amI ?
(03/21)
〈T〉
「おはよう」
女性の声。僕は持てる限りの推理力を駆使して、電話の主を特定しようとした。およそ二秒間の推理の結果、僕はひとつの結論に達した。つまり、間違い電話。
「どちらにお掛けですか?」
僕がそう尋ねると、意味ありげな含み笑いが返ってきた。電話の向こうの彼女は、僕の名前と電話番号を正確に、軽快にそらんじて見せた。僕は頭を抱えたくなる衝動に駆られた。彼女は、誰なのだ?この半年ほど僕は、メグミ以外の女の子と話をした記憶がない。間違いでもないのに僕の携帯に電話してくる知り合いなんて、いるはずがないのだ。
「ごめんなさい、僕にはまだあなたが誰か分からない。どちらさまですか?」
今度の僕の質問には、彼女は露骨な笑いで応じた。
「その質問には、どう答えたらいいのか分からないわね。だってあなたは、あたしのことを何も知らないんだもの。あなたが知りたいのは、あたしの何?名前と生年月日とスリーサイズを聞いたら、あなたはあたしのことを分かったつもりになる?」
ずいぶん意地の悪い返答だと思った。それで僕は押し黙っていた。しばらく石のように沈黙を続けていると、ようやく彼女は折れたようで、自分の名前を教えてくれたのだった。
「もしあなたがあたしについて何か考える上で、あたしに名前があった方が便利だっていうのなら、教えといてあげる。あたし、アミって言うの。アジアの亜に美しいって書いて、亜美」
亜美。その名前にもやはり、覚えがない。亜美。彼女はいったい、誰なのだろう?どうして、僕に電話をしてきたのだろう?
「あなたの声が聞きたかったの」亜美はそう言った。「それに、何だかあなたがすごく悩んでるような気がして。力になってあげたかったの」
悩んでる?僕が?
「――悩みなんて、ないよ」少し強がって僕はそう返した。「悩む必要はないし、悩むほどの気力だってない。猫と遊んで食事の支度をしてセックスをして眠る、たったそれだけの生活のどこにも、悩む余地なんてない」
「だけど悩む暇はあるんでしょう?」
言い返せない。
「どうしてかな、突然、あなたのSOSみたいなのを感じたのよ。第六感とか虫の知らせとか、そんなやつかもしれない。あなたがすごく悩んでて、何について悩んでいるのか分からないぐらいで、そのことでまた悩み出すくらいに悩んでる、そんな気持ちがあたしにも伝わってきたの」
意識のどこか遠く端っこの方で、猫がにゃあと鳴いた。
「解体するのよ、全部。水面下にひそむ見えないものを全部引っ張り出してぶちまけるの。あなた自身の中にある、あなたが無意識のうちに見過ごしているものたちを、拾い上げてばらばらにして、もう一度組み立てなおすの。それがあなたにできる唯一の解決法。あたしはそれのお手伝いができるわ」
亜美はひどく観念的なことを言った。頭が痛い。何を言われているのかよく分からない。なのに胸がどきどきして、口が乾いた。何か意識が拡散していくような感じで、集中力が維持できない。考えがまとまらない。猫が鳴く。にゃあ。
「だけど、まだ分からない」どうにか僕はそんなことを言った。「どうして君は僕に電話をしてきたのか。そしてやっぱり、君は誰なのか。僕には分からない」
「あたしが誰かなんて、あなたには分からないわ。だけどそれでも、こうして電話することはできるし、お互いに話をすることもできる。そっちの方が大事だと思うの。そうじゃない?」
「――よく分からない」
猫がまた鳴く。にゃあ。
「だって、そうでしょう。それこそ、名前と生年月日と血液型と趣味と資格と学歴と、そんなものをお互い自己紹介して、それだけでそれぞれ相手のことを分かったようなつもりになる。そんなコミュニケーションって、あなたの一番嫌いなものじゃないの?あたしが誰かなんて、あなたには分からないの。でもそれでいいのよ。大事なのはあたしが誰なのかという結論ではなくて、あたしが誰か考える、そのプロセスの方なの」
「にゃあ」僕はそう答えた。