amI ?
(05/21)
〈2〉
ふと気づくと僕には肉体がなかった。僕を形作っていた分子たちが僕の形相を忘れて、思い思いに浮遊し拡散し始めたせいだ。増大し続けるエントロピーに、僕は逆方向の力を与えてやらなければならなかった。
帰ってこい!
念じると僕の肉体の分子たちは、それぞれの役割を思い出したように僕のところに戻ってくる。ところが僕のペニスだけが、帰ってくる場所をすっかり忘れてしまったようで、僕の肉体と全然関係ないところでペニスの形状を取り戻して、浮遊していたのだ。飛び回るペニスとそれを追いかける僕。どこへ行く、お前は僕のペニスだ、帰ってこい。呼びかけてもペニスは聞く耳を持たない。当たり前だ、ペニスに耳はない。
そのうち僕のペニスをラグビー選手のようにキャッチしたのは、裸のメグミだった。メグミは僕のペニスを片手に、勝ち誇ったように笑う。僕はメグミのところに駆け寄ろうとするけど、いくら走っても追いつけない。ペニスは僕の意思と無関係に勃起した。メグミは僕のペニスを食べ始めた。先端から食いちぎり、ゆっくり咀嚼して飲み込む。去勢された僕。
一瞬の後、僕は誰もいない教室の最前列の席に座っていた。ズボンの上からペニスを確認する。大丈夫、陰茎も睾丸もちゃんとある。前方のドアが開き、先生が入ってきた。真っ白な髪とひげ、黒ぶちの眼鏡。挨拶もしないで、先生は突然僕に質問を投げかけてくる。
「アウグスティヌスを読んだことはあるかね?」
ありません、と僕は答える。
「まったく、最近の学生は嘆かわしいな。中世を軽んじすぎている。プラトン、アリストテレスから先は、ルネ・デカルトまで時代が飛んでしまう。そんなことじゃいかんよ。哲学は連続する知の積み重ねなんだ。たとえば君はアーレントを読むだろう。彼女は人間生活を理解する基本としてギリシアのポリスを置くが、当たり前だがポリスから突然市民革命が起こったのではないから、アリストテレスだけを読んでアーレントを分かった気になるのはまったくの誤解だ。実は彼女の思想を理解するためには、ヨーロッパ世界の必然としての中世、これに対する理解が不可欠なんだ。そのアーレントがアウグスティヌスについて言及している個所で、少々気になるセンテンスがある。今日はこの辺りの話から始めようと思ったのだが」
先生はずり落ちてきた眼鏡を直しながら僕を見た。
「ちゃんとついて来ているかね?」
「あ、はい。大丈夫です」
「よろしい。君は先日私に『あなたは誰なのか』と尋ねたな。この問いの射程を明確にしたい。まず、同じ問いを君に返そう。君は、誰だ?」
僕は答えられなかった。
「この問いを困難にしているもののひとつに、実は翻訳が本来的に内包する問題があるんだ。そうだな、『われわれは誰なのか?』この問いを、英語に直してごらん」
「……"Who are we?" ですか?」
「その通りだ。しかし、この形で見れば、先程の日本語の問いとは少し違ったものになっていることが分かるだろう。"Who are we?" この問いは、既に我々が "who" 、『誰か』であることを前提にした問いだ。先刻、君は誰だ、と尋ねられたとき、君が咄嗟に返答することを困難にした何かは、この "Who are we?" という問いには含まれていないのではないかね」
「……『われわれは誰なのか』と "Who are we?" が異なることは分かります。でも」
「それだけ分かっていればよろしい。アーレントはこう説明する。アウグスティヌスは "Who am I?" と "What am I?" という問いとを区別している、と。日本語で尋ねたときは、この両者が明確に区分できていなかったために、ある種の混乱が生じていたのではないかな」
「その二つの問いは、どう違うのですか?」
「直後でアーレントはこう書いているな、前者は人間が自分自身に向ける問いであり、後者は神に向けられた問いであると」
神、という単語を耳にしたとき、僕は反射的に目をつぶった。その単語はどうもよく分からない、ピンとこないのだ。先生は叱咤するように言った。
「君は、神と聞くと途端に拒否反応を示すかもしれない。もちろん私も、君をキリスト教に改宗させようとするつもりは毛頭ない。だが考えてみたまえ。古来こうした人間存在に関する問い、いわゆる人間学的問題が、神の概念を導入せずに解決したためしがあったろうか?多くの哲学者がこの問題と格闘し、そしていつも、新しい神を創造して終わった。私は神の存在非存在を問題にしたいのではない、ただこの種の問いが『神の領域』にあることを認めなければなるまい、ということを言いたいんだ。つまり君がどれだけ頑張っても、"What am I?" という問いに満足のいく答えを返すことはできないだろう、と」
「だけど先生――」それじゃそんな問題を考えることはまったくの無駄なのか、と僕は尋ねようとした。が、突然下半身がむずむずしてきて、それどころじゃなくなったのだ。こんな時だというのに、ペニスが突然膨張を始めたのだ。まったく僕のペニスは僕の意思に従おうとしない。いったいこれは、本当に僕のペニスなんだろうか?これは、僕なのか?
先生が何か話を続けている。だけど僕の意識はペニスに支配されていて、先生の話を聞くどころじゃない。僕は前かがみになってペニスを押さえつけながら、それでもどうにか先生の話を聞き続けようと努力していたのだ。だが奮闘むなしく、射精感はどんどん高まっていく。
誰かがまたドラム缶を僕にかぶせて殴りつけた。ぐわーん。先生の姿も教室も僕のペニスも全部、ブラック・アウト。