はじめにお読みください



 当サイトは「文学」愛好家のためのスペースです。

 いきなり「文学」などと最上段に振りかぶってしまったものですから、少々警戒なさった方もおられるかもしれません。 辻仁成か笙野頼子の回し者かと訝しく思われた方もいらっしゃるかと思います。
 しかし私はあえてここで「文学」という言葉にこだわっていきたいと考えています。

 とはいえ、ここでは文壇回りの奇怪な味のするパイに群がり既得権益の保守に血眼になる皆様を積極的に擁護するつもりはありませんし、 プロジェクトXとか見ながら古きよき時代に思いを馳せつつ失われた時ばっかり求めてマドレーヌ食ってるようなセンチメンタリズムとも 係わりあうつもりはありません。
 むしろ私がこのサイトで積極的に係わっていきたいのは、よりラディカルな運動/実践の場としての文学であり、 「書かれたもの」としてのことばの問題です。流行に合わせて安易な言い方をすれば「言語の物質性」とかいうやつですか。

 今日、私たちを取り巻く世界はますますそのスピードを増しています。
 つい先日まで100MHzとか言ってたCPUはGHzの時代に突入し、テレビは5年前のスーパースターを「あの人は今」に変え、 人々は壊れてもいない携帯電話をこぞって買い替え、そして牛丼は今日も素晴らしく早くて旨くて安いのです。
 このスピードにことばがついて行くのは容易ではありません。実際、漫画や映画、テレビドラマやアニメーションの 圧倒的なスピードに直面したとき、文字は、たとえば小説は、そう簡単に太刀打ちできないはずです。
 毎年シャッフルする「モーニング娘。」の高速展開を目の当たりにして、詩人はいかなることばを発することができたでしょうか? (語り口のスピードで戦う町田康や中原昌也が、いずれもマニア受けのするミュージシャンであったことは、注目に値するでしょう。 その彼らですらラディカルさという点においてコーネリアスに及ばなかったりするのですが)
 1995年の3月20日、あなたはいったいどんなことばを口にすることができたでしょう? このとき、恐らく初めて 「文学者の使命」とでも言うべきものに目覚めた村上春樹が、膨大な手間と誠意を費やして果たした仕事はしかし、 クロード・ランズマンのそれと比べたときに、ある種の自覚的な困難に行き当たっていることは、見逃せないのでは ないでしょうか?

 しかしこれは文学の敗北を即座に意味するものではなく、むしろ、文学の重要性はかつてないほどに大きなものとなった、 と私は考えます。
 だって、想像してみてください。この日本だけでも何千万という人が既に携帯電話を手にして、ほんの数十字から数百字の 電子メールで、コミュニケーションを果たしているのです。そこにはかつての手紙が持っていたような 筆圧や紙の汚れや指の脂の付着はなく、電話が持っていたような息遣いや同時性もなく、ただ「書かれたもの」が むき出しで流通するのです。
 この世界のスピードアップは、ことばの持つ力を失わせたのではなく、むしろあらゆる文脈(コンテクスト)の中に 通奏低音のようにことばの力が及んでいることを確認させ、私たちの言葉が透明で純粋なコミュニケーションツールではなく、 たとえばこの携帯電話みたいに、冷たくて固くてごつごつしたモノであることを確認させたのではないでしょうか。

 そうであるとするならば、文学の仕事とは、万物の奥底に呪いのように流れることば(エクリチュール)の、 その冷たくて固くてごつごつした触感を徹底的に分析し、不埒な意志でもって洗い出し、戯れるという、 実践的な試みなのではないでしょうか。そして、こうした仕事をするのでなければ、いったい何が文学であると いうのでしょう?

 こうした意図のもとに、当サイトは「文学」愛好家のためのスペースとして開きたいと思います。
 したがってここでは、漫画や音楽やテレビゲームや、いろいろなメディアで展開される多種多様なテクストに 触れることとなるでしょう。しかし当サイトの基本的なスタンスとして、すべての物語が決して逃れることの できない、ことば=書かれたものの問題と直面していく、その点だけは、間違いなく押さえていくつもりです。
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