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(02/21)


〈一〉

 目が覚めたとき、僕の肉体は死んでいた。腕も脚もまったく感覚がなく、まるで他人のものみたいだった。こうして見ると肉体というのは完全にモノなのだな、と思いながら、ともかく僕は怠慢な心臓に喝を入れるところから始めなければならなかった。
 動け!
 強く念じると、僕の心臓は射精するときのペニスのようにどくん、と力強く脈打った。その瞬間に毛細血管の先の先までさぁっと血液が行き渡り、僕の身体は再び僕のもとに帰ってきたのだった。僕は起き上がって、顔やら胸やら太股やらを手でさすってみた。大丈夫、これは、僕だ。
「あら、起きたの?」
 僕の隣に寝ていたメグミが、目も開けずにそう言った。僕は返事をせず、裸のまま洗面所へ起き出していって、顔を洗った。ふと顔を上げると、亡霊みたいにひどい顔の男が鏡の中にいた。まるで自分じゃないみたいだった。僕は自分の頬を両手で挟み込むようにぱちん、と叩いた。大丈夫、ちゃんと痛い。大丈夫だ、これは、紛れもなく僕だ。二十六年間飽きもせずに付き合ってきた、紛れもない僕の顔だ。
 僕がベッドに戻ると、メグミは寝起きにも関わらず、僕のペニスに舌を這わせてきた。少し呆れながら僕は、彼女のぐしゃぐしゃの髪を手でといてやる。彼女の口の中で、紛れもない僕自身のものであるペニスは、この日最初の射精をした。


 今日は彼女の二十六の誕生日だ。朝食の支度を終え、猫にもミルクをあげると、僕はテーブルの上の写真立てに、おはよう、と言ってみた。最高の笑顔が返ってきた。それから僕は試しに、お誕生日おめでとう、と話しかけてみた。同じように最高の笑顔が返ってきた。
 十六のときに彼女は、歳をとるという作業を永遠に放棄した。おかげで僕だけが一方的に老け込んでいく。あんまり悔しいものだから、彼女の誕生日だけは忘れないようにしているのだ。写真立ての中の彼女はそんな僕の抵抗をあざ笑うかのように、十六のときのそのままの笑顔で、常に僕に笑いかけてくるのだった。
「写真を置いとくのは構わないけど――」
 シャワーを浴びていたメグミが出てきて、バスタオルで頭を拭きながら言った。
「――さすがに、写真に話しかけるのは、そろそろ卒業しない?」
「気をつけるよ。明日から」
 絶妙のタイミングで、トースターが狐色になったトーストを吐き出した。バターとマーマレードのどちらがいいか僕が尋ねると、両方、とメグミは答えた。僕が冷蔵庫からバターとマーマレードを取り出してきて並べる間に、メグミはもうテーブルについていて、半熟のオムレツをフォークで突き崩している最中だった。
「食事中だけは、どっか別の方を向けといてくれないかな。見られてるみたいで、なんか嫌な気分」
 メグミにそう言われて、僕は写真立てをテーブルに伏せた。が、ふと思い直して、すぐに元に戻す。メグミはひどく苦い薬を飲んだときのような顔をした。僕は弁解する。
「ごめん、今日だけ大目に見てくれないかな。今日は、特別なんだ」
「何が?」
「彼女の誕生日なんだ、二十六歳の」
 メグミは何も言わず、渋い表情のまま、バターとマーマレードをたっぷり塗ったトーストにかじりついた。口の周りをべたべたにしたまま、トーストを咀嚼して飲み込むとすぐに、パンの粉が飛び散りそうな剣幕で言う。
「何度も言うけどさ、自分以外の女の写真を部屋に飾らせておく人なんて、そうそういるもんじゃないのよ」
「分かってる。感謝してる」
「まああたしは、あんたに愛情とか献身とかそんなものを、最初から求めちゃいないんだけど。でもさすがに、度を過ぎると気に障ることもあるのよ。スポンサーの機嫌を損ねないようにするのが、正しいジゴロのあり方だと思わない?」
「君の言うとおりだ。僕が間違ってる。だけど、今日だけ許して欲しいんだ。だって今日は彼女の誕生日なんだから。これって、わがままかな?」
「どうしようもないわがままよ。――まあでも、仕方ないわね。あたしはあんたのその幼稚なところが好きなんだし。好きにすればいいわ、あたしの可愛いお馬鹿さん」
 メグミは椅子を九十度回転させ、写真立てに背を向けた。
 トーストと野菜スープとオムレツを食べ終えると、僕は大きなポットに一杯コーヒーを淹れた。自分の飲みたい分だけを自分でカップに注ぐのが、僕とメグミの間に確立された流儀だ。メグミはコーヒーを片手に朝のワイドショーを見ながら、僕の方を見ずに話しかけてきた。
「その写真の彼女は、いつ死んだんだっけ?」
「十年前。僕も彼女も十六だった。高層マンションの十一階から飛び降りて死んだんだ。自殺だ。なのに遺書もなかった」
 思い出す。まったく、もう十年も前のことなのだ。その頃僕らはあまりにも幼すぎて、自分たちのしていることの意味を何も知らなかったのだ。そして彼女は十六のまま成長するのをやめた。僕は十六の頃からろくに成長もしないまま、いつの間にか二十六になって、ここにいる。
「そうだ、何もかも覚えてる。彼女が死ぬ三日前に、僕と彼女はセックスをしたんだ。僕は童貞で、彼女は処女だった。僕はすごく下手くそで、そのせいで彼女はずいぶん痛がった。僕が最後に見た彼女は、真っ赤な染みのついたシーツを前にして、泣いている姿だった。それから三日間、僕らは会わなかったんだ。そうしたら、彼女は三日後に死んでしまった」
 メグミは僕の話を聞きながら、何の反応も示さない。テーブルの下を、猫が通りすぎようとした。メグミは猫の首根っこをつまんで持ち上げ、膝の上に乗せて背中を撫でつけながら、当然のように話題をそらした。
「昨日、お隣から苦情がきたのよ。猫を放し飼いにするのはやめなさいって。知ってるでしょ?隣の部屋、こんな大きな猫飼ってるの。ヒマラヤン、って言ってたかな。毛がすごく長くてふわふわのやつ」
「自分とこでも飼ってるくせに、他人の猫が歩き回るのは許せないって?」
「自分のとこで飼ってるから嫌がるのよ。ほら、うちの子、牡猫でしょう。お隣のは牝だから。得体の知れない雑種の子孕まされちゃ困るって」
 猫はぴょん、とメグミの膝から飛び降り、僕の足元に駆け寄ってきた。うちの猫はメグミの膝が嫌いだ。僕の膝の上では居眠りも毛づくろいもするのに、メグミの膝の上では五分と我慢がきかない。
「だからさ、うちの子に不妊手術受けさせようかと思ってるのよ。窓の開け閉めにいちいち神経質になるより、その方が安心だと思って。お金渡すからさ、今日にでもちょっと動物病院に行ってきてくれない?」
「不妊手術って……要するに、去勢すること?」
「まあ、そんなとこかな」
 僕はさっきメグミがしたように、猫の首の後ろを掴んで持ち上げた。全身の力が抜けて、干物のようにだらりとぶら下がった猫の股間には、アーモンドくらいの可愛らしい睾丸が二個、確かについていた。僕は何だか哀れな気持ちになった。
「人間って身勝手だな。猫だってセックスもしたければ、射精もしたいだろうに。僕らはこの猫にしたいときにセックスさせる権利すら認めてやることができない」
 独り言のふりをして、僕はメグミに聞こえるよう呟いた。
「猫が自分でコンドームつけられるようになったら、いくらでもセックスさせてあげるわよ」
 面白くもなさそうに、メグミが冗談を言った。本当に面白くなかったので僕も笑わなかった。


 メグミが仕事に出かけていくと、僕はすぐに電話帳で動物病院の番号を調べ、電話をかけて午後からの予約を取った。その間に猫はテーブルの下で落ち着いて、全身の毛づくろいを始めていた。後足を広げて股間を舐めている猫の姿は、まるでマスターベーションしているみたいに見えて、僕はますますいたたまれない気持ちになった。この猫はこれから去勢されるのだ。射精するときのあの快感を、彼は二度と味わえなくなるのだ。
 それから僕は、彼女の写真が入った写真立てを流し台の横に置いて、皿洗いを始めた。皿を洗いながら僕は、レベッカとバービーボーイズとブルーハーツを適当にごっちゃにしたものを口笛で吹いた。彼女の好きだった音楽。全部覚えてる。音楽だけじゃない、彼女の好きなものは何だって覚えていた。学校帰りに坂の下の喫茶店でひと休みするのが好きだった。そんなときはいつだってミルクティーとレアチーズケーキと決まっているのだ。晴れた日曜日に公園に行き、レジャーシートに寝転がって、一時間だけ本を読んでから二時間昼寝するのが好きだった。読んでいる本は童話であったり、SFやミステリーであったり、時には漫画であったりもした。
 彼女の背はあまり大きくなかった。僕の近くに立つとちょうど彼女の頭のてっぺんが僕の鼻先に来て、僕はくすぐったくてくしゃみをしそうになるのだった。彼女はいつもフローラルの香りのシャンプーを使っていた。うなじのところにほとんど色のない産毛が生えていて、そこを撫でると彼女はとても嫌がるのだった。
 こんなに彼女のことを覚えている。なのに僕は、彼女の名前を覚えていない。
 どうしてしまったというのだろう?彼女が死んでしまったその日の晩、僕は二度と抱くことのできない彼女の裸身を思い浮かべながら、何度もマスターベーションをした。涙も精液も枯れ果てて、疲れきって眠り、翌朝目覚めてみると――彼女に関するおびただしい量の記憶の中で、ただ彼女の名前だけが、すっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。名簿とかアルバムを開いて確認しても、その時は確かにそこに書かれているのが彼女の名前であることを認識しているのに、閉じた途端にもう、僕は彼女の名前を言えなくなっているのだった。
 皿洗いが終わって蛇口を閉めると、僕は彼女の写真に、ごめんよ、君の名前をどうしても思い出せない、と話しかけた。十六歳の彼女はそんなことは何でもないかのように笑っていた。実際、何でもないのかもしれない。
 それから僕は猫と遊んでやることにした。この後彼に振りかかる災難のことを考えると、何か放ったらかしにしておくのが申し訳ないような気がしたのだ。猫じゃらしを鼻先で揺らしてやると、猫は欲求不満を発散させようとするかのように、自棄気味に飛びついてきた。
 猫との次の遊びを考えている最中に、電話が鳴った。部屋の電話ではなくて、僕のポケットに入っている携帯電話だ。メグミが何か忘れ物でもしたのだろうか。液晶画面を見ると、番号が非通知だった。おかしい。メグミの携帯からなら非通知でかかってくるはずはない。だけど僕の携帯はメグミが緊急連絡用に買って渡してくれたもので、メグミ以外に番号を知っている人がいるようには思えないのだ。誰からだろう?考えても分かるはずがないので、僕は通話ボタンを押した。
「――はい、もしもし?」
「もしもし。おはよう」
 応じたのは、聞き覚えがあるともないとも言い難い、特徴のない女性の声だった。