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〈4〉
目が覚めると僕は、メグミの腕に抱かれていた。メグミは胸を片方さらけ出して、乳首を僕の口に含ませていた。いったい何をしているんだ、と僕はメグミに尋ねたつもりだったが、僕の口から飛び出たのは、おぎゃあ、という赤ん坊の泣き声に似た音だけだった。
「違うわよ」メグミがこれまでに見せたことのないような優しい笑顔を見せる。「あたしはあんたのママよ。ほら、ま・ま、って言ってごらんなさい」
そうだ。僕は赤ん坊でメグミは僕のママだったんだ。でもそれなら、僕らがセックスをするのは近親相姦ではないのか?そんなことをメグミに尋ねようとしても、僕の口はおぎゃあ、おぎゃあという、およそ非言語的な音声しか紡ぐことができなかった。
「そうじゃないでしょう。ほら、ママよ、ま・ま。ママの真似して言ってごらんなさい。ま・ま、って」
ふよふよした唇を固く閉じてぱっと開くと、どうにか「ま」の音が出た。僕が初めて獲得した言語だった。ま・ま。何度も繰り返す。ま・ま。ま・ま。ま・ま・ま・ま。
「うふふっ、よく言えたわね。ごほうびよ」
メグミはそう言って、彼女の小指の先ほどの大きさもない僕のペニスを、ぱくりと口にくわえた。そうだ、これは、近親相姦だ。そうと分かった瞬間、僕のペニスは赤ん坊のものとしてはあり得ない大きさに膨張した。勃起するとすぐに、射精感がこみ上げてきた。
「あら、だめよ」
メグミは笑った。その手にはメスが握られている。睾丸を切除するんです。どこからか獣医の冷たい声がした。大丈夫ですよ、勃起さえすればセックスは可能ですから。睾丸さえ切り取ってしまえば妊娠の心配はありません、あなたはこれで心身ともにすっかりペットになれるのですよ。
やめろ。僕は首を振る。睾丸は僕に残された、僕が僕である唯一の可能性なのだ。これが僕の主体性なのだ。そう言おうとしたが、僕の口からは「ま」の音以外発せられない。そうしてる間に、メグミの手にしたメスはもう僕の睾丸を切り取っていた。さっきまで天を突く勢いで勃起していた僕のペニスは途端に収縮して、赤ん坊らしい大きさに戻った。ほら、何してるの、頑張りなさいよ。メグミがそう言って、もう一度僕のペニスを頬ばる。そうだ、メグミがセックスしようと言ったら、僕は何が何でも勃起しなければならないのだ。だけど睾丸を失ってしまった僕はもうすっかりインポテンツで、縮みきったペニスはもうぴくりともしない。
「最近の学生はちっとも本を読まないらしいが……」
先生の声で我に返った。そこはもう、いつもの教室だった。僕はもう赤ん坊ではなく、二十六の男だった。睾丸もあるしちゃんと勃起もする、れっきとした大人の男だった。
「シェイクスピアぐらいは分かるだろうね?」
「有名な作品なら、どうにか」
僕の返答は先生を満足させなかった。先生は小さくため息をつくと、髭をぶちぶちと引き抜きながら、眼球を回すようにして、僕の顔をじろりと見た。
「我々は日本人だ、望むと望まざるとに関わらず。日本語で育ち、日本語で考えることに慣れきっている。だから例えば英語やフランス語やドイツ語を話すのは難しいし、それ以上に英語やフランス語やドイツ語やラテン語で考えることは難しい。けれども、それでもなお西洋の思想に触れようとするのなら、英語やフランス語やドイツ語やラテン語で考えるために、その素地を学ぶしかないのではないかね?英語でものを考えようとするなら、最低でもシェイクスピアとマザー・グースは勉強しなければいけない。もちろんこれは必要条件に過ぎず、十分条件にはほど遠いのだが。……まあ、いくらなんでも、有名すぎるこのフレーズは知っているな。"To be or Not to be." くらいは分かるだろう?」
「……生きるべきか死ぬべきか、というやつですか?」
「違う」
先生は悲しそうに首を振った。
「君は今まで、私から何を学んできたのかね?」
そう言われて僕はようやく思い出した。安易に翻訳してはならないのだ。英語で "To be or Not to be." と言うときと、日本語で『生きるべきか死ぬべきか』と言うときとでは、明らかにニュアンスが異なってしまっているのだ。そして僕はこのわずかな違いに細心の注意を払わなければいけないのだった。
「気がついたようだね。be動詞はとりもなおさず、存在を表すものなのだ。生きるべきか死ぬべきか、ハムレットはそんな些細な問いを立てていたのではない。在るべきか、在らざるべきか。それこそが問題なのだ。生は存在であり、死は非存在であるか?そんなことはない。だからこそ、この有名な問いが単なる生き死にの問題ではなく、より実存的な問題であることを、ここでことさらに取り上げたいのだ。ところで、アーレントはちゃんと読んでいるかね?」
僕は首を振る。
「彼女の論文は非常に論旨が明確で、論理も明解だ。読みやすいのだからしっかり読みなさい。さておき、彼女はこう書いている。『ローマ人の言葉では、「生きる」ということと「人びとの間にある」ということ、あるいは「死ぬ」ということと「人びとの間にあることを止める」ということは同義語として用いられた』と。アーレントはこれをもとに、活動の人間的条件は多数性であることを導いている。このことの意味は分かるかね?」
僕はただひたすら首を振る。
「先に我々は、いわゆる人間学的問題について触れ、それが『神の領域』にあることを確認した。また我々は主体という非常に近代的な概念を再確認し、それが真に自律的であると言えるほど堅固なものではないこと、もっと言えば、神無き時代に存在根拠たりうるほどのものではないことを見た。そして『生きる』ことと『人びとの間にある』ということの同義性。ここから、何か導き出すことはできるかね?」
僕は三度首を振った。
「――『存在の根拠は多数性である』という試論が可能だ」
先生の言うことはいつだって抽象的すぎてよく分からないのだが、今度のフレーズはその中でも特にわけが分からなかった。頭痛がする。考えすぎて知恵熱でも出たのだろうか?いや、違う。これは、目覚めの合図だ。頭がぐらぐらして、耳がきぃんと鳴って……。
「――お客様にご案内申し上げます」
機内放送。
「当機は間もなく、最終の着陸体勢に入ります。これより先、一切の電子機器のご使用はお控えください。なお、座席を元に戻し、シートベルトの着用をご確認ください。当機はあと二十分ほどで、新千歳空港に着陸致します――」
飛行機で居眠りしていたら、また例の夢を見ていたらしい。僕はひとつ頭を振って目を覚まそうとしたが、どうも頭の中に霧がかかったようだった。安い切符を買ったら、規制緩和で新規参入した小さな航空会社のもので、運賃が安い代わりに飲み物やおしぼりといった一切の機内サービスがなかった。おかげで、ひどく喉が乾いていた。飛行機から降りたら、まずコーヒーでも飲もう。そう思っていると、目覚めてから着陸までの二十分間が、ずいぶん長いものに感じられた。