「暴力の連鎖を今度こそ断ち切るために」
南京戦――閉ざされた記憶を尋ねて(松岡環編著、社会評論社)




 2000年11月11日、北海道大学クラーク会館講堂にて、「グローバリゼーションと戦争責任」と題したシンポジウムが開催されました。ホストの山口二郎・北海道大学法学部教授に加え、パネリストとして金子勝・慶応義塾大学経済学部教授、高橋哲哉・東京大学大学院総合文化研究科助教授を迎えるという、その手が好きな人にとってはたまらない顔ぶれです。
 かくいう私も、この場に一人の聴衆として居合わせました。金子・高橋両氏の講演が終わった後、三者による討議となったのですが、聴衆に質問票が配られ、後半はこれを使った質疑応答となりました。私はさっそく「二重の暴力を回避するために、誰が何を、どのように謝罪するのか?」という問いを記入し、提出しました。
 果たして私の質問は、山口先生によって一番最初に読み上げられたのですが、時間がなかったのかそれとも質問の意図が伝わらなかったのか、山口先生は質問の前半部を省略してしまい、結果として高橋先生は私の期待とはてんで見当違いの答えを返してくださいました。がっかりです。
 質問の主眼は後半部より、むしろ前半にありました。問題は、二重の暴力なのです。かの戦争に際して、日本軍が朝鮮や中国や、さまざまな場所の人々に対し行った暴力を、第一の暴力とするならば、その第一の暴力を問題にすることそれ自体と不可分な、第二の暴力が今まさに行われているのです。


 岡真理は既に書いています。
「〈出来事〉の〈真実〉を証す証言に触れたなら、その〈真実〉を、〈出来事〉を否定する歴史修正主義者たちの眼前に突きつけて、お前たちはこれでも抗弁するのかと、言ってやりたいとわたしも思う。だが、このとき、自らの傷ついたからだを切り裂いて、その内部をえぐり出すような証言であるからこそ、そこに〈出来事〉の〈真実〉が証されているのだとするなら、それは何と、グロテスクなことだろう。厚顔無恥な否定論者たちが、それでも、〈出来事〉を否定したなら――おそらく、彼らはそうするだろう――私たちは、なおも、彼女たちに、その身をもっともっと深くえぐり、当事者しか知り得ない苦痛を証言せよと要求するのだろうか。だが、いったいどれだけその身を切り裂き、どれだけ深くその肉をえぐり出せば、そして、いったいどれだけの苦痛に身をよじって証言すれば、〈真実〉を語ったことになるのだろう?」
   (『記憶/物語』岡真理、岩波書店「思考のフロンティア」シリーズ、31頁)


 あの戦争を語ろうとするとき、その言葉は常に何者かに対する暴力となる可能性をはらんでいます。場合によっては、加害者を糾弾するその言葉が、被害者に対してなおいっそうの暴力装置として作用してしまう危険があるのです。一方的に加害者を悪として非難し、裁きを受けさせようとする試みが、ことごとく失敗してきたのも、ここに原因があるように思います。
 上記のような意味合いから、私は2000年12月に開かれた「女性国際戦犯法廷」(※1)の判決にも、若干の問題があるように感じます。戦争犯罪とは一般の犯罪のように、加害者が個人または集団として特定されるものではないのです。それを既成の法とか裁きの枠組みで扱うことは、むしろ「日本−朝鮮」「男−女」「加害者−被害者」といった固定的な対立概念を強化し、結果としてそこから振り落とされる者への暴力として機能し、また、そこに合致しない者をかえって裁きの場から除外してしまうのではないでしょうか。
 よりラディカルに問えばそこには、神なき時代に誰が裁くのか、という法の根幹に突き当たります。国家を裁く法は、法廷はあるのか。裁かれる側の国家なるものは、いかなるものとして置かれるのか。私たちは、こうした連鎖的な暴力の流れを断ち切るために何ができるのか、「従軍慰安婦は/南京大虐殺は、あった/なかった」的な二項対立の問いではなく、もっと別の筋道を、考えなければならないと思います。


 さて、上記のようなことを踏まえたとき、この本「南京戦――閉ざされた記憶を尋ねて」は、片手落ちであると言わざるをえません。
 もちろん、こうした戦争犯罪の問題について、正解と呼べる解決法を誰かが発見したわけでもないのですから、あまり責めたてるのもフェアでないでしょう。しかしこうした仕事には、クロード・ランズマン監督の「ショアー」という先達があるのですから(ここではあえて村上春樹「約束された場所で」には触れないことにしましょう)、やはりもう少し編者には慎重であってほしいと思いました。
 具体的に何がまずいのか、引用してみます。


「三木本さんは、はばかることなく強姦の話をしていた。男なら誰でも強姦できるのだろうか、それに、被害を受ける側の恐怖や屈辱感に思いいたらない無感覚さは、戦前からこの老人にずうっと続いていたのだろうな、しかし今は、記録をとることが第一と複雑な思いで私は聞いていた。」
   (本書24頁)


 それでは著者自身は「被害を受ける側の恐怖や屈辱感に思いいたる」のでしょうか。それが可能だと言い張るのなら、それこそ「無感覚」なのではないかと私は考えます。
 こうした言説が実は、戦争犯罪を「実際に戦場に行った人々」の個人的な問題に収斂させてしまうことに加担しています。もちろん著者はそのようなことを意図して書いたのではなく、むしろ戦争犯罪を糾弾し、積極的に日本に戦争責任を認めさせたいと考えているのでしょう。しかしその意図とは裏腹に、著者が無意識に発したこのような言説が、却って戦争責任をうやむやにしようとする勢力に助力しています。
 問題をもっと分かりやすく、露骨な形で言いましょう。上記の言説において、著者は戦争責任を自分の問題として引き受けない、ということを明言してしまっているのです。この意味において上記に引用した記述は、例えば「六十年も昔の出来事だ、自分は戦争に行っていないのだから関係ない」と言って戦争責任を否定する言説と、なんら変わりがありません。


 同様に、


「なぜ南京大虐殺は引き起こされたか。それは第一に、中国に向けられた飽くなき領土的拡張と収奪を追い求めた日本の天皇制帝国主義にその本源を求めることになろう。中国への侵略戦争がなければ南京大虐殺も無数の虐殺事件もなかったのである」
   (本書47頁)


 といった記述もまた「自虐主義史観である」と主張するような歴史修正主義者の発言を呼び込むものでしょう。彼らがこの文言にどのような反論を持ち出してくるか、容易に想像がつきます。それは例えばこのようなものでしょう。
「当時の経済的、社会的状況として、欧米列強による植民地支配と、世界恐慌を契機とした財の囲い込みによって、日本やドイツのような『(植民地を)持たざる国』が貧窮に追い込まれていた。資源に乏しい日本が生き残る道は、対外的拡張より他になかった。日本が満州を植民地としなければ、欧米の植民地とされていただけのことだ。日中戦争、太平洋戦争は、当時の情勢からして不可避であり、歴史的必然である。決して一方的な領土欲によって日本が引き起こしたものではない」
 どちらの主張も一面的には事実であり、また一面的な事実しか述べていないことにご注目ください。歴史修正主義者の主張が中国や朝鮮の人々に通用しないことと、前掲のような本書の記述が歴史修正主義者たちに通じないこととは、その原因を同一にしているのです。つまりこれらはいずれも、一面的、言い換えれば対内的な物言いとなっているため、対外的に通用しないのです。


 以上、批判めいたことばかり書き連ねてきましたが、それでもこの本が実に102人もの元兵士の証言を集め、忠実に記したことは、大変な作業であり、極めて意義のある仕事です。
 今回はこれだけの証言を集めた、ということによって評価されるべきで、この証言についての考察や分析は、追って他者の手に委ねるというのが、この本の採るべき正しいスタンスなのでしょう。その意味で、この本は幅広く読まれ、議論されるべき価値のある書物だと思います。


(※1)http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/を参照のこと。





〈参考図書〉


 戦争犯罪について語ろうとするとき、昨今のいわゆる「自由主義史観」論争を抜きにして語るわけにはいかないでしょう。両陣営から発せられた著作は膨大になりますが、そのいずれを読んでも、どちらにも与さない第3の道の必要性を痛感するところです。
 差し当たっては、小林よしのり『戦争論』と宮台真司・石坂啓他『戦争論妄想論』あたりから始めれば、両者の対立とすれ違いの様子が分かりやすいかと思います。
 その上で、加藤典洋『敗戦後論』高橋哲哉『戦後責任論』(ともに講談社)のような、より論壇に近い場所での議論も見ておくべきかと思います。両者の議論は、文学の言葉と思想の言葉、文壇の言葉とアカデミズムの言葉の相違としても興味深いところです。
 本文中にも挙げた、クロード・ランズマン監督『ショアー』は必見ですが、なにぶん9時間にも及ぶフィルムですし、一般の図書館等にはほとんど入っていない現状ですから、そう気軽には見られないかもしれません。私のご近所では、千葉大学付属図書館で視聴できました(館外持ち出しは不可)。

 余談ですが、本文冒頭で紹介したシンポジウムの模様は、岩波ブックレットNo.530『グローバリゼーションと戦争責任』で詳細にご覧になれます。問題の私の質問は同書の46ページに記載されています。