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(10/21)
〈五〉
何かを忘れている。それが何なのか分からない。
空白と焦燥。僕の胸の中に何か金具がずれたような隙間があって、そこを空気が通り抜けているような感じだ。思い出さなければいけない。でも何を?
午後三時のデパートは息苦しいくらいに華やかだった。茶系で統一された秋のショーウィンドウ。ガラスケースに並ぶ指輪やピアス。通りかかるたびに店員は「何かお探しですか?」と明るい声で尋ねてくるし、店内のスピーカーからは楽しげな音楽が絶え間なしに流れてくるのだった。この世で最も明るく楽天的な空間。みんなが笑顔で僕の財布を狙っている。
色彩と音の洪水。これほど華やかな空間にいて、それなのになぜか僕は、荒涼とした原野に降り立ったような感覚でいるのだ。デパートはさながらお祭りのパレードのようで、賑やかに鮮やかに通り過ぎていくのだけど、僕だけが置いてけぼりを食ったような感じで、追いかけたらいいのかここにとどまるべきなのか、よく分からない。
僕はメグミの誕生日プレゼントを買いに来ているのだった。もちろん僕のお小遣いは元を辿ればメグミの給料なのだから、これはなかなか矛盾に満ちた行動である。とはいえ、これは気分の問題なのだ。僕がメグミの誕生日を忘れずにいて、何かちょっとした気の利いたプレゼントを買っていってやれば、その金の出所がどこであるかなどしばし忘れ、メグミは喜んでくれるし僕も満足する。そういうものなのだ。誕生日にはプレゼントを贈るしクリスマスにはチキンとケーキを食べるしバレンタインデーにはチョコレートを自作して失敗する、そういう風に決まっているのだ。慣習的に決まっているのではない、資本主義的に決まっているのだ。
何かを忘れている。思い出さなければならない。走り去ろうとするパレードの弾丸列車に飛び乗らなければならない。
結局、シルバーの小さなペンダントを買った。メグミが普段身につけているアクセサリーの相場からすれば少々安物だし、デザインも少しばかりファンシーすぎる。でも、プレゼントにはそういうものがいいのだ。実用性の高いものより、いくらか遊び心の含まれたものの方が、プレゼントらしくなる。自分では買わないような、それでいてセンスのいいものをもらうと、嬉しくなるものなのだ。
デパートの地下で小さなケーキを二つ買って、それから僕は帰ることにした。ここから家まで電車で二駅。駅に戻る途中、消費者金融のロゴが入ったポケットティッシュを受け取りながら、僕はまだ奥歯にものの挟まった感じでいた。何かを忘れている。何だったろう?
切符を買って振り返ると、駅構内の掲示板には、巨大なポスターが何枚も貼られていた。ディズニーランドと寝台特急と格安航空券の広告。これも非常に資本主義的な光景だ。そう言えば長らく旅行なんてしていないな、と僕は資本主義的なやり口に安易に乗っかって考えてみた。格安航空券。東京・札幌間を一万六千円で運んでくれるという。飛行機もここ二年ばかり乗っていない。離陸時の耳がキンとなる感じ。機内放送の退屈な音楽番組。紙コップのお茶と航空会社のロゴが入ったパッケージのお菓子。そして――分厚い雪の合間にぽっかりと浮かぶ灰色の滑走路。
思い出した。
僕は十九から二十四までの五年間を、雨の上がった夕方に傘を置き忘れるみたいにして、あの街に置き忘れてきてしまったのだ。ひどく鈍重な灰色に支配されたあの街に。ずっと忘れていたもの、僕の焦燥を駆り立てていた空白の正体は、これだったのだ。昨日見事なピッチングを見せた高卒のルーキー。彼と同じ歳の頃、自分は何をしていたのだろうか。答えはすべてあの街に置いてきてしまった。取り返しに行かなければならない。
僕は長らく使っていなかった自分のキャッシュカードを銀行のディスペンサーに入れ、残高を確認した。メグミと同居を始め、バイトをやめてから増減していなかった預金残高は、辛うじてまだ三十万円近く残っていた。やるべきことは決まった。
この日は誕生日だというのに、当のメグミはなかなか仕事から帰ってこなかった。僕はメグミの好物ばかり用意して、猫と一緒に主人の帰還を待ちわびる。あとはオーブンに入れるだけになったグラタン。冷蔵庫に長らく入りっぱなしのアボガドとトマトのサラダ。パエリアはメグミが帰ってきてから作ることにする。ワインはドイツ産の甘口の白。どれもこれもメグミの好きなものばかりだ。だけど、もう夜の十時を回っている。この調子だと、帰ってきてもメグミは夕飯を食べないかもしれない。
僕にはメグミのご機嫌を取らなければならない事情があった。もちろん、メグミが僕のスポンサーである以上、僕は常にメグミの機嫌をうかがいながら生きて行かざるをえないのだが、今回はさらに特殊な事情が加わっている。人にお願いをする時は、機嫌を損なわないようにするのが最低条件というものだ。
だから今日は、メグミの帰宅が何時になろうとも、僕は夕飯を食べずに待っていなければならないのだ。それにしてもあんまり遅いので、猫だけは先に夕飯を済ませてしまった。ソファーの上で丸くなってうたた寝している猫の姿を見ていると、僕まで眠くなってしまう。
ふっ、と一瞬意識が遠くなった。
次に気がつくと、隣にメグミが立っていた。メグミは僕の頬に軽くキスした。近づいた唇が若干酒臭い。メグミは軽く笑いながら、おはよう、と言った。それで僕は、自分が椅子に座ったまま居眠りしていたことを知ったのだった。
「――眠い?」
「あ、いや、大丈夫」
「おなかすいちゃった。何か作ってくれる?」
それはメグミなりの気の使い方なのだと、僕にもすぐに分かった。どうやらパエリアよりお茶漬けの方が良さそうだ。僕は慌てて冷凍してあったご飯を電子レンジに入れた。
「ごめんねー。会社の人たちにも誕生日祝ってもらっちゃって。帰るに帰れない雰囲気だったのよ。ほんとは今日ぐらいもっと早く帰るつもりだったんだけどさー……」
お湯を沸かす。
「だけどさ、あんまりおめでたくないよねー。あたし、今日でもう三十よ、三十。二十代のうちにやっておきたいこと、もっといっぱいあったのになぁ」
「ケーキあるけど、どうする?」
「あ、食べる食べる。でもその前に、何かご飯食べたいな」
お茶漬けを作るついでに、ポットにコーヒーを作っておく。お茶漬けとケーキとコーヒー。何か大いに間違った取り合わせだが、メグミはこの遅い夕飯に満足しているようだった。向かい合って二人してお茶漬けをすすっているうちに、もう日付が変わりそうになっていた。僕は誕生日が終わってしまわないうちに、急いでプレゼントを持ってきてメグミに渡した。
「――へぇ、可愛いじゃない。なんか可愛すぎて、似合わなかったらどうしよう」
そんなことを言いながらメグミは、早速僕の贈ったペンダントをつけてみる。わりあい気に入ってくれたらしい。酒のせいなのか、今夜のメグミはずいぶんご機嫌だった。調子が良すぎて、逆に怖いくらいだ。
そう思っていたら案の定、メグミが酔っぱらい特有のとろんとした目で僕を見つめて、猫なで声でこんなことを言ってきたのだ。
「ねぇ、ひとつお願いしていい?」
「何を?」
「このまま抱き上げて、ベッドまで連れてってくれないかな」
僕は少し笑ってしまった。何だかメグミらしくない、可愛らしいお願い。僕のあげたペンダントが、メグミを一時子供に戻してしまったのだろうか?僕は立ち上がってメグミの椅子のところに行き、両手を伸ばした。
「さあどうぞ、お姫さま」
ケーキとコーヒーは結局お預けになった。
「ちょっと出かけようと思うんだ」
酔いが醒めてきたころを見計らって、僕はメグミにそう切り出してみた。あんまり酔っているときに話して、あとで忘れていたり忘れたふりをされたりしても困る。さっきまですっかり上機嫌で、乳首や臍や性器を僕に撫でさせたり舐めさせたりしていたメグミは、この僕の言葉を聞いて少しだけ訝しげな顔をした。
「なんで?」
てっきり最初の質問は「どこへ?」だろうと思って心の準備をしていた僕は、少々不意を突かれた。それで、慌てて返答を用意したら、何だかちぐはぐなものになってしまった。
「うん、あのさ、昔の友達に会いたいんだ。それに、なんかしばらく旅行とかしてないし、ええと……」
「いいんじゃないの。行ってくれば?」
メグミは笑いながら言う。簡単に外出の許可が出たので、僕は少し拍子抜けした。どうも変な形でメグミにイニシアティブを握られている気がする。鼻をつままれたような感覚の中で、僕は正直な感想を口にした。
「ずいぶん簡単に許してくれるんだね」
「そう?」
「もっと反対されるかと思ってた」
「あら、あたしこういうことには物分かりがいいのよ。だって言うじゃない、可愛い子には旅をさせろって」
「……それって、何か使い方が間違ってる気がする」
「あら、間違ってないわよ」メグミは余裕しゃくしゃくだった。「だってあたし、あんたのママだもの」
――それは今までメグミが口にした中で、最高のジョークだった。だから僕は笑った。メグミも少しだけ笑っていた。それは確かに、母親が息子に向ける笑顔だった。
「ね、もう一回、しよう」
僕の股間に指を滑り込ませながら、メグミが言う。
「母親と息子のセックス?」
「そうよ。あたしはママとして、あたしの可愛い坊やとセックスするの。近親相姦。禁じられた愛なのよ。これって、興奮すると思わない?」
確かに、メグミの言うとおりかもしれなかった。僕はメグミのヴァギナに入り込んでいきながら、耳元に口を添えて、ママ、と囁いてみた。メグミは気がふれたような嬌声を上げた。