アフター・ザ・ワールド・エンド
(01/04)

 最後の瓦礫を押しのけて、外へ出た。スカートがすっかり煤まみれだ。体のあちこちが痛い。正直、何が起こったのかよく分かってなかった。なんかの拍子に上手いことどっかの窪みに嵌まって、それで難を逃れたらしい――と想像してるけれども。
 目の前には平坦な眺めが広がっている。どっかで見た光景だな、とあたしは思った。歴史の教科書に出てくる、大空襲後の東京とか、原爆投下後の広島とか、そんな感じだ。高層ビルがすっかり取っ払われたおかげで、ずいぶん空が広く感じる。その空はやけくそ気味に真っ青で、真夏の太陽はもう、地面でバーベキューが焼けそうなくらいに晴れまくり。
 こんな風に『おしまい』が来るなんて思ってなかった。
 鏡もブラシもハンカチも携帯も、鞄ごと瓦礫の山に飲み込まれてサルベージ不能。冷たい水が一口飲みたかったけど、この状況じゃ冷たい水どころか、ぬるま湯だって調達できるか分かったもんじゃない。
 ずいぶん冷静に事態を把握できてるじゃない、と自分でも思う。見渡す限り、人間の姿はない。もしかすると、この世界で生き残ってる人間は、あたし一人かもしれない。何もなくて、誰もいない。それにしちゃ、あたしはずいぶん落ち着いてる。
 だけどいったいぜんたいどうして、あたしなんかが生き残っちゃったんだろう。神様がこの空のどっかにいるんだったら、ひどい勘違いをしてる。この世界にはあたしなんかよりもっと、生き残るべき人間がいたはずなんだ。だけど現実には生き残ったのは見る限りあたし一人で、周りには少々の死体と瓦礫の山。きっとこういうのを「神も仏もない」っていうんだ。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。思い返してみる――


 クラスの男子の間で『おしまい』の話題が口に上るようになったのは、せいぜいここ数ヶ月のことだ。最初は、ムー大陸やアトランティスと大差ないくらいの、有名な絵空事の域を出なかった。だけどそのうち『おしまい』の到来は、富士山がいずれ噴火する、というのと同じ程度には、信憑性を帯びたものになった。それが明日なのか一千年後なのかは分からない、だけど、いつか必ず起こる――。
 そんな話を聞いたって、正直ピンとこなかった。『おしまい』は明日来るかもしれない、十日後に来るかもしれない、百年後に来るかもしれない。そんなことはあたしという個人に当てはめたときには、明日死ぬかもしれない、八十年後に死ぬかもしれない、っていう当たり前のことに過ぎない。
「でも実際、オレらだっていつ死ぬか分かんねーわけじゃん?だったら、将来のこととか考えるよか、今楽しーこと考えた方が良くねー?」
 そんなことを口走ったのはタクトのバカだ。放課後の教室で何の前触れもなく唐突に「オレと付き合わねー?」とか安易なくどき文句であたしに迫ったホンモノのバカ。バカ選手権日本代表。日本代表は言いすぎか。バカのクラス代表。
 なんでタクトがあたしにちょっかい出してくるのかよく分からない。面白がってるだけだろう、とは思う。だけどタクトのせいで、他の男子、ユウヤとかトシハルとかシンイチとかまであたしの周りに集まってくるのは、ちょっと、いやかなりウザい。
「あ、いえるいえる。『今を生きる』ってヤツだよねー」
「つーかタクトの場合、そんな立派なモンじゃなくてさ、単に快楽最優先なだけじゃん?快楽至上主義、つーかさ」
「いやムシロ下半身至上主義」
「あーっはっはっは、やべーやべー、当たってんじゃーん」
 男子どもがあたしの机をぐるっと囲んで、大声でそんなバカ話を、ぎゃーぎゃーと騒ぎ立てている。別段あたしを中心に置く理由はない。これって何かの罰ゲーム?とか思う。その上、タクトが休み時間ごとにあたしの机に来るせいで、あたしは一部のタクトファンから睨まれっぱなし。……なんでこのタクトが一部女子に人気があるのかも、分かんないけど。
「だけどさー、実際『おしまい』来ちゃったらどうすんよ?やり残したこととか多くねー?」
「まさにヤリ残し?」
「つーかヤリ足りねえ」
「オメーそれ『おしまい』とか関係なしにいっつもそうだろ」
 ユウヤとシンイチが、オヤジみたいにげひゃげひゃ笑っている。こいつらの脳細胞は半分くらいが、ペニスと直通で血流のやり取りをしているのだ。
「でもさー、もしほんとに『おしまい』来るんだったら、今来た方が良くなーい?」
 窓際の方から声が上がった。何人かの女子が離れた場所から、このタクトたちの会話に混ざろうとしたのだ。わざとらしい。男子とは無関係に自分たちで喋ってるふりをしながら、横目でちらちらとタクトたちの様子を確かめている。
「だってさー、たぶん今が人生で一番楽しいじゃん?今が一番カワイイしさ、なんかこっから先、オバサンになるだけだったら、いっそ今『おしまい』来ちゃった方が良くない?」
「えー、夢なーい。それってないよー」
「じゃあさ、みっちんの夢ってどんなん?」
「んっとね、チャーミーグリーンなお婆ちゃん」
「ありえねー!ぜってーありえねーよ」
 くだらない。ほんの少しだけ彼女たちの話に耳を傾けていたあたしは、再び読みかけの本に視線を戻した。今が一番カワイイ?その程度で?そいつはご愁傷様。それじゃ確かにこの先の人生悲惨だから『おしまい』でも来ちゃった方がいいね、きっと。
 あたしがその時開いていた文庫本は、カミュの『異邦人』。別に面白いと思って読んでるわけじゃない。周囲との間に壁を作るアイテムとしてこの本を選んだだけのことだ。実に古めかしい名訳の中で、冒頭近くで青年が飲むミルク・コーヒーがやたら気になる。ミルク・コーヒーだって。いい大人が母親の死を悼みつつコーヒー牛乳?それがカフェ・オ・レだってことに気がつくまでには、ちょっと時間がかかった。
「つーかどーせ一生ヤリ足りねーんだよな、オレ。ヤリ終わってなんかこれで満足、ってことぜってーねーしさ。だからさ、いっそヤリながら死ねたらもうサイコー」
 太陽のせいにしてこのバカ撃ち殺したらスカッとするかしらん。
「えーでも、それって難しくねー?タイミング難しいって。発射した瞬間に死ねればいいけどさ、今イキそーってその直前の瞬間に死んだら、どうする?」
「そん時はいろんな意味で逝っちゃったってことで」
「いや逝っちゃったじゃねーだろ」
 あたしは今自分の手の中にあるのが文庫本じゃなくて、サブマシンガンとかだったらどうだろう、と想像してみた。空はいい天気だし、ちょっとお日さまのせいにしてこいつら撃ってみるのもアリじゃん、とか思うかもしれない。
 ぱらぱらぱらぱらっ!
 軽快な音がして、薬莢がポップコーンみたいに跳ね上がる。タクトはにへらにへらと薄笑いを浮かべたまんま、脳天ばっくりザクロみたいに割れて、後ろ向きに倒れる。あたしは机の上に仁王さまみたいに立って、このクラスの連中の頭を片っ端から撃ちまくる。そこらへんからプシューって噴水みたいに血しぶきが上がって、辺り一面水芸の始まり始まり。そんなことを空想しながらあたしは、あれ?でもこれって空想?なんか、頭ボーっとして……


 あたしを現実世界に引き戻したのは突然の尿意だった。っていうのも何かひどい話だ。とりあえず、トイレなんて構造物が無事に残っているとは考えにくいから、せめて物陰に隠れようと思う。巨大なコンクリートの破片が、ちょっとした日陰を作っている。あたしはその陰にしゃがみこんでスカートをまくり上げ、パンツをずり下ろした。誰かに見られる心配なんてまずないだろうけど、さすがにトイレくらい物陰に隠れてしないと、何か人間として大事なものを失ってしまうような気がしたのだ。コンクリ片の陰でお尻丸出しでしゃがみながらあたしは、それでもやっぱり、ちょっと切なくなった。
 なんか変なことを考えていたみたいだ。あんまり暑いから、頭がちゃんと回ってないのだろう。あたしはサブマシンガンを持っていない。クラスメイトの脳天をぶち抜いてもいない。あたしがやったわけじゃない。ただ、『おしまい』が本当に訪れただけのことだ。
 確認したわけじゃないけど、タクトもユウヤもトシハルもその他もろもろも、みんな死んじゃったんだろうな、と思う。あたしがどっかからサブマシンガンを手に入れて自ら手を下す機会は、きっと永遠に来なくなったのだ。
 用が済んで、パンツを引き上げ、あたしはまた少し歩き出す。とにかく、飲み水とか食べ物とかを探す必要がありそうだ。瓦礫の隙間に流れ込む水滴を視界の隅に留めながらあたしは、どうあっても自分の尿を飲んで命を繋ぐような事態は避けたい、とか深刻に思ったのだ。
 顎から首筋にかけて、汗の粒がつっ、と滑った。暑い。暑くて死にそう。どこか日陰で休んで、もう少し涼しくなってから歩いた方がいいんだろうか。でも、こんな大変動の後だから、昼の次に夜がちゃんと来るかどうかだって怪しいものだし、夜は凍りつくように寒くて真っ暗で歩けない、なんてことだってありうる。あたしはとにかく体力のあるうちに歩くことにした。どっかに、半壊ですんだコンビニとか、ないだろうか。
 横倒しになった自販機が、ほぼ完全な姿で残っているのを見つけた。この鉄の箱の中には、ウーロン茶やコーヒーが入っている。喉がごくり、と鳴った。だけど自販機は完全な姿すぎて、どこからもこじ開けようがない。コインを入れたらジュースが出てくるだろうか?でも、電源コードがブチ切れてる自販機がちゃんと動くとは思えなかったし、そもそも『おしまい』の大混乱で、財布なんかどっかになくしてきてしまった。あたしは自販機の角を靴の裏で蹴っ飛ばした。無駄な努力だった。
「あー……アイス食いてー……」
 わざわざ声に出してみたら、ますます悲しくなった。生き物はおろか、動く物の姿さえ見えない世界で、太陽だけが過激に自己主張している。じりじりと、皮膚や髪の毛が焦げるような気がする。水も欲しいけど、どっかで日焼け止めとか手に入らないかな。このままじゃ、せっかく肌の白さが自慢だったのに、日焼けで真っ赤になっちゃう。
 とか考えながら、我ながら馬鹿なことを考えてるな、と自嘲する。とにかくこんな馬鹿げたことばかり思いつくのは、暑すぎるせいだ。汗が滝みたいにだらだら流れて、ブラの紐のあたりに溜まって、気持ち悪い。
 アイス食いたい。それも、上等なアイスクリームじゃなくて、駄菓子みたいなアイスキャンディー。一本五十円くらいの。前歯がちりちり痛くなるような、かちんこちんに凍ったアイスを、ばりばり噛み砕くんだ。――想像すればするほど、嫌になる。アイスじゃなくていい、水が一口飲みたい。


 結局、一口の水も食べ物も発見しないうちに、夜になった。無事に夜が訪れたことで、少しほっとした。幸いにして、凍りつくような寒さに襲われることもなく、普段の夏の夜と変わらないくらいの、そこそこ過ごしやすい夜だった。
 今日見かけた有機物といえば、半分焼け焦げた誰かの死体だけ。さすがにそんなものを口にするわけにはいかない。だけど、これだって食べれば栄養にはなるよね、とかそんな恐ろしいことを思いつくくらいには、状況は切羽詰まっているのだ。
 腹減った。
 考えてみれば『おしまい』以来、何も口に運んでいない。膝が笑い出すのも当然だ。これだけ綺麗に何もかもなくなってしまうなんて、思わなかった。たくさんの人が死んだはずなのに、死体すら見かけたのは数人だけだ。燃え尽きたんだか蒸発したんだか、ともかく消滅してしまった。こんなひどい状況で、どうしてあたしだけ五体満足で生き残ったんだろう。ひどい話だ。
 ひとまず、体力を使いすぎないことだ。今夜は月も細くて、明るさも足りない。今日はどこかで静かに寝て、明日、明け方の時間を狙って、食べ物を探しに行こう。
 見渡す限り瓦礫の山だから、どこで寝ても一緒だ。せめて少しでも寝心地のいい場所にしようと、あたしは細かい石ころを払って平らな地面の見えるところを見つけ、座り込んだ。この場所は、かつては公園か何かだったのかもしれない。石や瓦礫が比較的少ないし、街路樹やブランコの破片らしきものもある。地べたに体を横たえ、寝ようとした、その時だ。
「……携帯?」
 地面と同じ高さになったあたしの目線の先に、携帯電話があった。カメラ機能もついてない、というか今どき折りたたみ式でさえない、旧式のやつだ。こんなものが、これだけ完璧な形で残っているなんて。どうせならもうちょっと生き延びるための役に立つものが落ちていればいいのに。あたしは携帯に手を伸ばした。電源は入っている。アンテナは一本も立っていない。
 何かの暇つぶしにはなるだろうか。あたしはボタンを色々押して、携帯の機能をフルに調べる。着メロ……ろくなのが入ってない。画像……カメラがない携帯に入ってる画像なんて、たかが知れてる。住所録……
 住所録。
 メモリー。これは案外面白いかもしれない。他人の秘密を盗み見る感じ。……持ち主はきっともうこの世にいないんだろうけど。几帳面にカテゴリ分けされている。《仕事関係》《大学》《友人その他》……最初が仕事関係、っていうのもどうかな、って思う。登録件数が一番多いのも《仕事関係》で、それでも二十件くらい。全部で五十件もいかない。あたしの携帯だってもうちょっとたくさんの番号とかメアドとか登録してあったし、友達は百件余裕で超えてる人が大半だったから、そう考えるとこの携帯の持ち主は、交友関係の狭い人だったらしい。
 だけど、ちょっと待った。ひょっとしてこれって、仕事用の携帯なんじゃない?業種によっては会社から携帯支給されたりなんかしてて、そうすると、仕事用とプライベートで携帯使い分けてる可能性もある。それだったら、友達関係の登録件数が少ないのも、納得できる。きっとそうだ。
 じゃあ、この携帯の持ち主はビジネスマン。外回りの営業さんとかかな。家族の番号とかがないのを見ると、きっとまだ独身。若いのかな。二十代後半から三十前後くらい。恋人は……いるのかな?住所録のグループ分けから一件だけ外れて登録されている、名前『みゆ』。さて、これが彼女なのかどうか。娘とかじゃないよね、まさか。
 メールの送受信記録とか見るのは、明日以降にしようと思う。楽しみ……というか、暇つぶしはなるべく残しておいたほうがいい。この先、誰とも会えず、何の楽しみもない日が、いったい何日続くか分からないから。今日はもう、疲れて眠くなった。だから、眠れるときに寝よう。
 あたしは手足を猫みたいに丸めて、地面に横になった。そんなに急激に気温が下がったわけでもないのに、地面はとても冷たく、固く感じた。あたしは一瞬だけ、ふわふわのベッドの感触を想像し、すぐに空しくなってその空想を頭から追い出した。すっかり疲れきっているはずなのに、目を閉じても、なかなか寝付けなかった。


 翌朝は早い時間に目が覚めた。日が昇ると、バーナーに点火されたみたいに急に暑くなって、それで寝ていられなくなったからだ。腕時計は失くしちゃったけど、昨夜拾った携帯電話は、ちゃんと「05:56」と時刻を示していた。まだ六時前かよ、と軽く液晶画面にツッコミ。
 全然寝た気がしないけど、ともかく、これ以上寝てられない以上、引き続き食べ物とかを探して歩き回るしかない。一眠りして胃が活発になったのか、ぎゅううううっ、と縮むような感じで音が鳴った。いい加減本気でヤバい。なんか食べないと、倒れそう。
 お腹が減りすぎて、食べ物のことばっかり考えてしまう。先週ユミとエリコと一緒に行った、イタリアンのお店。駅からちょっと離れた住宅街の中にできた、新しいお店。雰囲気も味もよかったけど、立地がなんか微妙だったから、あんまり流行らないかもしれない。だから、即刻つぶれちゃったりしないように、あたしたちで定期的に通おう、とか言ってたんだっけ。何て言ったっけ、あの時食べた、魚介のトマトソースのパスタ。タリアテッレじゃなくて、プリマベーラでもなくって……ああ、そうだ、ペスカトーレだ。美味しかったなぁ、ペスカトーレ。
 太陽はどんどん高いところへ上っていく。こめかみから頬っぺたまで、粘っこい汗の粒がつつつっと滑って、顎に沿って落ちる。ペスカトーレ、ペスカトーレ。いや、ペスカトーレじゃなくていい。何でもいい、食べ物、あと水。


 探してみれば、案外いろいろ落ちているものだ。その日の午後になってあたしは、表面が焼け焦げて黒ずんだ冷蔵庫を発見した。もちろん、電気が供給されているはずはないから、中身はすっかりぬるくなっているんだけど、それでも、比較的無事な状態だった。冷凍室のアイスクリームはすっかり溶け出してわけが分からなくなっていたし、豚肉やキャベツは異臭を放っていたけど、どうやらコーラのペットボトルは、品質が劣化している様子もなく、飲めそうに思えた。
 あたしは冷蔵庫からコーラを取り出した。一・五リットルの大きなペットボトル。プラスチックのキャップをひねるとしゅん、という小気味いい音がして、それだけであたしは涎が出そうだった。丸一日以上、一滴の水すら口にしていないのだ。あたしはペットボトルに口をつけ、ほとんど垂直になるまで傾けて、喉の奥へと生ぬるいコーラを流し込む。
 冷えていないコーラはまったく美味しくなかったけど、それでもあたしは、涙が出そうになった。コーラの糖分やカフェインやカラメル色素が、骨の奥や皮膚の中まで浸透していくような気がした。ああ、とにかく、これで少し生き延びた。糖分はエネルギー、車で言うところのガソリンみたいなものだ。って、どこで聞いた話だっけ。家庭科の授業かな。とにかくこれで、しばらく体が動くだろう。
 あんまり勢いよく流し込んだものだから、口の端から少しコーラがこぼれてしまった。もったいない。あたしは手の甲で口を拭って、ついでにその手の甲をぺろっと舐めた。皮膚の表面は、しょっぱい味がした。
 汗ばっかりかいてるような気がしてたけど、実際はそうでもなかったらしい。コーラで水分を取った途端、全身の汗腺がいっせいに開いたみたいに、汗がだばだばとあふれ出した。水分、足りてなかったんだな。あたしはその場に座り込み、少し落ち着いて、ゆっくりとコーラを飲み込んでいった。コーラの水分は胃壁に触れるとすうっと吸い込まれて、全身に染み込んでいくような、そんな気がする。
 一・五リットルのペットボトルは、すぐに半分以上が空になった。もう少し飲みたかったけど、これ以上は飲まずに残しておいて、また夕方にでも飲んだ方がいい。このコーラが尽きる前に、別の食べ物を探そう。
 さて、まだ何か落ちているだろうか。さっきの冷蔵庫の中の、豚肉やキャベツの腐り具合からすると、この気温の中、ナマモノが無事である可能性は皆無だ。保存のきく加工食品の類に期待するしかない。缶詰とか、レトルトパックとか。……ああ、でも、缶詰が落ちていたとしても、開けるのが難しいかもしれない。都合よく缶切りが落ちてるわけないし。
 もう、考えれば考えるほど、食べ物のことばっかり思い浮かぶ。


 ――お母さんは熱心な朝食の信仰者だった。ありとあらゆる健康上の問題は、正しい朝食によって解決されるのだと、確信しているようだった。
「ほら、パン焼いたんだから、食べてきなさいよ。何も食べないんじゃ、学校行ったって、勉強にならないでしょ」
 大きなお世話だ。その時あたしは毎朝、そう思ってた。お母さんに半ば強制されて、トーストを一枚、喉に押し込んで出かける。その結果あたしは、学校に向かう地下鉄に乗るのを一本遅らせて、駅のトイレでげえげえ吐くのだった。あたしは絶望的なまでの低血圧で、起きてから何時間かしないと、胃袋まで血流が届かなくて、食べ物を受け付けないのだ。
「ご飯食べたくないんだったら、牛乳くらい飲んでいきなさい。大体あんたは、ご飯食べなさすぎるのよ。ダイエットするほどのこともないでしょ。もうちょっと食べて、体強くしなきゃ」
 朝食作戦があたしに通じないことが分かってくると、お母さんは朝の牛乳作戦に切り替えてきた。このあたりが妥協点だと分かり、あたしも応じた。それ以降、毎朝一杯の牛乳が、あたしの日課になった。冬にはあったかい牛乳になったり、時にはロイヤルミルクティーだったり、ココアだったり、カフェ・オ・レだったり。ああ、そうだ、カフェ・オ・レ。コーヒー牛乳。美味しかったな。
 毎朝の牛乳のせいであたしは、本の中のミルク・コーヒーに過剰に反応したのかもしれない。母親の柩の横で主人公が飲むミルク・コーヒーの、美味しそうなことといったら。ああ、そうか。お母さんもお父さんもみんな、この『おしまい』で死んじゃったんだろうな。きっと。そう考えても涙も出てこないあたり、あたしも十分、おかしいのかもしれない。
 あの本も読みかけだったんだ。あたしは急に、続きが読みたくなった。どんな話だったっけ。最初の書き出しはこうだ、「きょう、ママンが死んだ。」だけど次のセンテンスがもう思い出せない。話の筋も、飛び飛びにしか覚えてない。確か、最初にお母さんが死んだって電報もらって駆けつけて、それから女の子と海辺でじゃれ合って、それから?――どうしてあの主人公は、人を殺したんだったっけ?それは太陽のせいだ、って主人公が法廷で答える、そのシーンは有名なはずだ。だけどあたしは、まだそこまで読み進んでいない。あたしが読んでいたのは主人公が逮捕されて拘置されて、それから――ああ、ちゃんと覚えてない。
 思い出せないと分かった途端に、イライラする。このお話を思い出すことが、とても切実なことであるように思えてくる。それもこれも、今のあたしが置かれているこの、極限状態のせいだ。同じような極限の状況下で、死に物狂いでダンテの『神曲』を暗誦した人がいたな。誰だっけ。確か、イタリア人。パヴェーゼじゃなくて、エーコでもなくって……レーヴィだっけ?
 活字のない世界で人間が正気を保つのは、なかなか難しいのかもしれない。それでもその『神曲』を暗誦したイタリア人の誰かさんは、それを語る相手がいただけ、恵まれていたのだ。あたしが置かれている、この『おしまい』直後の状況は、その悲惨さを語らいあう相手もいないという、絶望的な状況だ。
 活字。文字。コミュニケーション。
 どうしても、思い出さなくちゃいけない。きょう、ママンが死んだ。そしてそれから、どうなった?主人公の名前は何だっけ、マルソーだっけムルソーだっけ。とにかくその主人公の青年が、人を殺す。武器はピストル。ああ、そうだ、地中海の太陽の眩しさと、その光を受けて輝くナイフの眩しさ。思い出した。主人公はそのナイフの眩しさを冷静に見つめながら、銃弾を撃ち込んでいく。その冷静さがきっと、決定的に重要なんだ。
 ああ、誰かに話したい。それが不可能でも、せめてあの本をもう一度読み返したい。そうでなかったら、自分が今考えていることを、何かに書き留めておきたい。紙とペン、どっかに落ちてないかな。


 活字への渇望を満たしてくれるアイテムを持っていることを、あたしは夕方になってようやく思い出した。昨日拾った携帯電話。いくら旧型のやつっていっても、メール機能くらい付いてる。
 少しは柔らかそうな土の地面を今夜の宿に決めて、あたしは座り込み、残り少なくなったコーラをもう一口だけ飲んだ。それから、携帯電話のキーロックを解除し、メールの履歴を見る。液晶画面のドットが形成する文字。漢字。ひらがな。カタカナ。ことばが存在する、そのことは確かに、かつてこの世界にあたし以外の人間が存在し、互いにコミュニケーションを取り合っていたのだという事実を、思い出させてくれる。
 だけど――すぐに、がっかりさせられた。メールの履歴、ろくに残ってない。受信メールを開くと出てくる件名はほんの数件。しかも、件名欄はどれも空欄。試しにひとつ開いてみる。
「六時までに一旦帰社せよ」
 どうやら最初に予想したとおり、この携帯は仕事用だったらしい。ちっとも面白くない。メールの送信元も「川口」とかいう同じ名前が連なっている。会社の上司か同僚か。メールの内容も、事務的な連絡事項だけだ。
 ……そんな中に一件だけ、タイトルの入ったメールを見つけた。件名は「ごめん」、開いてみると、差出人は「みゆ」。
「少し遅れる」
 メール本文の内容は、たったそれだけ。だけど、そのたった五文字の文章を見た途端、何故だか涙が出そうになった。「ごめん」そして「少し遅れる」。そこには、ビジネスライクな連絡とは異なる、血の通った何かを感じる。ごめん、少し遅れる。送信された時間は金曜の夜の七時三十分。うん、この「みゆ」さんは、この携帯の持ち主である男の人の、恋人だ。そうに違いない。金曜の夜の七時半。間違いなく、デートの約束。仕事が長引いたんだろうか?彼女は待ち合わせ場所に、だいぶ遅れてやってくる。彼はもうずっと彼女を待ち続けている。携帯灰皿が、吸殻でいっぱいになる。ポケットに無造作に突っ込んだままの手のひらが、少しだけ汗ばんでくる。彼女がようやく姿を現す。彼を見つけるとミュールの踵をカツカツと鳴らしながら小走りに近づいてきて、それで――