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(13/21)
〈V〉
「今、どこにいるの?」
以前とまったく同じ質問を、亜美はしてきた。それで僕は、少しだけいたずら心をかき立てられて、冗談混じりにこんな答えを返したのだった。
「どこか遠く。太陽系をずっと離れた、はるか彼方の小さな遊星」
亜美は笑った。あんまり長く笑っているので、僕は少し不安になった。僕の冗談は、ちゃんと僕の意図した通りに亜美に届いたのだろうか?亜美は何か僕が考えているのとは違う理由で笑っているのではないか?
「――冗談だよ」
それで僕はこんな弁解をしなければならなかった。
「さすがにまだ、大気圏を脱出することはできていない。だけど、僕だってずいぶん遠くに来ているんだ。ここだって東京からはかなり遠い」
「そうね」
亜美は軽く相槌を打つ。何もかも見透かされているようで、僕は少し嫌な気分になった。
「――僕は少しは、君に近づいただろうか?」
「そうかもしれないわね」亜美はあくまで軽く、そう答えた。「だけど、物理的距離なんて、そんなに大した問題じゃないのかもしれない。だって、ほら、あたしたちはどんなに離れていたって、こんな風に話ができるわ」
「それじゃ駄目だ」
亜美の言ったことがひどく嫌に感じられて、僕は首を振った。亜美と僕の物理的距離が近づいているのか遠ざかったのか、それは僕にとって重大な問題なのだ。もっと言えば、電話や手紙やインターネットで済ませることなしに、僕自身が自らこの札幌へ身体を運んできたことが、僕にとっては重要なのだった。目と耳だけでなく、鼻や舌や皮膚が、この街の感触を確認すること。それが重要だ。――感触。そうだ。感触を知りたい。
「電話じゃ駄目なんだ。だって電話は、抱きしめても冷たくて固くて、ごつごつしているからね」
僕のこの台詞を冗談と理解したようで、亜美はまた笑った。だけど実際に口に出しているうちに、それは僕の中でますます重大な問題として膨れ上がっていったのだ。感触。電話では知ることの出来ない、亜美の感触。亜美はどんな女の子なのだろう?僕はこの時、亜美を抱きしめキスしたいと、心から願ったのだった。まだ見たこともない亜美の肉体に触れたいと、そう思った。
「僕は少しは、君に近づいただろうか?」
再度同じ質問をした。亜美は今度は少し悩んでから、ゆっくりと、慎重に答えを返してきた。
「だけど、まだ遠いわ」
誠実な答えだった。
それから僕はベッドに寝転がって、亜美ととりとめのない話を続けた。それは小学生の頃、外で遊んで帰ってきて、台所にいる母親に今日一日あったことを逐一報告する、あの感触に似ていた。僕は二年ぶりに見た札幌の印象を、言葉の続く限り亜美に語った。本当の母親のようにずっと相槌を打ちながら僕の話を聞いていた亜美は、僕の言葉が途切れたときにふと、こんな質問を投げかけてきた。
「それであなたは、札幌に何を探しに来たの?」
「僕は――」反射的に答えようとして、ふと僕はためらう。亜美は僕に、何を探しに来たの、と尋ねた。何をしに来たの、ではなくて。亜美は僕が何かを探していることを知っている。
「忘れ物を」わずかばかりの逡巡の後、僕はそう答えた。「忘れ物を、探しに来たんだ。僕はきっとまだこの街に何かを忘れてきている。ただ、それが何なのかは、まだ分からない」
「見つかりそう?」
「どうかな。まだ分からない。ただ、定食屋のおばちゃんが、僕の忘れ物を預かっている、って言ってた。案外そんな感じで、忘れ物なんかすぐに見つかるのかもしれない。この街に今も住んでいる僕の昔の友達や知り合いが、それぞれに僕の忘れ物を預かってくれているような、そんな気がする」
それは直感だった。きっと僕の忘れ物は、ジグソーパズルのピースみたいに散らばっていて、ひとつひとつを手にとって見ても何も分からないのだけれど、全部集まったときにきっと何かが見えてくるような、そんな気がしている。根拠はない。ただ何となく、そう信じている。
「――そうね」
亜美はそう言った。何を肯定したのか、僕には分からなかった。
「失くしたものは戻らないけど、忘れたものは思い出せるわ。たぶんあなたはそこで、忘れ物を全部見つけることができる。ううん、見つけなければいけない」
「どうして?」
「この街に来るのを、これで最後にするためよ」
「……?」
亜美の言葉が僕をどきどきさせる。鼓動が早まり、頬がかっと熱くなって、手のひらに汗が浮かんでくる。目の前が真っ暗になる。何も見えない。何も感じない。ただ、電話の音声だけが僕の意識を支配する。
亜美の声はとても静かに落ち着いている。大気圏を超え、太陽系を離れた、遠く遊星から聞こえてくる声。亜美が僕に何かを伝えようとしている。その声や呼吸や言葉の裏側に潜む、何か。それはいったい何なのだろう。
「この街に置き去りにされているのは、あなたの思い出ではなくて、むしろ――」
そこで亜美が言葉を切る。僕は息を呑む。暫時の空白。
「――ううん」
亜美は弱々しく笑った。
「まず探さなきゃ。見つけなきゃね。だってあなたの忘れ物は、間違いなくそこにあるんだもの。それを全部見つけたときに、あたしたちはまた違う話をすることができるわ」
「そうだね」
光が戻ってきた。しばしの宇宙遊泳を楽しんでいた僕の魂は、ビジネスホテルのベッドの上に転がっているこの鈍重な肉体に、確かに帰ってきていた。耳に当てた携帯電話は冷たくて固くて、ごつごつしていた。
「――ねえ」甘えたように僕は言う。「もし僕がこの街で、忘れ物を全部探し出すことができたら、僕は君に会えるだろうか?」
「会って、どうするの?」
「君を抱きたい」
亜美は笑った。笑っただけで、何も答えなかった。冗談として受け取られたのだろうか。だけどこの不自由な肉体に捉えられ、精神と身体の二分法では決して語り尽くすことのできない僕にとって、彼女に触れることは決定的に重要な意味を持っているように思えたのだ。
亜美とセックスする。そんなことができる日が、本当に来るのだろうか。
「たぶん僕は今夜、亜美のことを考えながらマスターベーションをすると思う」
「何、それ」亜美はきゃらきゃらと笑い声を立てる。「それがあなたの口説き方なの?」
「まさか。口説くつもりだったら、もっと可愛げのあることを言うよ」
「――そうよね」亜美はまだ笑いを止められずにいた。「でも、今のはどんな口説き文句よりも、ずしん、って響いた感じがした。ねえ、正直言って、まだ少しどきどきしてるのよ」
それから亜美が、すうっと息を吸う音が、電話口から聞こえた。亜美の呼吸。何だか時間も空間もすべて飛び越えて、亜美が僕の隣にやって来たみたいで、僕は少し緊張する。遠く彼方の遊星から、電話だけでコネクトしている僕の恋人は、僕の耳元で最高の殺し文句を囁いた。
「あたしも今夜きっと、あなたのことを考えながら、マスターベーションするわ」
その一言で僕は勃起した。