「『新青春エンタ』は21世紀の『水戸黄門』か?」
クビシメロマンチスト〜人間失格・零崎人識(西尾維新、講談社ノベルス)




 ミステリやファンタジーといったある種のエンターテインメント小説の領域に、新しい潮流が生まれていることを「上遠野浩平・清涼院流水以降」と称したのは東浩紀である(『カーニバル 二輪の草』(清涼院流水、講談社)文庫版あとがき『不純さに憑かれたミステリ』を参照のこと)。ここでの東の分析は必ずしも成功しているとは言い難いが(『動物化するポストモダン』(東浩紀、講談社現代新書)で提唱した「データベース化する世界」の論証のために、彼は清涼院流水のこの作品を利用しようとして、見事に失敗している。『AIR』や『ほしのこえ』と清涼院作品との乖離に自覚的でありながら、それらを「まんが・アニメ的リアリズム」という用語に押し込もうとするから、破綻が生ずる。それは彼自身が実のところ漫画やアニメに代表されるサブカルチャーを一段低いものとして見ていることの証左である。閑話休題)、ここで名の挙がった両者が際立った個性の持ち主であり、それぞれの業界に多大なインパクトを与えたことについては、異論はあるまい。
 私は上遠野については明るくないのでここでは触れない。清涼院について少し話しておこう。「新本格」の興奮冷めやらぬ1996年、清涼院は『コズミック 世紀末探偵神話』で第2回メフィスト賞を受賞。その内容たるや既存のミステリを小馬鹿にし挑発するためだけに書かれたのではないかと思うようなもので、「1200個の密室で1200人が殺される」という犯罪に、350人の探偵を擁する組織「JDC」が挑むという、設定を聞いただけで笑うしかないような代物である。なお、後の作品である『カーニバル』では、被害者の数は億単位にグレードアップする。大爆笑。
 この過激な設定からも既にお察しいただけるとおり、清涼院の作品はもはや「ミステリ」の体裁を成しているとは言い難い。膨大な設定と膨大な登場人物、明確なヒエラルキーと深刻な言葉遊び、それらこそが清涼院にとってはメイン・ディッシュなのであって、ミステリが本来備えている(あるいは、備えていた)謎解きのカタルシスや明晰な論理は、ほとんど失われている。清涼院はミステリの中に軸足を置きながらミステリを解体し続ける作家であり、ミステリの枠のひとまわり外側に作品を構築しようとする、きわめて稀有な作家である。ミステリの脱構築的実践、と言えば褒めすぎだろうが。


 さて、今回の本題は清涼院ではなく、より若い世代である西尾維新の『クビシメロマンチスト』である。彼らのみならず、最近「メフィスト」出身の若手作家たちが元気である。舞城王太郎しかり、佐藤友哉しかり。
 冒頭で清涼院についてことさらに取り上げたのは、メフィスト賞系の作家を持ち上げる下地としようとした……わけではなく、西尾の著書のオビに清涼院が推薦文を書き、清涼院の「JDCシリーズ」の設定で西尾が『ダブルダウン勘繰郎』を書く、といった両者の強い関連性……のためでもなく、単にこの両者の対比によって浮き彫りになる点にこそ、今回スポットを置きたい、というための理由である。
 西尾維新は先に挙げたメフィスト賞系の作家の中でも、特に年少である。清涼院流水や舞城王太郎が、1973年の生まれ(それでもようやく三十路に手が届こうという辺り。若手と言うに相応しいだろう)であるのに対し、西尾は1981年生まれ。清涼院や舞城とは、受容してきた文化がほぼ1サイクル違う。にも関わらず西尾は、これらメフィスト賞系若手作家の一角を担う「売れっ子」であるし、清涼院や舞城の読者が西尾を受容するような、共通の下地もまた、どこかに置かれている。
 しかし、清涼院と比較したとき、西尾には、少なくとも西尾の本作『クビシメロマンチスト』には、決定的に異なる点がある。それは最初に示した、清涼院の最大の特徴との相違である。清涼院がミステリの枠を超えようとする作家であるのに対し、西尾の『クビシメロマンチスト』は、すんでのところで、しかし決定的に、ミステリの枠内に踏みとどまっている。このことは西尾にとって幸福なことなのかどうか、私には判断がつきかねるが、しかしどこかで西尾は「脱皮」を経験する必要があるように、私には感じられるのだ。


 本書『クビシメロマンチスト』は、西尾のデビュー作である『クビキリサイクル〜青色サヴァンと戯言遣い』の続編として書かれた、シリーズ第2作である。
 前作は「絶海の孤島」に「密室」という古典的な装置に、「超絶的な天才少女たち&メイドさん」という現代的(?)な登場人物を配したミステリであり、登場人物の言動のギャルゲーぶりを除けば、そこそこ真っ当な推理小説であった。
 第2作『クビシメロマンチスト』になって西尾は、前作の枠組みをようやく解体し始める。前作では個性的な女性キャラクターたちから一歩引いた位置で、狂言回し(=ギャルゲーにおける男主人公)を演じていた、主人公の「僕」こと「いーちゃん」(維新本人?)が、今作では主人公として積極的に動き回り、考える。
 前作でも主人公は動き回っていたじゃないか、という申し出はこの際却下。前作ではあくまで「天才・玖渚友の付添人」として動き回っていたのであり、この「僕=いーちゃん」が決定的に、一個の「僕」として動き回ったのは、今作になってからのことである。前作の冒頭の人物紹介で、「僕」が「語り部」と書かれていたのが、今作では「主人公」となっていたあたり、西尾自身も十分に自覚した上でこの書き分けをしたものと推察する。
 勘違いしてはいけないのは、主人公が動き回るのは「謎解き」のためではない、という点である。謎解きのために主人公が奔走するという意味では、第1作の方が走り回っている。そうではなくて、第1作と第2作で決定的に異なる点、『クビシメロマンチスト』で初めて西尾が挑戦したのは、主人公に積極的に「他者との関わり合いを持たせること」であった。
 使い古されたいやらしい言葉を使えば「外面」と「内面」ということである。第1作『クビキリサイクル』では、主人公は並み居る「天才」たちとは距離を取り、外面的な接触の域を脱しない。ところが、第2作『クビシメロマンチスト』では、内面の問題こそが取り沙汰されるのである。「本書『クビシメロマンチスト』には目的を見失った殺人鬼と手段を見つけられなかった殺人犯とが登場します。」とはあとがきにおける作者本人の言だが、本書の大半を占めるのが、殺人鬼・零崎人識との込み入り立ち入った対話であり、殺人犯・葵井巫女子とのディスコミュニケーションというコミュニケーションである。
 つまり、第1作では主人公は殺人事件の起こった人間関係の外側に置かれていて、外側から事件を推理し扱うことができたが、本作では事件の内側に置かれ、人間関係そのものが問題化されるのである。


 先に、西尾がどうしてこのような「転向」を果たしたのかについて、推論の域を出ないが考察してみよう。
 何度も繰り返すが、『クビキリサイクル』は西尾のデビュー作、『クビシメロマンチスト』は第2作である。デビュー作にはそれ一作で読者を満足させる完成度が必要とされる。『クビキリサイクル』の場合、古典的な密室殺人のトリックとプロットで骨組みをしっかり組み立てておきつつ、個性の強い台詞を吐く特異な登場人物を配して、西尾ならではの個性をアピールした。その結果、『クビキリサイクル』は非常にバランスのとれた、佳作に仕上がっている。
 一方の『クビシメロマンチスト』はどうか。ここで西尾は、ギャルゲーの文体とギャルゲーの女性キャラたちを保持したまま、主人公を相手側に「踏み込ませてしまう」ことによって、前作で成立していた、ミステリとギャルゲーの融合世界を、自ら崩壊させてしまう。それは最初に東浩紀を引いた例からすれば、清涼院よりは『AIR』に近いスタンスである。
 『AIR』がギャルゲーとして崩壊したギャルゲーであるのと同様、『クビシメロマンチスト』もギャルゲーとして崩壊してしまった。実のところ、新書のオビに「ミステリ」ではなく「新青春エンタ」(「エンターテインメント」の略語であれば「エンタメ」が一般的かと思っていたが、そうでもないらしい。いずれにしてもけったいな語であることに違いはないが。閑話休題)と書かれている販売戦略からしても、これはあまり上手い方向転換ではなかったはずだ。ではなぜ、西尾はこのような方向転換を為したのか?
 結論から言えば、ここから長期にわたるシリーズを続けていくために方向転換が必要だったのだ、と私は考える。第1作は、フィギュアスケートに例えれば、技術点を評価されるショート・プログラムであるから、古典的なミステリの枠を踏襲していればよかった。しかし第2作以降はフリー演技であり、技術点のみならず芸術点、プログラムの組み立て方それ自体から既に審査員の評価(=読者の視線)に曝されるものである。
 長期にわたり読者を獲得し続けるためには、固定ファンの層を固めてしまうのが一番手っ取り早い。そのためにはどうしても、主人公という人物を描く、という宿命から避けることはできない。主人公の一人称小説でデビューしてしまった西尾が、今後シリーズとしての連続性を確保するためには、すべてのシリーズ作品において主人公の同一性を確保しなければならない。そのため、主人公という人物についてより深く書き表さなければならなかった『クビシメロマンチスト』は、前作で「主人公と他の登場人物が距離を保っていた」ために成立していた作品の魅力を、犠牲にしなければならなかった。その代わり、当面このスタイルで書き続けることによって、安定したファン=売り上げを確保できる装置を得た。概ねそのように考えていいのではないか。


 しかし――ここまで考察を進めるうちに、ふと疑問が生じた。それならば何故、西尾は『クビシメロマンチスト』において、古典的ミステリの装置である「推理・謎解き」を最後まで手放さなかったのか?
「ギャルゲー&ミステリ」であった前作から一歩踏み出し、「いーちゃんのキャラクター小説」として細く長く生きる道を選んだ西尾にとって、もはやミステリ的装置は、本質的に不要のものであったはずである。「あってはいけないもの」ではないにせよ、「なくても支障ないもの」である。
 しかも、そうしたミステリ的装置が効果的に配置されているならまだしも、本作においては、ミステリ的仕掛けはほとんど蛇足でしかない。物語の主眼は、何か欠損した者同士である「いーちゃん」と「零崎人識」との似た者同士の対話、主人公に強い関心を示す今回のヒロイン「葵井巫女子」とのディスコミュニケーション、そしてこれらを通じて描かれる「主人公」いーちゃんの像、というところにあって、密室殺人の謎解きは物語の最後に、付け足しのように慌てて解説されて、終わる。その構成は明らかにバランスを欠いていて、謎解きの部分は蛇足の印象を免れえない。
 実際、西尾は十五歳のときに、清涼院の『コズミック』と出会っているのだから、自らミステリの装置を放棄する、という決断も、可能だったはずなのである。

 十五歳だった僕の『コズミック』に対する感想を言語化すれば(中略)『コズミック』とは"新本格"におけるもっとも重要なファクターの一つであるところの"密室"を終わらせてしまった作品だった、となります。(中略)四ヵ月後に発表された『ジョーカー 旧約探偵神話』では、清涼院流水は"推理小説"――"ミステリ"というシステムそのものまで"終わらせて"しまいました。
(『カーニバル 一輪の花』清涼院流水、文庫版あとがき)

 先に私は、西尾がミステリの枠内にとどまり続けていることは、彼にとって幸福なことであるのかどうか分からない、と書いた。
 したがって、西尾が例えば清涼院の作品に代表されるような、ミステリの枠から飛び出す、という選択があることを承知した上で、あえてミステリの枠内にとどまり続けるのであれば、それが作者の選択であるということで(どうか編集者の選択でないことを祈る)、部外者があれこれ意見を言うべきところのものではないのだろう。
 だからここから先は、あくまで私の勝手な当て推量と、より勝手な希望を述べるものに過ぎない。
 おそらく西尾維新は、例えば清涼院と比べて、几帳面なのではないか。それは彼のペンネーム(ニシオイシン=NISIOISINであり、回文になっている)を始めとして、登場人物の名前「江本智恵(エモト・トモエ)」や「佐々沙咲(ササ・ササキ)」といったところに表れている。本来この種の言葉遊びは、よりラディカルであろうとすれば、雑然とならざるをえないところなのであるが、西尾のそれは整然とし過ぎているのだ。
 西尾が「古典的なミステリ装置」を捨て去ることができないのは、結局そうした西尾の性格的なもの、好みの問題に帰結するのではないだろうか?整然としたものを好む几帳面な西尾は、古典的なミステリの様式を愛している。だからほとんど蛇足のようであっても、ミステリ的な仕掛けを最後に書き加えずにはいられないのだ。結局西尾は、清涼院などより格段に、まともすぎるのだ。
 そして西尾は、清涼院ほどには言葉の力を信じていない。先に挙げた登場人物の名前や、各章のタイトルなどの言葉遊びも、いかにも取ってつけたようだ。目に付くものすべてを言葉遊びに結び付けてしまう、清涼院の執念のようなものは、西尾にはまるで感じられない。
 言葉の力を信じることができない。他方で、整然とした論理的な展開を好む。それでは行き着く先が「戯言」であるのも、ある種の必然だ。この場合の「戯言」なんてのは、「なーんちゃって」とか「本気じゃないんです〜」的なノリの、ある種の深刻さを回避する物言いに過ぎないのであるが。
 西尾の場合に限らず、主人公=自分の内面に踏み込んで描こうとするとき、「ここにいる自分」を「外側から観察するもう一人の自分」が出現し、「こんなことを考えているオレって……」と言い始めると、もう収拾がつかなくなる、というのは、少年たちの陥りやすい罠である。「こんなことを考えているオレって、とか考えているそんなオレって、とか考えているそんなオレって……」永遠に自己言及が続く。合わせ鏡のようなもので、際限がない。こうした自己言及の罠を回避するためには、清涼院のようにラディカルな言葉遊びによって、言葉や論理の枠組みそのものを組み替えてしまうのが特効薬なのであるが、そこまで言葉の力を信じていない、というより既成の言葉の様式に閉じ込められている西尾の場合、「戯言なんです〜」と言って逃げるくらいしかもはや道はない。そう、西尾のそれは、明らかに逃げである。
 古典的な様式と決別しない限り、西尾は同じパターンの中で反復運動を繰り返し続けるしかない。合わせ鏡の罠にほんの少し踏み込んでは「戯言戯言」と呟いて回避する、というパターンである。いい若いもんがそれじゃつまらんよ、とすっかりオヤジであるところの私は呟きたい。


 私は西尾のこれ以降の作品を読んでいない。だから彼が、この先どのような方向に向かっているのか、分からない。それほど興味がない、というのが実際のところだが、おそらくここから先数作は、少なくとも商業的には、現在のスタンスを踏襲し続けるのが得策なのではないかな、と推測する。
 とはいえ、仮に商業収益を第一に考えたとしても、同じパターンをあまり長く続けたのではいずれ飽きられてしまう。その前に、次の手を考えなければならない。その時、次にいずれの方向に踏み出すのか?
 ひとつの可能性としては、清涼院のようにミステリの枠を踏み越えようとすることだが、それは西尾のスタンスとは合致しないだろう。
 だとすれば逆に、西尾が目指すべき方向性とは、「様式を崩壊させる作家」である清涼院とは対照的に、「新しい様式」を確立することなのではないだろうか?第2作『クビシメロマンチスト』はバランスの悪い作品であった。だが逆に言えば、バランスを磨いていきさえすれば、「西尾流」とも言うべき新しい様式を確立できるのではないか、そしてその萌芽は既にあるのではないか。主体性を欠いた主人公と、個性的なヒロインの群れ、そして古典的ミステリの仕掛けの融合。第1作『クビキリサイクル』の場では、その危ういバランスが絶妙のところで成り立っていた。その方向性を磨き、先鋭化させることができれば、西尾は新しい時代の様式作家、21世紀の赤川次郎、いやそれどころか、21世紀の水戸黄門たりえるのではないか?


 ――まぁ、あくまで可能性の話であり、言うなればこれも戯言だ。





〈参考図書〉


 私が「メフィスト」系の作家を読むきっかけになったのがこの西尾維新であり、この書評を書くために泥縄的に慌てて他の作家に手を出している状況ですから、偉そうな顔をして何かをお勧めできる立場ではありません。
 ただ、本稿で何度も引いた、清涼院流水については、注目してよいと思います。どの作品もなにぶん文量が多いので、そう簡単に読了できるものはないのですが。私も現在『コズミック』と『カーニバル』を文庫版で読んでいる最中です。(前者は全2巻、後者は全5巻。いずれも講談社文庫)
 先日『阿修羅ガール』(新潮社)で三島賞を受賞した舞城王太郎は、本作よりもデビュー作の『煙か土か食い物』(講談社ノベルス)の方が面白かったな、という個人的感想を申し上げておきます。西尾についてはミステリの様式に捉われていることについて若干疑問を呈しましたが、舞城のこの二作品については、安易にミステリの枠組みを捨て去っただけでは何も面白くないのだ、という好例。
 完全に余談ですが、冒頭に引いた東浩紀の「上遠野浩平・清涼院流水以降」という表現については、その年代(上遠野のデビューが1998年、清涼院が1996年)からしても、世代間の共通認識からしても、そして、既存の表現の枠組みに異を唱えた意識的な作品の代表格としても――私は「『新世紀エヴァンゲリオン』以降」と称した方が妥当であるように思います。先に由貴香織里『天使禁猟区』の書評のところでも記しましたが、『エヴァ』はもはや、基本文献というべきものであり、必読(見)です。