アフター・ザ・ワールド・エンド
(03/04)

 水を飲み、顔を洗って、それからしばらくの間、あたしは携帯の画面を注視したまま歩き回るという作業に没頭した。どのくらいの範囲内で、どの程度アンテナが立つのか、知りたかったのだ。
 昨夜から今朝にかけてメールを受信した辺りでは、アンテナがぎりぎり一本。そこから少し南の方――『おしまい』を経た後でも太陽が南中するという仮定の下でだけど――に歩くと、さっきまで消えたり出たりしていたアンテナが、常時立つようになる。電波の強くなる方へ向かって、歩いていく。
 しばらく歩を進めると、ついにアンテナが二本になる。携帯電話の液晶画面ばかり見ていたあたしが、ふと顔を上げると、そこには瓦礫の山。今まで見たことのないほど大きな山だ。あたしの背丈ほどの大きさに分割されたコンクリートの壁が、ごろんごろんと地面に積みあがっている。何か大きな建物が崩れ落ちた、なれの果てなのだろう。
 コンクリの隙間を縫って、瓦礫の中に踏み入ってみる。およそありとあらゆる建造物が失われてしまった『おしまい』後にあっては、日陰、というのは貴重な環境だ。コンクリの陰に入ると、ひんやりと涼しい。
 ひょっとしてこれって、あたしが最初にいた辺りなんじゃないか、と思う。『おしまい』の直後あたしは、膨大な瓦礫の山をかき分けて表に出てきた記憶がある。なんか、そのときの雰囲気に似ている。携帯を拾ったのもおそらく、この近くなんじゃないだろうか?
 あたしの身長よりずっと大きなコンクリートの破片が二枚、互いに寄りかかるようにして立ち、日陰を作っている。そうだ、あの陰で用を足したんだった。って、そんなことで思い出すのも情けないけど。このへんのビルやなんかで、あんな巨大なコンクリートの塊を使うような大きな建造物が、あっただろうか?と考えて、あたしは不意に思い出す。ああ、そうか。高速道路の橋脚か。
 ということは――現在午前十一時、太陽はほぼ南か南南東といったところ――たぶん、南に向かうと駅があって、そこから少し先に行くと、飲食店やコンビニが並んでいたはずだ。
 しばらく歩くと、あたしの読みが的中していたことが分かる。元の形状が予想できないほど粉々になって折り重なった瓦礫の山を、注意深く見ていくと、かつて線路であったと思しき鉄の棒が、ぐにゃりと曲がって突き出ているのを発見した。このへんが駅。ここから東西に高架式の線路が走っていて、そのガード下は飲食店や何かが立ち並ぶ商店街だった。飲食店。それなら、何か食料品が落ちているかもしれない。
 地理感覚を取り戻した途端に、脳の活動が活発になる。そうだ、このへんに駅の改札があったとして、このへんにハンバーガーショップ、このへんにコンビニ、あとそっちが牛丼屋で飲み屋でとんかつ屋……この惨状でも無事に残っている食料品があるとすれば、何だろうか?缶詰とかレトルトパック、常温保存食品の類。乾パンとかビスケットみたいなものがあれば、理想的だ。ああ、冬山で遭難した人が、チョコレート持ってて助かったって話よく聞くなぁ。チョコレート落ちてないかな。ああでも、この暑さじゃどろどろに溶けて形もないか。
 瓦礫の中に、喫茶店の看板を発見する。いつもお店の前を素通りするだけで、一度も中に入ったことのなかった喫茶店。プラスチックの看板が熱でぐにょぐにょに曲がって、だけどどうにか、店名の一部が確認できる。あたしはその辺りの石やら鉄筋やらを掘り返し始めた。大きなコンクリートの塊を両手でよいしょ、と押し上げ、その隙間に肩から体ごと押し込んで、背中の方に押しやって、向こうへ捨てる。そんな作業を何度か繰り返すと、次第に、ひんやりと湿った空気がにじみ出てくる。
 いくつめかの石を持ち上げた瞬間、かさかさ、と足元を何かが通り過ぎた。はっきりとは見えなかったけど、あの動き方はきっとゴキブリだ、とあたしは確信する。核戦争の後でも富士山が大噴火しようともゴキブリは生き残る、なんて話どこかで聞いたっけ。核ミサイルより火山より、もっと苛烈な『おしまい』の後だけど、ゴキブリはちゃんと生き残ったんだ。あたしはちょっと感心した。
 いや、感心してる場合じゃない。
 その石の下にあたしが発見したのは、死体だった。ずっと瓦礫に埋もれていたせいだろうか、これまでに見てきたどの死体よりも、腐敗や損傷が少ない。とはいえ、首や胴はありえない方向にねじれ、眼球は抜け落ちて窪んだ眼窩だけが深い闇のようにあり、肋骨が皮膚を突き破って外に出ていた。
 若い男の死体だった。軽めにブリーチのかかった茶色の髪と、左耳にピアスが三つ。ハイビスカス柄のTシャツとだぼだぼのパンツ。何だか、タクトに似ているな、と思った。実際のところあたしは、タクトの顔を正確に思い出すことができずにいた。記憶の中で、若干美化されてきてしまっているようにも思えた。目の前の死体はタクトであるようにも、まったく別の知らない人間のようにも見えた。あたしには、どっちだか分からなかった。
 あたしはしゃがみこんで、もっとよくその死体を見た。腐臭がつん、と鼻を刺す。死体の鼻の穴がもそっ、と動いて、中から真っ白い蛆虫が姿を現した。蛆虫は太陽の光に驚いたように、すぐに鼻の穴の奥へ戻っていった。
「……バーカ」
 あたしは小さくそう呟いて、死体のお尻のあたりを、軽く蹴っ飛ばした。
「あたしとヤリたかったんじゃないの?だったら、生き残ってりゃよかったのに。今、もし生きてたら、何発だってやらせてあげるよ。なのにさぁ……死んじゃったらさぁ……蝿のエサじゃん」
 その死体がタクトであるという自信はなかった。どちらかといえば、別人である可能性の方が強いようにも思えた。だけど、あたしはそのとき確かに、タクトに向かって話しかけているつもりだった。どっちにしても、タクトはもう生きていないのだ、と分かっていた。だから、目の前の死体がタクトであろうとなかろうと、結局は同じだ。
 あたしはその死体の上に、元通りにコンクリートの破片を被せて、日陰を作ってやった。この瓦礫の中では、一個の死体を中心として、ゴキブリや蝿や目に見えないいろんな微生物が、独自の生態系を、新しい秩序を構築している。そんな微かな秩序を護っているほんの少しの日陰を取り去り、灼熱の太陽の下にすべてをひからびさせるような権利は、あたしにはないのだ。


 駅周辺の残骸を漁り、夕方になってあたしはようやく、缶詰をひとつ発見した。『おしまい』以降に発見した、最初の固形食料品だ。ミカンのシロップ漬けを「固形」と呼ぶのが妥当かどうか、疑問に思うところもあるけれども。
 『業務用』と書かれた、一抱えほどもある大きな缶は、ところどころがひしゃげているけど、破れて穴が開いているような部分もなく、どうにか缶詰らしい形状にとどまっていた。両手で持ち上げてみるとずっしり重く、中身が無事であることをうかがわせる。
 食べ物を発見できたことは嬉しい。だけど、見つけた当初からずっと懸案なのは、これをどうやって開けるか、だ。
 業務用のミカンの缶詰が落ちていたあたりからして、やっぱり喫茶店の跡地ではないかと思い、あたしはその近辺に缶切りが落ちてないかと探したのだ。缶切りでなくても、この際包丁でも釘抜きでもフォークだって、見つかれば何でもいいように思えた。だけど、何も見つからなかった。
 少しばかりひしゃげているとはいえ、缶詰は途方もなく堅固だった。指先で小突くと、かんかん、という硬い金属音がする。プロレスラーでもびっくり人間でも伝説の空手家でもないあたしには、この缶を素手で開ける芸当はとてもできない。
 嫌になるくらい有り余っているのは、コンクリートの破片だけだ。握りこぶしくらいの大きさの石を手に取る。砕けた断面がごつごつととんがっている。あたしはミカンの缶詰を地面に置き、手に握った石ころでがん、と殴った。それから、もうちょっと力を込めて、がつん、と殴った。缶の表面には白っぽい小さな傷がついただけで、それどころか、コンクリートの方が若干すり減ったように見えた。すごいや缶詰。日本の技術に乾杯。
 いやだから、感心してる場合じゃなくて。
 要するに、あたしの腕力じゃ太刀打ちできないんだ。よく分かった。それなら、どうすればいいだろう?見渡す限り、手に入りそうな道具といえば、建造物の残骸ばっかり。コンクリートか、そうでなきゃ、あたしの親指くらいの太さの鉄筋。まったくどれも、缶詰を開けるなんていう繊細な作業に向いたシロモノじゃない。土建国家万歳、って感じだ。
 もっと大きな石でも落としてやれば、缶のどっかがねじ切れて開くだろうか?だけど、失敗したら缶がぺしゃんこに潰れて、到底食べられなくなってしまうかもしれない。試してみるべきか、それとももっといい道具が手に入るまで我慢すべきか。喉がごくり、と鳴った。あたしは『おしまい』以来、コーラと水以外に何も口にしていないことを思い出した。我慢も限界だった。
 板状のコンクリートの上に、缶を横向きに寝かせる。転がりださないように、缶の脇を小さな石で固定する。それから、上に落とすための巨大な石を――持ち上げようとしたけど、あたしの腕力では上がらない。ああ、何か長い棒とかあればな。てこの原理で持ち上げられるんだけど。って役に立つじゃん理科の授業。
 もう少し、適度な大きさの石はなかっただろうか。スイカくらいの大きさの石に目をつけ、あたしは両手で抱えると、ふん、と鼻息を吹いて一気に持ち上げる。持ち上がった瞬間に、腰骨が悲鳴を上げたような気がした。大体あたしは体育会系に向いてないんだ。指先が切れそうに痛い。二の腕がぷるぷると震える。
 缶詰の上であたしは、ほとんど力尽きて投げ出すようにして、石を落っことした。石は缶の端のあたりにぶつかり、ごん、と鈍い音を立てた。缶の縁が巻き上がるような変な形に歪んだ。それだけだ。どこも破れたりはしていない。
 あたしはもう一度石を持ち上げる。お腹の低い位置に石を抱え、がに股でよたよたと数歩歩いてから、缶の上に落とす。再度端の方を狙ったつもりだったけど、狙いが外れ、缶詰の真ん中らへんに命中した。ぶしゅっ、という音がした。下敷きにしていたコンクリートの上に、じわりと水溜りが広がる。やばい、やばい。
 あたしは慌てて缶詰を持ち上げた。缶詰の一部がぺたんと貼り合わされたように潰れ、その端に穴が開いて、そこからシロップが漏れ出ている。あたしは缶を高く持ち上げ、こぼれてくるシロップを口許に落とした。甘い。そうか、缶詰のシロップってこんなに甘かったんだ。いつもなら間違いなく捨ててしまっていたシロップ。それが今、こんなに貴重だ。何かの漫画だっけ、雪山で遭難した主人公が「昨日残したラーメンのおつゆ、全部飲めばよかった」と嘆いている場面を、急に思い出した。
 シロップはすぐに滴り落ちてこなくなった。大方は既に流れ出てしまって、もうとっくに蒸発して空の上だ。ま、仕方ない。覆水盆に返らず、とはこのことだ。こぼれたミルクに涙をこぼしても仕方ない。まったく、その通り。蒸発した缶詰のシロップは、同じように蒸発したあたしの汗や唾液やなんかと空中で混ざり合い、そのうちに雨でも降らすかもしれない。そう考えることにした。そうとでも考えなければ、やってられない。
 そんなことはどうでもいい。問題は、まだこの缶の中に残っていると思われる、ミカンの実の方だ。缶の破れた口は小さく、中にミカンが入っているのかどうか覗いて確認することすらできない。あたしは缶を強く振ってみた。くちゅっ、という、湿った柔らかい塊の揺れ動く感触があった。これは、期待できる。
 とはいえ、この潰れかかった缶の上に同じように石を落としたとしたら、今度こそ缶がぺしゃんこになって、中のミカンも到底食べられなくなるだろう。そのくらいのことは、容易に想像がついた。何か別の、開ける方法を考えなきゃいけない。
 あたしは試みに、力任せに缶をねじったり折り曲げたりする方向に、力を加えてみた。これだけ潰れかかっていれば、もう少し力を加えればどこかがねじ切れるんじゃないか、と思ったのだ。……残念ながら、期待通りとはいかなかった。壊れかかってもなお、缶詰はあたしの細腕より頑強だった。指に痛みを感じ始めたところで、あたしはその無益な挑戦から手を引いた。
 半分ひしゃげたミカンの缶詰を手にぶら下げたまま、あたしは歩き出す。このままここにいても仕方ないように感じられたからだ。とにかく、一度穴が開いてしまった以上、中身が腐りだす前に食べなきゃ。そのためには、何か別の道具か、別のアイデアが必要だ。


 小学校跡地の水場に戻ってきた。ミカンを食べ損ねたあたしは、結局今日も水ばっかり飲んで空腹をごまかしている。まったく、どうしたわけか、水だけは潤沢にあるのだ。
 ううん、贅沢を言っちゃいけない。水があるだけでも大したもんだ。この水場を見つけることができなかったら、あたしだって今頃とっくに日干しになって、ゴキブリや蛆虫の餌になっていたに違いない。それにこの水だって、いまはこんこんとわき出ているけど、いつ枯れるか分からないんだから。
 胃袋が、突然空腹であることを思い出したように、ぎゅううっと鳴った。あたしは恨めしそうにミカンの缶詰を見つめた。食料品はあるのだ、すぐそこに。だけどこのままでは、あたしは貴重な食料を目の前にしながら口に入れることもできず、ただ腐っていくのを見守ることになってしまう。
 あたしはミカンの缶詰を顔の上に掲げ、穴の開いているところが自分の口の上に来るようにして、もう一度缶を振ってみた。もしかしたら、ミカンの小さなかけらの一つくらい、何かの拍子に飛び出してくるんじゃないかと思ったのだ。無駄な努力だった。
 ああ、ミカン、ミカン。食べられないと実感するほど悔しくて、頭がミカン一色になる。確かにこの缶詰に開いた穴は、ミカンの一房より小さいんだけど、それでもあの微小なツブツブよりは大きな穴が開いているはずだ。あれってミカンの細胞なんだっけ。つぶつぶオレンジジュース、なんてのもあったな、最近あんまり見ないけど。あれだって、そんなに缶の口がでっかく開いてたわけじゃないんだから。……って、
 あれ?
 思いついた。あたしは、水筒代わりに使っているペットボトルで水を汲んで、缶の穴の開いたところから、少しずつ、静かに水を注いでいく。缶詰の中半分くらいまで水が入ったところで、あたしは穴のところを指でふさいで、勢いよく缶を振る。じゃぶじゃぶ、と鳴る。
 それからあたしは、おもむろに缶の穴に口をつけて、中の水を飲んだ。ごく微かに、ミカンの甘みが移ったような気が、するような、しないような。問題はそこじゃない。しばらく水を飲んでいると、そのうち、さっき振った勢いで砕けたミカンの破片が、水と一緒に、口の中に滑り込んできた。
 ほんの小指の先くらいの量だ。だけどあたしは、そのミカンの切れ端を、大事に、とても大事に噛みしめた。ちょっぴり涙が出そうになった。ああ、甘い。甘くて、すっぱい。そうだ、ミカンはこんな味だった、思い出した。シロップでふやけたミカンを奥歯で噛むと、くにゅん、と柔らかな感触があって、それからぷつり、とはじけて、口の中にミカンのジュースが広がる。そうだ、クリームあんみつ。マドカが大好きだった、デパートの甘味処のクリームあんみつだ。寒天とつぶあんと、それからシロップ漬けのミカンにチェリーに白桃が……


 ……途方もなく暑い日だった。あたしは図書館で何か読んでいたところを、マドカからメールで呼び出されて、いつものデパート内の甘味処に来たのだった。同じデパート内ならあたしは、有名ファッションブランドがプロデュースしたカフェがあるから、そっちの方が好きなんだけど、マドカは頑なに甘味処への信頼を動かさない。いつもだったら「太るから」とかいう理由で、豆寒天だのところてんだのといった、素っ気ないものばかり食べていたあたしが、その日に限って、どうしてマドカに付き合ってクリームあんみつなんか食べてたんだろう?そのへんは思い出せない。
 とにかく、台風と台風の合間で、すかーんと晴れた夏休み。窓際の席に座ったのは大失敗だ。冷房が効いているはずのデパートの中で、ここだけ少し、日差しに空気が暖められている感じがする。
「きゃー、あんみつだわー♪食べよ食べよー」
 夏休みに入ったせいで、マドカは週一かもっとか、とにかくあんみつ三昧の日々を過ごしているようだ。そんなに毎度毎度同じもの食べてるのに、いったいどうしてこんなにはしゃぐことができるのか、分からない。いい加減、飽きるってことはないんだろうか?
 あたしがマドカに呼び出されて甘味処であんみつを食べる、なんてのは、どちらかというと珍しい。マドカもあたしがあんみつなんか食べたがらないことは分かってるから、いつもならまず、メグやエリコに声をかけていた。はずだ。だけど、あんまり頻繁に呼び出すもんだから、いい加減メグやエリコの方が飽きてきたんだろう、あんみつに。
 今日だって別段相談事とかあったわけでもなく、ただ、マドカがあんみつ食べたいのに一人じゃ嫌だから、あたしを呼び出したってだけのことだ、と思う。そうだ、ずっと本読んでてちょっと脳が疲れてる気がしたから、たまには甘いもの食べよう、って思ったんだ。
 考えてみれば、しばらくぶりのクリームあんみつ。あたしはアイスクリームをスプーンの先で突き崩して、口に入れる。ここのアイスは牛乳の素朴な味だ。マドカはアイスと餡と寒天とフルーツを、もうほとんどかき回すようにして、一緒くたにほおばる。その食べっぷりを見てると、スプーンが小さすぎるんじゃないかって思えるほどだ。
 だけど、マドカの手は小さくて細くて青白く、むしろその手に握られたスプーンは、不釣合いに大きく見えるんだ。こんなに甘党で大食いのマドカが、どうしてこんなに細い体型でいられるのか、不思議だ。細いっていうか、小さいっていうか。
 そのときもあたしたちは、大して重要でもない、とりとめのない話をしていた。忙しくスプーンを口に運ぶ傍らで、マドカはおしゃべりの方にも忙しく口を動かしていたんだけど、いったい何の話をしていたのか、その辺りはぼうっとモヤでもかかったみたいに、思い出せない。
 マドカは大きな目をきょろきょろとよく動かしながら、いつも唐突に話を始めては、唐突に話題を切り替える。「ところでさー」と「そういえばさー」がマドカの口癖だ。そういえば、と言いつつ、それまでの話題と文脈が繋がったためしがない。だからあたしはマドカの話を、なんとなく聞き流すことが多かった。マドカも要は誰かに話を聞いて欲しいだけで、別段あたしの意見やアドバイスを求めているわけではないから、マドカが一方的にしゃべってあたしが聞く、という流れが完成する。そのことでお互い、別段気を悪くすることもない。
「そういえばさー」
 マドカがいつものようにそう言って切り出す。あたしはスプーンの先からほんのちょっと視線を外して、ちょっとだけマドカの方を見る。目が合う。スプーンの上の寒天を口に運んでいいものかどうか、あたしは一瞬ためらい、結局口に放り込む。同時に、マドカが続ける。
「ルリさぁ、どうしてタクトと付き合わないの?」
 うぐっ。
 あたしは頬張った寒天を噛まずに飲んでしまった。喉につっかえて、一瞬咳き込みそうになる。寒天が案外平穏につるん、と食道を通過し、呼吸が落ち着いたところで、あたしは珍しくマドカに異議を申し立てる。
「……あのさぁ、どうしてそういう話になるわけ?」
「えーっ、だってさぁ、条件いいじゃん。背高いし、顔だってそんな悪くないし、けっこー優しそうだしさ。もったいないよー」
 それだったらマドカにあげるよ、と言いそうになって、さすがにあたしは思い直した。それはトゲのある言い方だ。もう少し控えめな言い方を探して、結局あたしは、こう応じた。
「じゃあさ、もしマドカがあたしの立場だったら、タクトなら即OK?」
「んー、即OKって言えば即OK、かな。とりあえず、一回付き合ってみてから考える」
 なるほど。それはそれで一つの考え方だな、とあたしは思った。あまり真似したいとは思わないけど。そう言えばマドカは、先月別れた男で四人目だった、高校に入ってから付き合った男の数。早い例では半月もたなかったこともあったっけ。
「ルリだってさ、一回付き合ってみりゃいいじゃん。付き合ってみるまで分かんないことだってあるし、そんで嫌だったらすぐ別れちゃえばいいんだしさ」
「うーん、なんかそういうのって好きじゃないな、あたし」
「実は結構理想高い?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「あ、そっかぁ」急に当を得たように、マドカが笑う。「ルリって、まだバージンだったっけ」
「……関係ないでしょ」
「いやいや、関係あるって。重要でしょ」
 話にのめりこんできたらしく、マドカが徐々に身を乗り出してくる。アイス溶けちゃうよ、って言おうとして、マドカのクリームあんみつがとっくに空になっていることに気づいた。寒天の上で半分傾いたアイスが溶けかかってるのは、あたしの方だ。仕方なくあたしはクリームあんみつの方に集中力の比重を置いて、マドカの話を話半分に聞き流すことにした。
「それがいちばん重要っしょ。最初の相手がヘタだったらさ、マジへこむよー。あたしなんて悲惨だったもん。痛い痛いって言ってんのにさ、もう全然無視で、自分のことしか考えてないのね。そんときは最初だから分かんなくて、こんなもんかって思ったけどさ、今考えたらあれってハズレだったなーって。大ハズレよ」
 すっかりゆるくなったアイスと、シロップ漬けの黄桃をスプーンで一緒にすくって、口に運ぶ。溶けかかってはいてもアイスはひんやり冷たく、珍しくしゃべりすぎて熱を持ったあたしの喉を冷やしていく。
「その点タクトなら、ってあたしタクトとヤッたことないから知らないけど、たぶん、そこそこ上手いんじゃないかなー。案外女の子相手だと、ちゃんと相手の顔色見てるもんねー、あいつ。あたし思ったのはさ、やっぱ相手のことちゃんと見てない男はダメだね、ってこと。普段しゃべってるときに目が泳いでる男は、エッチの時もやっぱり相手見てないんだよねー。これは間違いない」
 あんみつをほとんど食べ終わって、小さな寒天の切れ端を器に残った糖蜜と一緒にすくう。蜜の甘さを噛みしめながらあたしは、やっぱり豆寒天とかにすればよかったかな、と思う。確かに脳がエネルギーを欲していたかもしれないが、それにしてもこれはちょっと甘すぎた。体の内側から、砂糖漬けにされているような気がする。せめて白玉あんみつとか、フルーツみつ豆とか、アイスの乗っかってないやつにすべきだった。
「あーあ、ルリはいいなぁー。あたしにも誰か告ってこないかなー、いい男。って、待ってるあたりが既にダメなんだけどねー。なんかさー、刺激が足んないのよ、刺激が。突然いい男が現れるでもなし。雑誌のモデルにスカウトされることもなし。高校生の今だってこんなに変化に乏しい人生送ってるんじゃ、この先就職でもしたら、ほんとにお先真っ暗よ」
 そんなに変化に乏しいんだったら、とりあえずこのクリームあんみつをところてんにでも変えてみればいいのに。そんなことを思いついたけど、黙っていた。変化に乏しい人生送ってる点では、あたしも大差ない。
「あー、そうそう。そういえばさー」
 またマドカの「そういえばさー」が始まった。何がそういえばなのか分からないけど、とにかくマドカは話してる最中にコロコロ話題を変えるんだ。
「ルリも聞いた?例の『おしまい』のハナシ」
 ほら来た。
 相変わらずマドカの話の振り方は唐突だ。さっきの話から何がどうして『おしまい』の話題につながるのか、あたしには分からない。だけど、マドカの頭の中では何かがつながってるんだろう、きっと。
「なに、マドカそんなこと気にしてんの」
「えー、だってなんか面白いじゃない。ある日突然何もかも全部リセット!なんてさ、ほんとにそんなことあったら面白いと思わない?」
「面白いか?」
「んー、今こうやって想像してる分には」
「なるほど」
 あたしは納得してしまった。確かに、こうして甘味処であんみつなんかつつきながら、世界の終わりについて漠然と空想を巡らせたところで、そんなものに現実感なんかあるはずもない。いっさいが絵空事の、無責任な空想であるだけに、いろいろと勝手な考えを浮かべることができる。
「でもさー、今こんなときに『おしまい』が来ちゃったら、あたしたち一巻の終わりだよねー。こんなデパートなんか、一瞬で消し飛ぶでしょ。どうやっても助からないよねー」
「っていうか、どこにいたって助からないって」
「そうかな?ジャンボジェットが墜落したって、乗客何人か生き残ったりするくらいだから、案外人間って頑丈なんじゃないかなー」
「だとしても、マドカは生き残りたいって思う?世界中ぐちゃぐちゃで、他みんな死んじゃって、自分だけ生き残るって、結構悲惨だと思わない?」
「んー、微妙。確かに悲惨かもしんないけど、そんなぐちゃぐちゃになった世界をいっぺん自分の目で見てみたい、って気はする。そんで、こりゃダメだって思ったら、自殺でもすればいいんだしさ」
「なるほど」


 ……思い返せばあのときは、ずいぶん気楽だったものだ。
 長い長い回想から、あたしはようやく現実に立ち返る。ミカンの缶詰を振ってみると、まだちゃぷん、という感触がある。もう少し水を足して振ってみようか。
 中途半端に食べ物を口にしたせいで、余計に空腹感が増した。そういえば、便秘にでもなったときみたいに、下腹がちょっとぽっこりしてきた気がする。何か嫌なガスでもたまってるのかもしれない。嫌だなぁ、とあたしは思う。それから、まあ別に誰が見るわけでもないし、と思い直してみる。この調子でいけば、じきにあたしは、地理か歴史の教科書に載ってる写真みたいな、飢餓状態ってやつの見本みたいな姿になるんだろう。
 それにしても、たったひとかけのミカンから、色々なことを思い出した。何かの小説に出てきた話だっけ、紅茶に浸したマドレーヌを食べることで、昔を思い出す、ってシチュエーション。そんなのに、ちょっと似てる。
 いや、そんなに高尚な代物じゃない。今のあたしは、どちらかといえば、限られた道具を使って缶の中のエサを必死で取り出そうとする、実験室のチンパンジーに近い。
 不意に脱力感が全身を襲った。何をしてるんだ、あたしは。
 『おしまい』を迎える前にあたしが有していたいくばくかの知識、例えば、ファッションのことや音楽のこと、読んでいた本のことや見ていたテレビのこと、そんなものは今やまったくの無価値で、食糧と水のことばかりがあたしを支配している。生命活動の維持と、それにかかる一次的な欲求が、あたしのすべてだ。あたしはもう人間じゃない。実験室のチンパンジーと同じだ。水場にいたドブネズミと同じだ。誰かの死体を食べて生き延びているゴキブリと、同じだ。
 違う。ちがう。
 そうじゃない。いろんなことを、思い出さなきゃいけない。あたしは人間だ。生まれてきてから十六年余り、見聞きしたこと、読み書きしたこと、話したこと、考えたこと。いろいろあるはずなんだ。あたしは、あたし。有澤瑠璃子。ありさわるりこ。ルリとかルリっぺとかアリさんとか色んな呼ばれ方してたけど、あたしは、ありさわるりこだ。ありさわるりこ、ありさわるりこ。連呼してないと忘れそう。ありさわるりこ、ありさわるりこ、ありさわるりこ……繰り返していくうちに、何だかそれがほんとうに自分の名前だったのかどうか、それも怪しく感じられてくる。何かの暗号みたい。ありさわるりこ。
 あたしは立ち上がる。片腕にミカンの缶詰、もう片方の手に水の入ったペットボトルと携帯電話を抱えて。あたしは、あたし。思い出さなきゃいけないんだ。そのためには、話さなきゃいけない。電波の届く方へ、あたしは歩き出す。今あたしを動物の領域から引き離し、人間の領域へ引き戻すことのできる唯一の道具が、この携帯電話であることを、あたしは今ようやく理解した。