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(06/21)
〈三〉
「あら、起きちゃった」
メグミは笑う。時計は朝の七時を示していた。きっちり着ていたはずの僕のパジャマは脱がされていて、勃起したペニスの横にメグミの顔があった。さっきまでフェラチオをされていたらしい僕のペニスはメグミの唾で濡れて、朝の日光を反射し、金属のように光沢を放っている。
背中にびっしょりと汗を感じた。ひどい夢を見ていたものだ。傍目にも僕の様子は尋常でなかったらしく、どうしたの、とメグミが尋ねる。悪い夢を見てたんだ、と僕は答えた。
「どんな夢?」
「君にペニスを食べられる夢さ」
それじゃ正夢じゃない、とメグミは言って、僕のペニスを指先でぴん、と弾いた。
連日、同じ夢を見ている。白い顎ひげの「先生」が、教室に僕と二人きりで講義をしている夢だ。メグミにその話をしたら、学生時代に戻りたい願望でもあるんじゃないの、と笑われた。だけど僕は高校でも大学でもそんな先生に教えを受けた記憶はないし、そもそも講義の内容が哲学っていうのもおかしい。僕は大学では法律を専攻していたのに。
今日は土曜日でメグミは休日だった。僕らは朝の七時から十一時までの間に三回セックスをして、セックスが終わるたびにまた少し眠った。十一時になってようやく僕は起き出してきてスパゲティーを茹で、あさりの缶詰で安っぽいボンゴレ・ビアンコを作ってブランチにした。
「あんたさ、どうして就職しなかったの?」
スパゲティーをまるで日本そばみたいにずるずる音を立ててすすりながら、メグミが唐突に尋ねてきた。
「ありきたりの物語に回収されたくなかったんだ」
僕はそう答えた。メグミはにやり、と唇の端をつり上げる。若いわね、とでも言いたいのだろう。別に気にしない。自分が十六の頃から全然進歩しない青二才であることは、僕も十分自覚している。
地方の国立大学の法学部に五年通った。勉強熱心だったためではない。必修のフランス語の試験を寝過ごして、二年次に留め置きを食らったからだ。大学生活五年目にしてようやく四年生になった僕は、就職活動に汗を流す同輩たちを尻目に、ヘーゲルやマルクスやハイデガーを図書館で借りてきては最初の五ページで挫折する、そんな毎日を過ごしていた。両親への義理立てで、少しは将来のことを考えているように見せかけるために、司法試験と国家公務員一種試験を受けて、めでたくどちらも不合格をもらった。小説を何本も書いて片端から新人賞に送り、そのうちの一本が一次審査を通過して、二次審査で見事に落ちた。大学を卒業して東京に戻り、牛丼屋の厨房やビル掃除や家庭教師といったアルバイトをしながら、もう一度司法試験と公務員試験を受けて、やはり全部落ちた。書きかけの小説が何本もあったが、ひとつも書き上がらなかった。
去年、大学の同窓生から、結婚式の案内状が届いた。経営の傾きかかった地方銀行に就職して、苦労しながらなんとか上手くやっているらしい。僕は彼に電話をして、おめでとう、とだけ伝え、結婚式には出席しなかった。彼は立派だ、と思う。だけど僕が彼の真似をしたら、きっと早晩発狂するに決まっているのだ。
そんなことをしているうちに、ただのフリーターから少しだけ出世して、メグミのヒモ、という安穏な地位を手に入れたのだ。居酒屋の皿洗いというアルバイトをしている頃、仕事を終えて家に帰ろうとして、ふと、ゴミバケツの横で野良猫みたいに丸まっているメグミを見つけたのだ。五年来の恋人にあっさり別れ話を切り出されてやけ酒を飲んでいたメグミは、すっかり酔いつぶれてゴミ捨て場で嘔吐していたのだ。僕は吐瀉物にまみれながらメグミをマンションまで送ってやり、そのままメグミの部屋に引きずり込まれ、一回セックスをした。翌朝、二日酔いのメグミが起きてくる前にご飯と味噌汁を用意してやって感激され、三日後に夕飯をご馳走され、一週間後に再びセックスをし、半月後には僕はもうメグミのマンションに同居することを許されたのだった。
振り返って思う。――まったく、これもありきたりの物語ではないか。たとえば大学卒業後、大手メーカーの経理でもやっている僕の姿が想像できるとするならば、それも相当に胡散臭いが、しかし現在のこの僕の状況だって、同じくらいには胡散臭いのではなかろうか?昼のテレビドラマでも採用しないような、嘘くさいありきたりの物語。ありがちな物語を拒否して逃げ続け、行きついた先がこれだ。四つ年上のキャリアウーマンのヒモ。なんて安い人生を送っているのだろう。せいぜい今の状況のましな点と言えば、それが自分の主体的な選択によって得られた境遇であるということだ。――主体的な選択。
何のことはない。僕はまだ肥大した自我を持て余している。
午後になると途端に退屈になった。適当にテレビを見たり音楽を聴いたり猫を構ったりしていたが、そのどれも十分足らずで飽きてしまった。メグミも退屈してるみたいで、そのうちどちらからともなく、暇つぶしのセックスを始めてしまった。立て続けに二回射精したところで、コンドームの買い置きを使い果たした。まだ退屈し続けているメグミのために、僕は近所の薬局までコンドームを買いに行くことになった。避妊は重要だ。僕らの生活はすべてメグミの給料の上に成り立っているのだから、予期せぬ子宝を授かってしまうわけにはいかない。去勢された僕。
十六の頃は避妊のことなんて何も考えていやしなかった。彼女と初めて体を重ねたとき、僕は行為そのものに夢中で、その後のことなんか考える余裕はまったくなかったのだ。その結果が彼女の自殺なのだとしたら、僕のしたことは若さゆえの過ちとして許されるようなものではないのかもしれない。ともかく今では僕は、避妊を十分徹底しているばかりか、メグミの表情を見ながら射精のタイミングまでコントロールできるようになった。去勢された僕。
帰ってみると、メグミは下着姿で眠っていた。わざわざコンドームを買いに行かされた自分の立場がない。仕方がないのだ。僕はメグミがセックスしたいときにはどんなに体調が悪くともセックスしなければならないし、メグミがその気でないときはどんなにセックスしたくとも我慢しなければならない。ことセックスに関する限り、ここでは僕の主体性は否定される。去勢された僕。
何か肩透かしを食わされたような不愉快な気分になり、僕は自分に可能な唯一の主体的性行為を始めた。つまり、寝ているメグミの横でマスターベーションを始めたのだ。
豊満なメグミの身体を眺めながら僕は、未熟な十六の彼女の裸身を必死で思い出して、マスターベーションをした。射精の瞬間にメグミがごろりと寝返りを打った。それから猫がにゃあと鳴いた。反射的に振りかえると写真立ての彼女と目が合った。こんなときでも写真の彼女はとびきりの笑顔だった。どれもこれも僕の敗北感を高めるのに一役買ってくれた。