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(04/21)


〈二〉

 動物病院から連れ帰ってきてしばらくの間は、まだ麻酔が残っているのか、猫は元気がなかったが、そのうち徐々に元気を取り戻してきたようなので、僕はひとまずほっとした。いつものキャットフードに加えて、鶏のささみを湯がいたものを与えたら、食欲旺盛とは言わないまでも、それなりによく食べた。
 不妊手術は簡単だった。獣医の説明によると、陰茎を残したまま睾丸だけを切り取るらしい。理論上は勃起さえすればセックスの行為そのものは可能なはずだが、実際問題として、それはやはり不可能になってしまったように思えた。睾丸切除後の男性ホルモンの分泌量が少ない状態で猫に発情期が訪れるか、ということもあるが、それ以上に、もし僕が猫だったら、睾丸を切り取られたことでたちまちインポテンツに陥るだろう、と思ったのだ。
 ひとまずこうして餌を食べたり毛づくろいをしたりしている限り、猫は今までと何ら変わっていないように見えた。だけどこの猫には今日、不可逆的な変化が訪れたのだ。今日を境に猫はもうセックスの楽しみも射精の快感も味わうことができなくなった。文字通りの愛玩動物。もはや家畜と同じだ。家畜がその肉でもって僕らの犠牲になるのと同様、ペットはその生活のすべてでもって僕らの犠牲になるのだ。
 去勢された猫。
 そのフレーズがあまりに違和感がなさすぎることに、僕は却って違和感を覚えた。去勢された猫。去勢された牛、とか去勢された羊、とかいうフレーズを並べてみて、僕はやはり猫が昨日までの猫とは違うことを知る。昨日まで彼はこの家の家族だった。今日から彼はただの愛玩動物と化す。去勢された猫。
 去勢された僕。
 そんなフレーズを隣に付け加えてみて、僕は戦慄した。想像した以上に違和感がなかったのだ。僕は自分が猫と一緒に去勢されて、この部屋で並んでメグミに可愛がられている姿を想像した。想像できてしまった。
 切り取られた睾丸はそれが猫のものであったことを記憶しているだろうか。ふと僕はそんなことを考えた。僕は服の上から自分のペニスの外形を探ってみた。――間違いない、これは、僕だ。僕のペニスだ。だけどもしこのペニスが切り取られてしまったら、それは僕だと言えるだろうか?それはもはや僕のものではなくなるのだろうか。それでは僕にとってペニスが僕のものでなくなったとき、ペニス自身は僕のことを覚えているのだろうか。去勢された僕。そのとき僕は家畜同様の愛玩動物となり、その生涯をかけてメグミに奉仕するだけの存在となるのだろうか。去勢された僕。
 メグミはまだ仕事から帰ってこない。僕は自分のペニスを確認するように一回、マスターベーションをした。


 それから僕は昼間の電話のことを考えた。亜美、と名乗るその女の子に、僕は何の心当たりもない。何かを見透かしたような口調と、僕を弄ぶような論調。彼女は、誰なのだ?その問いを反芻するうちに僕は、昨夜見た夢のことをふと、思い出していた。だけど先生、あなたは、誰なのです?
 この半年、僕はメグミと猫と写真立ての彼女だけを、他人として認識していればよかった。それなのに亜美は突然、閉め切られたドアを乱暴にノックするように、僕にコネクトしてきたのだ。コネクト。接続。携帯電話の電波がロープみたいに伸びてきて僕を亜美と結びつける、そんな感じ。
 亜美。アミ。フランス語なら「友達」って意味だ。――この宇宙のどこかから僕のお友達が、僕に接触を試みています――。目に見える電話線を持たないこの携帯電話は、何だか大気圏を超えて遠く離れた遊星との交信を可能にしているような、そんな印象を与える。実際亜美は、僕に向けて電波を発信するより前に、僕の発したSOSを受け取っていたというのだ。
 ふと、どこかから監視されているような気がして、僕はきょろきょろと部屋の中を見回した。僕のことを見ているのは、猫と写真立てだけだった。


 メグミは残業があったらしく、夜の十時過ぎに帰ってきた。メグミがシャワーを浴びている間に僕は作っておいたビーフシチューを温め直し、十一時に二人で遅い夕食を食べた。メグミは食事中に缶ビールを一本開け、食後に煙草を二本吸った。
 それから僕らはどちらからともなく、当然のようにセックスを始めた。勃起したペニスをメグミに握られたとき、僕は突然、自分が去勢されるのではないかという恐怖感に囚われた。ペニスは萎え、それを見たメグミは眉をひそめてこう尋ねてきたのだった。
「調子悪い?」
「そういうわけじゃないと思うんだけど」僕は弁解する。「猫の去勢を見て、何か少しナーバスになってるのかもしれない」
「その程度で、いちいちダメにならないでよ」
 メグミは苦笑する。だけど僕にとって、それは「その程度」ではなかったのだ。去勢された猫。彼を家族の一員から愛玩動物に押し下げたことに、メグミはどの程度自覚的なのだろうか?
「もしも僕にペニスがなかったら、君は僕を嫌いになる?」
 僕は尋ねた。
「さあね」メグミは魔女のように笑う。「だけどとにかく、あんたのペニスは好きよ」
 メグミはペニスを口に含み、舌先で亀頭を刺激し始めた。僕のペニスは僕の意思と関わりなく、再び勃起を始めた。メグミは満足げにペニスを膣の奥に押し込んだ。これは、僕だろうか?僕は少し不安になった。