源平合戦の真相

  <はじめに> A pen is mightier than a sword. (筆は剣よりも強し)

 
  平家の落人伝説は日本各地に現存するが、特に鹿児島県のトカラ列島奄美大島には平家にまつわる伝承
   は多い。私が生まれ育った奄美群島と現在住んでいる兵庫県には接点があるのではないかと考え、書かせ
  ていただいた。

     通論では源氏が平家に勝利したと言われているが、私はそうは思わない。義経を大将とする源氏側が平家に
   勝ったという単純なものではない。史実は、源氏が平家に勝ったのではなく、平家が平家の戦闘組に、
平家が
    源氏をはじめとする武家勢力に勝利した
と言えよう。

    その理由は、当時の遊行僧の中に英雄または繁栄を極めた人々が悲劇的な最期を遂げたということを語り伝
  えれば多額のお布施が得られるという者もいたからである。平家物語では捏造(ねつぞう)された部分が多い。

  源義経を大将とする源氏側+平家の戦闘組=戦闘組同士が戦う<平家の非戦闘組(生き残り組)
  源氏側といっても全員が鎌倉源氏ではなく、
桜間ノ介能遠、田口教能(のりよし)、田辺湛増(たんぞう)などの
  元・平氏であった大将たちが義経側についたことを考えると、平家の戦闘組同士、身内同士の争いだったことが
  言えよう。結果的には義経は兄の頼朝によって奥州に追われ、戦闘組(義経と宗盛)はいずれも滅び、後白河
  院と平家の非戦闘組だけが生き延びた。換言するなら、最初は天皇家に端を発した争い(院と平清盛)が平家
  同士の内部抗争に発展し、平家の非戦闘組が平家の戦闘組に勝利したと言える。戦闘組同士を戦わせたのは
  後白河院の一種の戦略(Strategy)であったにちがいない。宗盛を大将とする平家軍を倒すには、同じ平家軍の
  力を借りるしかないと判断したのだろう。義経は名目は源氏だが、本妻が平時忠の娘であることから考えると実
  質は平家寄りであった。(静御前は妾)そして、彼は院の命に従い、見事に宗盛率いる平家軍を打ち破り、3種
  の神器のうち、鏡と玉を奪い返し、任務を果たした。院に接近した方が領地を治め、出世の近道と考えたのだろ
  う。

     平時忠が義経に和議を申し込んだ内容は、平家の血を残すこと、帝(安徳帝)を無印の船に乗せ、非戦闘組の
  資盛らに擁護させると いうものだった。黄色の旗を立てた御座船に乗り、壇ノ浦の海に沈んだ帝と二位の尼は
  影武者の可能性が高い。資盛らを逃がしたとなったら、義経は鎌倉から咎められ、源氏軍から総すかんをくらう
  のは目に見えている。身代わり(影武者)が必要になった所以である。

  義経の戦略術の大部分は育ての親である奥州の藤原秀衡(ひでひら)から教わったものと思われる。平時忠の
  娘、夕花を娶った後は時忠が義経の義理の父親となる。平家の相談役(ブレーン)であった時忠からもノウハウ
  の知恵を授かった可能性が高い。幼い時に父母を失った義経が一番求めていたものは「肉親と身内のぬくもり」
  であった。最初は兄の頼朝が唯一の肉親であり、親近感を抱いていたが、一ノ谷の合戦、屋島の合戦以後は、
  後白河院と平時忠が彼の父親的な存在になり、緊密な関係を保つようになった。頼朝の命令には従わず、院と
  時忠に忠義を尽くすようになったのも理解できる。

     壇ノ浦の潮流が変わったのは偶然ではなく、義経は最初から熟知していたのではないか。保元の乱以前に、
    平清盛は、瀬戸内海に出没する海賊の征伐の任務にあたっていたこともあり、瀬戸内の海のことは知り尽くし
  ていた。むろん、長門の国の彦島付近(壇ノ浦)の潮の流れのことも周知していた。平家軍の誰かから情報を
  得ていた可能性が高い。

  源義経という名は表向きであって、実質は平家寄りである。名目を源義経とした方が源氏軍全体の統率が容
  易であることと兄の頼朝の顔を立てるという両方の理由があった。源氏軍よりも圧倒的に兵力が優勢であった
  平家軍を倒すには宗盛率いる平家軍に不満を持っていた元・平家の武将たちを源氏側に方向転換させて味方
  の兵力を増強させるというやり方も義経の戦略法であった。平家の弱点を知っているのは平家自身である。鎌
  倉源氏の兵は数が少ない上に兵力も平家軍より質が劣っていた。兵の数と質という両方の面で平家軍の方が
  優秀であると知った。人情の機微にふれた義経の対応のしかたを見て敵軍の兵ですら義経の人柄にほれたと
  いう。  

  天皇家の象徴である三種の神器の奪還を目的としていた後白河院は無能な源頼朝軍はあてにせず、有能な
  義経に指揮を任せた。後白河院と平時忠と源義経という3人の知恵者に奥州の藤原秀衡が背後で後押しを
  していたというから宗盛率いる平家軍には初めから勝ち目はなかった。

     ◎義経=優秀な使い駒(本妻は平時忠の娘)、頼朝=無能で無用の長物(本妻は北条政子=北条時政の娘
  =時政は桓武平家の出=鎌倉源氏にも平家が加勢し平家同士の戦い)、後白河院&時忠=相当のタヌキ?

    源氏のトップの肩書きは征夷大将軍、南方の琉球国は王、平氏のトップの肩書きは太政大臣、関白、執権。
  執権の職務は将軍の補佐役でトップを兼務することもあった。執権・北条時宗が例。平氏には軍師という
  トップの補佐役も存在し、トップの相談役となり、実質は裏で政務の舵取りをする者もおり、縁の下の力持ち
  的な働きをしていた。源氏系の征夷大将軍と(琉球)王は「飾り物」で実質はまつりごとの舵取りは平氏が担
  っていたと思われる。いささか飛躍した言い方で恐縮だが、アメリカの大統領とユダヤ系の閣僚(令外官=
  CFR)の関係と似ている。アメリカの政治を裏で舵取りをしているのはユダヤ系のブレーンである。キッシン
  ジャーのように長官の肩書きを持ち、大統領の補佐役をしていた者もいる。ルーズベルト大統領は唯一ユダ
  ヤ系である。平氏にも古代ヘブライ王国のガド族(ミカドはガド族が語源)の血をひいている。歴史の偶然には
  ただただ驚くばかりである。 

  源平の時代(平安〜鎌倉)の国のトップは天皇であり、政務の舵取りをしていたのは後白河院と平時忠=院
  の補佐役)である。源頼朝=征夷大将軍はただの「飾り物=無用の長物」で鎌倉幕府の政治を実際に舵取り
  していたのは北条氏=平氏である。  

  後白河院の妻=滋子は平時忠の妹=院と時忠は義兄弟、義経と時忠は義理の親子、後白河院と平清盛は
  同じ父親=白河天皇を持つ兄弟、但し、嫡子として認められていないので義兄弟ということになる、法律上は
  平忠盛が清盛の実父。

    後白河院、 時忠、義経3人の共通の目的は、神器の奪還(天皇家の権威を取り戻すこと、朝廷と平家との仲
  を回復させること、すなわち元の鞘(さや)に収まること)、戦を早く終わらせること、帝と建礼門院、非戦闘組の
  資盛、有盛、行盛を生かし、逃すこと=血筋を残すこと、その証拠に義経は資盛を4回も逃している。1回目は
  三草山、2回目は一ノ谷、3回目は屋島、そして4回目は壇ノ浦である。

     中世の武将たちは戦勝のみ印として敵の大将の首をとったものであるが義経は資盛が戦に長けた武将ではな
  く公達(きんだち)と知るや、討つに値しないと判断したのであろう。義経は一ノ谷の合戦で破れた平重衝(しげ
  ひら)も捕らえて手厚くもてなした。

  無能な頼朝の鎌倉軍は無用の長物であった。時忠は宗盛に「義経軍が圧倒的に優勢であるから、(味方の優
  秀な平家軍のほとんどが義経に加勢しよるさかい、もうあかんで)あんたむだな戦(いくさ)はやめなはれ。」と
  忠告したにもかかわらず、優柔不断な宗盛は聞く耳を持たず、時忠に「あんたは義経のスパイとちゃうか。平家
  の参謀役であるあんたがそのような弱腰ではあかんやないか。わしらは負けたわけやない。まだ彦島=壇ノ浦
  があるやないか!」とくってかかり、時忠の身柄を拘束した。義経のスパイどころか、時忠は義経の義理の父親
  である。宗盛さんには悪いが、この縁は絶ちきることはできない。笑えない悲しい史実である。

     院と時忠にとって鎌倉源氏軍と宗盛、教経率いる平家軍は劣勢で無能、義経率いる平家軍が唯一頼りになる
  存在であった。義経率いる源氏軍というのは名目であって実質は義経率いる平家軍という表現が正しい。

  相国さん=平清盛なき平家はもはや戦(いくさ)をする器ではなくなったということを宗盛たちは気づいておらず、
  文化的なことで実績を残すべきという清盛の遺言をすでに忘れていた。大か小、強か弱、優か劣という相対的
  な見方を超えなければならない、強者には義経のように上には上の優れた武将がいる。弱者になりきること、
  平家一門、家族、兄弟、親子の愛、人を大事にするということを基盤にし、人間としてやるべきことがあるでは
  ないか。清盛が言いたかったことである。

     平忠度(ただのり)をはじめ、平経正、平敦盛、平有盛らは武将というより文学や音楽を愛する文化人としての
     才覚を発揮するようになった。敦盛は笛の名手、平経正は琵琶の名手、平忠度(ただのり)は文才を有してい
   た。

  一ノ谷で平敦盛と対峙した義経の家臣である熊谷次郎直実は敦盛が年若き公達(きんだち)であることを知る
  や討つことをあきらめたという。しかし、敦盛が「義経様のご家来に討たれるなら本望。」と懇願したため、やむ
  なく熊谷は敦盛の首をはねたという。敦盛の墓は神戸市須磨区一ノ谷町にある。

  義経は一ノ谷の背後にある鉄拐山から有名な坂落としという戦法で平家の陣地を攻めたが、目的は三種の神
  器の奪還であった。かつて京の都で自分が助けた敦盛が敵陣地にいるとは知らなかった。おそらく、敦盛と対
  峙して場合、討ち死にさせるのではなく捕らえていたにちがいない。再度、逃がすとなったら味方の兵から裏
  切り者として見られてしまう。壇ノ浦においても資盛、有盛、行盛らを逃したとなったら、鎌倉から咎められる。
  身代わり(影武者)の存在が必要になってくる。

  後白河院にとって安徳帝は孫である。平清盛にとっても安徳帝は孫にあたる。そして、幼少であったとは言え、
   当時の天皇は安徳帝である。国家権力の最高峰であった天皇を簡単に壇ノ浦の海に入水させるということは
  絶対にあり得ないから、壇ノ浦における平家の滅亡説は前述の遊行僧による捏造された言い伝えである可能
  性が高い。  

  平清盛の勢力が強大になりすぎて、公家、寺社勢力(僧侶)から反発され、院とにらみ合うという天皇家の内部
  抗争に発展した。義経は院にとって最も信頼できる優秀な武将であった。「官位を授けるさかい、神器を奪って
  来てや。九郎、あんたを頼りにしてまっせ!」」 院と清盛は義兄弟の関係で身内同士。血もつながっている。
  清盛は白河天皇の御落胤である。

     清盛は全盛時代に反平家勢力を拷問したり、幽閉したりしたこともあり、残忍な悪役として平家物語には描かれ
     ているが、実像はそうではなく、晩年には丸坊主にし、出家している。むしろ、木曽義仲ら源氏軍の方が都で残
  忍な振る舞いをしたと記されている。しかし、実際は元平家軍や一般市民による火事場泥棒や焼き討ちが多か
  った。平家物語では捏造された部分が多い。

  
温厚で、気配りを忘れず、優しい人物であったというのが清盛の実像である。
  
   清盛が貴族社会と寺社勢力を打破したのは、彼の父、忠盛(ただもり)が中央の政権に出世し、朝廷から位を
     授かったことを摂政(藤原氏)たちが妬み、いじめたことに起因している。

        
  
源氏と平家は同じ先祖(=桓武天皇)を持ちながら、(=皇族の出) 異質の二大派閥同士であった。
  源氏自体、内紛が多く、身内同士で醜い争いが絶えなかった。頼朝と木曽義仲、頼朝と義経がよい例。気性が
  激しい者が多く、個人の力が強すぎて組織全体のまとまりがなかった。そして、平家は実直であるのに対して、
  梶原景時や新宮行家を筆頭に鎌倉源氏にはずる賢い者(=縦割り偏重のこざかしい猿)が多い。義経は例外
  であり、他の源氏と格がちがう。実直で義理堅く、忠義心が強かった。そして、部下思いで情深く心優しいとい
  う点では平氏に近かった。彼の部下とは鎌田正近と弁慶と伊勢三郎である。とりわけ、彼の身近にいた女性=
  妻の夕花(平時忠の娘)の影響は大である。義経が彼女に「なぜ平家の姫君が源氏である私に好意を寄せる
  のか。」と尋ねると、「女にとって源氏か平家かはどうでもよいことです。大事なのは人柄です。」と彼女は話し
  ている。

     余談だが天皇家(桓武天皇)の祖先は4世紀後半〜6世紀に栄えた百済と新羅から渡ってきた渡来系である
   という説が有力で平家は百済、源氏は新羅の王族の血を引いており、換言すると、源平合戦は百済系と新羅
   系の抗争であると言っても過言ではない。もっと歴史をたどるならば、天皇家と平家の祖先は古代ヘブライ王
   国の失われた10士族の1つであるガド族(エフライム)族にルーツがあるという説もある。このガド族は陸路=
   シルクロードを通って中央アジア〜モンゴル〜朝鮮半島から日本へ渡来した者と海路=ペルシア湾〜インド洋
   〜南シナ海〜東シナ海→海のシルクロードを渡来した者の2通りある。ミカド=帝=天皇の語源はこのガド(族)
   である。Mikado originates from the Gado tribes of the Ancient Hebrew Kingdom. 
     私たち日本人が北方系(百済、新羅)と南方系の混血であると言われている所以である。大本を辿れば古代
   ユダヤ=ヘブライ王国のガド族である可能性が高い。大なり小なりどなたにも北方系と南方系の血が流れて
   いることは否定できない。  

  平家も内紛がなかったとは言えないが源氏ほどではなかった。気性の穏やかさ、優しさという点でははるかに
  平家の方が勝っていた。組織としてのまとまり、団結力も平家の方が上であった。清盛が死の直前に、兄弟、
  子供たち、孫たちに語ったことばは、「平家一門、みな手と手を取り合っていつまでも仲良う暮らしてな」である。
   しかし、清盛と彼の長男の重盛の死後、平家は組織として次第に弱体化していったが、彼のポリシーは後世ま
  で永遠に語り継がれてきた。

  源頼朝を将軍とする鎌倉幕府は長くは続かなかった。後の執権北条氏は桓武平家の出、戦国時代に天下統
  一をはかろうとした織田信長は平家の血筋はひいていなかったが、平清盛を尊敬し、平家流のスタ ンスを持っ
  ていたと言われている。明治維新の際、西郷、桂小五郎、坂本龍馬、勝海舟ら近代日本の先駆者たちも平家
  流の奇抜な発想とスタンスを有していたように思う。従って真の勝利者は源氏ではなく、平家の非戦闘組(ブ
  レーン)。最後まで生き残った者、文化の継承者が真の勝者と言える。枝葉に飛びついて喜んでいる者はす
  でに敗者であり
、最後に笑う者が真の勝者。 

     <平家が真の勝利者である根拠>

  (1)何もしない貴族社会(公家)の打破→武士社会の礎を築いたのは平清盛である。
   (2)戦国時代群雄割拠の時代に織田信長(平氏系)が全国統一を図る(秀吉、家康の武家政権の土台を築く)。
  (3)群雄割拠の琉球で琉球王国を築く。琉球王は源氏系だが家臣(参謀、軍師)には平氏系が多かった。「琉球」
       の正式な日本名は「流求」で源為朝が伊豆大島から沖縄本島中部の今帰仁にたどり着いた時に命名した。
       琉球王は河内(清和)源氏系なので倭人が建設した領土であり、古代から中世にかけても日本の領土である
       というのが正しい。「琉球」という呼び方は、本土の「東北」や「北陸」といった地方名と同じである。決して異国
   ではない。日本国「流求」→明やアジア諸国と交易を始める(国際交流)。経済を活性化させ、琉球文化の礎
   を築いたのも平氏系である。沖縄人=うちなーはもともと倭人(日本人)であり、琉球民族なる民族は存在し
   ない。支那によって歪曲された(fabricated)名称である。
   (4)安土城などの築城に携わった者、築城技術を有した者、大将の相談役=参謀、軍師=ブレーンの多くは平氏
       である。
   (5)明治維新→近代日本の幕開け。武士政権が終焉し、国民の代表による民主政治がスタートする。
       天皇は国家の象徴。近代国家の礎(いしずえ)を築いたのは平家であると言っても過言ではない。  

    <平氏と源氏の政権交代><源平合戦は中世から近代まで続く?>

 
 (1)平安時代 平清盛(太政大臣)→(2)鎌倉時代 源頼朝(源氏 征夷大将軍)→(3)鎌倉幕府 北条氏(執権
  平氏)→(4)室町幕府 足利氏(源氏)→(5)安土桃山時代 織田信長(平氏)→(6)同時代 明智光秀(源氏)→
  (7)同時代 豊臣秀吉(平氏 関白)→(8)江戸時代 徳川家康(松平氏 便宜上の源氏 征夷大将軍)→
  (9)明治維新 薩長、土佐の下級武士(平氏系) 薩摩藩は江戸幕府が成立する以前は豊臣方(平氏)であった。
  薩摩の西郷をはじめ、土佐藩の坂本龍馬、江戸生まれの勝海舟は平家流のスタンスを持っていたと言われて
  いる。勝海舟と坂本龍馬は神戸市にある史跡、平家の供養塔を訪れている。 

    <源平合戦の経緯>    

   源平合戦は朝廷が二つの勢力に分裂し(天皇家のお家騒動)、上皇が支配する院(=院制)と天皇の朝廷側
   の内部抗争(=1156年保元の乱)が発端である。当時は後白河天皇側に摂関家では藤原忠通、武士の棟梁
  として平清盛、源義朝(頼朝、義経の父)、対抗する崇徳上皇方に藤原頼長、源為朝らがいたが、為朝は保元
  の乱に破れた後、伊豆に流された。崇徳上皇と後白河天皇は兄弟である。二人の父、鳥羽上皇は後白河天皇
  の子孫に皇位を継承させようと考えていたことから、兄弟が大乱を起こした。
     1160年の平治の乱は、保元の乱で勝った後白河天皇(二条天皇に譲位し、上皇となる)側内部で起きた内乱
  である。天皇近臣の座(椅子取り)を巡って摂関家の藤原信西と信頼が対立し、これに平氏=平清盛と源氏=
  源義朝が加わる。平清盛は信頼、義朝を打ち破り、朝廷から太政大臣の位を授かった。これ以後、平家は栄
  華をつくすようになる。しかし、平清盛と後白河院が対立し、清盛が院を幽閉し、権力の座についたことから、
  今度は源氏側、僧侶たちの反感を買い、源義朝の息子、頼朝ら源氏側が出兵し、平氏を都から追放し、征夷
  大将軍となる。しかしながら、当時の最高権力者は朝廷であり、帝(みかど)=天皇である。当時のトップの
  戦略術かどうかはわからないが、家臣たちや味方同士、身内同士(平家と源氏、源氏同士=木曽義仲軍と
  頼朝軍)を戦わせて共倒れになるというケースが多いように思われる。当時の武士たちは、江戸時代の武士
  とちがって地位は高くなかった。半分は貴族(公家)、半分は武士であり、彼らの上に公家(摂関家)、天皇家
  という社会構造になっており、多くの史実や歴史的事件を考察するにあたって、体制を維持するための「使い
  駒」みたいな働きをしていたという印象を持たざるを得ない。

     保元の乱以前に、清盛ら武士たちは、瀬戸内海に出没する海賊の征伐の任務にあたっていたこともあり、瀬
  戸内の海のことは知り尽くしていた。むろん、長門の国の彦島付近(壇ノ浦)の潮の流れのことも周知していた。

  
平清盛自身、伊勢平氏(=桓武天皇の末裔)の子孫であり、安徳天皇は彼と後白河院両方の孫であり、天
  皇家との関わりは深いが・・・・。
  彼の父、平忠盛(ただもり)は伊勢平氏の出身である。清盛は忠盛の嫡子(ちゃくし)である。白河天皇のご落
  胤(らくいん)と言われているが、嫡子として認められていないため、法律上は、忠盛が実父である。
  血のつながりよりも育ての親が第一である所以である。


  後白河法皇の妃は平滋子(時子、時忠の妹)、高倉天皇の妃は平徳子(清盛の娘)であり、清盛と法皇も身内
  同士である。法皇と清盛の共通点は (1)出家し、頭を丸坊主にしたこと (2)歌を歌うことと舞うのが(音楽)が
  大好きだったこと、今風に言うならカラオケと余興が大好きだったことである。  

  清盛は朝廷から太政大臣の位を授かり、政治の実権を握ろうとしていた。自分の娘や身内を天皇家に嫁がせ
  ることによって地位を築こうとした。 

     当時の武士は身分が低かったため、太政大臣の位は摂関家(公家)でないと授からなかった。清盛が白河天
  皇の血筋をひいていることが起因している。     
     

  天皇家のお家騒動にもともと身内同士だった平氏と源氏が駆り出されたと言った方がわかりやすいだろう。
    後白河院と平清盛は最初は良好な両雄関係にあったが、清盛の勢力が強大になり、栄華をつくすようになっ
   た。獅子ケ谷の騒動後、二人はぎくしゃくし始め、両雄並び立たずの立場に追い込まれていった。結局、両者
  の関係は決裂し、後白河院は幽閉され、清盛の政策に不満を持つ僧侶や源氏の武士たちが現れた。源頼朝
  がその一人である。平清盛VS後白河院、平氏VS源氏 源平合戦の始まりである。不思議な因縁で、頼朝は
  幼少時に清盛に命を助けられている。その頼朝が命の恩人である清盛に戦いを挑むことになった。彼は実力
  で守護・地頭の役職を手に入れたのではなく、無理矢理、後白河法皇に認めさせた。源平合戦で勝利し、兄
  の顔を立てた義経に嫉妬し、義経追討の命を下すよう、後白河院に無理強いしたのも事実である。院の大の
  お気に入りだった義経をジェラシーの感情だけに流されて打とうとしたわけである。「九郎にはもうがまんなら
  んわい、わしの言うことをきかず、数々の勝手な行動 もうゆるさ〜ん!」 と怒り狂った。

    頼朝は忠義心がまるでなく、実に恩知らずで人間性(モラル)に欠き、人としての器が小さい人物であるように
  思う。幼い時に清盛に命を助けられ、源平合戦では弟の義経が彼の顔を立てて勝利を収めたにもかかわらず、
  両者を力づくでつぶそうとしたことからも彼の人格のレベル(程度の悪さ)がうかがえる。 

    反平家勢力が都に入ってから、平家一門は都を福原(現神戸市)に移した。大輪田泊(現兵庫区あたり)に
  陣営をしいた。 後年、清盛の遺志を継いでここに兵庫津(神戸港)という大規模な港が建設された。  

  一ノ谷と屋島で敗れたとき、平時忠は義経軍が明らかに兵力が上で勝ち目はないと予測していた。
  このままがむしゃらに負け戦を続けて平家一門が全滅するのは愚行であり、引き際も戦術の一つであると心
    得ていて義経に和議の申し立てをしたのである。
  しかし、宗盛、知盛、教経ら平家側は、譲歩せず、安徳帝を守り、壇ノ浦で勝利するための戦略を厳島で協議
  していた。壇ノ浦の前半戦においては、平家側に有利だったが、急に潮の流れが変わるという予測しない事態
  が発生したため、平家側の兵士に動揺が生じた。結果的には、戦術上位の義経軍の勝利に終わった。
  (1)相手を油断させ、不意をつく奇襲戦法 (2)まさかの事態が発生しても動じない平常心を保てたこと  (3)情報
    収集及び活用能力に長けていたこと(=情報戦術)(4)人情の機微にふれ、敵兵を味方に方向転換させ、味方
    軍を増兵させた戦略術には驚愕する。
  
  しかしながら、源氏と平家の戦闘組同士(正確には平家の戦闘組同士)の合戦いわゆる源平合戦後、各地に
  住む平家の末裔たちの中から、奇抜な発想とユニークな個性を持つ時代の先駆者(開拓者)を多く輩出してい
  る。彼らは失敗から多くのことを学んだ。武力や枝葉の知識(=junk)で勝つことだけが必ずしも人生の勝者とは
  言い難い。
   

   
<平家による武から文への発想転換>

  
「おごる者は久しからず」と有名な格言を残したのは、平家のブレーン&相談役を務めた平時忠(ときただ)であ
  る。
武力による権力闘争には限界があると悟る。武の道から→文の道、人(仁)の道、文学、学問、文芸、音楽
  (普遍的=ユニバーサリズム)  軍事拠点であった城から→平和国家を目的とする城(グスク)の建設     

  平清盛の死後、平家の指導者たちはもはや「侍=さむらい」としての器ではなくなった。平忠度(ただのり)をは
  じめ、平経正、平敦盛、平有盛らは武将というより文学や音楽を愛する文化人としての才覚を発揮するようにな
  った。そして、何
よりも慈悲深く心優しき人々が多い。奄美地方の方言で「心が清らか」を「ちむじゅら」または
  「きゅらむん、きゅらちゅう」と言う。源義経も優れた戦術家であったにもかかわらず、「ちむじゅら」過ぎて後白河
  院の「使い走り」として平家軍と戦ったという印象が強いが。

  清盛は熱病で死亡した。彼は死ぬ前に平時忠ら家臣たちに
「無理をして戦(いくさ)をするな。幼き帝(みかど)
  
を守れ。恐るべきは鎌倉の頼朝率いる源氏軍と都の後白河法皇ぞ」と忠告している。後白河院の妃は時忠の
  妹の滋子であることから、時忠は院と連絡がとりやすかった。

   
武器(刀や槍)はもはや必要がなくなり、代わりに文学(学問)と音楽を愛する文化人としてスタートし、平家は
  筆(ペン)と琵琶または三味線を選んだ。築城技術を生かし、城(グスク)を築いたが、軍事拠点としてではなく、
  人々が集い、平和目的の祀り(まつり)ごと=政治や祭りを行う場所であった。また、航海術を生かし、外国と
  の交易も盛んに行い、経済の発展に寄与した。 
 

  
奄美群島に来島した平家の武者たちは、五穀を植える農作業の方法(特に稲作)、石垣で囲む漁法、文字の
  読み書きの学問、築城技術、楽器(三味線)の弾き語りなどの文化を伝え、人の人たる道を島民に教えた。
  そして、平孫八のように航海術を生かし、隣の琉球との文化交流や交易に貢献した人物もいた。 
    平孫八は平有盛の末孫で平清盛の直系の子孫である。

    平清盛が神戸を宋との貿易港として栄えさせるという夢は崩れ去ったが、平孫八をはじめ奄美から沖縄に渡
  った彼の子孫たちによって南方の沖縄の地で明国との交易を通して彼の夢が実現されたと言うことができる。


   
奄美地方の方言で母親のことを「あま」または「あんまー」という。語源は「(二位の)尼=あま=平時子」である。
    夫(清盛)を支え、(平家)一門=家族の繁栄を助力するしっかりした女性の見本になりなさい、という意味が含
  まれている。平清盛は、平家物語の中で専制君主で悪役として描かれているが、実像は、経済分野の手腕に
  長け、温厚で慈悲深い人物であったという説が有力である。晩年に彼は頭を丸坊主にし、出家している。

  平清盛の長子である重盛は、宗盛、徳子(=平時子の子)とは異母兄弟であり、実母は高階基章(たかしなも
  とあき)の娘である。重盛の正妻は、藤原経子(=平資盛、有盛の母親)である。資盛、有盛の主君は、安徳天
  皇である。安徳帝と共に壇ノ浦で入水したと言われている時子(=祖母)、資盛、有盛、行盛らは戦闘に加わら
  ず、生き延び、南島落ちしたという伝承が残っている。

     あま、あんまー(母親)に象徴されているように家族の中で祖母、母親、姉妹、娘の女性の存在は大きい。父
  親、兄弟、息子(男性)が家屋でたとえるなら柱、門柱、梁であり、女性はしっかりした家の土台にならなければ
  ならない。 平時子(=二位の尼)は弟の時忠(ときただ)を母親代わりになって育てたという。彼女の生き方は、
    良き模範として語り伝えられてきた。

 
   <源九郎義経という人物と逆説><武士道の手本>     

 
義経は戦の天才であった。知的にも人物的にも優れていた。実直で思いやりがあり、敵味方関係なく接してい
  たので女性からも男性からも好感が持たれていた。

  平家が平家に、平家が源氏をはじめとする武家勢力に勝った、といってもぴんと来ないだろうか。勝った、と思っ
  ている者はすでに負けており、負けた、と言い、
譲歩している者こそ勝者である。敵は自分自身、または身内
  集団の中でいるという良き教訓であろう。  味方と信じていた者が敵になり、敵だった者が味方に転身すること
  もありうる。
源義経は名目は源氏だが、実質は平家である。後白河法皇と平時忠の大のお気に入りだった。
    彼が平家の縁者であるということと後白河院から官位を授かったことが頼朝の怒りにふれた。平家にとって名
  目が源氏である義経は敵のようで実質は味方であり、頼朝の鎌倉源氏にとっては身内でありながら敵であると
  いうことになる。

    名目は源氏、実質は平家であるという根拠は、唯一の肉親である兄範頼、頼朝との絆、心のぬくもりを失いた
  くないというしがらみがあったことと、平時忠に都で命を助けられ、本妻が時忠の娘、夕花であることから平家
   の縁者となり、義父、時忠への忠義心も強かったことである。静御前=しずかごぜんは本妻ではなく妾であっ
  た。そして、もう一人。頼朝が勧めた百合野という二人目の妻を娶ろうとしたが、強制されたやり方に義経は反
  対した。

   兄の頼朝への忠義心はもちろん、
世話になったすべての人々に義理と人情をもって接しており、人物としての
 
器が大きかったことがうかがえる。まず第一に、後白河院に神器を戻すという任務を果たした。そして、兄頼朝
 (源氏側)の顔を立てると同時に、平家側の大将は討ち死にさせるのではなく、捕縛し、生かすというやり方=
  折衷案(
両方の益になる、両雄を並び立たせる)という方法=中立、中庸)をとった。 

  両雄を並び立たせる、争っている当事者同士を元の鞘に収めることができる才覚を有しているのは、義経しか
  いないと後白河院と時忠は考えていた。頼朝の脳回路には、平家を絶滅させることしかインプットされていな
  かったので二人は頼朝の鎌倉軍に指揮を委ねるのは無理だと判断したわけである。 
 
  時忠が義経にほれたのは、義経が実直な人柄で、頭の切り替えがよく、実践能力を備えていたことである。
   義経の実父(義朝)は義経が幼い時に死亡しており、義経は父親的な存在の人物が欲しかった。まさしくその
 人物こそが時忠である。義経の育ての親はもう一人いる。奥州の藤原
秀衡である。彼が寂しがり屋で肉親や
 身内のぬくもりを求めていたことがうかがえる。

  都で平家が栄華を極めたのは平清盛が政権を握っていたときで、清盛と長男の重盛が病で倒れた後は平家
 にずば抜けた指導者としての器を持った人材はいなくなった。宗盛、教盛、知盛は武将というよりも公達(きん
 だち)という印象が強かった。優れた板東武者(ばんどうむしゃ)であった義経は武芸の達人であるだけでなく、
 頭脳明晰で実直な人柄であるという印象をもった平時忠は、平家一門にもああいう人材がいたらよいのだが
 とかねてから思案していた。  


   時忠が娘の夕花を義経に嫁がせたのは、義経に押収された書類を取り戻すための策略ではないかとの推測
 もあるが、忠義者の義経が書類を押収したのは上から命じられた通りにやむなく とった行動であり、肝っ玉が
 大きい彼は、時忠の策略なんてとんでもない、小賢しい周囲のうわさは心にとめていなかった。武士道の基本
 精神は「大同小異」であり、細かいことにうじうじとこだわっていては何もできないということを家来たちにも言い
  聞かせていた。
人に優し く、自分に厳しくということを身をもって実践した人物が義経である。一般的には他人
  に厳しく、自分に甘い輩が多いのが現実である。現代においても同様の輩が多数存在する。

   
義経にとって源氏側か平氏側かそんなことはどうでもよかったのである。人物評価してくれた後白河院と平時
 忠は彼にとって父親的な存在であり、「心のぬくもり」を感じていたにちが
いない。弁慶をはじめ、鎌田正近ら
 彼の家来たちも彼の兄か弟のようにとても大事にした。本妻の夕花と 妾の静御前も彼の母親か姉か妹的な
 存在で心のぬくもりを感じていたにちがいない。 
                 

 
上述したように義経が率いる源氏軍は元々平家の家臣だった者が多かった。桜間ノ介能遠、田口教能(のり
 よし)、田辺湛増(たんぞう)がそうである。桜間は平氏でありながら、義経の人柄にほれたと言われて いる。
 桜間、田口、田辺が義経軍についたことは平家の戦闘軍団に大きな傷手となり、勝運はもはや尽きた。


  
諸悪の根源は、強い者、賢者を妬(ねた)む、嫉妬心と誤解と思いこみである。

 
頼朝が義経を妬(ねた)み、憎悪した理由は,
  (1)屋島の合戦時に、鎌倉から送った梶原景時の兵の到着を待たずに、勝手に兵を動かしたこと (2)源平合
 戦で勝利をおさめ、朝廷から官位を授かったことで勢力を伸ばすのではないかと危惧し、自分の立場が危う
  くなったこと (3)自分が世話した百合野という嫁を娶らず、平家方である平時忠の娘、夕花を正妻にしたこと
 である。怒りに狂った頼朝は弟義経を含む平家の残党狩りにエネルギーを費やすことになった。

 義経が合戦で勝利をおさめたにもかかわらず、頼朝は自分の指示を聞かずに勝手に兵を動かしたことが気に
 入らなかったようである。義経と頼朝の戦術の基準も大きく異なっていた。義経にとって勝利とは、院から命じ
 られた3種の神器を奪還すること、
相手方の大将はすぐに討ち死にさせるのではなく捕縛し、生かすこと。頼
 朝の勝利は最初から平家を壊滅させることであった。

 
壇ノ浦の海で多くの平家の戦闘組の将兵が壊滅したことは事実である。しかし、全滅したわけではなく、平家
 側で生き残った者もいた。源氏側の多くの将兵も死亡した。
 生き残ったのは勝利した義経と家臣たち(弁慶ら)、敗北した平家側は総大将だった平宗盛、平徳子、平時忠
 が生き延びた。平家物語には書かれていないが、安徳天皇、平時子(二位の尼)は非戦闘組だった平資盛、
 有盛、行盛らに守られ、南の島(鹿児島県トカラ列島と奄美大島)へ生き延びたという伝承が残っている。 
 

 頼朝は義経の追討に従わなかったもう一人の弟、範頼をも処刑していることから相当程度が悪い。
  木曽義仲(源義仲)の一子、義高も殺している。

 理性をなくした者(=頼朝)はすでに負けである。義経の戦術や心情を汲み取ろうとせず、やり方が一方的で
 義経を単なる家来(子分)とみていたというから兄弟の間に軋轢が生じるのは無理もない。
義経は京で時忠に
 命を助けられた恩返しに平家側(時忠)の役に立てたいと望んでいた。義経の心をつかんでいなかったという
 点で鎌倉源氏はすでに平家に敗北していると言える。平家が源氏に勝利したという所以である。

 
そして、平家には平忠度(ただのり)をはじめ、平経正、平敦盛、平有盛らは文学や音楽を愛する文化人として
 の才覚を発揮した者もいたという点が源氏と大きくちがう。海運力、兵の組織力、兵力、経済活動、音楽、文
 学の分野で文化人としての才覚など総合力で判定すると平家が源氏を卓越していたのは事実である。源氏
  側の大将や家臣が文才を有していたというのは聞いたことがない。別件だが源氏物語は紫式部が書いた全
  編54帖の長編恋愛小説で源氏の将兵とは無関係である。

 にもかかわらず、宗盛率いる平家の戦闘組が義経軍に敗北したのは、義経の戦術が優位だったことと、背
 後で駆け引きが行われていたことが考えられる。兵力の優劣だけでは勝敗は決まらない。義経に平時忠が
 手を貸したことが勝敗の大きな要因である。

  
そして、後白河院の妃は時忠の妹であり、院と時忠は義兄弟の間柄であることから連絡がとりやすかった
 ことも要因として加えることができる。

 何度も繰り返すが、平清盛が死亡後、平家の指導者の多くは侍(さむらい)としての器ではなくなり、文化
 人として才覚を発揮する者が多かった。平家の戦闘組はもはや必要でないと時忠は判断したのであろう。

  
鎌倉源氏軍と宗盛率いる平家の戦闘組=無用の長物という点で共通。
 彼が残した名言「奢る(おごる)平家は久しからずや」=「おごる者は長くは続かない。すぐに滅びる。」は印
 象深い。 

   壇ノ浦の合戦後、平時忠は罪を一頭減じられ、能登の国に流され、そこで余生を過ごしたという。建礼門院
 (平徳子)は京の北部、大原の里で尼になり、平家の弔いをしたという。義経は頼朝に追われ、奥州の平泉で
 討ち死にしたと言われているが、詳しいことは不明である。彼の育ての親である藤原秀衡(ひでひら)はすで
 に他界していた。
  
   義経が何よりも心のぬくもりを求めていたということを実兄の頼朝は理解できていなかった。頼朝には心の
 暖かさがなく、義経を自分が出世する ための単なる道具と見ており、親身になって考えていなかったのを
 義経は見抜いていた。頼朝の命令にいちいち従っていては失敗することは明らかだった。
 合戦の唯一の目的は神器を奪還することであった。粗雑な戦術では奪還に失敗する。リーダーとしての柔軟
 な対応能力、及び指揮の系統性、情報収集能力、きめ細かさ、繊細さ
が要求されていた。

 宗盛率いる平家軍の弱点を一番よく知っているのは、頼朝ではなく、平家側の参謀役の時忠である。 

  上述したように鎌倉源氏軍は数が少ないだけでなく、質が劣り、がらくたばかりであった。平家軍の方が数も
 質も勝っているということを知ったので敵兵を方向転換させて味方につけるという戦法をとったのである。 

 兵力=平家軍>鎌倉源氏軍     義経を大将とする平家軍>宗盛、教経、知盛の平家軍  

 
頼朝の家臣に梶原景時(かげとき)がいた。この男は義経と相性が合わず常に対立していた。頼朝にあるこ
 とないことを吹聴し、義経が源氏ではなく、平家の縁者であり、源氏の敵であると中傷したことが頼朝の怒り
 を倍増させ、義経の鎌倉入りを禁止した。優れた大将には優れた部下が集まるが、愚かな大将には愚かな
 部下、最悪の部下がつくということを証明している。
  
 むしろ、後白河院と平時忠の方が親身になって彼の話を聞き、人物評価をしたという点で心のぬくもりを感じ
 たに違いない。頼朝がとった行動は明らかに早計でまちがっており、一人の人間として実に許 しがたい。鎌
 倉幕府が滅亡した後、朝廷の権力が弱まり、戦乱の世(=まとまりのない群雄割拠の戦国時代)に突入した。

 現代においても頼朝や梶原景時に類似した人物を多く見かけるのは誠に遺憾である。
 
源義経の武士道は現代においても十分通用するのではないだろうか。 
 

 
<兵庫県内で平清盛と平家一門にゆかりのある地名>

 
(1)神戸市兵庫区大輪田泊(平家軍の本陣) (2)神戸市須磨区一ノ谷 (3)加東市清水寺(平清盛が訪れてい
 る) (4)神戸市中央区布引滝(平清盛が訪れる) (5)神戸市兵庫区和田岬(大輪田泊)旧神戸港=兵庫津
 (6)たつの市室津 

 <兵庫県内で源義経一行が通過した地名>

 
(1)丹波篠山(ささやま)市 (2)でかんしょ街道 (3)播磨国三草山 (4)摂津国(神戸市)一ノ谷町(義経道)

                                                           2014/2/10 更新

  
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