鹿児島県奄美大島の歴史と文化

 

                             〜8世紀        9〜11世紀    12〜13世紀  14〜16世紀  17〜19世紀    20世紀〜現在






 先史時代

九州と交 流があり、縄文土器が出土している

 大和朝廷
 直轄地
 (奄美世=
  アマンユ)
奈良の朝廷に献上した大島紬が正倉院に保存されている。

豪族が
支配
(奄美按司世=アジユ)

 

平家武将
(資盛、
有盛、行盛)
統治

琉球王朝統治
(那覇世=ナハユ)
沖縄按司
支配

 

薩摩藩支配
(大和世=ヤマトユ)
西郷隆盛来島



 

鹿児島県の行政下となる
1946年〜1952年米軍政府下
1953年本土
復帰

 

                                           温故知新(古きを温ねて新しきを知る)    

  <はじめに>

 
  奄美群島は、鹿児島県の南に位置し、奄美大島本島(加計呂麻島、与路島、請島を含む)、喜界島、徳之島、
  沖永良部島、与論島の5つの島々から成っている。12市町村(@奄美市=旧名瀬市、笠利町、住用村が合
  併、A瀬戸内町、B龍郷町、C大和村(やまとそん)、D宇検村、E喜界町、F徳之島町、G天城町、H伊
  仙町、I和泊町、J知名町、K与論町)があり、総人口は約13万人。半世紀前と比べ、人口が減少化の傾
  向にある。島を離れ、東京や関西に住む若い人たちが増えているのが要因の一つである。面積は大島本島
  が71982㎢で1番大きい。日本では佐渡島に次ぐ7番目に大きい島である。徳之島が24991㎢、沖永良部島
  が9366㎢、加計呂麻島が7715㎢、喜界島が5687㎢、与論島が2049㎢。

  地質は、奄美本島と徳之島は古い地層に属し、太古の時代には、九州〜沖縄〜台湾と陸続きだったこと
  が考えられる。一方、喜界島、沖永良部島、与論島は、隆起珊瑚礁の島々で地層は比較的新しい。
  出土した縄文土器から、先史時代には九州と交流があったのではないかと推察できる。

     奄美群島の中の喜界島には、城久(ぐすく)遺跡群があり、多くの土器や陶器が発見された。8〜12世紀頃
   までに大きな集落が存在していたと推測される。出土品の中には東海地方や北九州(太宰府)のものと酷似
   したものもあるという。最近では、沖永良部島の知名町でも類似した土器が発見された。
   日本本土のみならず、中国や朝鮮半島の陶器(青磁や白磁)も見つかっていることから、先史〜大和〜奈良
   〜平安時代に日本本土と大陸と文化的なつながりがあったのではないかと推測できる。

  気候は亜熱帯海洋性気候で、夏の平均気温は、32、33度ぐらいで湿度は低い。大島本島と徳之島の山間部
  は湿度が高くなることもある。摂氏35度以上になることはほとんどない。日なたでは直射日光が強いので農家
  の人々は日中は家の中で過ごし、朝方と夕方に仕事をする人が多い。日中は、日焼けを防ぐために帽子をか
  ぶり、長袖、長ズボンを身につける。木陰にいると、27〜29度の気温になり、海から吹いてくるそよ風で心地よ
  く感じる。
  冬の平均気温は13〜18度ぐらいで10度以下になることはまれである。しかし、一番寒い1月〜2月の朝方と
  夜間に8〜10度に下がり、みぞれがたまに降ることもある。鹿児島本土と約8度の気温差がある。
  鹿児島本土が摂氏10度の時は奄美は大体18度である。鹿児島が摂氏2度の時は奄美は10度ぐらいである。
  沖縄よりも約3度気温が低い。 沖縄の知人の一人が「ここ(奄美)は寒いですね。セーター1枚では風邪をひ
  きそう。」と話すのを聞いたことがある。          

  <奄美大島と沖縄の文化の相違点と共通点> 

  〜鹿児島と沖縄の中間に位置し、歴史の荒波にもまれた奄美の島々〜
   

  もどかしいことに、奄美と聞くと琉球(沖縄)と同一視されがちだが、沖縄県とは言葉、文化が本質的に異
  なる。決して奄美イコール沖縄ではない。

  全体として見た場合、大和と琉球文化の出会いの場所が奄美であるが、後者に完全に同化されたわけで
  はなく、各島々の環境に適合するように長い歴史の過程の中で独特の文化や慣習が形成されたことが、
  集落(=方言で村のことをシマという)の祭礼や年中行事、音楽や舞踊を見てもわかる。
 
  私は奄美5島のうち4島で2年以上生活体験(直接経験)をした者である。第3者から又聞きした間接体験
  を書こうとしているのではない。奄美と沖縄方言でいくつか共通のものもあるが、生活習慣、建築様式など
  はちがう。くれぐれも誤解のないようお願いしたい。沖縄や薩摩が支配者が作った文化であるのに対して奄
  美の文化はどちらかといえば庶民的であると思う。奄美本島と徳之島、喜界島はある村で発見された古文
  書によると大和、奈良時代には、大和朝廷の直轄地であった。12世紀末には、壇ノ浦で敗れた平家の武者
  の生き残りが、喜界島、大島、徳之島、沖永良部島にたどり着き、平氏文化を伝えた。ノロ(神女)による祭
  礼や年中行事のほとんどが平家の武者たちから伝承されたものであると言われている。14世紀に琉球王
  朝(北山)の管轄に入ってから琉球との文化交流が行われるようになった。沖永良部島、徳之島、加計呂
  麻島の諸鈍に那覇からの使節が派遣され、大和と琉球の両方の文化が出会うが独自性は失われていな
  い。すなわち、シマ文化のベース(土台)には大和と平氏の文化があり、その上に琉球文化がかぶさった
  形で多様性をもつようになるが後者に同化された訳ではない
大島本島北部は南3島ほど琉球の影響をほ
  とんど受けていない。  


  事実を知らない人が何と多いことか。奄美出身の人の多くが、出身地を大ざっぱに「鹿児島県」と言い、「奄
    美」と言いたがらないのは、周囲に歴史的な事実をご存知ない方が多く、誤った偏見の目で見られるのが嫌
    であると聞く。なぜなら、琉球文化のルーツは、奄美群島にあるという説が浮かび上がってきているからであ
  る。時としてまちがった歴史認識によって偏見が助長されることがある。多様な時代背景があるが故に奄美
  (鹿児島県)イコール沖縄と短絡的には結びつけにくい。
     「奄美には神社があるのか」「向こうにも正月があるのか」という一人の知人の質問にはすっかり閉口した。

    10人中9人が、奄美イコール沖縄と錯誤している事実は大きな問題である。次はとんちんかんなワンパターン
   の質問である。
  知人「どこのご出身ですか。」
  私「九州です。」
  知人「九州のどこですか。」
  私「鹿児島です。」
  知人「鹿児島のどのあたりですか。」
  私「鹿児島の離島の奄美です。」
  知人「そうですか。沖縄ですか。すいぶん暖かいところですね。あちらの方は、泡盛(あわもり)がお好きな
     方が多いそうですね。」
  私たちは黒糖酒の「里の曙」は飲むが、泡盛は飲まない。子供の頃に学習したことがずいぶん杜撰(ずさん)
  で誤りが多いことがうかがえる。源頼朝の肖像画は、実は平重盛ではないかという説が浮かび上がってき
  ているというから杜撰さ(ええ加減さ)にはすっかり閉口する。


  奄美と沖縄を同一視するのは、ちょうどきつね(右)とたぬき(左)が同じに見える(=ピンボケ)というメタファ
  ーに似ている。奄美の文化のルーツは琉球というのは誤りで、史実はその逆。琉球文化(枝葉)のルーツ
  (根っこ)が奄美であるというのが正しい、

  

    奄美と沖縄の関係は大阪と兵庫県の姫路の関係と似ている。同じ大阪でも北摂地方の摂津弁と大阪南部
    の河内弁の違いがある。姫路市近辺の播州地方では播州弁が使われていて大阪弁とは異なる。関西弁
    と一口に言っても多様性がある。京都弁、摂津弁、河内弁、播州弁、篠山弁などがあり、おおむね似ている
  が同じではない。   

   伝説として語り継がれているものすべてが虚構とは限らず、先代が後世の人々に伝統文化として残すため
   に文書に書き記したり、歌や踊りをシマ(村)の祭りや行事に取り入れた努力を忘れてはいけない。

  地理的に沖縄県に近いのに、鹿児島県の行政下にあるのは歴史的な背景と関係している。江戸時代に薩
    摩藩の税の収入源の多くが奄美で産出された黒糖であったことや、幕末に西郷隆盛が奄美群島に来島し、
  島民の文化や生活に大きく影響を与えたこと、平家落人伝説が現存していることなどが理由として考えられ
  る。
 
  方言は各島によって若干異なる。例えば、「ありがとう」は大島では「ありがっさまりようた」、徳之島では
  「おぼらだれん」、沖永良部では「めへでろ」、与論島では「とーとぅがなし(尊い)」と言う。 
  興味深いことに、「早朝」のことを「しとぅみてぃ=つとめて」、子供のことを「童=わらび=わらべ」と言い、
  大和時代の万葉言葉や平安時代の都言葉が形を変えて残っているものもいくつかある。「美しい」は「き
  ょらさん、またはちゅらさん=清らか」、お盆=「しょうろう=精霊」、悲しい=「あわれ」と言う。古代日本の
  ことばや風習が奄美諸島や南西諸島には現存しているものが多い。
   生活習慣と文化については、本土の大和(やまと)文化が土台にあり、それに島独特の風習や伝統行事
  が加わった融合文化と言える。
     8世紀頃までは大和朝廷の直轄地で、献上した大島紬が正倉院に保存されている。その当時は琉球や
  薩摩とは無縁であった。(琉球という名称は13世紀頃まで存在しない)奄美諸島や南西諸島は日本と唐
  をつなぐ「海の道」になっていて、多くの船舶が奄美本島の大熊港に寄港していた。唐(中国)との交易の
  中継地点としての役割を担っていた。
  
  
奄美人(しまんちゅう)と沖縄人(うちなんちゅう)は、文化形態は異なるが、同じ日本人である。日本古来
  の伝統や文化が形を変えて現存しており、むしろ本土の人間よりも日本的であり、本当の日本人と言うこ
  とができる。私たち(=奄美人)は沖縄県人とは文化的特色は違うが、沖縄人(=うちなんちゅう)も同胞
  (=大和民族=倭人)と考えている。内那覇(うちなは)という日本語は、同胞で日本(=倭国)という意味
  である。内那覇=うちなは=ないち=内地=日本。おわかりかな? 
  方言で「わたしは」を「わんが」または「わーが」と言うが、「わ」は「倭」「和」すなわち日本を意味する。
  奄美が沖縄(琉球)の統治を受けたのは、それほど長い期間ではなく、室町時代〜江戸初期ごろまでで
  ある。

 
 
<源氏為朝が沖縄に流謫>

    沖縄という地名は、薩摩側から見て「沖合の漁場」という意味の日本語で、琉球(りゅうきゅう)という呼称
  は、本来の日本語ではなく中国語である。沖縄は紀元1300年〜1800年までの約500年間、琉球国として
  栄えたが、日本本土から完全に独立した国家ではなく、江戸幕府との交流は続いていて、日本国の一部
  であったというのが正しい。ちょうど「山城国」「尾張藩」「水戸藩」「紀州藩」という大名が支配した地方の
  国々とほぼ同じような体制をとっていた。藩主という名称が(琉球)王に変わっただけのことである。
  王の下に各地方の豪族たち(按司)がいて町や村を治めていた。
    初代の国王であった舜天(第一尚王)は、定かではないが源為朝の一子だったという説が残っている。(12
   世紀末)保元の乱で平家に破れた為朝は伊豆大島に島流しにされた後、更に船で南西諸島に向かい、奄
    美大島(瀬戸内)と沖永良部島畦布村(現在の和泊町畦布)に寄った後、沖縄に一時住まいしたのではない
    か、という伝承が残っている。「琉球」という地名は、彼が伊豆大島から沖縄中部の今帰仁(なきじん)にたど
   り着いた時に    「流れを求めてきた島」すなわち
「流求」と名付けたという説が有力である。
    第一尚王(舜天)は清和源氏(河内源氏)の家系である。

 
<奄美の按司(9〜11世紀)と沖縄の按司(14〜16世紀)の違い>

  
12世紀末に奄美大島にやって来て島を治めた平家の武将たちが驚いたことは、島には武力をもった権力者
  たちがおらず、容易に島全体を制圧できたということである。当時は、按司(豪族)といっても、各集落の村長
  (むらおさ)がいたが、村民を力で従わせるほどの権力はもっておらず、村のまつりごとの調整役(世話役)を
  務めていたようである。
     しかし、奄美の按司たちも14世紀に沖縄の北山と中山の勢力下に入ってから次第に権力をつけてきており、
  与論島と沖永良部島は北山に、徳之島と奄美大島の南部(瀬戸内村)は中山に進貢するようになった。

  沖縄の按司(豪族)たちは、部下を養い、武力を組織し、次々と他の集落を侵略し、支配下においた。
  各集落の按司の中から最も権力をもった按司が大按司となり、世の主(国王)として登場した。初代の琉球
  国王が舜天(しゅんてん)である。14世紀の沖縄は、北山、中山、南山と呼ばれる3つの小国家に分かれ、
  3人の按司が勢力争いをしていた内乱の時代があった。ちょうどこの時期に明国に3人は進貢して貿易を
  始めた。鹿児島県の沖永良部島に北山から按司(世の主)がやってきたのも同時期である。

  中山の按司をしてた尚巴志(しょうはし)が三山の統一を企てた。北山と南山を攻め滅ぼし、1429年に沖縄
  全島を手中に収め、大世の主(国王)となった。那覇の首里城が彼の居城となったのはこの頃からである。
  彼は日本本土、朝鮮国、明、東南アジアとの交易を始め、経済が飛躍的に発展していった。奄美群島全域
  にも勢力を広げていった。

  沖縄の按司=領主→→権力者→世の主→国王   
  14世紀の三山時代に奄美諸島の中で琉球の北山の直接支配下にあったのは与論島と沖永良部島で、沖
  永良部島の和泊町内城集落には北山の按司(世の主)の墓が保存されている。権力者の墓は巨大で立派
  なものだが、当時の一般住民は洞窟の中(トウール墓)に集団埋葬されていたということを聞くと悲しくなる。
  徳之島と奄美大島本島が琉球王朝の勢力の傘下に入ったのは、16世紀末の5代目琉球王尚元王のときで
  あるが、長くは続かなかった。江戸幕府成立後、今度は薩摩(藩主=島津忠恒公)が琉球討伐の際、奄美
  諸島を次々と攻略していった。 
  
江戸時代に入って奄美群島の領土を薩摩が琉球から奪い、砂糖島としての利権を得ることになる。それ以
   来、島民は明治まで過酷な労働を強いられることになった。

   
 
<本土勢力の南下=大和朝廷、平家、源氏>
 
<奄美の人々の生活に大きく影響を与えた平家の武将と家臣たち(12世紀末)>

    為朝が沖縄に来島し、息子の舜天(尚王)が国王になって数十年後に、偶然にも敵である平家の武将と家来
  総勢約300名(平資盛が総大将、弟の有盛、従兄弟の行盛)が北九州の壇ノ浦を脱出し、九州東海岸沿い
  に南下。まず鹿児島県の屋久島北方の硫黄島に上陸した。そして、鎌倉幕府の追求から逃れるために更に
  南に向かい、奄美群島の喜界島に上陸し、七門(ななじょう)に城を構えた。
  その後、西方に浮かぶ奄美大島本島も攻略したのである。有盛は北東側(浦上)から、行盛は南部(戸口)
  から、資盛は南西部(瀬戸内の加計呂麻島の諸鈍)から攻め入り、島全体を手中に収めた。
  彼らは島を攻略後、城を築き、遠見番所を設け、幕府源氏の見張りを怠らなかった。(今井岬と蒲生岬)
  当時の源氏による平家の落武者狩りは凄かったことが想像できる。(=三種の神器の一つである宝剣の奪
  還が目的)
  資盛は硫黄島に残してきた安徳天皇に毎年米穀の奉納をすることを忘れなかったという。安徳天皇陵は山
  口県の赤間神宮近くや他府県の数カ所にもあると言われているが、私は硫黄島説を支持したい。

    鹿児島県の硫黄島の旧名は鬼界島(きかいじま)である。奄美群島の一つである喜界島(きかいじま)とは一
  字違いで、二つの島は約300km離れた位置にある。安徳帝と平資盛らは硫黄島から奄美の喜界島に来島し、
  安徳帝は喜界島(奄美)で崩御したという説もあるが定かではない。資盛が硫黄島の安徳帝に米殻を奉納
  するには距離的に遠すぎる。

  喜界島と加計呂麻島では、6年前の2005年に平家伝来(平資盛=たいらすけもり)800年祭が行われた。
  資盛が余生を過ごしたと言われている加計呂麻島の諸鈍(しょどん)では、「諸鈍しばや」という伝統行事が
  行われている。
 
   
奄美に伝わる島唄の中には平家因縁の事柄が歌いこまれているものが多い。
  平資盛を祀ってある加計呂麻島の諸鈍の伝統舞踊である「諸鈍しばや」の一節
  「ここはどこかと船頭衆に問えば、須磨の泊り敦盛様よ」
     名瀬市の浦上に伝わる島唄
  「浦上なべかなや上殿内(うんとぅぬち)ぐらし平家ぬ手びきまうさてぃば」
  なべかな=平有盛の妻で高貴なお屋敷暮らしをしているので平家の教えの手びきになってくれる、という意味。

   
有盛と行盛は、家臣たちが今井岬と蒲生岬で見張りをおろそかにしたため、島に敵軍が攻め入ったのではない
  かというデマが飛び交い、自ら責任を感じ、自決したという。一方、資盛は、瀬戸内加計呂麻島の諸鈍で余生を
  送り、子孫(くわーまが)も栄えたという。操家はその末裔にあたる。有盛の子孫である平孫八(後蘭孫八)は、
  沖永良部島に渡り、世の主(島の王)に仕えた。彼は築城技術に優れ、世の主のために大規模な城を築き、
  献上したという。彼の子孫は、江戸〜明治時代まで大家役百戸長などの重職につき、島の支配階級としての
  役割を果たしたという。

  平家の武将たちによる奄美群島の統治は短期間に終わったが、彼らの残した伝統文化、農耕法、人生観など
  は、子孫たちに引き継がれた。もし、平家一門による統治が長期にわたっていたら、琉球や薩摩に支配される
  ことがなく、歴史は変わっていたかも知れない。

    島を統治した平家の武将たちは、源氏軍が北側から攻めて来るのではないかと危惧していたのだが、まさか南
  隣の琉球王が清和源氏の血を引く源氏系であるとは思いつかなかったのである。歴史の偶然性にはただただ
   驚くばかりである。

    しかし、倭人により樹立された琉球国は、文化、経済、貿易を発展させた平和国家であり、奄美から琉球に渡
  った平氏(平家)系の島人たちの中には琉球按司の家来として仕えたり、文化交流のコーディネーターとしての
  役割を果たす者もいた。平家が平和国家に軌道修正した可能性が高い。   

    

  物事にはがちがちに生真面目に一つの角度から見るとなかなか気がつかないことがある。時には180度発
  想転換をしていろいろな角度から多面的にとらえると結構おもしろいものである。
  鹿児島県の最南端の与論島の町長が、今から約20年前に、観光案内のキャッチフレーズとして「ようこそ与
  論島へ!!」ではなく、「ようこそパナウル王国へ!!」と掲げて、島を訪れる旅行客の心を引きつけたことが
  ある。パナウル王国=与論島のニックネームであって決して外国ではない。当時の町長はユニークな発想の
  持ち主で大変ユーモラスな人物だったことがうかがえる。
     英語で県知事をgovernor、町長をmayorという。王はkingである。与論島の町長=パナウル王国の王様
  =king(キング) または emperor(エンペラー)ということになる。パナ=花 ウル=珊瑚の意味。

  「琉球王国」という名称も生真面目に真剣に考えると外国の王朝のように大げさに聞こえるが、実際はそう
  ではなく、与論島の「パナウル王国」と同じようなニックネームと考えた方がよいだろう。
  そもそも「琉球」という漢字の呼称は、中国の明の時代に沖縄を台湾と同様、中国の属国として位置づけた
  がっていた明が命名したものである。江戸時代に沖縄藩という名称は存在しなかったわけだが、当時の藩
  主(=県知事) は琉球王国の王(=king) としての権限をもっていた。名目は「琉球王朝」で実質は「沖縄藩」
  でもともと日本の領土。沖縄は独自の文化を形成し、日本本土との交易の中継地としての役割を担っていた。 

  しかし、沖縄の人たちにとっては、沖縄は昔も今も「沖縄=ウチナー=うちなは=日本」であって、「琉球=
  明(中国)の属国」ではない。
  「琉球民族」なる民族は実在しない。誰かが観念的に作り上げた造語であろう。何の根拠もなく実在しない名
  称を未だに使っている方がいるとしたら実に恥ずかしいことである。  

  
島の人々は、めったに大和民族という表現をせず、本土の人(大和ちゅう)と区別して、自分たちは島んちゅ
  う(島人)という言い方をする。日本古来の文化と島独自の文化が共存し、それを大切にしたいという考え方
  (identity=アイデンティティー)がベースにある。自分たちこそ本当の日本人であるということを誇りにしてい
  ると言えよう。しかし、戦後生まれの若い方たちは大和ちゅう(本土人)と島んちゅうとの意識のギャップがな
  くなり、違和感を持つ人は少なくなっている。

      
  明国(=中国)の属国になるのは今ふうに考えるなら嫌なことだが、当時の沖縄の政府役人たちは、日本
    本土よりも中国との交易を望んだのは、徳川幕府の政治の閉鎖性や固定した身分制度を周知していて、
    外国と国際交流をするにはほど遠く、当時の日本との関係においては、相互利益=mutual  advantage が
    ないと考えていたのだろう。当時の中国から伝わったものに、さとうきびの生産技術、胡弓 (こきゅう)という
    楽器=蛇皮線や三味線の元楽器や空手道や首里城などの建築様式がある。
   従って、日本国内で最初に国際交流を行い外国への玄関口となった都道府県は沖縄県であり、次いで長
  崎県が続く。 

   
九州南方のトカラ列島から奄美諸島に逃れてきた平家の武者たちは、更に南下して沖縄地方にも移りすん
  だと言われる。
  琉球王家が源氏系であるため、圧力をかけられるのを恐れ、姓名を変え、沖縄の離島(宮古島、石垣島な
  ど)に向かった人々や、各集落の按司の家来として仕えた人たちもいたという。
 

     話が脇道にそれてしまって申し訳ない。本題に戻すとしよう。
  奄美群島が江戸時代に琉球から切り離され、薩摩の領土になってからは、税の取り立てが一層厳しくなり、
  島民の生活は以前よりも苦しくなっていった。島民の中には、琉球王朝の時代の方が生活がましだったと
  言う人たちもいる。「奄美」の語源は、奄美の神話に出てくる女神の阿摩弥姑(あまみこ)に由来する。奄美
  の島々を造ったのは、阿摩弥姑(あまみこ)と男神の志仁礼久(しにれく)の二神だといわれている。

  <奄美群島の祭礼と行事>
  
    
更に時代を前の時代に遡ってみることにしよう。      
     死者儀礼や先祖供養を神女(ユタ)が行う習慣と豊年、豊作祈願の祭りごとをノロ(神人)が行う習慣は12世紀
  に来島した平家の落武者たちによってもたらされたものである。平資盛の弟有盛の子女たちが最初に神女(ユ
  タとノロ)になったと語り伝えられている。
  源平合戦=一ノ谷(兵庫)、屋島(四国)、壇ノ浦(北九州)で源氏に敗れた平家に仕えていた家臣たちの生き
  残りは、西日本各地の秘境と呼ばれていた山間部や離島などに移り住んだ。西日本で平家の落武者の末裔
  が住んでいる地方は、四国の徳島県祖谷(いや)村、山口県、兵庫県の西播磨地方、熊本県、鹿児島県出水
  市、鹿児島県のトカラ列島(鹿児島県鹿児島郡三島村、十島村)、鹿児島県垂水市、坊津(ぼ  うのつ)、奄
    美群島の喜界島、奄美大島本島徳之島沖永良部島である。実際に私の知人に平(たいら)、平山、平田、
    肥後という姓の人が何人かいる。平の姓が必ずしも平氏とは限らないが。
  主な宗教は、島特有の神道とユタとノロが行う自然信仰(=水神、火の神、山の神など)である。年長者を敬う
  のは儒教の影響である。ユタやノロが祀(まつ)りごとを行う習慣は沖縄県にもある。

  
  祝い事は数え年で行う。61歳の還暦、73歳の古希、88歳の米寿。85歳のときも行う。
  生まれ年は十二干支=ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い、で表す。
  法事では、身内の誰かが死亡してから7日目に「初七日=なぬか」、49日(四十九日=忌明祭=忌み晴れ)、
  1年後に一周忌、33年目の33年忌(ミンブチ)を行うのは大体本土と同じである。しかし、本来神道なら7日目
  に10日祭、49日目に50日祭を行うべきだが、本土の仏教の影響を受けていて、名称が「なぬか」「忌みはり」
  「四十九日」「一年忌」「33回忌=みんぶち」に変わった。
  神道であるにもかかわらず、神棚(=仏壇)を作り、その中に故人の遺影と位牌を置き、線香を立てる。本土の
  神道とは少し違う。
  現存する神社には、高千穂神社南州神社(西郷隆盛を祭ったもの)、今井神社、平有盛神社平行盛神社
  厳島神社、住吉神社、八幡神社などがある。平資盛を祀ってある大屯神社は奄美大島本島南部の瀬戸内(せ
  とうち)町の加計呂麻島の諸鈍にある。瀬戸内町は風光明媚な場所で、景色を見ながら資盛は四国の屋島や
  瀬戸内海の厳島に想いをはせていたに違いない。

  寝るときは頭を北の方角に向けて寝てはならない、とか墓参りをするときは仏滅の日は避けて、大安の日を
    選ぶという習慣は仏教の教えであり、神仏混合文化と言うことができる。
    江戸時代に薩摩藩の体制下に入ってから仏教的な考え方が伝わり、神棚に先祖(おやほう)の位牌を置き、
   霊を供養するようになった。島特有の神道とユタ・ノロによる自然崇拝信仰は島の人々の心の支えになってい
    る。

  
  <建物の方位>

  
家を建てるときは、玄関と庭は南(へー)か東(あがり)、トイレ、洗面所、風呂等で水を使用する場所は北側
  にし=島の方言で北の方角をにし、西を入りまたはいーと言う)、仏壇(神棚)は東、台所兼食堂は西側と決
  まっている。洗面所と風呂を東に、玄関が北側に面している家はない。これは昔からの風習(ならわし)で理
  屈ではなく絶対的なものである。方位が違うと災禍(厄)にあうと言われている。


  
<豊年祭りの行事>
 
  祈願祭(拝礼、酒、島料理を供える)→唄を歌う→踊る
  
  (1)大島本島龍郷町秋名  「ショチョガマと平瀬マンカイ」=稲作儀礼。太鼓にあわせて唄を歌い、豊作(稲作)
                    を祈願する。儀礼の後、海岸で8月踊りを踊る。 
  (2)大島本島瀬戸内町油井 「豊年踊り」=稲作儀礼。
  (3)大島本島宇検村芦検   「稲すり踊り(稲すり節)」=稲作儀礼。この踊りは奄美全島に広まった。 
  (4)大島本島大和村       「むちむれ(餅もらい)踊り」=稲作儀礼。旧暦の10月16日に行う。
  (5)大島本島笠利町     「節田マンカイ」=正月に唄や踊りで新年を祝う。
  (6)徳之島            「むちたぼれ(餅もらい)」=稲作儀礼の行事で、衣装を着て「餅たぼれ、餅たぼ
                    れ」と唄い踊りながら各家々を回る。
  (7)徳之島            「浜おり」=旧暦7月の盆の後の3日間。昼は浜で酒を酌み交わし、夜は踊り明か
                          す。昔、トウール墓(洞窟墓)の下で先祖の霊を供養したのが始まり。
  (8)徳之島            「夏目踊り」=8月17日に行う豊年祭。早朝8時頃から踊り始める。
  (9)沖永良部島         「上平川の大蛇祭り」=昔、美しい女性に化けた大蛇を寺に住む坊さんがお経で
                                  退治し、人々が喜んで総踊りをするという内容。島人の
                                  幸村という人物が薩摩からの帰りに、嵐に遭い、中国に
                                                                        漂着し、そこで覚えた大蛇踊りを島に伝えたもの。なお、
                                  この島には神社はあるが寺院はない。
  (10)与論島           「シニグ祭り」=稲作儀礼。

   ※豊年祭りは稲作にまつわる行事であるが、最近は南の3島は稲作から畑作に移行しつつある。

  
<法事=神事の儀礼>

  
各島によって若干、式次第が異なるが、沖永良部島で
行われている49日、1年忌、13年忌の儀礼の内容
   についてご紹介しよう。神事儀礼の案内状を配布された親族や知人が喪服姿で故人宅に集まる。人数が
     多いときは村の集会所で行う。進行役は島の宮司であるが、宮司に神事儀礼の依頼をするときは予約制
     になっており、アポイントがとれないときは、故人の身内か知人が宮司から神拜詞を教わって進行役を務め
  る場合がある。。     
  (1)祭壇に拝礼 (拝礼のしかたは、2拍+2礼+1拍1礼=5回) 
  (2)喪主挨拶
  (3)故人のプロフィール紹介
  (4)祭壇に拝礼(酒の準備)
  (5)献杯
  (6)祭壇に拝礼(吸物の準備)
  (7)思い出話(酒を酌み交わしながら故人の思い出話をする)
  (8)親族の紹介
  (9)祭壇に拝礼(アシジヌ=郷土料理の準備)
  (10)閉会のことば(親族代表)
   

     
   
<葬祭と神事の場所>

  
奄美群島では(特に徳之島、沖永良部島、与論島)、故人の会葬、四十九日、一周忌、お盆等の神事の日に
  墓を清掃した後、菊の花と酒と精進(郷土)料理を供える。墓の前でしゅうき(郷土料理)を食べ、酒を酌み交わ
  しながら、故人の思い出話(むんがたい)をする。そして、仏壇(祭壇)がある自宅でも親戚が集まり、同様のこ
  とをする。 
  このような慣習の背景には、集落が一つの村落共同体であるという考え方がある。明治以降に共同墓はなく
  なり、各家々の墓が立つようになったが、神事の儀礼は、現在も故人の墓と自宅の両方で行われている村
  が多い。しかし、参加者の日程の都合も配慮し、最近は、儀式の内容が簡素化される傾向にある。

  血縁の濃い身内同士の家(例えば中村家、森家、田端家、野村家というように)がばらばらに点在するのでは
  なく、一軒一軒が隣接して立ち並んでいるシマ(村落)も見受けられる。(=家制度と村落共同体の共存)
  全体(シマ=共同体)の中に家を単位とする秩序が存在するという考え方である。個人が台頭し、秩序が乱れ
  ると村落共同体の崩壊という事態に直面する。

   

  
<墓の歴史>  
  
  
墓を見れば地域の文化と歴史がわかると言われている。昔は南西諸島一帯は洞窟を利用した共同墓が多か
  ったが、明治以降は、森家、山田家、中村家というように各家々の墓が立つようになった。海の近くに墓地が
  多く見られるのは大きな特色である。古代から中世にかけて、島の人たちが海が見える海岸の洞窟を墓とし
  て利用していたという歴史と関係が深い。洞窟の墓=風葬墓のことを人々はトウール墓と呼んでいた。奄美
  本島ではトフル墓と呼ばれていて、丘の斜面に横穴を掘り、内部に集団埋葬していた。各家々の墓ができた
  のは、薩摩藩政時代〜明治になってからで、それ以前は、人々は洞窟を墓として使用していた。トウール=
  とおる=通る=通じるという意味の方言でトウール墓=天に通じる場所という意味。

  奄美地方では現在の葬式は宮司(神主)が行っている。7日や49日の法事も宮司が行う。家の厄払いをした
  り、死者の霊魂を呼び寄せて、その思いを家人に伝えるのはユタ(巫女)の仕事である。奄美群島の墓の歴
  史を調べてみると、昔は死者を会葬後、いったん土葬し、数年が経ってから遺骨を掘り起こし、洗骨してから
  海岸の洞窟に瓶(かめ)を置き、その中に身内の骨を入れるという習慣だった。亡骸は自然に帰すという考え
  方に基づいている。(=風葬祭)
  しかし、洞窟(=風葬墓=トウール墓)の近くを通る時に異臭のことを口にするのは、死者(=仏)に対して大変
    失礼だということで、臭い消しのために、神道の祭壇にも線香を使用するようになった。
  現在は、市町村の条例で、土葬を禁止し、火葬を行って、会葬後、各家々の墓に納骨しているところがほとん
  である。  


    
沖縄県の地域社会はしっかりしていて、共同墓(=門中墓)にも象徴されているように、家族や地域の人々を
  大切にするという考え方がベースにあり、地域の住民の連帯意識が強い。
  家屋と城の造りも違う。沖縄のシーサー(守り神)は奄美の家々には見られない。城(ぐすく)の造りも沖縄
  のものはほとんどが石垣でできているのに対して、奄美の城は、平家の武将たちが構築したもので堀、土塁、
  石垣などの本土式手法を用いたと言われている。(戸口城跡) 現在は城跡はない。沖永良部島以南の城は、
  平孫八ら平家が築いたもので琉球式のものが多い。     

    
本土の城と奄美大島本島龍郷町の戸口城は類似しており、いずれも軍事拠点の役割を果たしていた。しかし、
  沖永良部島以南の城=グスク(沖縄諸島を含む)はちがっていた。城は血なまぐさい戦争には使われず、ノ
  ロ(神女)が集って、祀り(まつり)ごと=平和目的の政治と祭りが行われ、人々が歌い踊る場所であった。

    
<平孫八なる人物>

  
沖永良部島の世の主の城(=現在の世の主神社)は後蘭孫八(ぐらるまぐはち)が築いた大規模な城であっ
     た。世の主は沖縄から派遣された按司で孫八は彼の家来として仕えていた。孫八が築いた城は世の主に献上
    
したと言われている。後蘭孫八(ぐらるまぐはち)=旧名平(たいら)孫八は平家直系(平有盛)の8代目の末裔
     である。(平清盛から数えて10代目) ノロとユタ(巫女、神女)による祀(まつ)りごとをこの島に大島本島からも
     たらした。孫八という名は、有盛の八代目の子孫という意味である。
  
   
孫八がわざわざ平(たいら)の姓を後蘭(ぐらる)に変えなければならなかったのは、沖縄(琉球王家)が源氏系
   であったため、沖縄に渡航の際、圧力をかけられるのを恐れたからであろう。
  
  
和泊町内城集落にある世の主の墓には世の主と彼の妻、子、家来が葬られている。内城集落から西へ約1km
  
進むと後蘭孫八にちなんだ後蘭(ぐらる=ごらん)集落がある。
  奄美群島の沖永良部島と与論島には、城が丘、内城(うちじろ)、玉城(たまじろ)、大城(おおじろ)といった城
  にちなんだ地名がいくつかある。 孫八自らも、後蘭に居城を構え、暮らしたという。後蘭は、四方八方が丘陵に
  囲まれた盆地で、堅固な城を築くには最適な地形になっている。

   
和泊(わどまり)町という地名は、
大輪田の泊(おおわだのとまり)=12世紀末に平家軍の本陣があった地で現在
   の神戸市兵庫区和田宮付近=にちなんで いる。
   和泊町には、和泊町和泊(市街地)と和泊町和(わ)集落のように、「和」のつく地名がある。「和」には和む、仲
  が良い、睦(むつ)まじい、倭(わ)という意味がある。 

  
沖永良部島で最初に稲作を始めた集落は後蘭であることから、後蘭(平)孫八が平家直系の末裔であることは
  100%まちがいない。さとうきび栽培と球根栽培が農業の主体であるこの島で数年前まで後蘭集落には水田が
  見られ、農家の人々は稲作を続けていた。現在は水田はほとんど見かけなくなり、草花の栽培をする農家が増
  えている。後蘭には平(たいら)の姓をもつ人々が多い。

  平家一門によって奄美群島に最初に稲作技術が伝わったのは喜界島で、この島で収穫される米は喜界米=
  きゃーぐむぃと呼ばれる良質米である。
  稲作技術の伝達経路=薩摩硫黄島→喜界島→奄美大島本島→沖永良部島、徳之島→与論島

  
沖永良部島の世の主(按司)は、沖永良部島で生まれ、幼年時に母親と共に沖縄北部北山に渡ったと言わ
  れている。成人した世の主は北山から沖永良部島の統治を任され、島に戻ってきたという。北山王の次男とい
  説もある。 

  

  
<音楽=島唄>
 
  
  音楽も奄美と沖縄は異なる。沖縄民謡が明るい階調であるのに対して、奄美の島歌はもの哀しい旋律のもの
  が多く奥行きが深い。江戸時代徳川薩摩藩支配下、お上への上納としての取り立てが厳しく、島民の生活が
  大変苦しかった当時の社会的な背景もうかがえる。
    
奄美の島唄と沖縄民謡は音階がちがう。
     奄美群島5島を大まかに二つの文化圏に分けることができる。奄美大島本島、徳之島、喜界島を奄美1文化
     圏、沖永良部島、与論島を奄美2文化圏。後者は琉球色が濃い。

  
代表的な島歌=「朝花」「くるだんど」「行きゅんにゃ加那」「かんつめ節「糸繰り」「ヨイスラ」「豊年節」「長雲」
  「長朝花」「嘉徳なべ加那」「むちゃ加那」「野茶坊」「奄美小唄」(奄美大島本島)
  琉球音階と違い、奄美独特の旋律を持っている。

     舞踊曲として最も有名なものは「六調」。(=本土の舞踊形態特に四国徳島のそれと似ている)

  「稲すり節」「サイサイ節」「永良部百合の花」「あんちゃめぐわ」「ちゅっきゃり節」「ウシウシ「福らしゃ」
  (沖永良部島)
 やや琉球音階に近い。
  
「島育ち」「島のブルース」「徳之島小唄」は民謡歌謡であって生粋の民謡ではない。

     奄美の島唄をお聴きになりたい方は、名瀬市(奄美市)のセントラル楽器(Tel. 0997-52-0530)にご連絡する
  とCDを購入することができる。郵送で着払い。通販では奄美市がある。
     三味線を弾きながら歌う島唄のスタイルは、琵琶法師が琵琶(びわ)を弾きながら歌うそれと似ていて、メロデ
  イーは哀愁をそそるものが多い。 労働の歌、豊作を祈願する歌、愛しい人を思う歌、祝い歌など多種である。
        

     蛇足だが、スコットランドとアイルランド民謡(ケルト=イギリスの先住人)の音階と似ていて親近感を覚える。
  イギリス=圧制者 アイルランド=被支配者 薩摩=圧制者 奄美=被支配者という点で共通している。イギ
  リスとアイルランドも同胞、薩摩と奄美も同胞同士であるにもかかわらず、圧政が行われていた。
  アメリカの大衆音楽であるカントリー&ウェスタンのルーツはスコッチ・アイリッシュ=Scotch Irishである。現在の
    ポップス調のカントリーではなく、トラッドやマウンテンミュージックに類似点を見出すことができる。

  「イーストバージニアブルース」(唄ピートシーガー) ピートシーガーがバンジョーを演奏しながら歌っているこの
    曲と島人が三味線を弾きながら歌っている島唄はそっくりである。(CBS 463487 2)
  青森県の津軽じょんがら節とも似ている。

  他に
  「淋しい草原に埋めないでおくれ=映画 駅馬車の主題歌=元歌はイギリス民謡」
  「Bury me under the weeping willow」(唄カーターファミリー)(LST 7230 LP)
  「バーバラ・アレン」(スコットランド民謡) (Soundtrack from "Songcatcher"Vangauard 79586-2 CD)
    「When love is new」(スコットランド〜アイルランド〜アメリカ民謡) (Soundtrack from "Songcatcher" CD)
   「Pretty Saro」 (スコットランド〜アイルランド〜アメリカ民謡) (Soundtrack from "Songcatcher" CD)
    「Sounds Loneliness」 (スコットランド民謡) (Soundtrack from "Songcatcher"Vangauard 79586-2 CD)
   「My little carpenter」 (フォークトラッド) (唄 Uncle Earl) (Rounder11661-0577-2)
    「Booth Shot Lincoln」 (フォークトラッド) (唄 Uncle Earl) (Rounder11661-0565-2)

  
<古代ユダヤと奄美、沖縄=神話の島の類似点>

  これらのメロデイーと奄美の島唄は驚くほど似ている。東洋の島唄と西洋のバラードの旋律が似ているのは単
  なる偶然だと思うが、何か目に見えない不思議な糸でつながっているようにも思う。

  奄美や南西諸島の方言には母音の「オ」の音が少ない。例えば、「いも→うむ」、「もの→むん」、「おなご→う
     なぐ」、「おとうと→うとぅ」
  ユダヤ人(Jewish)の話すヘブライ語にも母音のア、イ、ウ、エ( a, i, u, e)の4音はあるが、オの音は少ないとい
     う。
  何とヘブライ語で「鳥」のことをTaira(タイラ=平)という。定かではないが、平氏文化とユダヤ文化がゆかりが
     あるとしたら大変興味深い。確かに平家一族と天皇家の関わりは深い。神器は古代ユダヤにも存在していた
     のだ。堺市にある前方後円墳の形は、ユダヤの神器=マナの壺と酷似している。そして、天皇家の御紋であ
  る十六花弁菊花紋と同じものがエルサレムの城壁に刻まれているという事実には驚く。

  日本書記の中に日本国を造ったと記されている天照大神(女神)を祀ってある神社は伊勢神宮である。
  同様に奄美の島々を造った阿摩弥姑(あまみこ)と男神の志仁礼久(しにれく)の二神が君臨された地が笠利
  町の奄美獄(アマンデー)または大和村(やまとそん)にそびえる湯湾岳であると言われている。沖縄諸島を
  造ったと言われる神=アマミキヨと奄美の神=阿摩弥姑(あまみこ)は同一神である。

  天照大神=阿摩弥姑(あまみこ)=ヤーウェ(ユダヤの神)は同一神なのか?類似点は多い。
  奄美や沖縄に伝わる神話の内容は、本土の大和神話や出雲神話とほぼ同じで、神の名称だけが異なってい
     る。     


  古代のユダヤ民族の中に(現在のユダヤの民ではなく出エジプト記に記されている古代のイスラエルの民)、
  「失われたユダヤの10氏族」と呼ばれていた人々がいて、世界各地に分散していった。日本列島にも彼らの一
  部が渡ってきて朝廷(大和朝廷)と深く関わったということが推察できる。  

  イギリスの先住民であるケルト人は、イギリスのウェールズ、スコットランド、アイルランドとフランス北西部にも
  住んでいる。イギリスにキリスト教が伝わったのは5世紀にローマ人が入植してからで、それ以前は、ケルト人
  はケルト神を崇め、信仰していたそうである。イギリスの田舎へ行くと、ゲール語で書かれた神話も語り継がれ
  ている。8世紀にアングロサクソンがブリテン島に移住してからは、多くの人がプロテスタントに改宗し、現在の
  イギリス国教会の土台を築いた。キリスト教はユダヤ教から枝分かれした宗派で、母体はユダヤ教である。
  ケルト人の文化は、ヨーロッパ系のそれとちがい、音楽1つ取り上げてみても独特の広がりと奥行きを持ってい
  る。彼らの祖先が、失われた10氏族かどうかは不明で、何の根拠もないので、これ以上深くとり上げず、割愛
  したい。専門の研究者(歴史学者、民俗学者、文化人類学者)に任せることにしよう。上記のことは、単なる偶
    然として考えた方がよいのかも知れない。

  
<古くから伝わる言い伝え(伝承)>
  
    
      いくつか奄美に伝わる言い伝えを紹介しよう。
   <野茶坊>
     江戸時代〜明治時代に奄美本島ほぼ中央部の山中の洞窟に住んでいたと言われ、広い大島の山野(約20
     km
60km)を自在に歩き回り、夜間に里へ下りて来ていたずらをしたと言われている無法者の少年。神出鬼
     没で山野のどこにでも出没した。薩摩の藩政時代に砂糖島として縛られ、島民の生活が厳しい時代に、野茶
    坊は世間の掟に縛られることなく、きままに生きた。彼の存在は島民に一時の(いっときの)解放感を与えた。

    <ハブ>
    奄美大島本島、徳之島、沖縄本島に生息する毒蛇。なお、石灰質が多く含まれている隆起珊瑚礁の奄美の
  島々の中で喜界島、沖永良部島、与論島には生息しない。昔から奄美諸島は「聖なる島」と言われてきた。
  山間部の森には「山」の神、川や海には「水」の神が存在し、ユタやノロ(神女)たちの信仰の対象になってい
  る。ハブは森の守り神(=神様の使者)であると語り伝えられている。

  
<ケンムン>
      海や川や山間部など聖地とされたところに出没する妖怪。ハブにしろ、ケンムンにしろ、その言い伝えは、聖
   地とされているところにみだりに外部から侵入し、汚してはならないという戒めでもある。

  <立神とおがみ山>
  名瀬港の沖合に浮かぶ1枚岩を「立神=たちがみ」、名瀬市を見下ろす山を「おがみ(拝み)山」という。
  「聖なる島」=奄美の島々の岩や山、川や海には神が存在すると言われ、巫女=ノロたちの信仰の対象にな
  っている。


 
 <伝統の地場産業>
 

  
地場産業は、奄美本島は1300年の伝統をもつ絹織物=「大島紬(つむぎ)」の製造
  大島紬ができるまでの工程は、(1)図案制作 (2)のり張り (3)絣締め加工 (4)テーチ木染 (5)泥染め (6)
  手織り (7)絣調整 (8)最後に製品検査 である。

  沖永良部島では昔から白百合フリージャなどの球根の栽培に力を注いでおり、島の農家は3月から5月にか
  けて最も忙しくなる。オランダから栽培技術を学び、赤土に球根を植え、咲いた白百合を日本本土やアメリカ
  にも出荷してきた。「エラブ百合ぬ花アメリカに咲かちやりくぬ、いかな横浜ぬ波荒さあてぃんやりくぬ 百合
  やしてぃるなよ(捨てるなよ)島ぬよー宝 あんぐわよーさとぅないちゃしゅんがしゅんが・・・」島唄「エラブ百合
  の花」の歌詞の中の横浜は神奈川県の横浜市のことをさしている。そして、昭和初期に取引先となっていた
  横浜の商社のことも意味し、「いかに波が荒れても百合は捨てるな」は、この会社の圧力に屈してはいけな
  い、百合の花は島の宝であるから捨ててはならないというメタファーである。曲の作詞者は、昭和初期の農民
  運動のリーダーだそうである。沖永良部島の他の民謡にサイサイ節というのがある。「サイサイサイ、サイむち
  くー・・・」の「サイ」=酒のことである。この島では黒糖と米を原料にした黒糖酒=稲の露を製造している。

  奄美5島には製糖工場があり、最近ではほとんどの農家がさとうきびの栽培と黒糖の出荷を機械化して行っ
  ている。奄美本島や徳之島では、米作も行っている。
  最近の不況の影響で、さとうきびだけでなく、沖永良部島ではさといも、じゃがいも、ピーナッツ、ブロッコリー、
  ニラなどの野菜を栽培し、出荷している農家も増えている。 

  伝統的な焼物には、大島本島の野茶坊焼や沖永良部島のえらぶ黒潮焼が有名だ。後者は島の土と砂糖キ
  ビ、ガジュマルの灰を使って焼き上げる。

  奄美本島の大和村(やまとそん)には、穀物を貯蔵する茅葺き屋根の高倉(群倉)が保存されている。 昔は
  村はずれの田畑の近くに建てられ、村人たちが共同で使用したが、最近では個人の屋敷内に造られるよう
  になった。文字通り、地面から数メートル上に倉が設けられ、ねずみや害虫から穀物を守る人々の生活の知
  恵である。 

  <さとうきびの栽培と黒砂糖の製造>

   尚、奄美出身の直川智が1609年中国に渡って砂糖の生産技術を習得し、蔗苗を持ち帰って栽培したのがさ
   とうきび生産の始まりである。
17世紀以降に、さとうきびの生産技術は、奄美群島から北は種子島、南は沖縄
   諸島に広まった。さとうきびの豆知識を参照。  


    江戸時代には、黒糖は日本本土では高価なものであった。その黒糖に重税が課され、島民たちの手にわた
    るのはほんのわずかで、黒糖のほとんどが薩摩に搾取されていた。 白砂糖が日本で製造され、私たちの食
    卓に入ってきたのは明治以降のことである。
   当時の島民たちの主食はさつまいもとそてつの実(本土風に言うとあわやひえ)で惨憺たるものであった。米
   を食べていたのは村の権力者(豪族)や武士などの特権階級の人たちである。
   結果的には、黒糖で得た富で薩摩はイギリスから鉄砲や大砲などの武器を購入し、幕府軍との戦いにおいて
   それらを使用し、 幕府を倒すことができたのである。日本の近代社会の幕開け=明治新政府の成立の過程
  において、多くの奄美の島民たちの犠牲が払われていたということを忘れてはならない。 

  薩摩藩は、江戸時代末期に多額の負債を抱えていて、財政難を乗り切るために、調所広郷(ずしょひろさと)
  なる人物が、まず黒砂糖の専売を行った。そして、イギリスから洋式技術を導入し、製鉄・造船業などに着手
  し、工業の発展に成功した。これは集成館事業と呼ばれていて、薩摩はついに全国でトップレベルの藩に上
  乗した。
      

     天然記念物の「ルリカケス」「アマミノクロウサギ」が奄美本島に生息している。大和村、住用村、宇検村
  は山深い地域で原生林が生い茂っている。

   奄美本島の地酒は伝統的な「アマンユ=奄美世」「里の曙」「レント」「高倉」。25度〜30度くらい。米と黒砂糖
  が原料。沖永良部島の地酒は「稲の露(いねのつゆ)」。 原料はアマンユと同じ米と黒砂糖。
  沖縄の地酒は「泡盛=あわもり」で原料は米とさつまいも。私たちは「泡盛」は飲まない。

     徳之島は闘牛が盛んな島である。牛の横にいて勝敗が決まった時に牛を捕まえる役をする人を勢子(せこ)
    と言う。観客は太鼓を打ち鳴らしたり、ラッパを吹いたりして声援し、闘牛場に熱気があふれる。愛媛県の宇
   和島や島根県の隠岐などでも闘牛が盛んだが、徳之島の闘牛が他の地方と違うのは、負けた牛を処分せ
     ず、家族同様に大事に扱うことである。自分の牛が優勝して島の「横綱牛」に選ばれることは最高の名誉で
     ある。


   
<芸術>

   名瀬市の浦上にある一軒家で69歳の生涯を閉じた日本画家田中一村。栃木県出身で奄美の自然に魅せら
     れ、奄美で生涯最後の作品に取り組んだ。アダン、ソテツ、ガジュマルなどの亜熱帯植物やアカショウビンと
     いう野鳥や海岸の風景などを精密なタッチで描いた。笠利町奄美パークに田中一村美術館がある。 

  <長寿の島>

  食べ物に関しては、昔はきゅうり、なすび、ねぎ、にら、きゃべつ、白菜、大根等の野菜類と、海の幸=昆布
     等の海藻類や魚介類の自然食(肉類では唯一豚肉)を食べていたせいか、奄美や沖縄には長寿者が多か
     ったが、最近、食生活の都会化、欧米化に伴い、肥満と成人病の数が増える傾向にあるのは憂うべきこと
     である。生活が便利になり、本土並みに近代化、都会化されることが必ずしもよいことではないようだ。

  世界最長寿者であった泉重千代さんは何と120歳の大還暦を迎えた年の翌年にお亡くなりになった。徳之
  島の伊仙町にお住まいだった。かかりつけの医師の話によると、彼は100歳を過ぎても消化器系の内臓(胃
  や腸)は丈夫であり、意識もしっかりしていたそうだ。
  彼に長生きの秘訣は何ですかと聞くと、「よく歩くこと」と「酒と女」とユーモラスに答えたそうだが、これは
  決して酒ばかりくらって女遊びをしろ、という意味ではなく、「適量の酒=焼酎」「お色気」「音楽を含む娯楽や
  適度の運動」も必要というたとえである。酒ばかりくらって、塩分と動物性脂質の多い食べ物を取りすぎると、
  血管が詰まって、血栓、心筋梗塞、脳梗塞の病気にかかり、命取りになる。  

  食べ物では、特に肉類は控えめにし、魚や野菜、海産物を多く食べること、酢の物、にんにく料理を食べるこ
  と、酒は適量にとどめる。しかし、たばこはよくない。車にたよりすぎるのもよくない。足腰が弱るからである。
  散歩をし足腰を鍛えること。無理なジョギングもよくない。最近、外反足と内反足のバランスのとれた靴が開発
  されているので、この種の靴を履いての歩行は大変よい。そして、精神面での健康を保つことが第一。AかBか
  という相対的な価値観=どうでもよいこと(枝葉末節的なこと)にこだわったり、くよくよするのではなく、全体が
  見えるようになること、気持ちをほがらかに保ち、気長に過ごすということ、音楽などの娯楽を楽しむこと。多く
  の人と接触し、会話を楽しむこと、ユーモアと笑いも必要であると長寿者たちは教えている。  

  
   
<シマ文化の形成 ベースは本土勢力=大和朝廷、平家、源氏、薩摩>

  奄美大島、喜界島、徳之島の3島は、文化的には、古くから大和朝廷と交流があったため、本土に近い
  が、沖永良部島(=大和と琉球の接点、平氏と源氏文化の接点)と与論島は、言葉や音楽、舞踊などは沖
  縄県の影響を多大に受けている。しかし、完全に同化されたわけではなく、島独特の文化を維持してきた。
  私の家の近くに薩摩、琉球支配以前の古文書が発見され、すでに解読されているので事実であることは
  まちがいない。  

   上の年表からもおわかりかと思うが、「奄美」はもともとは「大和朝廷=奈良県」の領土で、ベースは大和文化
  であり、島の文化の大部分が、12世紀に来島した平家の落人たちがもたらしたもの
である。五穀を植える
  農作業の方法、漁法(いざい=いさり)、読み書き、人の人たる道などを彼らから教わり、現在まで語り伝えて
  きた。後世に琉球(沖縄)と薩摩藩(徳川幕府)の統治を受けるが、その文化的な影響は少ない。そして、島独
  特の文化を維持しながら現在に至っている。

  喜界島や沖永良部島にある遺跡群や、中世に平家の武者たちがもたらした平氏文化(築城技術、漁法、航海
  術など)から判断すると、
琉球文化のルーツ(ベース)は奄美群島にあると私は考えている。城のことを方言で
  「ぐすく」と最初に言ったのも奄美の人々だと考える。神話では、アマミキヨ
=阿摩弥姑(あまみこ)が最初に奄
  美の島々を創造し、後に沖縄諸島を造ったと記されている。13世紀頃に琉球国が誕生するまでの古代〜中世
  初期は
南西諸島全体(奄美〜沖縄諸島)が「阿摩弥=アマミ」と呼ばれていた時代があり、シマ文化が形成さ
  れる。琉球国誕生後に枝分かれし、名称も奄美と沖縄に変わり、それぞれ独自の文化を形成していったと思わ
  れる。 


  
奄美諸島の文化=(1)大和文化(大和朝廷)→(2)平氏文化(平家武者来島)→(3)琉球按司支配による一部
              
の島々に琉球文化が逆移入→(4)薩摩体制下西郷隆盛来島(薩摩=鹿児島から仏教等
              ヤマト文化が導入)
              奄美が大和朝廷の領土であったという根拠=奈良県の正倉院と東大寺に大島紬が保存
              されている=大島紬を朝廷に進貢=朝廷と奄美が主従関係にあったという証(あかし)

              である。    
              奄美大島本島の町村名=大和村(やまとそん)と瀬戸内町は、それぞれ大和の国(朝
              廷)と平家の船団の寄港地であった屋島、厳島神社から見える瀬戸内海にちなんでいる。
                               (沖永良部島の和泊(わどまり)町は、神戸市兵庫区の和田宮付近=旧名
大輪田の泊
              =おおわだのとまりに由来している)
             
                             

  
奄美の人々が使っている「やまと(大和)ちゅう」という表現は、もともとは「大和の国すなわち大和朝廷=奈良
  県人をさしていたのが、今では本土全体をさすようになった。

  
  
  
<奄美と沖縄の文化の大きな違いと共通点>

  
1.違い (1)墓の造り  奄美諸島=現在は各家の墓があり共同墓はない。(薩摩の影響) 沖縄=共同墓
                 
(門中墓=むんちゅう墓)が多く見られる。むろん、仲村家の墓というように各家々の
                 墓も存在し、家族や地域の人々を大切にするという考え方がある。 
                  
        (2)家の造り  奄美=材質と構造はおおむね本土と同じだが、台風に備えて土台、柱、梁は頑丈
                  に設計してある。屋根にシーサーはない。
                  沖縄=屋根が赤瓦でシーサー(守り神)がついている。
        (3)民謡      奄美の島唄と沖縄民謡は音階が違う。
  
        (4)舞踊      奄美の「六調」と琉球舞踊は形式が違う。

                
   「稲すり節」は琉球音階と似ている。奄美南部の宇検村と瀬戸内町は一時期影響
                  を受けていた。

                 奄美の島唄は庶民の生活の中から生まれたものであるが、琉球舞踊は、もともと
                  は支配者(権力者)の居城である首里の王宮で演じられた王族のための宮廷音楽
                 である。王への貢ぎ物(みつぎもの)の一つとして舞踊が披露された。
従って、琉球 
                 舞踊は、非常に洗練されていて気品がある。琉球民謡には幅があり、恋歌、労働の
                 歌、祝い歌など庶民的なものが多い。 

              
(5)織物        
奄美伝統の絹織物=大島紬と沖縄の芭蕉布は生産過程と柄が違う
              
(6)地酒     奄美の地酒の「里の曙」「あまんゆ」は米と黒砂糖が原料
                  沖縄の地酒「泡盛」は米とさつまいもが原料 
                  (7)農業形態 
最近は徳之島、沖永良部島では稲作をする農家は減ってきており、従来のさとうき
                                      び栽培、野菜栽培、 球根栽培の畑作に加えて草花栽培をする農家が増えている。
                                      民謡「稲すり節」に歌われているように、かつては全島で米を作っていて田植えをす
                                      る光景も見られたが、農林省の減反政策により、水田がなくなり、さとうきび中心の畑
                 作農家が多い。
                  
 
     2.共通   (1)シマ(村)の豊年、豊作祈願の祭礼をノロ(神女)が行い、死者儀礼と先祖供養をユタ(巫女)が
                       行う。最近は島によってはユタの数が減ってきており、神主(ぼんさん=坊さんと呼ばれている
                       島もある)が葬祭の儀礼を行っている。
           ノロとユタによる祭礼はもともとは奄美で始まったものであるが、13世紀に平家の武者たちが沖
                       縄に渡ったときに伝わったものと考えられる。
                    (2)島唄には欠かせない楽器=蛇皮線(さんしん)は共通。
                    (3)墓地が海の近くにある。(徳之島、沖永良部島、与論島) 
                        薩摩藩と鹿児島県の行政下に入ってから各家々の墓が別々に立つようになったが、昔 (古代
                        〜中世にかけて)は、奄美諸島の墓もトウール墓=洞窟墓という名称の共同墓であった。

                       墓については2つの見方がある。
                       一つ目は、古代の奄美地方のシマ(集落) に住む人々も、村全体が一つの共同社会(村落
                       共同体)であるという考え方(=シマンチュ同士で親戚=方言でムールハロジ)あったという
                       こと。
        
                       二つ目は、私が住んだ奄美大島本島以外で、徳之島、沖永良部島、与論島には海岸の洞窟
                       墓があり、遺骨は海の見えるところ=天国(海の神様)への入り口に保存するという慣習は言
                       葉の響きはよく聞こえる。按司=権力者の墓は、巨大で立派なものだが、一般庶民個人の墓
                       はなく、権力者以外の人々は、洞窟の中や丘の斜面の横穴に瓶の中に入れて遺骨が複数保
           存されていたというのが実態。いったん土葬をし、数年後に骨を掘り起こし、洗骨してから
          
海岸の洞窟に瓶(かめ)を置き、その中に身内の骨を入れるという方法は丁寧で霊と自然
           界は一体であるという宗教観も理解できる。                                
               
             (4)方言で母音のオの音が少ない。いもを食べる→うむかみん。
                  (5)女性は各家やシマ(村)を守る大切な存在であると言われてきた。男性以上に腰がしっかり
                        していなければならないと聞かされてきた。
             神事に携わる巫女=ユタとノロは女性であり、奄美の島々を造ったと言われている
阿摩弥
                        姑(あまみこ)も女性であると言われている。

                   (6)南2島の家の1階は二部屋構造の家が多く、台所付きの食事をする部屋をトグラ(戸倉)、
                       来客を接待する広い部屋(=居間)をウムティマ(表間)と言う。
                   (7)さとうきびの栽培と黒糖の製造。(さとうきびの生産技術=インド→中国→南西諸島)  

  
3.文化のルーツ (1)奄美がルーツで沖縄を含む南西諸島に伝わったと言われているもの=
                                 
@巫女(ノロ、ユタ)による家内安全祈願、豊作祈願と死者儀礼と先祖供養の祭礼。
                 奄美では海・山の神、天上の世界をオボツ・カグラ、沖縄では海の神をニライ
                 カナイ(ニルヤカナヤ)
と呼ぶ。儀礼は神式(神道)。
                                  A石垣で囲む漁法。
                                  B読み書きの学問。
                                  C五殻を植える農作業の方法(主に米作)。                                  
                                  D音楽(島唄)や舞踊はもともとは同じスタイルだったものが島の環境や風土に
                  適合するように表現方法を変えていった。                               
                                     (@ABCは平家によって伝承された。海の文化と海の民=平家
              
             (2)琉球王朝時代に奄美諸島と南西諸島共通の慣習=
                                 @トフル墓、トウール墓と呼ばれていた洞窟墓(共同墓)
                                 A三味線の元楽器である蛇皮線を使った島唄の伴奏。                             
                                 B人力と牛を動力にしたさとうきびの栽培(現在はきび植と収穫は機械化され、製
                 糖は工場で行われている) 
                                 C井戸ができるまでは、女性たちは水くみ用の桶を頭にのせて水を運んだ。


                           ※(1)奄美から沖縄へ文化を伝えた人々と、(2)沖縄(琉球)から奄美へ派遣された役人
                に仕えていた家来の多くが平家の末裔であると言われている。彼らは文化交流の
                                    コーディネーター(橋渡し役)を務めた。沖永良部島に北山から派遣された按司=
                世の主の家来であった後蘭孫八がその典型である。彼らは徳之島、大島本島瀬
                戸内町(=元の居住地)にもやって来た。

             
(3)薩摩から導入されたもの=
               @仏教的な慣習(位牌に線香をそえる、初七日、49日祭など)。 
               A家(家長)制度の導入→各家々の墓が立ち、別々に納骨するようになった。
                            
                
  
4.傾向           奄美5島の中で、農業形態が大島本島以外の4島では稲作から畑作形態に移行した。農
             林省の減反政策で水田がなくなり、代わりにさとうきび栽培を中心とする畑地の面積が増
             えた。さとうきび植えと刈りとりも町村役場に委託して行ってる町村が増えている。行政の
                          土地改良の条例に従い、小さい複数の田畑を合併するようになった。昔と今は農業のし
                          かたがずいぶん違ってきており、合理化の一途をたどっている。


            民謡は地元の島唄と琉球民謡の両方を行事に取り入れている村が南3島(沖永良部島、
            与論島、徳之島)では多い。徳之島では夏の名物である舟漕ぎ競走=ハーレーは沖縄
            のハーリーと競争形態が似ている。このように南の3島では現在も沖縄文化の一部をとり
            入れて交流をすすめている町村が見られる。しかし、くどいようだが基本的に歩んできた
            歴史と文化の特色は違うので、絶対に奄美人(あまみん ちゅ)に対して「あなたは沖縄の
            方ですか」と言ってはならない。

            奄美本島を旅行している本土の旅行者が、地元の農家の人に「あなた方は晩酌で泡盛
            をよく飲みますか」とか「芭蕉布の原料は何ですか」と質問をしたところ、農家の人は激怒
            し、「奄美と沖縄は文化が違います。実に不愉快です。学校で何を習ったのですか。もっ
            と勉強して来なさい。」と叱責された。このような事例は島の至る所で聞く。  
           

                               

龍郷町今井岬

今井権現

西郷上陸地

西郷隆盛居住地

平行盛神社

平資盛居住地

高倉(大和村)

   
   
  
<藩政時代の悲しい物語>

  
島唄の一つである「かんつめ節=かんつぃみあごぐわ」という曲にまつわる話をお聞かせしよう。これは実際に
  あった話である。
  昔(江戸時代)、奄美大島本島の宇検村の名柄という集落に「かんつめ」という名前の美しい娘が住んでいた。
  彼女は、村で一番の富豪(=権力者)の家に女中(家人)として奉公していた。彼女は気だてがやさしく、大変
  な働き者であるということで村で評判もよかった。
  ある日、隣の村の瀬戸内村(現在の瀬戸内町)からやって来た岩加那という男性と恋仲になった。宇検村と瀬
  戸内町の境にある峠が出会いの場所で、岩加那の三味線の伴奏に合わせて二人はよく歌を歌ったのだった。
  かんつめも富豪の家に家人(やんちゅう)として奉公していて、自由が許されない身であった。かんつめと岩加
  那が恋仲にあることを知った家の主(あるじ)は、「あるじに内緒で自分勝手なことをしやがって」とののしった挙
  げ句、かんつめを折檻(せっかん)し、残酷な仕打ちをした。彼女の心痛がどれほどのものだったかは皆さんに
  は容易に理解できるだろう。
  彼女は、いたたまれなくなり、生きる望みを失い、彼と出会った場所の峠で首を吊って自殺をしたのである。
  現在では夜にこの峠を通ると、あたりには誰もいないのに三味線と女性の歌声が聞こえてくると言われている。
  彼女が仕えていた家のあるじは彼女に惚れていて、岩加那にやきもちを焼き、三角関係が火種となり、かんつ
  めを折檻したのではないかと思う。

  江戸時代徳川の薩摩藩支配下、重税が課され島民たちの生活は口で表すことができないほど苦渋に満ちて
  いた。島代官に輪をかけるように地元の権力者たちの権限が強く、農民たちは土地に縛られていた
。    

 
 <方言>
 
  
  方言をいくつか紹介しよう。各島によって若干違うが。私は奄美本島と沖永良部島に長い間住んでいた関係
     で主に両島の方言を紹介することにする。沖永良部島と与論島の方言は沖縄県のそれと大部分が共通して
     いる。奄美本島は、本土(大和)と南西諸島のそれとの混合語だが、ルーツは古代日本の万葉言葉である。

  「人」を「ちゅう」、者を「むん」と言う。本土=内地の人を「やまとちゅう」、島の人々を「しまんちゅう」、大島本島
  人、徳之島人、沖永良部人、与論人、沖縄人をそれぞれ「おおしまちゅう」、「とくのしまちゅう」、「えらぶちゅう」、
  「ゆんぬちゅう」、「なはちゅう」と言う。心が清らかな人、優しい人=「ちむじゅら」 ちむ=肝=心、優しい人の
  反対語である意地の悪い人=「ちゅしなしゃむん」、または「わたくろ=腹黒い」、愚か者=(1)「ふりむん=ふれ
  者が語源」 」(2)「とうちぶる」  大事なこと=「でいじ」、数の1=「てイーち」、2=「たーち」、3=「みーち」、4=
    「ゆーち」、5=「いちちー」、痛い=「病(や)みん」、味が甘い=「あまさん」、すっぱい=「しーさん」、辛い=「は
    らさん」、明日=「なーちゃ」、昨日=「きにゅ」 正月=「しょうがちー」、お盆=「しょうろう」=精霊、東の方角=
    あがり(上がり)、西=いー(入り)、南=へー、北=にし=昔、平家の武将たちが奄美本島龍郷町の今井岬と
    蒲生(がもう)岬で源氏の追っ手の見張り番をしていた時にあまりにもナーバスになりすぎていたため、北の方
    角を「にし=西」と呼ぶようになったという言い伝えがある。
  父=「あちゃ」または「あじゃ」、母=「あま=尼」または「あんまー」、祖父=「じゃーじゃー」、祖母=「あじ=按
  司(あんじが語源?」奄美地方では神女であるユタやノロや家族の中で女性の存在は大きい。 子=「くわー」、
  先祖=「おやほー」、兄=「みー」、弟、妹=「うとウ」、姉=(1)「あや」(2)「ねんねー」(3)「あごぐわー」、叔父=
  「うじゃ」、叔母=「ばあばあ」、良いこと=「ゆかくとウ」=よかこと、悪いこと=「わるさん」、元気=「たっしゃん、
    どウくさん」 おとこまい=「ちゅらいんが」または「きょらいんが」(鹿児島本土ではよかにせい)、美人=「きょらむ
    ん又はちゅらうなぐ=語源=清らおなご」、 魚釣り=「いゆーくわーし」。夜釣り=「いざい=漁火」、家=「やー」
    畑=「はって」。いも=「うむ」。私=わん。 あなた=うら、またはいやー。私たち=わちゃ、またはわきゃ。あなた
    たち=うーちゃ、うーきゃ、又はナタ。おもしろい、楽しい=「みじらしゃん=語源はめずらしい」、おじゃまします、
    こんにちは=「うがみやぶら、うがみしょうらん=語源=拝み申します」、いらっしゃいませ=「いもりんしょーり」
    または「いもーり」「めんしょーり」。来世、あの世=ぐしゅう(後生)。  若い娘さん=(1))めぇれー (2)めぇらび
   愛しい人=加那(かな) 
  お盆に墓参りをするために帰ってきました。=「しょうろう(精霊)に墓(はか)めしーが戻(むどウ)ってイきちゃ
     ん。」  哀しいこと=「あわれ」、うれしい=「ほうらしゃん」、妬む=「うわーない」、嫌な=「ばあーど」、今からお
     もしろい話をお聞かせしましょう=「なまから、みじらしゃぬ(みじらぁ)話をしゅんとウ、ちちたぼりー」。懐かしい
     島、おもしろい島、美しい島=「なちかしゃぬ島、みじらしゃぬ島、ちゅらさん島」。

  大和時代の万葉言葉や平安時代の都言葉がそのまま残っているものに、(1)早朝=「つとめて→しとぅみてぃ」、
  子供=「わらび→わらべ」、お盆=「しょうろう」、哀しい=「あわれ」、夜釣り、漁火=「いざい=いさりび」などが
   ある。来世=「後生=ぐしゅう、ごしょう」、母親=「あま、あんま」=尼。

  
平安時代末期に平家一門が奄美に来島し、島の文化に影響を与えたのはまちがいない。上記の都言葉が形
  をかえて今なお残っていること、人々が「北」の方角を「きた=壇ノ浦の方角」と言わずに「にし」と言っているこ
  と、(=昔、南島落ちした平家の武将たちが、源氏軍が「来た=きた」と聞き違いをしたためである。)、ユタとノ
  ロによる宗教的な行事が現在も行われていること、平(たいら)、平田、平山、肥後、岩下姓や清盛、重盛、里
  盛、隆盛、清経、吉盛という名前を持つ人々が多い。語尾に〜盛、〜清がつく平家に由来があることは明らか
  である。

     個人的なことで恐縮だが、私の父親の名前は義経(よしつね)、母方の叔父の名前は重盛(しげもり)である。
     母親の名前は花(夕花)である。
    私たち奄美人(=あまみんちゅ)の多くは平家の末裔である。源為朝が沖縄に向かう途中、瀬戸内町、沖永
    良部島に寄港していることから、定かではないが、源氏の血もわずかに混じっているかも知れない。                                 
  
  

 
<島の文化と教育に最も大きく影響を与えた平家と島の文化に感化された西郷隆盛> 

  私たち奄美人の多くは、先祖が残した伝統や文化を大切にし、引き継いでいる。何よりも心の豊かさ=人情
  を島の「財産」と考えている。 
    
    江戸時代の末期に、西郷隆盛(西郷南州)が奄美本島、徳之島、沖永良部島に来島し、奄美の文化に触れて
   感化されたという。彼は龍郷町の平行盛神社や名瀬市(奄美市)の平有盛神社を参拝によく訪れた。

  日本本土で失いかけていた平家の文化が奄美の島々に根をおろし、伝承されていたことに西郷は感銘を受け
  た。特に島んちゅ(島人)の人情の厚さに心を動かされたという。平家の末裔たちは島民に学問を奨励し、識
  字の普及に努めただけでなく、農耕の方法(特に稲作)、漁法、航海術、築城技術、楽器(三味線)の弾き語
     りの文化や祖先を敬い、人たる道(徳育)を教えた。

  
平家一門5ケ条のうち(1)慈悲深いこと、情に深いこと。すべての人々、すべての生きとし生けるもの、動植物
    などあらゆる生命を何よりも尊ぶこと。(2)感性を培い、学びの精神を尊ぶこと、本質をつき見抜く力(洞察力と
  柔軟な思考力)を涵養すること。 向上心を持ち、個を磨くこと。自己研修を一生涯を続けること。(3)音楽を愛
  すること、音楽や芸術に通じていること。この3つのスタンスは特に徹底している。半端ではない。

  残る2つは、(4)生活力(経済力)を高めること。額に汗して働くこと。労働すること。(5)組織で動くこと。縦のつ
  ながり(先祖に拝礼する、感謝する、目上を敬う、引く謙虚さ=pull)と横のつながり(連携、連帯意識)の両方
  のバランスを保つこと。体制作りが先。家族を大事にすること。

  視野の狭い小さい器で終わるのではなく常に全体を見渡せる確かな視点を持つこと。祀りごと=まつりごと
  =集会。時には余興を楽しむことと、スペアカード(心のむだ、回り道をする、ワンクッション置く、心を開くこと)
  を用意することも必要。


  
葬儀、初七日、1周忌の神事(法事)に仏に向かって拝礼をする時に、
  2拍+2礼+1拍1礼=5回行う慣習も平家から伝承されたものである。


  西郷が奄美に流謫しなかったら、明治維新はなかっただろうと言われているぐらい、奄美の文化が彼に与え
  たインパクトは大きい。彼の教えである「敬天愛人」=天を敬い、すべての人々、すべての生きとし生けるもの
  を愛することは島民の心の支えとして語り継がれている。
        
 
<江戸時代末期〜明治 西郷隆盛が奄美へ流謫>

  西郷は幕末に土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎らと共に社会改革を行い、明治維新の幕を開いた先駆者
  の一人である。3人の出身である土佐(高知県=屋島に近い)、長州(山口県=壇ノ浦がある」、薩摩(鹿児
     島県)の3県に共通するものがある。理屈であれこれとこね回しただけではわからないだろう。そこで、インス
     ピレーション(直感)を働かせていただきたい。そう、くどいようだが、平家の落人にゆかりのある土地であると
     いうことである。
  源氏や徳川の落人なるものは、聞いたことがないのに、なぜ平氏にまつわる話だけがこれほどまでに語り継
     がれてきたのだろうか。源氏にしろ、平氏にしろ、北条氏にしろ、元は政治の実権を握っていた権力者であった
  のはちがいないが、平氏の落人たちが、他の武将たちと違うのは、全国各地に分散し、失敗から多くのことを
  学んだという点であろう。そして、彼らの子孫たちの中には奇抜な発想とユニークなパーソナリテイを持つ時代
  の先駆者(開拓者)を多く輩出している。
   
   さて、話を本題に再び戻すとしよう。 
   
重税に苦しんでいた島民たちは、黒糖税の負担が軽減し、生活がしやすくなるように西郷を通してお偉方に働
   きかけるよう、嘆願していた。当時は、藩政府によってさとうきびの生産量のノルマが決められていて、ノルマを
     こなせない農民たちは、成人男子に限らず、お年寄り、女性、子供まで拷問が加えられた。がちがちで融通の
    利かない役人たちの非情なやり方と島人たちの生活の窮状を目のあたりにした西郷は腹を立て、島代官に農
   民たちを解放するように申し立てた。
  「貴殿が方針を改めないのなら、私が直接藩主公に対し、建言書を書きます。貴殿の日頃の態度も併せて上
  申するつもりですから覚悟をしてください」 
  彼は特にお年寄りや病人などの社会的弱者にやさしかったので人々から大変慕われていた。彼が奄美に

  謫するまで
島の代官や役人たちによって島民たちは苦渋に満ちた毎日の生活(=砂糖地獄)を強いられてい
  た。


  西郷が最初に奄美に流謫(るてき)されたいきさつについてお話ししよう。
  
彼は奄美に来る前の安政5年(1858年)に僧侶の月照(げっしょう)と鹿児島の錦江湾に入水自殺を図ったが
  近くの住民に発見され蘇生した。彼は月照と長い間親交があり、彼を兄のように尊敬していた。
  月照は、尊皇派の隠密(スパイ)ではないかという嫌疑をかけられ、幕府に捕らえられ処刑されようとした。
  このことを知った西郷は、兄のように慕い、尊敬していた月照と海に身を投じたのであるが幸い発見が早く、
  息を吹き返した。藩主島津斉興(なりおき)らの取り計らいにより、幕府へは死亡したという届けを出した。
   架空の墓も立てて、西郷は身を隠すため、名前を菊池源吾と変えて南の奄美大島に潜居するように斉興公
  から命じられた。西郷は4人乗りの丸木舟に乗って1858年12月10日に鹿児島山川港を出港し、1859年1月
  12日に奄美大島本島の龍郷村阿丹崎に到着した。そこには西郷松と呼ばれている大きな松がそびえている。 
  約2ケ月借家に住んだ後、小浜の龍(りゅう)家の離れ家に移転し、約3年間をこの家で過ごした。龍家の娘
  愛加那と結婚し、2人の子供をもうけている。次男は後に京都市長になった西郷菊次郎である。西郷は藩から
  生活用品や米(年に18石)を送ってもらったにもかかわらず、米は貧しい人々に分け与えたと言われている。
  西郷が住んでいた離れ家は現在も保存されており、龍家の子孫の方が管理している。

  龍郷に住んで3年後に召喚命令が渡され、鹿児島に戻った。1862年、公武合体運動を推進する島津久光公
  に上洛を中止するように進言した。
久光は尊皇派を取り締まろうとしていたからである。  

  西郷は久光にこのように言ったのではないかと考えられる。「平清盛(たいらのきよもり)どんは、昔、太政大臣
  になった後、ワンマンで絶大な権力を拡大 し、残虐非道的なこともありもしたので、後白河上皇や公家たちか
  ら不満の声があがったちゅうことは、おはんも存じておりもさんか。あん人と同じ過ちを繰り返してはなかと。あ
  ん人の孫の資盛どんと有盛どんと家来たちは、奄美に渡り、島で余生を送りもした。祖父の清盛どんのやりもし
  たことを反省し、島人たちに人の人たる道を説き、農耕のやり方や読み書きの学問まで教え、島人たちからす
  ごく慕われもした。おはんは斎彬(なりあきら)公ほど幕府や諸藩の情勢に詳しくはなかと。じゃっどん、上洛は
  中止した方がよかと思うちょりもす」

  しかし、久光は1862年4月11日に予定通り出発し、西郷に下関で待つように指示をした。西郷が到着すると久
  光ではなく平野という家臣が待っていた。平野から大阪の同士たちが幕府を倒そうとしていることを知った西郷
  は、久光の命令を無視して久光の真意である公武合体であるということを同士に伝えるために大阪に向かっ
     た。これを知った久光は命令に背いて勝手なことをしたという理由で、西郷を徳之島と沖永良部島に流した。
    (下関事件) この後、上洛した久光は寺田屋という旅宿にいた尊皇攘夷派の武士たちを襲撃したという。(寺
    田屋事件) 久光の命に背いてとった西郷の行動は、源頼朝の命に背いて行動した義経と似ている。

  1862年7月に徳之島の湾屋に到着し、そこで妻子と会った。しかし、同年9月に遠流の命が下り、沖永良部島に
  向かい、伊延港に到着した。到着後、島の代官から牢獄され、ひどい待遇を受けた。これを見かねた土持政照
  (つちもちまさてる)という人物が解放し、西郷のために家を建てて住まわせたという。西郷と土持は義兄弟の
  ような信頼関係で結ばれていた。沖永良部島の西郷南州神社は彼を祀っている。彼の教えの「敬天愛人」
  この島
が発祥地である。沖永良部空港の入り口には、「教育の町へようこそ!」というキャッチフレーズの看板
  が立っている。
   
彼が上陸した奄美本島の龍郷町徳之島の湾屋沖永良部島の伊延港には彼の上陸記念碑が建っている。
     
  
1864年4月に再び召喚状が届き、鹿児島に戻った。軍司令官、側役、大番頭の重要な役職を任命され、1869年
  には藩の参政を任された。以後、久光の命に従うようになった。

  島津家の藩主の中で、第27代島津斉興(なりおき)や28代の斉彬は西郷を幕府から守る手だてを考え、奄美に
  に潜居させたという点で、西郷が島流しされたというのは誤った情報である。第29代藩主忠義(ただよし)の父
  久光はワンマン的で暴君的な面があったことがうかがえる。下関事件後、徳之島と沖永良部に遠島を命じたの
  は、彼の主命に従わなかったために感情的になった結果である。今風に言うなら「わしの言うことを聞かず、勝
  手なことをするやつは気に入らん」である。 頼朝と久光は実に似ていると言えよう。
  決して西郷が「悪者」ではなく、江戸時代末期にやむを得ない事情で薩摩藩のトップが遠島という方法をとらざ
     るをえなかったということを理解していただきたい。
  

   
西郷は奄美で生活をした約5年間の様子を藩主に報告している。島代官の島民に対するサディスティックな扱
   い方を改善すべき点、島民の暖かい人情、特に沖永良部の土持政照や龍郷の龍家の人々との交流などを逐
   一報告した。

   明治維新の最大の功労者であった西郷だが、惜しいことに1877年西南の役の激戦地であった田原坂で戦死し
   た。彼を慕って多くの薩摩の氏族が出兵しており、中には奄美大島瀬戸内町出身者もいたという。 

    蛇足だが、
西郷は奄美本島滞在中に、名瀬市浦上にある平有盛神社を参拝しに訪れた。心から有盛を敬愛し
    て いたという。

  
   

   
尊皇攘夷とは、政治の実権を(徳川)幕府から、朝廷に戻すということはご存知だと思う。 
  
朝廷→平氏系→尊皇攘夷(薩摩は開国論を主張)→討幕→大政奉還→明治維新→近代社会の幕開け

   
<農民運動と差別抵抗史>

  
(1)徳之島犬田布騒動=薩摩の藩政時代に砂糖島として縛られ、過酷な圧政に抗して島民たちは果敢に立ち
                  上がった。(伊仙町犬田布)
  (2)沖永良部島=昭和初期白百合の取引先となっていた横浜市の商社の圧力に屈せず、島民のリーダーを
              中心に立ち上がった農民運動。百合の花1本1本が島の宝であるから捨ててはならない、と
             訴えた。

  奄美には名字が1文字、沖縄県には3文字が多いのは、薩摩藩政時代の名残である。17〜18世紀に薩摩藩
  の御触書には名字の使用が許されたのは郷士(ごうし)と呼ばれていた人々のみで、島民が2文字の名字を
  使用するのは罷り(まかり)成らぬ」と定められていた。名字を使用するようになったのは明治以降になってか
  らである。
 昔の名残に従って1文字を使用する人もいたが、時代が進むにつれて2文字に変えるようになっ
  た。
(徳之島郷土研究会発行大辞泉、奄美の歴史と年表、穂積重信ほか編著、奄美に見る差別抵抗史
  =松田清著参照)

  
  <昭和時代 戦後の食糧難時代>

     戦後の1946年から1952年まで米軍政府下にあり、名瀬市内では米兵が歩く姿が見られた。主食の米が不足
  していて私たちは米の代わりにさつまいもとソテツの実を食べていた。

  奄美群島は、1953年に本土復帰するまでは、一時的に米軍政府下の奄美県と呼ばれていた時代があり、物
  資、食糧が不足していた。当時の名瀬市は、政治、経済の中心地になっていて、大島本島各市町村、徳之島、
  沖永良部島、与論島、喜界島から多くの人が職を求めて名瀬に集まった。各島、市町村によって方言が違うた
  め、住民同士のコミュニケーションを図るのに標準語が用いられた。喜界島の人の話す標準語が、本土のそれ
  にイントネーションが一番近いと言われている。

  名瀬市の支庁通りにあった中央会館という映画館では、ゲーリークーパー主演の「真昼の決闘」やヘンリーフ
  ォンダ主演の「ミスターロバーツ」「地獄への道 ジェシージェームス」「荒野の決闘」などの西部劇が本土より
  先に上映されていたと聞く。50数年前のことだが、映画館には立体音響設備がすでに備わっていて大迫力の
  画面を楽しむことができた。もちろん、この映画館はアメリカ兵の娯楽用として資本が投じられ、設備が完備し
    ていたのは言うまでもない。 
  私の父親は米軍政府下の奄美県大島支庁に勤務していた。今考えると妙な話だが、職員は米兵といっしょに
  仕事をしていて、勤務終了後に、映画をよく見に行ったそうである。  

     戦時中は大島本島瀬戸内町は陸海軍の要塞地であり、南西諸島の拠点になっていた。手安集落の近くには
    陸軍の弾薬庫跡がある。喜界島と徳之島には旧陸軍の飛行場があった。沖縄戦に出征する特攻隊の中継基
    地として使用されていた。米軍との地上戦をすることはなかったが、各島々は何度か英米空軍機の空襲を受
     け、被害を被った。   
 
  本部(=GHQ)を沖縄の那覇市においていた当時の米軍の司令部は、沖縄を南琉球、奄美を北琉球と呼び、
     琉球国として日本本土から独立させて統治しようと考えていたそうである。
   しかし、地元の人々は黙従していたわけではなかった。署名活動を行い、血と汗のにじむ努力により、奄美
     は1953年、沖縄は1972年に本土復帰することができた。本当に無知とは恐ろしいものである。琉球という漢
     字名は前述のように、昔の明国が沖縄県を属国として位置づけるために命名したもので、正確な日本語では
     ない、ということを米兵たちは知らなかった。
   

  
ご存知のように、沖縄県では民間人約15万人、日本兵(沖縄の志願兵も含む)10万の人々が戦争の犠牲に
  なった。地上は、米軍の空爆、艦砲射撃、地上戦によって、山野形が変わり、焦土と化した。牛島中将を総
  司令官とする日本軍は、司令部を地下の壕(洞窟=がま)に移し、作戦を練っていた。南部の壕の中で、負
  傷兵や看護婦たち(高等女子師範学校生=ひめゆり部隊)が自決をした。太田少将は、「沖縄県民かく戦え
  り。後世、特別のご高配を賜らんことを。」と大本営宛に手紙を書いた。沖縄は、米兵の本土上陸前の「防波
  堤」になっていて、多くの県民が国のために献身的に戦ったという事実を忘れてはならない。

  奄美群島は、敵機の空襲と艦砲射撃を受け、被害を被ったが、米軍が上陸して地上戦をすることがなく、犠
  牲者が少なかったのは不幸中の幸いと言えよう。現在は米軍の基地は奄美には一つもない。沖縄が復帰し
  た1972年までは、唯一沖永良部島にレーダー基地があっただけである。私は中学校、高校時代にそこで働
  いていた米兵と親しくなり、彼らから英語を教わった。親しくなったアメリカ人は、ボストン出身のB. Shawさん
  とノースカロライナ出身の L. McLaughlin さんだった。2人とも根からカントリー&ウェスタンを愛していた。
  そして、紳士的で本物のアメリカ人という感じがした。McLaughlin さんといっしょに Johnny Cashの "Daddy
   sang bass" を歌い、よい思い出として私の心の中に残っている。 

  奄美群島では、薩摩の藩政時代に島民たちが過重労働を強いられ、搾取と苦渋に満ちた時代があり、沖縄
  県では、第2次大戦で県民の約3分の1が戦争の犠牲になり、多くの島民が大変な苦労を経験してきたとい
  う点で共通している。

 
 <平家の名残
><平家=海の民、海の文化

  
奄美群島に来島した平家の武者たちは、五穀を植える農作業の方法(特に稲作)、石垣で囲む漁法、文字の
  読み書きの学問、築城技術、楽器(三味線)の弾き語りなどの文化を伝え、人の人たる道を島民に教えた。
  そして、平孫八のように航海術を生かし、隣の琉球との文化交流や交易に貢献した人物もいた。 

     平清盛が神戸を宋との貿易港として栄えさせるという夢は崩れ去ったが、平孫八をはじめ奄美から沖縄に渡
  った彼の子孫たちによって南方の沖縄の地で明国との交易を通して彼の夢が実現されたと言うことができる。 
    
     沖縄は源氏系の人々が政治を行い、奄美から沖縄に渡った平氏系の人々が経済を発展させ、シマ文化の礎
  (いしずえ)を築いたと言っても過言ではない。彼らは、明(中国)だけなく、東南アジアを含む諸外国との交易
  を行い、経済や文化を飛躍的に発展させたと推察できる。
     唐船や宋船級の大形の船舶を所持し、航海術に通じ、海運力がなければ、外国との交易を行うのは不可能
   である。小型の丸木船で、方位を定めることを知らず、長時間時化の海を航海するのは困難である。

    
13〜19世紀頃に倭人(日本人)による琉球という名称の国家が誕生したが、もともとは、琉球按司(豪族)た
     ちによる領土で国家としての位置づけはなされていなかった。ところが平孫八ら平家が沖永良部島から沖縄
   へ渡った後、沖縄を拠点として中国や東南アジアとの貿易を行う際、国家としての位置づけが必然的に必要
   になってきた。

   この頃ちょうど日本本土は、戦国時代で群雄割拠の不安定な時代から鎖国制度を採用した江戸時代に移行
   していた時期で、外国との交易を始めるには相当の時間を要した。琉球が国家としての位置づけがなされて
   いなければ、相互の物品を輸出入する貿易ではなく、国籍不明の相手との密貿易または闇取引になってしま
   う。必要に迫られて、沖縄を”琉球”国としての位置づけをするにあたって平家一門が関わった可能性は高い。

     物品だけでなく、中国(明)からさとうきびの生産技術、胡弓(こきゅう)という三味線の元楽器、中国風の首里
   城の建築様式などの文化も伝わった。貿易のみならず文化交流の役割も果たした。

     平孫八ら平家は沖永良部島から琉球(沖縄)に渡り、ユタやノロによる神事の儀礼のみならず、漁法、築城技
   術などの文化を伝えた。沖縄からも多くの文化が沖永良部島に導入された。楽器の胡弓(三味線の元楽器)
   が一つの例である。私の父方の祖父は、胡弓の演奏を好んだのを覚えている。母方の祖父(里盛)は、三味
   線の演奏に合わせて島唄をよく歌ったものだ。
   

  
たびたび誇張した表現で恐縮だが、明治新政府を樹立した尊皇派の一人である西郷隆盛も、奄美に伝承さ
   れていた平家の文化にモチベイト(motivate)されたという。室町時代、安土桃山時代、江戸時代、明治時代
   に活躍した武将や先駆者たちがすべて平家の末裔とは断言しがたいが、琉球国の誕生にしろ、明治新政府
   の樹立に平氏系が関わった可能性は高い。歴史のプロセスを研究するにあたって、約800年前に生きた平時
   忠や平家一門の教えや伝統が現在まで脈々と伝承されているのを知り、ただただ驚くばかりである。 
  

   奄美群島は、8世紀頃までは、大和朝廷直轄地(日本)であったが、その後、豪族たちによる支配、平家の武
  将たちによる統治を経た。9世紀から14世紀頃までは、本土の群雄割拠に似た統一国家でない状態が続い
  た。14世紀に沖永良部島と与論島が琉球の支配下に入り、奄美本島、徳之島、喜界島は16世紀の一時期
  だけ琉球国に所属した。17世紀以降は薩摩の国に所属するに至った。

 

  A pen is mightier than a sword. という格言は古今東西を問わず普遍的なものと言えよう。人徳ややさしさ、
  真心、気配りだけは他の人にひけをとらないという見方があってもよいと思う。
  現代においても君主専制的で仕切りたがり屋タイプと年長者、親方、上司の顔を立てて横の連携を大切にして
   いく二通りのタイプがいる。前者は偏屈で視野が狭い方が多いように思う。
  平家と聞くと単純に「負け組」という烙印を押すのはあまりにも短絡的ではないだろうか。

   平家にまつわる伝説は、西日本だけでなく、北海道を除く北は青森県から南の鹿児島県まで日本各地に残っ
  ていることが書物に記述されている。西日本、特に四国の徳島県、本州の山口県、九州の福岡県、宮崎県、
  長崎県、熊本県、鹿児島県には平家の末裔の方たちが多いように思う。

  私たちは、争い事がなく、シマ(村)の人すべてが平和に暮らすことを望む。親戚(=はろじ)が集まって、郷土
  料理(=しゅうき)を食べ、酒(=さい)を酌み交わしながら、島唄(音楽)を歌い、語り合う(=むんがたい)。
  島唄の歌詞は文学色が濃い。昔の平家の武者たちが、文学に親しみ、琵琶(現在は三味線)を奏でながら歌
  い、音楽に親しんだ伝統が今も引き継がれているのである。
     
    
語り伝えられたものの中には、言葉だけが一人歩きをし、現実からかけ離れ、信憑性に乏しいものもある
    が、はっきりと形として残っているもの、例えば、古文書、神社、寺院、墓、音楽、舞踊、歌、伝統行事、方言
    は具体性がある。

   
平家物語や歴史書には、壇ノ浦で安徳帝が入水し、平家が滅亡したと記されているが、前述のように死亡した
    のは彼らの替え玉(影武者)の可能性が高い。第81代の天皇であり、国家の長(主君)である安徳帝(安徳天
   皇)を平家の武将たちと源氏側の大将である義経が簡単に見殺しにするはずはない。平時忠は壇ノ浦の合戦
    前に、義経に和議を申し込み、安徳帝を擁護するように義経に申し立てた。義経もこのことを承諾している。安
    徳帝と共に入水したと言われている姉の時子=二位の尼にも義経との和議の件のことを時忠は話している。

  兵力は義経軍が圧倒的に優勢であるから勝ち目はないと判断し、安徳帝を擁護するということが、時忠が提案
  した和議の内容であった。源氏軍との実戦に参加したのは戦闘組の宗盛、
知盛、教経らで、非戦闘組の資盛、
  有盛、行盛は実戦に加わらず、安徳帝を奉じて、九州南方に向かったという可能性が高い。

  天皇家の象徴である三種の神器のうち神鏡と)勾玉
を奪還されたが、宝剣は見つからず、海中に沈んだか、九
  州南方に携えていったかどうかは謎である。


   
奄美地方の方言で母親のことを「あま」または「あんまー」という。語源は「(二位の)尼=あま=平時子」である。
   
夫(清盛)を支え、(平家)一門=家族の繁栄を助力するしっかりした女性の見本になりなさい、という意味が含
  まれている。
平清盛は、平家物語の中で専制君主で悪役として描かれているが、実像は、経済分野の手腕に
  長け、温厚で慈悲深い人物であったという説が有力である。晩年に彼は頭を丸坊主にし、出家している。

  
平清盛の長子である重盛は、宗盛、徳子(=平時子の子)とは異母兄弟であり、実母は高階基章(たかしなも
  とあき)の娘である。重盛の正妻は、藤原経子(=平資盛、有盛の母親)である。資盛、有盛の主君は、安徳天
  皇である。安徳帝と共に壇ノ浦で入水したと言われている時子(=祖母)、資盛、有盛、行盛らは戦闘に加わら
  ず、生き延び、南島落ちしたという伝承が残っている。

  
あま、あんまー(母親)に象徴されているように家族の中で祖母、母親、姉妹、娘の存在は大きい。父親、兄弟、
    息子(男性)が家屋でたとえるなら柱、門柱、梁であり、女性はしっかりした家の土台にならなければならない。
    平時子(=二位の尼)は弟の時忠(ときただ)を母親代わりになって育てたという。彼女の生き方は、良き模範
     として語り伝えられてきた。

  奄美地方では、夫を支える妻の存在の大切さは言うまでもなく、兄弟姉妹(うない、うないがなし)の間でも、姉
  か妹は男兄弟を支える土台=縁の下の力持ちになければならないと教えられてきた。しかしながら、最近は、
  (本土と同様)、思考パターンの本土化、欧米化に伴い(浸食化?)、思考体系がくずれてきており、崩壊の危機
  に直面しつつある。

 
 奄美群島に伝わる伝承として、平資盛、有盛、行盛が壇ノ浦を脱出し、薩摩硫黄島に上陸。その後、更に南方
  に向かい、喜界島と奄美大島本島に流謫したと語り伝えられているが、私個人の見解では真実にまちがいない
  と考えている。硫黄島から更に南下した理由の一つは、源氏の追っ手から逃れることである。もう一つの理由は
  硫黄島は火山の島で、火山灰の蓄積(赤土)は野菜栽培などの畑作には適しているが、米作に適していない
  ということである。火山灰は風化すると肥料効果が現れて畑作に適し、更に古くなると粘土になり米作に効果が
  現れるという説もある。(列島改造連絡協議会「火山灰及び火山に関する考察」参照)


   <歴史
関係著書記述の一部の誤り>

  
1. (誤)     かつての琉球(沖縄)王国は、日本(本土)とは異なった文化を持つ外国
     →(正) 名目は琉球王国になっていたが、按司と呼ばれていた豪族の中で一番権力を持った者が王(藩
           主)になり、本土の大名が支配する藩体制とほぼ同じ内容のもので、実質は、倭人(日本人)に
           よって統治された。名称は異なるが、中身は同じ。
          
初代の国王 第一尚王(舜天)は、清和源氏(河内源氏)の血をひく源氏系である。       


  2.  (誤)     奄美群島は長い間、琉球国の属領だった。
     →(正) 奄美群島の中で、沖永良部島と与論島が14世紀に沖縄の北山の按司の支配下に入り、16世紀
          頃まで続く。徳之島と奄美本島は、16世紀末の5代目琉球王尚元王のときに支配下に入るが長く
          は続かなかった。8世紀頃までは大和朝廷の直轄地で、12世紀末に平家の武将たちによって統
          治される。前述のように、奄美群島の文化のベースは琉球文化であるというのは断片的な情報。
          
琉球文化のルーツは奄美群島にあると私は確信している(=大和朝廷と平家)。かつては南西諸
          島全体が1つの文化=シマ文化と呼ばれていた。「やまとちゅう=大和人」は、古代においては大
          和の国の人=現在の奈良県人をさしていたが江戸後期〜明治にかけては鹿児島本土の人々、
          現在は本土全体をさす。

          
13世紀頃までは「琉球」という呼称は存在しない。古代(8世紀頃)は奄美群島を中心とする南西
          諸島全体が「阿麻弥=あまみ」という呼称で呼ばれていて、大和朝廷の直轄地であった。

                       奄美群島と沖縄諸島を造ったと言われる創世神はいずれも
「アマミキヨ」または「アマミコ=阿摩
          
弥姑」である。最高の聖地とされている場所は、奄美本島では湯湾岳で海・山の神をオボツカグ
                       ラ、沖縄県の聖地は久高島で、海の神をニライカナイと呼ぶ。創世神は「アマミキヨ」であり、
                      「リュウキュウキヨ」または「オキナワキヨ」という呼称は存在しない。

                     邪馬台国(やまたいこく)&大和国の女王であった卑弥呼=天照大神=阿摩弥姑(アマミコ)
           =共通
           邪馬台国は最初は北九州地方にあったが、後に畿内(近畿地方の大和)に移動したと言われ
           ている。 


          馬○の一つ覚えではないが、短絡的で乱暴な表現の一つとして「奄美も沖縄も同じ琉球」というの
          がある。繰り返すが琉球という呼称は古代においては存在しないのである。

  3. (誤)   西郷隆盛は反逆者で悪いことをしたために薩摩藩主によって奄美へ島流しされた。
    →(正)  藩主の島津斉興(なりおき)や斉彬(なりあきら)は、尊皇派の西郷を幕府から守る手だてとして、
           奄美に潜伏するよう命じた。薩摩藩はもともと徳川ではなく豊臣方(平氏系)であったのが理由。

                      沖縄県(琉球)は源氏系が支配。奄美群島が沖縄県ではなく、鹿児島県(薩摩)であるのは共通の
          平氏系の県民であるということと、薩摩藩は江戸時代末期に多額の負債を抱えていて、財政難を
          乗り切るために黒砂糖の専売を行ったといういきさつがある。当時、黒砂糖は高価なもので庶民
          の手には届かなかった。黒砂糖の専売を行った後、薩摩は全国でトップレベルの藩に上場した。
          当時の薩摩は資金力があり軍艦や武器もイギリスから調達した。幕府側はフランス製の武器を
          所有していた。

          1863年の薩英戦争では、当時、世界最強と言われていた大英帝国の艦隊が唯一、日本の薩摩
          に敗退したという史実には驚かされる。薩摩軍の戦略(strategy)の勝利と言えよう。イギリスが他
          のアジア諸国(インド、香港、シンガポール等)と違って日本を植民地化できなかった理由である。
                       
  4. (誤)   源頼朝の肖像画
    →(正)  平重盛の肖像画 
 

     5.(誤)   源平合戦で平家は全滅した。平家軍VS鎌倉源氏軍で鎌倉源氏軍の勝利。
                       平清盛は冷酷な悪漢だった。
    →(正)  もともと天皇家の三種の神器奪還のために始まった戦いである。正確には後白河法皇の命を受け
          た
源義経を大将とする源氏軍の勝利である。頼朝は何もしなかった。義経のふんどしをはいて土
          俵で相撲をとる(戦をする)わけにはいかないだろう。
          

          平家軍(平家の戦闘組)は滅んだが、平家が滅んだわけではない。非戦闘組と生き残りの平氏は
          西日本各地の秘境と呼ばれる山村や離島に移り住んだ。壇ノ浦で多くの平家の武将(=平知盛、
          教経ら)が死亡し、総指揮していた宗盛は義経に捕らえられ、鎌倉に護送されようとしていたのは
          史実である。
          安徳帝の母、平徳子(建礼門院)は京都へ送還され、大原寂光院で余生を送り、平家の菩提を弔
          ったという。平資盛、行盛、有盛の行方は不明であり、安徳帝を奉じて南島落ちしたという伝説が
          残っている。これが事実なら、源平合戦の真相がわかってくる。個人的には、伝説ではなく、史実
          であると考える。 

                      平清盛は平家物語の中で全盛時代に反平家勢力を拷問したり、幽閉した りしたこともあり、残忍
           な悪役として描かれているが、実像はそうではない。

           
宋との交易を推進し、経済を活性化し、温厚で、気配りを忘れず、優しい人物であったというのが
          清盛の実像である。       
      

          源平合戦の真相
  


   
<伝統文化の継承>

  私たちは、村の長老たちや年長者を敬う(うやまう)。彼らの存在は絶対的なものである。肩書きや社会的地位
  は二の次のもので何が真実かを見抜く洞察力(年の功)は、年長者にはかなわず、とても足元に及ばないから
  である。年の功だけでなく、一芸に秀でた人物や一つの分野の知識や経験が豊富な人物の前では、老若男女
    に関係なく頭が上がらず脱帽する。
    大切なことは、上に立つ人ほど謙虚(自分はまだまだ力不足であるという自覚をお持ちである)な方が多いよう
   に思う。本当に実力がある方は、人間的な魅力を感じ、他人を見下すことはしない。
    

  
 
  ※最終更新
3/16/2012
    西郷隆盛については現地で直接調査したことを記述しました。
        歴史は奥行きが深く、まだまだ私共のような凡夫がとても手が届かず理解不十分な部分もございます。
    多くの方のご意見や情報と資料をご参考にさせて記述させていただいています。私見が入っていていさ
        さか目障りな点もあるかと存じますがご容赦下さい。    


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2.往路出発日を入力 (例) 2009年8月11日 全表示
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  <情報のソース及び参考資料>
   (1)私自身の各島での直接的な生活体験及び調査によるデータ (2)住んでいた村で発見された古文書
 
 (3)祖母の話 (4)町役場と町文化センターの歴史資料 (5)神戸市兵庫区和田神社の資料「奄美地方の葬制」 
   (6)島尾敏雄著「奄美の伝説」 (7)山下欣一著「聖なる島奄美」 (8)奄美の島唄の歌詞
 (9)歴史書「平清盛

    
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                                                                                鹿児島県名瀬市出身 兵庫県在住

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         著作権はMickyが有します。無断で講演等に使用するのを固く禁止します。特に古代の奄美が大和
    朝廷の直轄地であるということは、私の知人が古文書を解読して判明した内容ですので、私以外の
    方で記述できる方は皆無かと存じます。  

  
              

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