは、近代がこぞって夢見たあの「物語からの解放」が、それさえ単なる「夢物語」に過ぎないことを思い知らされた徒労感が感じられる。釈迦の掌中で踊り続けた一匹の猿が、そのことを思い知らされたときのような、あの徒労感が。
繰り返そう。記憶は物語られることで物語になる。出来事は、それが本来的に持つ温度や痛みや生々しさを切り捨て、そこに言葉を与えられ「物語化」することによってのみ、記憶として存続することを許され、伝達されることを許される。
そして、記憶と言葉を失った「ナカタさん」と、記憶と言葉以外のいっさいを失った「佐伯さん」とが交差する地点が、『海辺のカフカ』のクライマックスである。佐伯さんは自らの言葉で綴った記憶を、自ら記した自らについての物語を、そこに決して踏み込むことのないナカタさんに託し、そしてすべてを灰燼に帰すことを願う。そのような形でしか、彼女を包む物語の呪いに、そして二十歳の頃から継続する出来事の暴力に、抵抗を示すことができなかったのではないだろうか?
そして、父の命令に基づく大きな物語から必死で逃れようとしていた田村カフカ少年は、結局のところ、記憶と言葉を失ったナカタさんを経由することで父を殺し、夢を経由することで姉を犯し(この辺り小説技術的には安易に過ぎる印象を受ける――閑話休題)、そして、佐伯さん自身という巨大なブラック・ボックスを経由して母を犯す。
この徒労感が、近代小説の枠組みそのものの挫折による徒労感であるとは読めないだろうか?
「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにはできないものだから」
「そういうことだ」とサダさんは言う。「そのとおりだ。それで、ことばで説明しても正しく伝わらないものは、まったく説明しないのがいちばんいい」
「たとえ自分に対しても?」と僕は言う。
「そうだ。たとえ自分に対してもだ」とサダさんは言う。「自分に対しても、たぶんなにも説明しないほうがいい」
(第49章)
間違いなくわれわれはこれまで経験したことのない困難に直面している。村上春樹はそれを直視している。そのことは確かだ。
しかし、このように敗北宣言ばかりを掲げているわけにもいくまい。
パンドラの箱は開いてしまった。その底に希望のかけらは残っているのか?そしてそれは、いかなる希望であったのか?近代小説の終焉という絶望の種を解き放ってしまった作家の視線の先に、新たな希望の萌芽は捉えられているのだろうか?
少なくとも、この『海辺のカフカ』に、希望はない。われわれは「その先」に進む術を検討しなければなるまい。
〈参考図書〉
既に国内外を問わない大ベストセラーですので、今更何をかいわんや、の感がありますが。
村上春樹については「どのようにも読める」作風こそが特徴なのですから、それぞれの読者がそれぞれのスタンスで(それぞれ固有のポジションで)読むことこそが重要なのだと思います。
といった前置きをした上であえて私見を述べさせていただけば、やはり『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)は村上春樹の代表作として、また『神の子供たちはみな踊る』(講談社)は彼の作品のある種の転換点に位置する作品として、読んでおいて損はないように思います。ちなみに彼の作品の決定的な転換点は『アンダーグラウンド』(講談社)にあると信じて疑わないのですが、これは、彼があのような仕事をしたという事実それ自体が注目に値するのであって、その内容を詳細に読む必要はないように思います。
ついでに。今回の書評を書く際に限らず、私が座右に置いている参考書は、『記憶/物語』(岡真理、岩波「思考のフロンティア」シリーズ)と『アウシュヴィッツは終わらない』(プリーモ・レーヴィ、朝日選書)だったりすることは、自らのポジションを明示する意味合いから、白状しておくことにします。そのような視点から『海辺のカフカ』を読むとこうなる、という点でどうかひとつ。