amI ?
(07/21)
〈3〉
日を追うごとに、僕は自分の形状を保つのが難しくなってきている。今日の僕は猫で、猫が僕だった。僕の姿になった猫がメグミとセックスするのを、猫の姿になった僕がじっと眺めているのだ。射精の瞬間、よりによって猫の奴は「にゃあ」と声を上げた。
ところが猫とセックスしていたのは、メグミではなく彼女だった。十六のときの僕の恋人だった。猫の奴も示し合わせたように、十六の頃の僕の肉体をまとっていた。十六の僕の姿をした猫が、十六の彼女の膣の中に、避妊もせず射精しているのだ。なんてことをするんだ。僕は怒り狂って、爪を剥いて猫の背中に飛びかかった。猫は僕の首根っこをつまんでひょいと持ち上げた。それだけで僕の抵抗はすっかり無力化されてしまった。
「不妊手術を受けさせなきゃね」
彼女がメグミの声で言った。アーモンド大の睾丸を指先で弄ばれて、僕は激昂するが、首をつままれた僕は身動きが取れない。冗談じゃない、僕にだって主体的にセックスする権利があるんだ、身体的かつ精神的な自由の権利としてセックスの自由を認めろ。そんなことを声高に主張したが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「自分でコンドームつけられるようになったら、いくらでもセックスさせてあげるわよ」
またもメグミの声。ようやく猫が僕から手を離す。僕はコンドームの包装を爪でばりばりと引き裂いて開け、何とかそれを自分のペニスにかぶせようと試みた。だけど猫の姿になった僕のペニスは人間とは全然形状が異なり、前足の指も思うように動かず、コンドームにはすぐに爪で穴を開けてしまう。そんなことをしている間に彼女はもう、マンションの十一階から飛び降りてしまっていた。怒りと悲しみが入り混じり、もう何が何だか分からなくなって、僕は十六の自分の姿をした猫に飛びかかり、顔を引っかいた。猫は僕を再びつまんで持ち上げる。
「睾丸を切除するんです」獣医が出てきて説明を始めた。「精子が作られなければいいのですから、睾丸さえなくなれば陰茎が残っていても何の問題もありません。……セックス?交尾ですか?さぁ、勃起しさえすれば行為自体は可能だと思いますけどねぇ」
獣医が僕の股を広げる。やめろ。そう叫んだつもりだったが、僕の口から漏れたのは、にゃあ、という頼りない鳴き声だけだった。獣医の手にメスが閃き、そして。
気がつくと僕はいつもの教室で一人、先生の講義を受けていた。僕の肉体は僕のままだった。猫の姿ではなく、十六の僕でもなく、ちゃんと二十六の僕の姿だった。先生の話を聞きながら、僕はこっそり自分の睾丸が二つとも無事であることを確認していた。
「主体的、ほほう、主体的か」
先生は僕の言葉に何か感じたようで、しきりにうなずいていた。
「君は先刻、主体的、という言葉を使ったな。それも人間は主体的に行為し選択するのが自然である、という前提のもとに。だが少し注意した方がいい。君の言うような主体などという観念は、せいぜいデカルトからカント、ヘーゲルを経てハイデガーあたりまでででっちあげられた代物に過ぎない、ということを。市民革命の以前に、誰が君のように主体を想起することができたろう?少々レトリックに凝るならば、『アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が主体であったか?』と、まあ、そんなところだな」
先生の言うことはやはり僕には少々観念的すぎて難しいのだった。しかし先生は出来の悪い生徒に合わせて減速することはなく、いい調子で語り続ける。
「主体という単語は日本語に固有ではない。西洋哲学から翻訳された用語であり概念だ。英語ではsubjectと言う。ところでsubjectとは、"sub-"『下に』"jacere"『投げる』という語源から成立した語であり、もともとの意味は『下方に置かれたるところのもの』そこから転じて『臣下』というような意味を持つ単語であった。このことの意味が分かるかね?つまり、君は主体という語を自由で自律的な意思決定能力と同一視するが、本来そうではないのだ。subjectは元来、不自由な服従と不可分な、臣下であったのだ。したがって、マルクス=レーニン主義の唯物論的傾向を批判し、ヘーゲル哲学の影響から人間主義を採り入れた『主体思想』なるものが、資本主義陣営の我々から見れば不自由極まりないような独裁体制の成立に寄与したのは、単なる偶然ではないと言えるのではないかな?」
「ええと、ごめんなさい」僕は手を上げた。「今の話は、これまでの話とどうつながるのか、ちょっと頭の中で整理できないんですけど」
「うん?ああ、そうか、少々急ぎすぎたらしいな。つまりこういうことだ。デカルトがコギトを発見して以後、あるいはカントの三批判以後、主体こそが人間存在の中心であり、人間の本質であるかのように考えられてきた、ある種の伝統がある。君の言う主体性というのも、この伝統の影響下から発せられた語であると言えそうだな。しかし、ここで少し疑ってみてほしい。果たして主体こそが人間の本質なのだろうか?人間に主体的行為が可能であることは認めてもよいかもしれないが、しかし人間と主体を同一視することは許されるのか?そもそも、真に自律的な主体など可能だろうか?主体とは本来的に臣下としての服従を内包するものではないのか?――まとめて言えば、前に挙げた問い "What am I?" に対して、『私は主体である』ではまるで答えにならないのだ、と、そういうことを言いたかったのだが」
「はぁ」
僕は間の抜けた返事を返した。ともかく、主体的という単語を不用意に用いたのはまずかったらしい。しかしそれでは、僕に主体的にセックスする権利はやはりないのだろうか。主体=臣下。主体的なセックスとは臣下としてのセックスに他ならないのか。去勢された僕。
いつものドラム缶と金属バットが僕の目を覚ましにきた。頭に缶をかぶせられてぐわんと殴りつけられると、その拍子に頭の中でりりりりり、りりりりり、と電子音が鳴り響いた。知ってる、これは、遊星からのメッセージだ。SOSを受信しました、SOSを受信しました……。頭のどこか別の場所で猫がにゃあと鳴いた。