amI ?
(08/21)
〈U〉
携帯電話のベルの音で目を覚ました。掃除と洗濯を終えた月曜日の午後、僕はソファーの上で居眠りをしていたのだ。鳴りつづける携帯電話に業を煮やしたように、猫がにゃあにゃあと騒ぎ立てている。さっきの夢に猫がやたらと干渉してきたのはこのせいか。
携帯を手に取ると、またも番号非通知の電話だった。嫌な予感がした。それでも放っておくわけにはいかなかったから、僕は通話ボタンを押す。
亜美からの電話だった。
「――こんにちは。今、どこにいるの?」
亜美の第一声がそれだった。
「リビングだよ。掃除と洗濯と昼ごはんが終わって、昼寝してたとこ。退屈な主夫のけだるい午後。君の方は、どこから?」
「さあ、どこだと思う?」
「どこか遠く。太陽系をずっと離れた、はるか彼方の小さな遊星」
「あら、今日は詩人なのね」
亜美がうふふ、と笑った。その笑い声に、どこか聞き覚えがあるような気がした。自分の若さを笑い飛ばされたようなものなのに、不思議と腹が立たないのは、何故だろう。
「だけどあなたの言うとおりかもしれない。ここはずっと遠くだもの。この気の遠くなるような隔たりを無視できちゃうんだから、電話って素敵ね」
そうかもしれない、と僕は曖昧に答えた。どうして亜美が突然電話を賛美し始めたのか、分からなかったからだ。相変わらず亜美が何をしたくて僕に電話をかけてくるのか分からないし、そもそも僕にはやはり、亜美が誰なのか分からなかった。
「それで、今日は何の用?」
「あなたの声が聞きたかったの」
「変なの」僕も少し笑う。「それじゃまるで、恋人同士みたいじゃないか」
「それもいいかもね。はるか遠くの遊星と、電話だけで繋がっている恋人。そんなのって何だか素敵だと思わない?」
冗談のレベルは彼女の方が一枚上手だった。
「――駄目だよ。それじゃ、メグミに叱られる」
「メグミさんって?」
「僕のパトロン。……いや、女だからパトロネスかな。メグミが外で働いて、僕は家事とセックスで奉仕する。そして僕は昼間の空いた時間に、完結しない小説をだらだらと書いている」
「若き文学者とそのよき庇護者ね」
「そうでもない。ただのジゴロだ」
僕は吐き捨てた。実際、メグミと僕との関係はまったく資本主義的な売買契約なのだ。僕はメグミに買われ、飼われているに等しい。以前メグミに僕のどこを気に入ったのか尋ねたことがある。メグミはためらわず、料理とセックス、と答えた。僕は文字どおり料理とセックスの腕を買われて、ここにいる。
「でもそれなら、今あなたに恋人はいないのね」
「そうだね、メグミは恋人と言うにはちょっと違う」そう言ってから僕は、テーブルの上の写真立てに思い当たる。「――いや、恋人はいるんだ。十年来の恋人。だけど彼女は十年前からずっと死人だ」
「死人?」
「十六のときに自殺したんだ。どうしてかは分からない。僕に一言のメッセージもなく、彼女は僕を置き去りにして一人で行ってしまった。それ以来僕は、彼女以外の女の子に恋をしたことはない。ずっと彼女に恋してる」
「かわいそう」亜美は呟く。「――でも、それから十年ずっと、その彼女のことを想い続けてるなんて、何だかとても素敵な気がする。こんな言い方したら、気を悪くする?」
「いや、大丈夫」
「よかった、ありがとう。ねえ、もしよかったら聞かせてよ、その彼女のこと。あなたの覚えてる、どんなことでもいいから」
亜美にこう言われて、僕は少々面食らった。どんなことでもいい、と言われた瞬間、頭のどこかで堤防が決壊して、彼女に関する記憶が洪水のようにあふれ返ってきたのだ。僕は何も言えなかった。長い沈黙があった。亜美は激流から人々を救うレスキュー隊員のように、慎重に切り出してきた。
「どうしたの?」
「……ごめん。ちょっと、泣いてた」
目をしばたたかせながらそう答えた。悲しくて涙が出たわけではない、ただ、ちょっと混乱しただけだ、と僕は思った。
「どうして、彼女は死んでしまったんだろう?」
それから僕はこう呟いた。受話器の向こうの亜美に向けた台詞ではない。それはこの十年まったく解明されていない、素朴な疑問なのだった。
「――さあ」亜美はそう言うより他にない、という風に言う。
「自殺する三日前に、僕は彼女に会ったんだ。何も変わらなかった。ただ僕も彼女も少しだけ緊張していたかもしれない。僕の部屋で、二人で音楽を聞きながら、何度か軽くキスした。そんなことはいつものことだった。それから――」今度は言葉が堰を切って激流になる。「――それから、僕らは初めてセックスをした。彼女は震えてたし、僕もまるで勝手が分からなかった。彼女はすごく痛がった。血が出ていた。終わってから彼女はずっと泣いてた。泣きながら服を着て、何か二、三言葉を交わして、最後に一回とても軽いキスをして、彼女は部屋を出ていった。それが、僕が彼女を見た最後だったんだ」
僕はそこで言葉を切った。亜美はずっと黙っていた。あるいは受話器の向こうには誰もいなくて、僕はずっと独り言を続けていただけなのではないか、そんな気すらしてきた。ややあって、小さなため息が聞こえた。亜美がいることを確認してほっとし、僕も少しため息をついた。
「もしあの時セックスをしなかったら、彼女は死なずに済んだのだろうか?」
そんな疑問を口にしてみた。およそあり得ない仮定。そうしたら僕は今頃、それこそ大手メーカーの経理でもやりながら、週末には彼女を助手席に乗せてドライブに出かけたり、ディズニーランドで手をつないで花火を見たり、夏の終わりの誰もいない海でキスを交わしたりしていたのだろうか?
「――分からないけど」亜美が答える。「たぶんあなたは、そんな問いの立て方をしてはいけないんだと思う」
その言葉はバラの棘のように、僕の胸をちくりと刺した。