アフター・ザ・ワールド・エンド
(04/04)

 辺りはもうすっかり暗くなっていた。だけど、今日は携帯のアンテナが立つところで寝ようと思う。
 しばらく歩いて、アンテナが一本から二本になったところで、おもむろにメールの着信音が鳴った。そういえば、この携帯のメール着信音を聞くのは初めてかもしれない。いつも、寝てる間とかに受信してたから。ちなみに着信音、ラジオ体操だった。しかも第二。
 この携帯にメールが届くなんて、発送元は例の「神岡」さん以外にありえない。すぐにメールを開く。そういえば、この前のメール、あたしは何を書いて送ったんだっけ。既に忘れてる。

「subj:Re:宮の森
 西28丁目あたり。東西線」

 ……西二八丁目?
 そうだ、宮の森ってどこか、ってメール出したんだ。そっちはどこ、って質問に、宮の森って答えが帰って来たから。だけど、西二八丁目?ますます聞いたことのない地名だ。東西線って書いてある。東西線沿線に、西二八丁目なんて場所、あっただろうか?
 だけど、もしほんとに東西線の近くだったら、案外ここから遠くないかもしれない。お互いの場所が分かれば、歩いて会いに行くことだって、不可能じゃないかもしれない。そうだ、直接会って話をすることができれば、それが一番いい。

「subj:西二八丁目って
 東西線の東京側? 千葉側?」

 これで少しは場所の特定になるだろうか?あたしはすぐにメールを送信する。送信してから、携帯をじっと両手で握り締めて、待つ。ほんの五分くらいで、すぐに返事が返ってきた。

「subj:Re:西二八丁目って
 東京の東西線じゃなくて、札幌の東西線」

 肩からがっくりと力が抜けた。そうか、東西線って名前の電車は、札幌にもあるのか。考えてみれば、東西線とか南北線とか、そんなありがちな名前の路線、全国どこにだってあるのかもしれない。
 それにしても、陸続きならまだしも、札幌じゃどうやったって会いに行けそうにない。いくら『おしまい』の劇的なインパクトの後だって、さすがに北海道と本州が繋がってる、なんてことはないだろう。少し期待を持った後だけに、落胆は激しかった。
 いや、落ち込んでる場合じゃない。
 メールを送信してから五分くらいで返事がきたっていうことは、向こうも電波が安定している状態だってことだ。今なら、ほとんどリアルタイムでやり取りができるはず。気を取り直そう。メールを書こう。聞きたいこと、話したいこと、いっぱいあるはずだ。
 そうだ、何度でも大声で叫ぼう。有澤瑠璃子十六歳、都立高校二年生、趣味は読書、特技バイオリン。あたしの名前は有澤瑠璃子。まず、そこからだ。英語の教科書だって最初は自分の名前を言うところから始まるんだ。マイ・ネーム・イズ・ルリコ・アリサワだ。すべてのコミュニケーションは、まずそこから始まる。

「subj:自己紹介
 あたし有澤瑠璃子十六歳高校生」

 句読点を打つのも煩わしくなって、そんなメールを一、二分で入力し、すぐに送る。返事が来るのが待ち遠しい。液晶画面をじっと見つめて待つ。ほんの何十秒、何分かの時間を、途方もなく長く感じる。自分の心臓のとくん、とくんという音が聞こえる。

「subj:Re:自己紹介
 御手洗かおる二十二歳大学生」

 返事が来た。御手洗かおるさん。「神岡」さんじゃなかった。きっとあたしと同じように、誰かの携帯が無事なのを発見して使ってるんだろう。御手洗かおるさん。まさか「おてあらいさん」ではあるまい。みたらいさんだ。みたらい、かおる。
 そう思いながらも、心のどこかに不安がある。果たしてこれは、本当にミタライって読むんだろうか?ミタラシさんかもしれない。あるいは、あたしには皆目見当のつかないような、途方もない特殊な読み方が、あるのかもしれない。それに、御手洗かおるさんは、男なのか、女なのか?この名前ではそれもまったく分からない。どっちでもあり得る名前だ。
 そもそもこの人は、本当に、ほんとのほんとに、「御手洗かおる」さんなのだろうか?実のところそれさえ確証が持てない。もしかしたら嘘をついているかもしれない。五十過ぎのおじさんかもしれない。相手が十六歳の女子高生だと分かって、親しみやすいように嘘の名前と年齢を書いたかもしれない。それが本当か嘘かだって、あたしに見抜く術はないのだ。
 だけど、ということは、逆もまた真なり、だ。御手洗さんにとっても、あたしが有澤瑠璃子であることを確信する理由は、何もない。女子高生を騙る不審人物として、疑ってかかっているかもしれない。
 ああ、突然自己紹介なんてするんじゃなかったかな。だけど、そうでなかったら、いったいこのメールに何を書けばいいんだろう。あたしは有澤瑠璃子だ、それはあたし自身にとって、この上なく明白な事実だ。だけどたったそれだけのことを、この携帯の電波を介して繋がっている御手洗かおるさんに、どうしても伝えることができない。どうしよう。どうしよう。
 御手洗かおるさんに、どうしても会いたくなった。札幌と東京では、それが無理な望みであることは分かりきってる。だけど、こんな風に断片的に言葉のやり取りをしたら、かえって我慢できなくなった。もっと話したい。声を聞きたい。呼吸を、肌の熱を感じたい。別に男でも女でもいい、二十二歳の大学生じゃなくたっていい。五十過ぎのおじさんだって、十歳の小学生だって、いっこうに構わない。会いたい。
 ……声を、聞きたい?
 そうだ、こんな単純なことに、どうして今まで気づかなかったんだろう。今あたしたちは、メールをほとんどリアルタイムでやり取りできるくらい、電波の安定した環境にいる。通じるはずだ。携帯電話に登録された番号を繰っていく。川口さん。穴田さん。深川さん。……期待したとおり「神岡」さんの番号がある。すぐに発信ボタンをおす。ぷっ、ぷっ、ぷっ。通信音が鳴って、それから呼び出し音が鳴り出す。心臓が早鐘を打ち始める。落ち着け、落ち着けあたし。深呼吸しながら、だけど携帯を耳に押し当てた手が、小刻みに震えている。
 とぅるるる、とぅるるる。
 ぷつり、という感触があって、呼び出し音が途絶える。耳を澄ますと、じいっ、というノイズが聞こえた、ような気がした。もう、心臓が口から飛び出しそうだ。暫時の沈黙。おそるおそる、あたしは切り出す。
「……もしもし?」
 声を出してみてあたしはびっくりした。こんなに上ずった、震えた声が出るなんて思ってなかった。何がこんなに、あたしを不安にさせるんだろう。もしもし、の返事が来るより前に、ごめんなさいって言って電話を切っちゃおうか、そんなことさえ考えた。
「……はい、もしもし?」
 あたしが馬鹿げた思い付きを実行に移すより前に、携帯電話は澄んだ女の人の声で、そう応じた。通じた。通じたんだ。ひとの声。あたし以外の誰か、人間の声。それが、こんなにあったかいなんて。
「えっと……ミタライさん、ですか」
 躊躇しながら、あたしはそう尋ねる。間違ってたらどうしよう。怒って電話を切られちゃうかもしれない。そうしたらきっとあたしは、もう二度と電話をかけることができない。どうか、どうか間違っていませんように。キリスト教徒でもないくせに、あたしはこんな時だけ、神様に祈る。
「有澤さん?有澤瑠璃子さん、なのね?」
 華やいだ声が返ってきた。その声からは、驚きと喜びの成分を感じることができた。ああ、よかった。通じた。そうだ、あたしは有澤瑠璃子だ。そして、この人は御手洗かおるさんだ。御手洗さんはあたしがありさわるりこであることを、あたしは御手洗さんがみたらいかおるさんであることを、確信した。通じたんだ。
 安堵すると同時に、途端に、ぼろぼろと涙が出てきた。何してるんだあたし、泣いてる場合じゃないのに。通じた。通じたんだ。あたしはこの『おしまい』の後の世界で、初めて他の誰かと、言葉を交わしている。それこそあたしがずっと望んでいたことなのだ。話さなければいけないことが、山のようにある。あたしがこの十六年で得たいくばくかのこと。あたしを動物から隔て、人間たらしめる何か。読みかけの本のこと。アルベール・カミュ。夕暮れの教室であたしに告白してきた男子のこと。タクト。それから……ああ、そうじゃない。あたしは何を話せばいいんだろう。怒涛のように様々な思いがあふれてきて、あたしは押し流されそうになる。そして、涙も際限なくあふれてきて、何か言おうとしても、ちっとも声にならない。
「ああ、よかったあー!あたし、もうこの世界で生き残ってるの、自分だけかもしれない、って思ってた。有澤さん、よかった。生きてるのね?元気なのね?」
「うん」
「でも、こんな風に電話が通じて話ができるなんて、奇跡みたい。電話してくれてありがとう。こっちの携帯には、メールアドレスしか入ってなかったの」
「うん」
 うんうん、じゃないだろ、あたし。内心そう自分にツッコミながら、どうしてもそれ以外の言葉が口から出てこない。話したいこと、いっぱいあったはずなのに。何だかもう、頭真っ白だ。
 御手洗かおるさんはみたらいかおるさんだった。女の人だ。五十過ぎのおじさんでも十歳の小学生でもなかった。優しそうな声だ。何だか、お姉さん、って感じだ。今この瞬間、同じ地球上で、生きている。札幌にいる。札幌にも東西線って名前の電車があって、その沿線の、西二八丁目、っていう辺りにいる。たったそれだけ。それだけしか分からないのに、どうしてこんなに、涙が出るんだろう。
「こっちはね、昼間は暑いんだけど、夜になると、ちょっと寒いの。東京はどう?」
「東京は……夜も、ちょっと暑い」
「そうかー……食べ物とか、どうしてる?寝る場所とかは?」
「食べ物は……水は、湧いてるとこ見つけた。あとは、ミカンの缶詰があった。それだけ」
 違う、こんな話をしたいんじゃない。生命活動を維持する必然、それだけじゃ動物と何も変わらない。あたしはこんな話をするために電話をかけたわけじゃないんだ。そう思ったけど、何ひとつ声にならない。あたしはただ、御手洗さんの問いかけにひとつひとつ答えを返す、もうそれだけで、精一杯だ。
「ねえ、有澤さん」
 御手洗さんのそんな呼びかけに、どきりとする。そうだ、有澤さんだ。あたしは有澤さんだったんだ。当たり前のことだ、だけど、誰かがあたしの名前を呼んでくれた。その瞬間にあたしは初めて有澤さんたりえたんだ。
「有澤さん、大丈夫だよね?あたしたち、頑張れるよね?頑張って生きていこうね?」
「うん」
「有澤さんのおかげであたし、希望が持てた。たぶん他にも、生きてる人がいるよ。東京と札幌じゃ遠すぎるけど……あたしたちは会えないかもしれないけど、どこかで誰か生きてる人と会えるかもしれない。だから、頑張ろうね?」
「うん」
 頷きながらあたしは、不意にマドカの台詞を思い出していた。「こりゃダメだって思ったら、自殺でもすればいいんだしさ」――どうして突然、御手洗さんの話とまるで正反対の、こんなフレーズが脳裏に浮かんだのか、分からなかった。
 ほんの少し、沈黙が続いた。
 やはり何かを話さなければならないような気がした。あたしは、音声が喉を通過して口蓋から飛び出し、空気を震わすあの感触に、飢えていたはずなのだ。だから、頷いてばかりじゃなくて、何かを話さなければいけない。あたしは唇をちょっと舐めて、それから、こう言う。
「……会いたい」
 どうしてこんな言葉が口をついて出たのか、分からなかった。東京と札幌では、実際問題会うことは不可能だと分かっていた。なのに、こんな台詞が出てくるなんて、自分でもびっくりした。
 しばらく返事がなかった。あたしの台詞が、御手洗さんを困らせてしまったんだろうか?
 そうではない、と気づいたのは、もう何秒か経ってからだ。びりびりっ、という嫌な音がした。途切れ途切れに、変な音がする。通信状態に何か問題が発生していたことを、あたしはようやく理解した。
「ごめ…………ちょっと、電…………ま、何て言……」
 御手洗さんの言葉が、ぶつ切りになって届く。何を言っているのか分からない。きっと、電波が悪いって言ってるんだ、と思う。
「ねえ、会いたいよ」
 あたしは繰り返す。その言葉が御手洗さんに届いているのかどうか、分からない。
「会いたい」
 三度目は明らかに届いていないことが分かった。あたしが、会いたい、の「た」の形に口を開いたあたりで、電話機からはツーッ、ツーッと、通信が途切れたことを表す音が鳴り始めたからだ。
 あたしは大仰にため息をついた。別に誰が見ているわけでもない、ため息をしてもひとり、の心境だ。さて、あたしの方の電波状態が悪くなったのか、御手洗さんの方か。一度電話をかけなおしてみようか。リダイヤルの操作をしようと携帯電話の液晶画面に目をやって、――そして、あたしは心臓が凍りつくような痛みを覚えた。
 携帯電話のバッテリーのマークが、目盛りひとつ、減っている。
 そうだ、考えてみれば当たり前じゃないか!こんな夜の暗い時間に、携帯電話使ってたら、画面のバックライトで電力消費しまくるのは、当然だ。携帯のバッテリーに限りがあることも当然だし、この状況で充電器なんかあるはずないってのも、考えればすぐに分かることだ。どうして、もっと大事に使わなかったんだろう。あたしのバカ。
 画面のアンテナマークは消えていた。どうやら電波に問題があったのは、あたしの方らしい。この状況では、リダイヤルもできやしない。諦めて、寝るより他にない。
 これ以上の電力消費を抑えるため、一旦携帯の電源を切って、あたしは地面に横になって、手足を丸めた。さっきより、さらに余分に涙が出た。もったいない、こんなことで体内の水分とか塩分とか排出しちゃって、どうするんだ。その晩あたしは、携帯電話を両手で抱えるようにして、眠ることにした。


 これだけ世界がめちゃくちゃになっていても、それでも夜の後には朝が、規則正しく訪れる。絶望的な朝だ。携帯の電源を入れてみると、液晶画面には死刑宣告にも等しい「圏外」の文字が表示されたままだ。暑さのあまり眠ってもいられなかったけど、だからといって手足を動かす気力もわかず、あたしはただ、お尻をぺたんと地面について、座り込んだままでいる。
 もう、涙も出ない。瞼が接着剤で貼り合わされてるみたいにべたべたして、喉は渇いたというよりほとんど痛いような感じだ。手元には水の入ったペットボトルがあったけど、その蓋を開けて口に運ぶ気にすらならなかった。
 このまま死ねたらいい。その時になって初めて、あたしは切実にそう思う。
 『おしまい』から今までずっと、あたしは自分のこのちっぽけな肉体の、生命活動を維持することの必然性に駆られていた。水を飲むこと、何か食べること、寝ること、排泄すること。それすら満足でない状況で、他の事を考える余裕なんてなかった。だから、悲しくも寂しくもない。そう思ってた。
 だけど、どうだろう。今のあたしを覆っているのは、生命活動の必然性よりももっと大きな、何か途方もない、虚無感だ。すぐに水を一口飲んで立ち上がり、動けるうちに何か食べ物でも探しに行った方がいい。そう、頭では分かっている。なのに、体の内側で何か、支柱みたいなものがぽきりと折れてしまったみたいで、立ち上がることができない。
「ぐちゃぐちゃになった世界をいっぺん自分の目で見てみたい、って気はする。そんで、こりゃダメだって思ったら、自殺でもすればいいんだしさ」
 マドカの言葉が脳内リフレインする。もし今当時のあたしたちに言葉を届けることができるなら、そんな甘いもんじゃないよ、って言ってやりたい。自殺する?首を吊るにも、頑丈なロープが必要だ。手首を切るにも刃物が要る。そんな道具をこの世界で調達し、自殺なんていう労力の必要な行動を実践するには、相当のエネルギーが必要だ。この世界で、自ら積極的に何かをする、なんてことが可能になるくらいに自分を奮い立たせるのは、簡単じゃないのだ。たとえそれが自殺のためであっても。
「有澤さん、大丈夫だよね?あたしたち、頑張れるよね?頑張って生きていこうね?」
 今度は昨夜の御手洗さんの言葉を反芻する。頑張って生きていこう。頑張って。なんか、スポ根ドラマのフレーズみたいだ。頑張って。なんて無責任な。頑張る理由がないときに、どうして人が頑張ることができるのか?頑張って生きていって、それでそれから、どうするんだ?これ以上生きてたって、こんなひどい状態が続くだけ。何にもならないじゃないか。
 だけど、あれだけ念を押すように「頑張れるよね?」って聞いてきたあたり、きっと御手洗さんも、だいぶくじけそうになってるんだ、って思う。当たり前だ。どうして生きているのか、何のために生きているのか。この状況で、そんな疑問を抱かない方がおかしい。
 あたしは空を見上げる。天空には相変わらず雲ひとつなく、太陽は何にも考えていないかのようにギラギラしていた。それは太陽のせいだ、とあたしは呟く。今あたしの手元に拳銃があったなら、あたしは笑いながら自分のこめかみに銃口を当て、引き金を引くのだろう。とても簡単なことだ。
 そうだ、何もかも、あの忌々しい太陽のせいだ。すべてをお気楽に高所から見下ろし、無責任に照りつけ続けている、あの憎らしい太陽。この矮小な肉体に律則されるあたしたち被造物の無益な営為を、知らん顔で見下ろしているんだ。あざ笑ってるんだ。あたしが大声で叫ぼうと、ミカンの缶詰と格闘しようと、携帯電話抱えて泣いてようと、そんなことは、大した問題じゃないんだ、お天道様にとっては。
 どうして生きているのか、何のために生きているのか。この状況ではそんな疑問が湧いてくるのも当たり前だ。だけど、そんな疑問は太陽の前にはまったくの無力だ。太陽は等しくあたしたちをじりじりと照らし、分け隔てなくあたしたちを日干しにし、腐敗へと向かわせる。
 ああ、もう、うんざりだ。
 全身が気だるく虚ろで、このままここに座り込んで死ぬのを待とうか、と思う一方で、暴れ回って目に付くものをすべて叩き壊したい、というような相反する欲求も去来する。何のことはない。あたしは、確実に狂ってきている。しかも、狂い始めたあたしをどこかから冷静に見つめる、もう一人のあたしがいる。
「ありさわるりこ」
 声に出して、あたしはそう呟いてみた。それはもう、自分の名前であるようには感じられなかった。何だか、頭の中に霧がかかったみたい。いっさいが不確かで、あたしを律していたものが全部どこかにこぼれ落ちて、何が何だか分からなくなってしまったような、そんな感じ。仕方ないんだ、太陽にとってはあたしの名前なんか、どうだっていいんだから。
 両の手のひらを地面につけ、ゆっくりと力を入れる。重い腰を少しずつ持ち上げる。ようやく立ち上がって、肩の幅に足を開いて、あたしは、もう一度太陽をにらみつける。あまりの眩しさに目を細めるけど、心の中で、ひそかに宣戦布告。あたしはあの太陽に、最後の戦いを挑まなければならない。たとえそれが、風車に戦いを挑む気のふれた哀れな騎士のような、無益で馬鹿げた行動であっても。


 タクトか、あるいはタクトに似た誰かの死体があった、その場所をあたしはちゃんと覚えていた。大きな石をいくつか持ち上げているうちに、履き古して汚れたナイキのスニーカーを掘り当てる。もう一つ石をどかすと、そのスニーカーからすっかり細い脛が伸びている。やあ、久しぶり、とあたしは呟いた。死体は何も答えなかった。
 冷静に思い返せば、あたしがこの死体を見つけたのは、つい昨日のことだったのだ。だけど、昨日に比べて死体は何だかやせ細り、老人のようになってしまった印象を受けた。
 顔のあたりの石をどけてよく見る。ほっぺたに青痣みたいな模様が見えて、ああ、これを死斑っていうのか、とあたしは納得する。全体に鈍い色あいの死体にあって、耳に刺さったままの金属のピアスが、異様なまでの光を放っている。考えてみれば確かに、タクトはこんなピアスをしていた、ような気がした。だけどそんなのはあたしの思い込みかもしれない。
「ねえ」わざとらしく、死体に語りかける動作。「あたしと、ヤリたかった?」
 死体は仰向けで、少し横を向いている。あたしは死体の側頭部を軽く蹴飛ばして、顔を真上の方向に向けた。それから、両足をそれぞれ死体の耳の横に置き、死体の顔をまたいで立った。
「ほら、見えてんでしょ。別に、全然大したもんじゃないけどさ」
 あたしは左足をショーツから抜いた。タクトの死体の顔面の上で、性器をむき出しにして、仁王立ち。ふっと顎を上げて、太陽を見る。
「けっこう巨根、って言ってたっけ?ほんとかよ」
 それから、タクトのベルトに手をかける。だぼだぼパンツのボタンを外し、ファスナーを下ろす。ベルトの辺りを掴んで一気に引き下ろそうとするけど、だらりと伸びきった脚にまとわりついて、なかなか脱がすことができない。
 ようやくズボンを膝の辺りまで引きずり下ろすと、トロピカルな柄のトランクスが現れる。黄色地にヤシの木とパイナップルの図案。こんなの穿いてたのかよ。ほんの十数秒ほど鑑賞させてもらってから、あたしはおもむろにトランクスを掴んでひっぺがした。
 そして――実際のところ、成人した男性のペニスを見るのはこれで二人目なのだ、一人目はお風呂上がりにぷらぷら歩いてるお父さん――果たしてこれはこんな形状でよかったのだろうか、とあたしは首をひねった。陰毛に埋もれ、太股の間でぐったりとうなだれているタクトのペニスは、何か節足動物の幼虫みたいな、奇異な形をしていた。丸っこい先端部があって、その付け根にひだのようにたるんだ皮膚があって、そして全体的にどす黒い。
「なに、コレ」侮蔑のこもった苦笑。「こんなんで巨根だって。笑っちゃうよねー。全然、大したことないじゃん」
 なりなりて成り余れるところ。人間の身体って存外けったいな構造をしている。まったく、お粗末な代物だ。笑っちゃう。だけどあたしの股間に存在するものだってまったく不恰好で、笑っちゃうより他にない代物で、そしてこんなもののために血道を上げてきた奴もいるのだ、タクトみたいに。
 あたしは再びタクトの頭をまたいで立った。頭側から足側を見るように立つと、ぐったりとしなだれて恥骨に半分隠れるようにして、ペニスが見える。比較的長身のタクトの体全体に比して、それはあまりにささやかで、まさに余りものとして後からくっつけられた異物のように見えた。
 あんなものを、あたしの股間に入れたくて仕方がなかったというのだ。それはとても滑稽で、馬鹿げた行為のように思えた。どうしてそんなものに、タクトが必死になっていたのか分からなかった。
「ほら、ちゃんと見てるんだよ」
 あたしは右手をスカートの中に差し入れる。性器に触れる。汗やら尿やらで、すっかり嫌な汚れがまとわりつき、べとべとしているような気がした。中指の先でそっと陰核に触れる。微かな痛みで、全身にびくん、と電気が走ったみたいに跳ねる。『おしまい』の後久しく体験したことのない、異様な感覚だった。
 指先で小さな円を描くように、陰核を包皮の上から撫でる。尾てい骨から背骨に向かって、ぞくぞくぞくっと寒気が駆け上がってくる。太陽がぎらり、とあたしの脳天を照らす。構うもんか。よく見ているがいい。唇の端をべろり、と舐める。指先を唾で濡らす。塩と泥と、他にも何か色々混ざった変な味がする。唾液に塗れた指でもう一度陰核をまさぐる。もう片方の手が自然と、胸を握り締めるようにしている。おへそのあたりから粘っこい汗が一滴、滑り落ちてきて、太股の内側を伝っていく。タクトのペニスは萎んだまま沈黙を保っている。どこかの空から、雲が一切れ流れてきた。あたしの指は膣の入り口をそっと押し開け、内側に入ろうかどうしようか、ほんの少し逡巡しているところだ。
 太陽、あの太陽め。見せ付けてやる、この人間のくだらない営為を。だけどあたしたちはこんなことをもう百万年も続けてきて、それが今、終わろうとしているんだ。第一関節がすっぽり入った辺りで、耐え難い痛みに、あたしは慌てて指をひっこめる。タクトの指ならもう少し上手に割って入ってくれるのだろうか?だけどあたしはあたし。ありさわるりこ。マスターベーションを覚えたのは十二歳のとき。なんか文句あるか。クリトリスがぷっくり膨れ上がってきたのが自分でも分かった。唐突にミカンの缶詰を思い出す。もう腐ってしまったかもしれない。ああ、お母さんの毎朝一杯の牛乳。お父さんは何度注意してもお風呂上がりに裸で家の中を歩き回って、そうだタクトとヤッちゃったとかって自慢げにしゃべってた女子がいたな、クラスでみんなが『おしまい』の話をしてて、あたしは話の輪に加わらずに本を読んで、ああそうだ、『異邦人』だ。アルジェリアの強烈な陽光。ナイフに反射されてぎらりと光る、あの太陽。ああ、頭の中がごちゃごちゃだ。死ぬ寸前に記憶がみんな走馬灯、ってこんな感じ?
 膝ががくん、と震えた。あたしは危うくその場に倒れそうになった。ちぎれた雲の一片が頭上をすうっと通り過ぎ、あたしの顔に影を落とす。絶頂を向かえ、息を切らしながら、あたしは空を見上げ、どうだ、と呟いた。ここに至って太陽はまだ沈黙を守り続けていた。


 突然、雨が降り出した。『おしまい』以降、初めての雨だ。最初はぽつ、ぽつと降り出した雨も、あっという間にバケツかタライでもひっくり返したような豪雨になる。あたしは慌ててコンクリートの物陰に隠れた。
 空はタールでも流したように真っ黒で、降り注ぐ雨もまた、墨汁みたいに黒い。きっと大気中の塵とかいろんな汚れを、集めて洗い流しているのだ。そうだ、それがいい、と思う。
 正直、雨が降ることがあるなんて思ってなかった。『おしまい』の後はずっと、太陽の天下が続くものなのだと、根拠もなくそう信じていた。だけどそれは、あたしという人間の勝手な思い込みだったんだ。あたしがどう信じようと、太陽は昇り雨は降り、そうして人間のない世界でも、新しい秩序が構築されていくのだ。
 死ぬなら今かな、と思う。
 もうこの世界において、あたしが生きることの意味など、何もない。いや、そうじゃない。最初からあたしが生きることの意味なんてありはしない。より正確には、あたしが生きているところにこそ意味が生じていたのであって、今あたしが人間として生きることが困難になっている以上、意味なんてもはやこの世界中のどこを探したってないのだ。ただ、新しい秩序にそった資源の循環が、淡々と進められている。それだけなんだ。
 今日は何月何日だろう、と思う。携帯電話に目をやる。電源を切るのを忘れていた。すっかり電池を消耗して、バッテリーのインジケータは残り一目盛りになっていた。そして、アンテナが一本。
 アンテナが一本。
 こんなときになって、通信復活してるなんて。皮肉だ。あたしはリダイヤルのボタンを押し、神岡さん=御手洗さんに、電話をかけてみた。ぷっぷっ、という送信音に続いて、機械応答のメッセージが続いた。お客様のおかけになった電話番号は、電波の届かないところにいるか、電源がオフになっています。
 電池は今にも切れそうだ。もう一回電話をかけても、つながらない可能性の方が大きいだろう。メールなら、あとで受信して読んでくれるかもしれない。それこそ、沈没船から瓶に手紙詰めて流す、っていうアレだ。あたしは電池が切れる前に、大至急でメールを打ち込んだ。

「subj:(なし)
 あ痛い」

 送信のボタンを押したその瞬間――あたしは、変換ミスに気づいた。
 何だよ、あ痛いって?「会いたい」の間違い。そんなことは、分かっている。だけどどうしてあたしは、最後の最後のチャンス、一番伝えたいことを伝えようとして、どうしてこんなミスをしでかすんだ?あ痛いっていうか、むしろこの誤変換こそが痛い。もう一度メールの入力画面を立ち上げようとして――ぴーっ、とエラー音が鳴り、画面には「バッテリーがなくなりました」の文字が表示され、少しして、画面が真っ暗になった。
 途端に、妙な脱力感があたしを襲った。肩からがっくりと力が抜け、それから、不意に笑いがこみ上げてきた。くつくつくつ、と静かに沸騰するような笑い。横隔膜が変になったみたいだ。何がおかしいのか分からない。ただ、笑いが止まらない。押し殺していた笑いが次第に大きな笑いになり、あたしはよじれそうなおなかを抱え、大きな声を立てて、のたうち回りながら、笑い出した。何かがツボにはまったみたいで、あたしは笑いが止まらず、際限なく笑い続けた。
 もう、何もかもがおかしくて仕方ない。あたしは携帯電話を投げ捨てた。携帯電話はコンクリートの角と過激な出会いを果たし、がしゃん、と音を立てて吹っ飛んだ。構うもんか。あたしは笑っていた。顔をくしゃくしゃにして、口を大きく開けて笑いながら、雨の降りしきる中へ飛び出していく。泥水みたいな雨に全身を強く打たれながら、あたしはミュージカルの主人公みたいに、ステップを踏んで歩き出す。笑いが、とにかく笑いが止まらない。
 このまま笑いながら踊って死ねたら最高だ。あたしは瓦礫の上でぴょん、と飛び跳ね、着地に失敗して滑って転び、顔面を打った。鼻血が出てすごく痛かったけど、そんなこともむしろ滑稽で、笑いはいっそう激しく、止まらなかった。空を覆う雲はどす黒く、煤に汚れた雨は、いつまでも降り続けた。


〈了〉