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(12/21)
〈六〉
二年ぶりに降り立った駅は改装工事が進んで、僕の記憶にあるよりもっと醜い姿に成り果てていた。碁盤の目のように規則正しく織られた道路の両脇には、毒々しい原色の銀行の看板が、互いを牽制し合うように連なっている。
九月の半ばだというのに、半袖のシャツでは少し肌寒さを感じずにはおれなかった。単純に気温が低いせいだけなのだろうか?この街の空気が冷たいのは、緯度の高さだけが原因ではないように思えた。
札幌。
鈍色で無機的なこの街に、僕は五年間を置き忘れてきていた。
駅前のビジネスホテルを四泊取った。冷静に考えると、ウィークリーマンションでも使った方が安上がりなのかもしれないが、タイムリミットを自分に課しておいた方が、効率的に動き回れそうな気がしたのだ。四泊五日、という辺りが、僕の行動力と根気の面からいって、ちょうどいい期間のような気がした。
出かけよう、と思い立ってから一週間。九月に入り、世間では夏休みも終わって、おかげで航空券は簡単に予約できたから、僕はすぐに札幌に飛んできたのだった。
五年間の大学生活を、僕はこの街で過ごしたのだ。しかし、大規模な改装工事を終えた札幌駅は、僕の記憶の中のそれとはまったく違った姿をしていて、何の郷愁も感慨も抱かせてくれやしない。地下街にはおしゃれなブティックが連なっていた。二年前ここにあったはずの、タラバガニや木彫りの熊を売る土産物屋は、どこに消えてしまったのだろう?
駅の北口を出て少し歩くと、すぐに大学のキャンパスに行き当たる。南から北へまっすぐ伸びる道に沿って、僕は大学構内をゆっくりと歩いた。ここは二年前と何も変わっていないように思えた。だけどきっと、僕の気が付かないような部分で色々と、小さな変化が起こっているに違いない。例えば、学食の椅子が新しくなっているとか、パソコン室の機材が最新のものに入れ替わっているとか。
――思い出す。
僕は少しずつ、ここで過ごした五年間のかけらを拾い集めて、つなぎ合わせる作業を開始していた。歩いているうちにふとしたことから、忘れ去っていた記憶が断片としてよみがえってくる。あの頃もこんな風に、いちょう並木の間を歩いたのだ――ぎんなんの臭いに閉口しながら。拾っていって食べちゃおうか、そんなことを彼女は言った。彼女。そうだ。金縁の眼鏡をかけた、線の細い彼女。名前は――
「アサミ」
脳髄より先に口唇がその音を思い出した。麻美。それが、僕がこのキャンパスを歩くときにいつも隣にいた女の子の名前だ。麻美は今、どこで何をしているのだろう?また会えるだろうか?
あの頃僕は、大学の近くにワンルームマンションを借りて住んでいた。麻美は僕の部屋にほぼ二日に一度の割合で来ていて、一緒にごろごろしたり夕飯を食べたりセックスをしたりしていた。僕が留年したせいで麻美は僕より一年先に大学を卒業し、やがて僕らは疎遠になっていき、どちらからともなく会うことをやめた。そんな関係だ。今でも麻美は札幌に住んでいるのだろうか?そんなことすら、僕は知らない。
当時の友人たちも、今どこで何をしているのか、僕にはまるで分からなかった。大学院に進んだ連中の中には、まだここに残っている奴もいるだろう。そうでない者は、いったいどこへ行ったのか、それともまだこの灰色にくすんだ街に住み着いているのだろうか。ともかく、誰かに連絡を取りたい、と思った。僕が連絡先を覚えている友人の中で、誰かまだ同じ場所にとどまっている者はいるだろうか。
学生街の外れの方に、かつて僕がよく通っていた定食屋があるはずだった。店の正確な住所はもう忘れてしまっていたが、歩いていくうちにどんどん道を思い出していって、さして迷うこともなしに辿り着くことができた。
麻美と外で食事するときには、パスタとかオムライスとかそんなものを食べていたが、男友達と食事するなら大概この定食屋だった。さほど美味しくはないが、安くて量が多い、いかにも学生街に相応しい店なのだ。二十人も入れないような小さな店で、声も体も大柄な「おばちゃん」が一人で切り盛りしているのだった。
ドアを開けると、ベルがからんころん、と鳴る。その音だけで僕はもう、色々なことを思い出した。この店で僕は、土橋と大喧嘩をしたり、松永のまた失恋したという愚痴を聞いてやったり、久保田と哲学問答をやったりしたのだ。懐かしい。この店に入っただけで、当時の友人の顔や声が次々に思い出される。
「あらぁ、お久しぶり。どうしてたの、東京に戻ったって聞いてたけど?」
おばちゃんは僕の顔を覚えていた。店に入ってきた僕を発見するとすぐ、大きな声で陽気に話しかけてくる。この店は二年前とほとんど変わっていない。違うことといえば、高校を出たてらしい幼い雰囲気のバイトの男の子が、水を持ってきたことぐらいだ。席に着くと同時にとんかつ定食を注文して、それから僕は二年前にしていたのとまったく同じように、おばちゃんとの世間話を始めたのだった。
「うん、今は東京に住んでる。ちょっと札幌に遊びに来たんだ。駅の辺りとか、ずいぶん変わっちゃったね。このへんはどう?変わりない?」
「そうねぇ、相変わらずだけど、ただひとつ変わったことって言えば……」
「何?」
「うちに学生さんがあんまり来なくなったことかな」
おばちゃんはそう言ってけたけたと笑う。確かに、店内に客の姿はまばらで、お世辞にも繁盛している様子とは言えなかった。よく見れば、店内に貼られている品書きの紙なんかもすっかり赤茶けてきていて、それは明らかに、僕がかつてこの店に通っていた頃から時間が経過していることを表しているのだった。このままこの店が風に洗われ、砂礫と化して消えてしまったとしても、何の不思議もないようにさえ思える。二年という時間は決して短くなかった。
「あんたたちがいた頃が、いちばん良かったわぁ。毎週金曜の夜には、みんなで来てくれたでしょう。文芸部の人たち来てくれなくなってから、もう商売上がったりだわ」
「文芸部の連中、今は来てないの?」
「あんたたち卒業しちゃってから、もう全然来ないのよ。今の若い人たちにはもう、うちみたいなお店って流行らないのかしらねぇ」
毎週金曜の夜に、僕の所属していた文芸サークルの定例会があったのだ。予算の割り当てだの部誌の編集状況だのといった、事務的でつまらない話を延々とした後に、この店に来てとんかつかカニコロッケでも食べながら、互いに青臭い文学論でもぶちまけたりするのが、僕らの慣わしだった。同じことを繰り返すばかりの、漫然とした日々。
なんと退屈な毎日を過ごしていたのだろう。思い返して、自分のことながら僕は少し呆れる。この街での五年間を、僕は死人のように生きてきたのだ。道理で、この五年について何か思い出そうとしても、ろくに思い浮かばないわけだ。
死人のように。
停滞。何の新鮮味もない、同じことの繰り返し。緩やかに腐っていくような日常。僕は確かに二年前、この街の、大学を中心としたこの空間に特有の、腐ったタマネギみたいな日々に囚われていたのだ。今や僕はこの地を離れた他人として、外側からこの異様な空間を眺めることができる。だけど、かつての僕の友人たちは、もしかすると今でもまだこの腐食した檻に捕らえられているのだろうか?
「あの当時の連中が、今どこで何してるのか、おばちゃん知ってる?」
僕は尋ねた。
「さぁねぇ。いつの間にかみんなどこかへ行っちゃって。とにかくうちの店には来なくなったけど、誰がどこにいて何をしてるのかは、全然分からないねぇ」
バイトの子が、ご飯と味噌汁を運んできた。じきにとんかつがやって来る。
「ああ、でも、何て言ったっけあの子、あの頭もじゃもじゃの子。彼はたまに、一人でうちに来てご飯食べてくわよ。それくらいかな、まだここに来るのは」
頭もじゃもじゃ。その話を聞いて僕は、友人連中でいちばん個性的な髪型をしたそいつの顔を思い出した。「だからお前は駄目なんだって!」説教癖のある奴だった。彼のそんな声が脳裏によみがえってくる。彼の名前は……土橋。僕が札幌を去る頃には、大学院の修士課程に在籍していたはずだ。彼はまだあの当時と同じように、下手くそな詩を書いたり誰かに説教をしたり酒を飲んで暴れたりしているのだろうか。
とんかつが運ばれてきた。やたら厚い衣と、こってり濃い味のソース。当時と何も変わらない。一口かじってみると、以前にも増して揚がりすぎのような気がした。久しぶりに食べたせいなのか、それともおばちゃんの料理の腕が落ちたのか。
「そうそう、あんたに渡すものがあるんだった」おばちゃんが唐突に言う。「ずっと前にうちの店に来たときに、あんた、忘れ物して行ったでしょう」
「そうだっけ?何を?」
「それが何だったかあたしも忘れちゃったのよ。汚したりなくしたりしないように、どっかにしまっといたはずなんだけど。探しとくから、そのうちまた来てくれる?」
もしかしたら、単に再度飯を食いに来てもらうための口実なのかもしれない。屈託のないおばちゃんの笑顔を見ながら、僕はそう考えた。
「――そうだね、東京に帰る前にもう一度寄るよ」
僕はそう答えた。
ホテルに帰り、シャワーを浴びてから、携帯電話を片手に少し考えた。ひとまず、土橋に連絡を取ろうと思った。だけど、土橋の電話番号が思い出せない。市外局番を除いて七桁の番号のうち、上から五桁までは思い出せたのだ。最後の二桁が、「六・二」だったか「二・六」だったか、それがどうも思い出せないのだった。五年間で何度となくかけた電話先だったはずなのに、この辺りの記憶が曖昧なのはどうしたことだろう。
ともかく、どちらかであることは疑いないのだ。間違い電話を恐れず、どこかで勝負を賭けてみるべきだ。そう思って先刻から、何度となく電話をかけようとしているのだが、市外局番から順に八桁まで入力したところで電話を切る、そんなことをもう何度も繰り返していた。
意地でも思い出すべきだ、と思った。親しかった友人の電話番号ひとつ覚えていないのでは、本当にここでの五年間は何だったのかと疑いたくなってしまう。これはまさしく僕にとっては意地の問題なのだった。僕は携帯電話をベッドに放り出して睨み付けながら、二六か六二か、それが問題だ、などと馬鹿げたことを呟いていたのだった。
そんなことを続けていると突然、着信のベルが鳴った。まさか、念が通じて土橋の方から僕に電話をかけてきたのだろうか。そんなことを一瞬考えて、すぐに僕は、ありえない、と自分の考えを否定した。土橋が僕の携帯の番号を知っているはずがない。この携帯の番号を知っているのはメグミだけだ。メグミが僕の様子をうかがう電話をかけてきたのだろうか。通話ボタンを押し、もしもし、と話しかけながら、僕はそう考えた。そして僕は、僕の携帯の番号を知っている人が、メグミの他にもう一人いることを、すっかり失念していたことに気付いたのだった。
「――もしもし。こんばんは」
亜美だった。