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(09/21)


〈四〉

 亜美からの電話が切れてしばらくの間、僕はぼうっとしていた。本当はそろそろ夕飯の支度を始めた方がいいのだけど、何だかそんな気分になれない。魂が肉体から抜けだして空中を浮遊しているような、そんな散漫な感覚の中で、僕は漠然と彼女のことを思い出していた。
 ――彼女と知り合ったのは十四の頃だ。中学三年の春、親の希望で無理矢理入らされた学習塾で、彼女は僕の隣の席だった。背すじをぴんと伸ばした凛とした姿勢と、端正な顔立ちに、僕は見惚れた。方程式やら構文やらを書き連ねてある黒板より、隣の席の彼女の方ばかりを見るようになったのだ。
 そのうち、彼女の方から突然僕に話しかけてきたのだ。その時のことは今でもはっきり覚えている。僕の顔を正面からまっすぐ見据えた彼女の瞳は、そのまま宇宙まで続いていそうなくらい澄んでいた。彼女は僕のことをしばらく値踏みするように見てから、おもむろに桜色の唇を開き、静かにこう切り出してきたのだ。
「――勉強って、好き?」
 その質問に僕はどう答えたのか覚えていない。ともかく何か、しどろもどろにノーと伝えたのだ。彼女はその答を予期していたようだった。僕の返答を聞いて、彼女は微笑した。それが初めて見た彼女の笑顔だった。
 彼女がなぜそんな質問をしてきたのか、最初は分からなかった。彼女は続けて、塾をさぼってゲーセンに行かないか、と僕を誘ってきたのだ。今だから分かることだが、彼女は僕がずっと彼女を見ていたことに、ずっと気付いていたのだ。ともかく僕は彼女にそそのかされるままに、休憩時間に塾を抜け出し、そのまま彼女と二人でゲーセンに行って遊んだ。記念すべき初デートだった。なのに、夢中だったのか混乱していたのか、ゲーセンに入ってからのことはあまりよく覚えていない。
 それから僕らは少しずつ、言葉を交わすようになっていった。夏休みには二人でよく夏期講習を抜け出し、マクドナルドでポテトをつまみながら涼んでいた。僕と同じく、彼女も勉強が好きな方ではなかった。八月の終わりになって、僕らは二人でディズニーランドに行った。その日僕は、ずっと言いそびれていたことを今日こそ言わなければならない、と思っていた。帰り際に僕は彼女を呼び止め、その言葉を口にしようとした。色々と洒落た口上を考えていたはずなのに、彼女の目を見た途端に頭が真っ白になって、全部忘れてしまった。決断までにどれくらい時間を必要としたのだろう。僕は意を決して、好きだ、とただそれだけをどうにか伝えた。彼女は笑顔でこう答えたのだ。
「知ってた」
 それから僕と彼女は初めてキスをした。唇の先がちょん、と触れるだけの、ひどく可愛らしいキスだった。


 猫のにゃあという鳴き声で、僕はようやく長い回想からこちら側に戻ってきた。僕は少し空腹だった。とすると猫もきっと腹が減ったのに違いない。猫用の皿にミルクを注いでやり、僕もミルクとビスケットで遅いおやつを食べることにした。
 それにしても、なんと幼かったのだろう――当時の自分を振り返り、そう思う。今の僕なら、当時とは比べ物にならないくらい上手に、愛の告白をやってのけるだろう。とはいえ、僕がずっと見ていたことを「知っていた」彼女に、巧言令色が通じたとは思えないのだが。正直なのはいいことだ、何より若いうちは。そして僕は今の自分がどれほど欺瞞に満ちているか思い知るのだ。
 ある意味において、僕もずいぶん成長したのだ。今の僕は、女の子を喜ばすような言葉やプレゼントを自在に選ぶことができるし、女の子が気に入りそうないい雰囲気のレストランやバーやティールームをいくつも知っているし、夜景や海がきれいに見えるとっておきのスポットもいくつか押さえてあるし、女の子に感動されるようなセックスをすることだってできる。――だけどいったい、それがどうしたっていうのだ?もしも十六の頃に、今と同じくらいセックスが上手だったら、それで彼女は自殺せずに済んだだろうか。否。きっともっとひどいことになっていたに違いない。
 どうして、彼女は死んでしまったのだろう?
 この十年間、どんな哲学的命題よりも重くのしかかっているその問いを、僕は再度写真立てに投げかけてみた。どうして、彼女は自殺してしまったのだろう。あのとき、僕に何ができたのだろう。その答えを知ったときに、僕はいったいどうするのだろう。何もかも分からなかった。
 ただ一つ分かっていることがある。――あんな恋はもう、二度とできない。
 彼女の生が十年前に固定されたままであるように、僕の恋もまた十年前に死んでしまってそのままなのだ。そんなものだ。一度きりで不可逆的で命がけなのでなければ、そんなものは恋と呼ぶに値しないだろう。そして一世一代の恋に永遠に敗れ去った僕は、もはや恋のできないブリキの木こりとなって、どこにもないオズの国を探し求めていつまでもさまよい続けるのだ。
 僕は写真立ての彼女の額の辺りに軽くキスした。それからコップとお皿と猫のミルク皿を洗って、夕飯の買い物に出かけることにしたのだった。今夜は肉より魚がいいな、と思った。ご飯と味噌汁と焼き魚か何かで、静かな夕飯を食べよう、と思った。


 米をといで、味噌汁のだしを取っている間に、メグミから電話があった。今日は残業で遅くなる、という連絡だった。仕方なしに僕は、ナイター中継を見ながら猫と二人ぼっちの夕飯を食べることにした。それは本当に静かな夕飯になってしまって、おかげで僕はますます鬱屈した気分の中で、考え事をすることができたのだった。
 どうして、彼女は死んでしまったのだろう?その問いに立ち向かうために僕は、脳裏に残っている彼女についての記憶を総動員することから始めた。彼女の声。彼女の感触。彼女の匂い。年月を重ねるごとに、記憶が少しずつ色あせていっているのが分かる。もちろん僕は彼女のことを何でも覚えているのだ、ただ、それらの記憶が一様にぼやけていって、焦点の甘い写真みたいになっていく。たとえば僕は今、彼女の匂いを鼻で思い出せる。彼女の近くで息を吸い込んだとき、鼻腔の奥深くをくすぐられる感触がどのようなものであったかを、僕の鼻自身が覚えている。だけど明日には、僕は彼女の髪が「フローラルシャンプーの香り」であったという、その概念だけを記憶していて、鼻はその香りを再現することができなくなっているかもしれない。記憶が風化するとはそういうことだ。
 匂い。彼女の匂いが残るものを、何か手元に置いておくべきだったのだ。そう思って僕は少し後悔した。そうすれば、彼女の匂いを忘れずにすんだはずなのだ。写真立ての彼女が、僕の記憶から彼女の容貌が失われることを防いでいるのと同様に。それにしても、どうして僕の手元には、彼女の声や感触や匂いを伝えるものが、何も残っていないのだろう。僕の手の中にある彼女のものと言えば、この一枚の写真だけだ。どうして他に何も残っていないのだろう。
 テレビでは僕より七歳くらい若い高卒のルーキーがマウンドに上がり、ノーアウト一塁の場面で敵の八番バッターに真っ向勝負を挑んでいる最中だった。打たれればいい、となぜかそのとき僕は思った。特大のホームランを打たれて降板すればいい。そう思った。僕の期待を背負った八番打者が、どうしようもない外角のボール球を引っかけてしまい、セカンドゴロがダブルプレイになる間に、僕はリモコンを拾ってチャンネルを替えた。NHKはアマゾン流域で撮影したドキュメンタリーを流していた。


 日付が変わる頃に帰ってきたメグミは、週の始めにも関わらず、少し酔っていた。ご飯にするかお風呂にするか、などと尋ねると、メグミは少し考えてから、セックス、と答えた。新手の冗談かと思ったら、そうでもないようだった。玄関口でストッキングを脱ぎ始めたメグミを僕は慌てて抱きかかえて、ベッドまで連れていった。メグミは色の濃い口紅がべったりついたままの唇を、僕の頬や首すじにむやみに押しつけてくる。何か会社で嫌なことでもあったのだろう。
 メグミは仰向けに寝た僕の上に馬乗りになって、激しく腰を振った。絶頂を迎えるとありったけの力で僕の胸にしがみついてきて、しばらくして落ち着くとまた狂ったように腰を打ち付けてくるのだった。こんな時は何も言わず、ただメグミのしたいようにさせてやるのがいい。僕は午前三時までメグミに身を任せ、四回目の射精と同時に体力の限界を感じてギブアップを宣言したのだった。
「――ねえ」
 黙々とコンドームを外している僕の背中に体重を預けて、メグミが話しかけてきた。口がちょうど耳元に来ていてくすぐったい。
「分かってると思うけど、あんたはいつだってあたしが望むとおりの、最高の受け答えをしなきゃいけないのよ。いい?分かってる?」
「――多分」
 まだ酔っているのだな、と僕は思った。
「あたしのこと、好き?」
 おそらくは酒のせいだろうが、メグミはひどく嫌な質問をしてきた。僕が恋だの愛だのを気易く口にするような男でないことは、一緒に住んでいるメグミが一番よく知っているはずだったし、僕にそんなものを求めていないことは、メグミ自身常に広言していたのだから、この質問は言うなればメグミらしくなかった。それでも僕は、自らの生活全般のスポンサーに対し、精一杯の敬意をもってこう答えざるをえなかった。
「好きだよ」
 その言葉を口にしたとき、僕は舌を噛みそうになった。こんな単語を発音するのは、何年ぶりのことだろう?おそらく彼女に告白した、中三のあの夏以来のことなのではないか?メグミはよくできました、とでも言うように、僕の頬にキスした。それから、こんな恐ろしい話を始めた。
「あたしさ、そろそろ子供欲しいんだよね」
 僕は思わず吹き出しそうになる。子供だって?子供というものをペットの延長か何かと勘違いしているのではないだろうか。メグミの口調から、僕はそう感じた。
「結婚する気は全然ないんだけど、前から子供だけは欲しいなって思ってたんだよね。そうするとさ、さすがに三十過ぎたらもうとっとと産まなきゃなーって思うのよ。ほら、もし来年子供産んだとしてさ、その子供が二十歳になるときあたしはもう五十なわけじゃない?そろそろかなって思うのよね。それにさ、好きでもない男の子供産むのは嫌だけど、あんたの子供だったら、別にいいかなって思って」
 頭が真っ白になる。僕とメグミの子供?僕の遺伝子を受け継ぎ、僕の固有の塩基配列、固有のプログラムに基づいて組み立てられる一個の生命体。それは僕にとってはこの世のどんな怪物よりもおぞましい化け物のように感じられるのだった。僕の形質を五割ほど引き継いで、どこか必ず僕に似た形で現れてくるミニチュアの僕。メグミがそれをペットのように慈しむのだ。あるいは猫のように。僕の子供も猫と同様に去勢されるのだろうか。それは僕自身が去勢されるよりもっとグロテスクであるように思えた。
「あ、心配しないで、ちゃんとあたし一人で育てるから。別に結婚してくれとか言う気はないし、子供のことで何にもあんたには迷惑かけないようにする。まあ別に、今夜すぐ子供作ろうとかそういうんじゃないから、まあ一応考えておいて、ってことだけ言いたかったの」
 僕は使用済みのコンドームをしげしげと見つめた。その気になりさえすればきっと、子供を作るなんて簡単なことなのだ。だけどそれは僕にとって不可逆的な変化となるだろう――去勢と同様に。穴や破れ目がないことを確認してから、僕はコンドームを縛ってティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。