「『政治的に正しいビルドゥングス・ロマン』としての少女漫画」
天使禁猟区(由貴香織里、白泉社)




 書評を始める前に、まずこの作品についての解説を。
 「天使禁猟区」は、平成6年から12年まで、少女漫画誌「花とゆめ」に連載された漫画である。連載は既に完結しており、単行本は全20巻が、さらにOVA、CDなどが刊行されている。
 それまで、19世紀イギリスを舞台としたゴシックホラー仕立ての「伯爵カイン」シリーズなどで、どちらかといえばスリラー系の作風で地位を確立していた由貴香織里は、本作で確固たるファン層を獲得し、独自の「由貴ワールド」とでも言うべきものを形成する作家となった。
 作品の舞台は1999年の日本。主人公である高校生の少年、無道刹那は、最高位の天使である「有機天使」アレクシエルの生まれ変わりであり、そのために天使と悪魔、あるいは天使と天使の抗争に巻き込まれていく。アレクシエルの双子の弟である「無機天使」ロシエルとの確執、天界の実権を握るセヴォフタルタの圧政と、これに反発する天界の実力者たち「四大天使」との対立、さらに天界の反体制組織「世界の魂」とその絶対的な指導者である座天使長ザフィケル、天使たちに滅ぼされた王国の復興を願う邪鬼族の皇女九雷、「魔王」ルシファーに絶対的な忠誠を誓う地獄の大悪魔ベリアル、……といった有象無象の勢力が敵味方入り乱れて争う中で、「四大天使」の一人ジブリールの転生であり、刹那の実の妹である、無道沙羅との禁じられた恋愛、そして背後ですべての筋書きを描く「創世神」の存在、を軸として物語は進展し、そして万物の父たる創世神を刹那が倒すことで完結する。


 ……さて。
 前段でほんの少し触れたとおり、この作品、とにかく登場人物が膨大である。主だったキャラクターを挙げるだけでも、主人公の無道刹那とヒロインの沙羅、邪鬼族の九雷(クライ)、四大天使のミカエル、ラファエル、ウリエル、ただの人間だった加藤故、「世界の魂」のザフィケルとラジエル、魔王ルシファーの魂を持つ吉良朔夜、悪魔ベリアル……とここまでが「味方側」に分類できるキャラクター(のうち、比較的出番の多いもの)で、これに「敵側」のキャラクターを加えて数え上げていくと、双子の弟「無機天使」ロシエルとその腹心カタン、天界の宰相セヴォフタルタと彼が後見を務める幼い最高権力者メタトロン、そのメタトロンの双子の弟に当たるサンダルフォン、等々……際限がなくなってくる。
 さらに気が遠くなることに、これらの登場人物の一人一人に、背景を成す設定があり、それぞれが自分のストーリーを背負っている。これらの人間関係が複雑に絡み合う中で、本筋である無道刹那のストーリーが進行していくのだ。気の遠くなる伏線、次々に現れる新キャラクター……そのうえ、ほとんどすべての登場人物が「触れたくない過去」を抱えており、加えてどこを見ても美男美女ぞろいという、この点でまさに「オタクのハートを鷲掴みにして離さない」作品なのである。
 少し論を急ぎすぎたようだ。
 「天使禁猟区」という作品の特徴を整理しておこう。それはまず
   ・それぞれに魅力的な、膨大な登場人物
   ・その多数の登場人物が、それぞれに抱える暗い過去
 という点に集束されてよいと思うのだ。


 この構図はどこかで見たことがないだろうか? もちろんそれは、90年代のサブカルチャーを支え、ヒットを約束した構図なのだ。その最も典型的な、そして最終的に行き着いた姿として『新世紀エヴァンゲリオン』(以下「エヴァ」という)があった。
 登場人物のそれぞれのキャラクターの際立ち方、それぞれが背負う物語=過去の暗さ、の双方において、エヴァは同時代の他の作品と比べても群を抜いており、この点で秀逸な作品であったと評せざるをえまい。
 結果、エヴァは巨大なキャラクター市場に需要を創出し、コミックマーケットにはシンジやレイやアスカが好き勝手に動く同人誌が膨大に並び、キャラクターを形どったフィギュアはゲームセンターのプライズを席巻し、日本中のオタクが「綾波、萌え〜」のようなダメな文句を発し続けたのだった。
 「天使禁猟区」の市場での需要のされかたも、その規模に差異はあるかもしれないが、エヴァのそれに近いのではないだろうか。連載された「花とゆめ」誌上では読者によるキャラクターの人気投票が行われ、コミケではファンがこぞって吉良やミカエルのコスプレをし、作者のもとには「加藤君を殺さないで」というようなファンレターが届く。
 もちろん、こうした「キャラクター先行」の売れ方というのは、90年代のアニメ・コミック・ゲーム界では、既に一般的であったろう。ただ、「エヴァ」と「天使禁猟区」は、その「キャラクターを売るための要素」の組み立てにおいて、およそ完璧とでも言うべき出来栄えだったのだ。


 本論はここから。
 ここで引き合いに「エヴァ」を出したのは、実はこの2作を比較することこそ、「天使禁猟区」を読み解く最大の鍵であるように思えたからである。
 エヴァの最大の特徴は、その後半の展開において、監督の庵野秀明が「物語」の進行を放棄した点にある。登場人物は無造作に殺され、主人公たちはそれぞれの心の闇と孤独のうちに向き合った挙句自己崩壊し、そして最終話では庵野自らが「エヴァの同人アニメ」とでも言うべきものを披露して(レイがトーストを口にくわえて「遅刻しちゃう〜」と走る)、作中のあらゆる謎も伏線もまったく放置されたまま、終わる。
 こうしたエヴァ後半の「迷走」は、庵野が前記のような「キャラクター先行」の市場形態に自覚的であり、ストーリーを破壊してキャラクター市場へのアプローチ部分を先鋭化させることによって、逆説的に市場への批判を試みたのではないか、というような説明をすることで、一応落ち着く(だが簡単な説明はその安易さを常に危険視しておかねばなるまい。注意しておこう)。
 「天使禁猟区」の最大の特徴は、実はこのエヴァと正反対である、という点にこそあるのだ。「天使禁猟区」では、膨大なキャラクターと、それぞれが背負う膨大なストーリー、そのストーリーを支えるさらに膨大な伏線に覆われてなお、主題である「無道刹那の物語」から脱線することはない。
 本作に登場する数々のキャラクターは、それぞれが別個の物語を展開しているように見えて、節目節目で必ず、本筋を成す無道刹那の物語と交錯する。そして、あるときは刹那の前に強大な障害として立ちはだかり(ロシエル、ベリアル等)、あるいはその死によって刹那の物語に大きな影響を与え(吉良、加藤、ザフィケル等)、そして刹那はこうした「他者の物語」に接することで、自ら成長する。この「刹那の成長物語」にすべてが集束していく点こそ、「天使禁猟区」の最大の特徴なのである。


 エヴァの登場人物がすべて個の殻に閉じこもり、成長を拒否したこととは対照的に、刹那はあらゆる登場人物とぶつかり合い、成長していき、そして最後はきわめてフロイト的な「父親殺しの物語」によって成長物語を完結させ、妹(=象徴的に母)を獲得する。それはおそらく、庵野が決定的に拒否した物語のあり方なのであって、もし由貴香織里がまったく無自覚のうちにこうした物語を構築したのであれば、この点において、由貴は庵野より愚鈍であるとの謗りを免れないであろう。
 しかし、おそらく由貴は「確信犯的に」刹那のビルドゥングスロマンを最後まで描ききったのだろうし、そして何より、由貴は「天使禁猟区」の執筆中に、リアルタイムでエヴァを見ていたものと推測される(単行本の柱書きや後書きから想定されることだ)。「エヴァ」のTVシリーズが放映されたのは平成7年から8年にかけてのことであり、この頃「天使禁猟区」は序盤から中盤に差し掛かるところであった。由貴がエヴァをどの程度意識していたか、あるいはまったく意識していなかったとしても、由貴が「天使禁猟区」を「エヴァ後の作品」として完結させなければならなかったことは間違いないのだ。
 それではなぜ由貴は、エヴァ後の世界では既に禁じ手とされた「政治的に正しい」「きわめて健康的な」ビルドゥングス・ロマンとして「天使禁猟区」を完結させたのか? その問いを読み解くヒントは、由貴自身の言葉で既に紡がれている。


 実はこのラストにするにあたり、もう1つの幻のラスト…つまりアン・ハッピーエンドバージョンもございまして、しかもアンハッピーエンドの方でいこうと決まりかけていたんですが…。いや、やっぱり今まで20巻も続いていたこの話を読んでくださった方々に、ラストで、いや――――――っな思いをさせてぶち壊してどないすんねん!! と思い直したわけであります
      (単行本20巻後書きより)


 これは、由貴が庵野と同様の危機感を抱いていたことの、証左であると言えるのではなかろうか? 実に単行本20巻にもわたって、緻密な物語を織り成してきた由貴香織里ですら、その結末は「アンハッピーエンド」の方を先に思い描いていたのだ。それは、単純なハッピーエンドがもはや不可能であることを、物語はもはや庵野が描いたような「脱臼」によってしかその存在感を示せないことを、由貴が鋭敏に感じ取っていたことの表れでもある。
 しかし他方で、由貴は結局、庵野が拒否したハッピーエンドの方を選択する。それはおそらく、人間存在を肯定しようとする強い意志に裏打ちされたものであり(この点においても庵野と由貴は対照的であり、庵野は他者性を否定しひたすら個人の内側へと向かう)、きわめて倫理的な姿勢である。それは、由貴が自らのフィールドとしている「少女漫画」という世界の制約とも、決して無縁ではないのではなかろうか。萩尾望都や大島弓子らの築いてきた伝統と切り離されていないことが、制約として働いているのではないだろうか。
 こうして「政治的に正しいビルドゥングス・ロマン」を、ほとんど力業によって成し遂げる動きは、考えようによっては、エヴァへのカウンター・アクションであるとも取れるかもしれない。エヴァは確かに、80年代アニメ型の物語構造を終わらせたのかもしれないが、それは「終わりの始まり」であって、エヴァ以降の物語作家たちは、庵野が放棄した作業、すなわち、大きな物語の死後に物語を紡ぐという困難な作業に挑まなければならないのだ。その立場にさらされた由貴が、少女漫画の伝統に基づいた倫理性によって、ビルドゥングス・ロマンを完結させたのだとすれば、それは逆説的に、今日の物語作家がいかなる危機のもとにあるのかを示すものでもあるのだ。





〈参考図書〉


 既に本稿で取り上げた「エヴァ」こと『新世紀エヴァンゲリオン』(テレビ東京・GAINAX・庵野秀明監督)は、今日のアニメ・コミック・ゲーム等の文化を語る上で、決して無視することのできない、もはや必須文献です。また、これに対抗する「政治的に正しいビルドゥングス・ロマン」の、アニメ分野での好例として、「勇者シリーズ」の最終作として名作の誉れ高い『勇者王ガオガイガー』(名古屋テレビ・サンライズ・米たにヨシトモ監督)を挙げておきましょう。
 なお、「エヴァ」を扱った評論としては、東浩紀『郵便的不安たち』(朝日新聞社)所収の「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」が優れています。
 由貴香織里の、特に『天使禁猟区』の作風に多大な影響を与えているのが、ゲーム文化であることも無視するわけにはいきません。特にアトラスの『女神転生』シリーズは、由貴に多大なヒントを与えているように思われます。ゲーム文化一般を知るためには、エニックス『ドラゴンクエスト』スクウェア『ファイナルファンタジー』の二大タイトルに目を通しておくのがよいでしょう。大きな物語の死、という点から見るなら、ドラクエは「W」が、FFは「Z」が注目に値します(もしくはゲームボーイで発売された『聖剣伝説F・F外伝』)。