アフター・ザ・ワールド・エンド
(02/04)

「――ごっめーん。もしかして、ずっと待ってた?」
 誤魔化すように笑いを浮かべながら、美雪が言う。美雪はとある小さな旅行会社に務める二十三歳。だけど、歳よりずっと、幼く見える。くりっとした丸い瞳に、小さな顔の、可愛らしい女の子。
「そりゃあ、待ってる以外にないからね」
 苦笑いを浮かべながら答える、男の名は祐一。事務用品を扱う会社の営業さん。オフィス街のビルに片っ端から飛び込んでいって、ペン一本でもノート一冊でも、何でもいいから契約を取ってくるのが仕事だ。歳は……美雪より、ちょっと年上。
「だってさーあ、午後になって急に、奈々子がお腹痛いから帰るって言い出してさ。おかげで今日は、大変だったんだから。二人分働いたんだからねっ」
 金曜の午後八時過ぎ。オフィス街の一角。美雪のお化粧は少し崩れ始めてたし、祐一のワイシャツは背中が汗でぴっとり貼りついている。すぐ隣を、千鳥足のおっちゃん三人組が通り過ぎていく。駅前では鞄を広げて、自分の書いた詩を売る青年がいる。高校生の女の子たちが、ハンバーガーの包みをくしゃくしゃっと丸めて、道端に投げ捨てる。そんな午後八時過ぎ。
「うん、別に、遅れたのは構わないけど。とりあえず、腹減った」
「そうだねー、あたしもお腹減った。ね、なんか美味しいもん食べに行こっ。何がいい?」
「っていうか、どっちかっていうと、牛丼とか立ち食いそばとかそんな気分」
「……祐一さぁ、時々あたしが女の子だってこと忘れてるでしょ」
「まあ、しょっちゅうだな」
 美雪がぷっと頬を膨らませて、その頬を祐一が人差し指で突っつく。いつもこんな感じだから、美雪は時々不安になる。友達の延長線上のような恋人。それは確かに楽しいし心地よくもあるんだけど、このひとは本当に自分のことを好きなんだろうか、と疑ってしまうことがある。
 美雪の高校の同級生が、先月結婚した。避妊に失敗した、いわゆる「できちゃった婚」だ。美雪も結婚式に行ったけど、ばっちりお化粧して、髪の毛綺麗なアップにして、プリンセスラインのふわふわのドレス着た彼女は、とっても素敵だった。だから、というわけでもないのだろうけど、美雪は、このひといつかあたしと結婚してくれるのかしら、なんて不安を感じている。
 だけど、美雪は知らない。祐一が、美雪が思っている以上に、小心者だっていうことを。ボーナスが出たから、祐一は美雪に内緒で、先週、宝石屋さんに行って来たんだ。お給料の三ヶ月分、なんてデビアスの広告真に受けたわけじゃないけど、何十万もするダイヤの指輪買うなんて、ちょっと、いやかなり勇気がいる。何の相談もなしに、勝手に指輪なんか買って、しかもそれが婚約指輪だなんて言ったら、美雪は怒っちゃうんじゃないかって、祐一は祐一で不安なんだ。だけど、指輪でも買わないことには、プロポーズのきっかけなんて掴めないから、思い切って買っちゃった、ダイヤの指輪。そして祐一は、指輪を渡すタイミングを測りかねている。
 酔っ払いのおっちゃんと祐一の肩がどしん、とぶつかって、祐一の持っていた仕事カバンが吹っ飛ぶ。カバンの口がちょっと開いてたみたいで、中身がばらばらっと歩道に散らばる。しょうがないなぁ、とか言いながら、散らばった中身を美雪が拾い上げる。しゃがみこんで、ふと、ちっちゃな紙袋の上で、手が止まる。美雪と祐一の手が紙袋の上で重なったまま、動かない。エメラルドグリーンの袋には、ティファニーのロゴがあって、それで美雪は何も言えなくなって……。

「……なーに考えてんだろ、あたし」
 思わず声に出して呟いてしまった。何だか、すごく空しい。馬鹿げてる。携帯電話に残ったたった一通のメールから、ずいぶん妄想を膨らませたものだ。大体、この「みゆ」さんの名前が美雪だとは限らないし、だいいち祐一って誰だ、祐一って。そもそも、二人とも今頃どっかでケシズミになってるに違いないのだ。
 あたしはもう一度メールを見返した。「少し遅れる」……そうだ、待ち合わせなんて概念も、『おしまい』と一緒に終わってしまったのだ。もうこの世界では、何時何分にどこここへ行く、なんて必要はなくなったのだし、そもそも時刻とか位置座標なんてものが、『おしまい』以前と同じように保持されている保証もない。ごめん、少し遅れる。そんなメールが送信されたのは金曜の夜七時半。だけど、今日はいったい何曜日で今は何時なのだろう。もちろん、携帯を待ち受け画面に戻して、カレンダーと時計を確認すれば分かることではあるのだけど、そんなものに、もう意味はないように思える。
 メールの件名表示に戻り、もう一度メールを一件ずつ確認していく。着信時刻。ほとんどが、平日の昼間だ。社に電話しろ十時十四分、一旦戻れ十四時二十二分、在庫確認しました十一時五分、云々。何のことはない、一昔前の社用ポケベルと同じノリだ。
 携帯のメモリーに残っていたメールは全部で十一件。上から順に一件ずつ見ていくと、九件が会社関係のメール。十件目に先程の「みゆ」からの「少し遅れる」メール。そして、十一件目に、奇妙なメールが入っていた。

「subj:誰かいますか?
 届いてたら返信ください」

 件名一行、本文一行のごく短いメール。つくづくこの携帯の持ち主の周りには、長文のメールを書いてよこす人間がいなかったと見える。それにしても、メールみたいに特定の人間に対して送信するもので「誰かいますか」はないだろう。送り先と違う人が出てきたらそれはちょっと異常だ。
 送信元は「神岡」となっている。苗字だけでは男なのか女なのか、いくつくらいの人なのか、さっぱり分からない。試しに住所録を確認してみると、この神岡さんは《大学》にカテゴリ分けされてあった。学生時代のお友達かな。記録されている情報は、名前のほかはメールアドレスと携帯番号だけだ。
 再び、メール画面に戻る。「届いてたら返信ください」まるで届かないことを前提としてるみたいだ。不安定な通信機器で、通信テストをやってるみたい。もしもし、もしもし、聞こえますか、どうぞ。そんなポンコツの携帯電話を使っていたのだろうか。送信時刻を見る。――そしてあたしは、心臓が止まりそうになった。

「date:20XX.09.14 06:55」

 九月十四日の六時五十五分。あたしは慌てて携帯を待ち受け画面に戻す。カレンダーが表示されている。九月十五日のところに、マークがついている。今は九月十五日の午後六時二十分。この携帯電話のカレンダー機能を信頼する限り、このメールが到着したのは、昨日――つまり、『おしまい』より後だ。
 メールが届いた?
 『おしまい』より後に、通信が維持されている場所があった?ううん、そんなことより大切なのは、『おしまい』の後にこのメールを送信することのできた「誰か」がいること。何か機械のエラーとかでなければ、この世界のどこかに、あたしと同じように生き残り、携帯電話を手にした、誰かがいる。
 生きている人がいる!
 突如、体ががくがくと震えだした。あんまり震えるから、手に持っていた携帯を落としそうになった。全身の血液がさぁっと足元に落ちていき、それから一気に脳天まで上がっていくような感覚。生きている人がいる。この地上に、それも、あたしと同じ日本語を用いる範囲内に、生きている人がいて、あたしにメールを送ってきた。厳密に言えばあたしに、じゃない。どこかに生きてる人がいないだろうかとメールを出してみて、それをたまたま偶然、あたしが受信した。誰かいますか。誰か。ほとんど悲痛とも言える叫び。沈没する船から、ガラス瓶に手紙を詰めて流す、そんな感じだ。そしてそれを、別の場所で沈没しかかっているあたしが見つけた。これはもう、奇跡だ。
 そうだとすればあたしは、このメールの主、神岡さんに、返事を出さなければならない。どっかアンテナの立つ場所を見つけて、メールを出さなきゃいけない。一刻も早く。どちらかが力尽きて倒れてしまう前に。


 翌日の朝早くから、あたしは歩き始めた。食べ物、飲み物、携帯のアンテナの立つ場所。どれかひとつでもいいから、見つかってほしい。
 『おしまい』の後に届いたたった一通のメールが、ずいぶんあたしを勇気付けてくれたものだ。とにかく、自分以外にも誰かが生きている可能性がある。アンテナさえ通じればこの神岡さんと連絡が取れるし、そうでなくても、もしかしたら歩き回っているうちに、他の生存者と出会える可能性だって、皆無ではないのだ。
 コーラは既に底をついていた。空になったペットボトルの底に、茶色い汚れがほんの少しこびりついているだけだ。それでもあたしは、そのペットボトルを捨てることができずに、持ち歩いている。差し当たり最優先事項として、水だ。このままでは、ひからびるのも時間の問題だ。たとえ今食料を見つけたところで、唾液だって一滴も出ないのだから、到底食べられやしない。だからとにかく、水。
 やみくもに歩いていたつもりが、気がつくと、校舎らしき建物の前にいた。半分以上吹き飛んで崩れ落ち、もはや原型をとどめていないけれど、その立地と微かに残った壁面などから、それが、自分が数年前通っていた小学校であることを理解する。立派なものだ。これだけの大破壊にあって、周囲の立派なマンションやショッピングモールは跡形もなく消し飛んでしまっているのに、小学校は地面に接した、基礎に近い部分は比較的形が残っている。やっぱり、小学校の校舎はずいぶん頑丈に作られているんだなぁ、と感心した。
 いや、感心してる場合じゃない。
 建物が比較的無事ということは、その中の施設も何か無事で残っている可能性があるということ。あたしはかつて廊下や教室であった場所を、つぶさに調べてまわる。小学校だからお菓子や食べ物を持ち込んでる人はいないだろうけど、水道のひとつでも生きていればラッキーだ。実際、蛇口部分が無事に残っているものはいくつかあって、あたしは少なからぬ期待とともに水栓をひねってみるのだけど、残念ながら、六つの蛇口から得られた水は全部でたったの三滴だった。さすがに、水道管はどこかで途切れてしまったのだろう。
 ああ、水、水。どこかでちゃぷん、という水の音が聞こえた気さえした。よっぽど渇いてるんだな、あたし。小学校にいると、不意にプールの匂いを思い出す。四角い石の箱にたっぷりと水を湛え、塩素の香り、プールサイドを走り回る子供たち、更衣室のむわっとした空気……
 ちゃぷん。
 ――幻聴じゃない?今、確かに、水の音が聞こえた。どこかに水があるのだろうか、それとも、ありもしない水の音を何度も聞いてしまうほど、あたしの神経はすり減っているんだろうか?
 ともかく、音を頼りに、誘われるように歩き出す。校舎の外に出た。校庭……じゃない。おそらく、裏庭部分に当たるのだろう。かつては木や草が植わっていたり、教育の一環で児童たちが花壇の手入れをしたりしていた場所が、今や草の一本も生えていない。……
 ちゃぷん。
 今度はとても確かに、水の音が聞こえた。間違いない、この近くだ。あたしは振り返る。ふっ、と小さな物影が反応し、それからさっ、と逃げ出すようにいなくなってしまう。大きさからすると、ドブネズミか何かだ。――ドブネズミ。ともかく何か、生き物がいる!
 あたしはさっきまで物影のいたところに駆け寄る。
 ちゃぷん。水音の正体はそこにあった。固く乾ききった土の間から、そこだけ、水がこんこんと湧き出ている。高さ二センチにも満たない小さな水柱。だけど、そこでは絶えることなく、地面の奥から水が湧き上がってきているのだ。水!水だ!
 あたしは駆け寄る。半径二十センチ足らずの、ごく小さな水たまり。とにかく、ここでは新鮮な水が湧き出ているのだ。あたしは両手を伸ばし、水をすくい上げる。少し泥が混ざっていたけど、とにかく、水だ。たまらず口をつけて飲み干す。思いのほか、冷たい。
 だけど、どうしてここだけ水があるのだろう?地下に水道管でもあったのだろうか?小学校という施設の性質上、非常用の貯水槽か何かがあったのかもしれない。理由はわからない。だけど、とにかくこの水は生命線だ。あたしはお腹がたぷたぷになるまで水を飲んでから、持っていた空のペットボトルに、いっぱいになるまで水を注いだ。ペットボトルに蓋をして、それからあたしは、おもむろに顔を洗った。
 少し離れたところから、視線を感じた。顔を上げると、崩れかけた壁の上からあたしを見張っているドブネズミと目が合った。せっかくの水場を荒らされたことに、不快さを表しているようにも見えた。やあ、とあたしは片手を挙げた。ドブネズミは応じなかった。きい、だかぎい、だか声を上げると、またちょろっと瓦礫の隙間に姿を消した。とにかく『おしまい』の後に見た初めての生き物だったから、あたしは親近感を覚えていたのだけど、先方はそうでもなかったらしい。あたしだって今はこのドブネズミを友人のように感じているけれども、いよいよ切羽詰まったら、とっ捕まえて皮を剥いで食べちゃうかもしれない。そんなものだ。
 水が湧き出し続けている限り、しばらくはここを拠点にしようと思う。あたしは微かな期待を持って携帯電話を取り出した。残念ながら、ここでもアンテナは立たなかった。


 どこかに生存者がいて、メールを送ってきた。水が残っていた。ドブネズミもいた。たったそれだけのことだけど、あたしはずいぶん気を取り直した。なんか、あたしも生き残れるかもしれない。
 だけどいくら歩き回っても携帯のアンテナは立たないし、お腹も減ったし、腐りかけの死体も二つ見た。日が暮れ始めるとあたしは途端に、鬱屈した気分になった。あたしも生き残れるかもしれない。それはいい。だけど、生き残ったとして、それからいったい何があるっていうんだろう、こんな世界で?生き延びることに何の意味があるっていうんだ?いっそ『おしまい』で死んじゃった大多数の皆さんの方が、あたしなんかよりよっぽど、幸せだったんじゃないか?
 なるほど、この携帯にメールを送ってきた神岡さんのように、この世界のどこかには、あたしと同じように生き残った人がいるのかもしれない。だけどもう『おしまい』から何日も歩き回って、あたしはついにドブネズミ一匹の他に、誰とも出会うことはなかった。この先何十年歩き回っても、同じことかもしれない。この状況では「生存者が集まって力を合わせて生きていく」なんて絵空事だし、それどころか、あたしが誰かと言葉を交わす機会なんてもう、訪れないんじゃないだろうか。そのうちあたしはすっかりケダモノになって、この荒れ果てた大地を四つん這いで駆け回りながら、あのドブネズミと死に物狂いでエサを奪い合うのだろう。
 すごく、胸が苦しい。息が重い。吐き気がする。何だろう、この感覚は。食道か気管のどっか奥の方に固形物が詰まってるような、そんな気がする。耐え切れず、あたしは両足をいっぱいに開き、空の方を向いて、叫んだ。
「うわああああああ――――――っ」
 横隔膜が、腹筋が、びゅんびゅん震える。全身の血管がざわつく感じがする。半分寝ぼけていた体中の細胞がようやく目を覚まし、遅まきながら活動を再開する。そんな感じ。あたしは大股に歩き出しながら、忌々しい夕日を睨みつけ、なおも叫んだ。
「あ、え、い、う、え、お、あ、お!か、け、き、く、け、こ、か、こ!生麦生米生卵、なまむぎなまごめなまたまご、東京特許許可局局長!有澤瑠璃子十六歳、都立高校二年生、趣味は読書、特技バイオリン!彼氏ナシ!ついでに処女!」
 半ば忘れかけていた感触だった。新鮮な空気が肉体の内側を駆け抜けていき、それでようやくあたしは、自分が人間であったことを思い出す。そうだ、あたしは人間だ。生き延びることに必死で、そんな簡単なことさえ、忘れていた。あたしは人間だ、ケダモノじゃない。ちゃんと考えて、笑って、悲しんで、喋ることができる。
 鮮烈な風がすっかり体を通り過ぎていくと、あたしは途端に寂寥感に襲われる。人間であることを思い出したあたしは、ついでに悲しさも思い出した。今なら『神曲』を暗誦した強制収容所の詩人の気持ちも、きっとよく分かると思う。話さなければならない。誰かと何か喋る、っていうことをしないと、きっとあたしは、早晩、発狂する。


「有澤さぁ、オレと付き合わねー?」
 何を血迷ったか、タクトのバカがそんな寝言をほざいたのは、オレンジ色の夕陽が差し込む教室。その時なぜかあたしとタクトは教室に二人きりだったんだけど、どうして他に誰もいなかったんだろう?よく覚えてない。
「はぁ?」眉毛の間にシワ作って、あたしはそう答えたんだった。「何それ、新しいギャグ?」
「いやマジでマジで。大マジ」
「冗談。大体、なんであたしなわけ?一緒に図書館でも来る気あんの?」
「あー、ってゆっかさー、ぶっちゃけ、言っていい?付き合いてーっつーかさぁ、お前とヤリたい」
「はっ」鼻で笑う。「バカ言わないでよ。ヤリたいんだったら別にあたしじゃなくてもさ、他にいくらでも、頼めば足開いてくれる女子いんでしょ、あんただったら。あんたのどこがいいのか知んないけど、いっぱいいんじゃん、取り巻き」
「つっかさー、オレ、あいつらじゃダメなんだわ、なんか。やっぱお前とヤリたいんだよね」
「ヤリ過ぎで飽きてるだけじゃないの?」
「そうかもしんない」
 タクトは笑う。あたしは、唇の端さえ動かさない。精一杯冷たい視線で睨んでるつもりなんだけど、タクトはまったく気にしてない風で、えへらえへらと例の軽薄な笑いを浮かべたまま、たわごとを口にし続けるのだ。
「でもさー、他の女子じゃ全然ダメで、有澤とヤリたい、有澤以外とはヤリたくないってのは、なんかオレ、すごくねー?もうさ、一種の愛だよねー、愛」
「性欲じゃん」
「そうとも言う」ほんとに何言われても、タクトはへこたれない。「まあ、オレにとっちゃどっちでも大差ないし。大事なのはさ、有澤でなきゃダメだ、ってとこなんだけどさ。何でだろうな、ぶっちゃけ今まではさ、女なんて穴開いてりゃみんな一緒、ぐらいに思ってたんだけど、何でこんなに有澤とヤリたくなったのか、自分でも分かんねー」
「…………」
 いい加減あたしは、反論する言葉が尽きてきた。マジで困ってる様子が、タクトから見ても分かったんだろうか。タクトは机の上に放り出してあった制服の上着を、ばさっと肩にかけると、相変わらず軽薄な口調で、こう言ったのだ。
「まぁ、考えといてよ。んでさ、ヤッてもいいかなーって気になったら、いつでも言ってちょーだい。別にオレ、急がないし。有澤がその気になるまで、オナニーして我慢してっから」
「……バーカ」
 もはや呆れる以外にない。
 タクトは教室を出て行こうとして、扉の前でわざとらしく足を止め、振り返り、こう付け加える。
「あとさ、参考までに。オレ、けっこう巨根」
「いいから、もう黙れって」
 タクトは勝ち誇ったようににやり、と笑った。それがますます、あたしを不愉快にした。


 ――不覚にも、タクトの夢なんか見てしまった。辺りが暗くなるのに合わせて、座り込んでうとうとしてしまったことを、あたしはようやく理解した。どうやら、ちょっと疲れてるらしい。当たり前だ。毎日食糧や水を求めて強い日差しの下を徘徊し、夜は石ころ混じりの固い地面の上で眠る。疲れが取れるはずがない。
 それにしてもどうして、よりにもよって、タクトの夢なんだろう。もっと他に思い出すべき人とか物とか、いろいろあるはずなのに。お父さん、お母さん。柴犬のポンタとセキセイインコのルル。それからユミとマドカとエリコとメグと……あれ?そんなもんだったっけ?もっといっぱいいたはずなのに、友達とかの名前が思い出せない。あたしの交友関係は狭い方だったけど、それでも、十人やそこらは、大切な友達がいた。はずだ。なのに、今や彼女たちの名前すら満足に思い出せず、そしてあたしはうたた寝してあのバカなタクトの夢を見る。自分で自分に腹が立つ。
 思い出せ、思い出せ。あたしは額の真ん中に人差し指を当て、必死で自分の頭蓋骨に言い聞かせる。思い出せ、思い出せ。だけど高校の友達も近所の人たちも、その輪郭だけがおぼろげに脳裏をかすめて行くだけで、明瞭に像を結ぶことができない。こんなもんか?あたしは、こんなにおバカだったか?
 考えれば考えるほど疲労が蓄積していく気がして、それであたしはそれ以上何かを思い出そうとすることを諦めた。そうだ、きっと、こんなもんだったんだ。思い出そうとしても思い出せないのは、何ひとつ重大なことがなかったからだ。朝起きて、学校行って、買い物行って、マックとかスタバとか行って、みんなと別れてから図書館に本返しに行って、家帰って、ごはん食べて、お風呂入って、寝る。そんなことはあたしにとって、どれひとつとして重要じゃなかったんだ。
 なんだ、じゃあ、同じじゃないか――『おしまい』であたしは、大切なものをぜんぶ失ったものだと思っていた。だけど、大切なものなんて、最初から何ひとつなかった――あらかじめ、ぜんぶ失われていたんだ。『おしまい』の前も後もない。みんな、一緒だ――。
 全身をけだるい疲労感が包んだ。余計なことを考えたせいだ。それなら、もう一眠りしよう。無駄なエネルギーを消耗することはない。あたしはそう思って、寝る前に時間を確認しようと、携帯電話の液晶画面を見た。九月十六日、十八時五十分。例によってアンテナは立たない。画面の右上隅に、封筒のマーク。
 ……封筒のマーク?
 何かのスイッチが入ったみたいに、あたしは飛び起きる。封筒のマーク。機種が違っても、ほとんどの携帯電話で、このマークの表す意味は共通だ。キーを押す。受信メール一覧。未開封のメールが一通。未開封。新着メール。

「date:20XX.09.16 17:37
 subj:誰か生きてますか?
 このメールは『おしまい』より後に送信しています。
 届いてたら返事ください」

 今日の午後五時三十七分。一時間とちょっと前。あたしがここでうたた寝してる最中に、そのメールは届いていた。送信元は前と同じ「神岡」さん。
 あたしがここでうたた寝してる最中。
 ということは、あたしもこの携帯電話も、この近辺から動いていない。それなのにメールを受信した。つまり、このへんのどっか遠くないところで、アンテナが生き残っていて、それであたしは電波を受信することができる。
 もう一度液晶画面を注視する。「圏外」の文字が寂しく浮かんでいる。携帯電話のちっちゃなアンテナを、しゅるしゅると伸ばす。それから、そうだ、機体を縦にするといいんだっけ。あたしは立ち上がって、顔より少し高いところで、携帯を縦にして持つ。まだ圏外だ。アンテナサーチのボタンを押す。
 ――ほんの数秒が無限のように感じられた。やがて画面の端から「圏外」の文字が消え、その場所にアンテナのマークが、弱々しくも一本だけだけど、表示された。
 アンテナが立った!
 鼻息が荒くなる。心臓がばくばく鳴り出して、ほっぺたに熱がこもる。落ち着け、落ち着けあたし。とにかく、この神岡さんにメールを返すんだ。メニューから「返信」を選択。ああ、だけど、何を書いたらいいんだろう。書きたいことは山のようにあるはずなのに、まっさらの入力画面を目の前にして、あたしは頭真っ白。どうしよう、どうしよう。
 あたしの他に生存者がいる。聞きたいことはいっぱいあるんだ。男の人か女の人か。歳はいくつか。今どんな状況で、どうして生き残って……ああ、そうじゃない。話がしたい。断片的な情報を集めることより、とにかく何でもいいから話がしたいって、そう思ってたんだ。くだらない話題でもいい。誰かと何か喋らないと発狂しそうだって、ああ、だから、つまり、会えればいいんだ。

「subj:Re:誰か生きてますか?
 こちら葛西。そっちはどこ?」

 それだけ入力して慌てて送信する。とにかく、場所が分かれば会えるかもしれない。あたしが『おしまい』のときにいた場所が東西線の駅近くだったから、若干歩いたにせよ、おそらく葛西からそんなに離れていない。山手線管内とかだったら、頑張って歩いていけば会えないこともない、はずだ。
 返信、返信。あたしはもう携帯を握り締めるようにして、神岡さんから返事がくるのを待つ。途方もない時間が過ぎたような気がして、液晶画面の時計に目を落とすと、ほんの二、三分しか経っていない。誰かに告白して返事もらうときみたいにソワソワする。いや、告白なんてしたことないけど。
 だけど本当に返事が戻ってくるのだろうか?そもそも、この神岡さんのメールにあたしが返事を出したのだって、メールが発信されてから一時間経過してからのことだ。先方だって状況はおんなじかもしれない。あたしが一時間もメールに気づかずにいる間に、向こうも寝ちゃったかもしれない。歩き出して電波の圏外に出ちゃったかもしれない。
 そうだとすると、このメールにいつ返事が返ってくるのか、それどころかちゃんと返事が来るかどうかだって、定かじゃないんだ。あたしはまた不安になった。変に期待した分だけ、ますます不安になった。メールを返信するかどうかは、向こう次第だ。ひょっとすると、あたしのメールの内容が気に入らなくって、返事なんか書かないかもしれない。
 ああ、こんなことなら、もっと丁寧に書けばよかった。やっぱり最初は「こんにちは」とか「はじめまして」にすればよかった。そうでなかったら「十六歳の女子高生です」とか書いたら、間違いなく返信が来たんじゃないか?って、出会い系かよ。
 いろいろなことが頭の中を駆け巡る。しばらく待ったけれど、返信は来ない。向こうがどこにいてどんな状況なのか分からないから、どうしようもない。気がつくと、携帯の時計は十九時三十分を過ぎていた。あたしは来るか分からないメールの返事を待ちぼうけて、三十分以上もこうやって携帯抱えて突っ立ってたわけだ。途端に、自分のやっていることは、風船に爆弾くっつけて敵国に飛ばすような、そんな望みの薄い、他人から見たら馬鹿げたことのような気がしてきて、空しくなった。
 その晩あたしは、携帯を鼻先に置いて寝た。


 熟睡してしまったのだろうか?着信に気づかなかったけれど、目が覚めると同じように、携帯の液晶画面に封筒マークが表示されていた。夜中のうちに件の「神岡」さんからメールがあったらしい。着信は午前二時過ぎ。あたしの目が覚めたのが六時ごろだから、四時間も返事出さずに放っぽらかしにしてしまった。若干申し訳ない気持ちが半分、ちゃんと返事が来たことで嬉しい気持ちが半分。半開きの瞼をこすりながら、メールを開く。

「subj:Re:Re:生きてますか?
 宮の森」

 ……宮の森?
 聞いたことのない単語にあたしは戸惑う。宮の森って、何だ?このメールはいったい何が言いたいんだ?さっぱり、意味不明だ。
 少し冷静に考え直してみる。このメールは、あたしが送った「そっちはどこ?」って内容のメールに対する返信だ。ということは、このメールの本文は「神岡」さんが今どこにいるかを表している。「宮の森」っていうのはきっと、地名だ。そこまでは分かった。だけど、そんな場所聞いたこともない。
 幸い今朝も、アンテナは一本立っている。あたしはすぐに返信を入力し、送信する。

「subj:宮の森
 って、どのへん?」

 それからあたしは、携帯を手に持ったまま歩き出す。誰かと言葉を交わすことができる喜びに浸っていても、飢えや渇きから開放されるわけではなかった。昨日見つけた学校の跡地、水場に向かって歩いている。とにかく、水源が枯れていないことを祈った。