(01/02)

 ペットショップは小鳥や犬の鳴き声で喧騒に満ちている。
 店員の少女はすっかり僕の顔を覚えてしまったらしく、何も言わないうちから「こんにちは!小鳥ですか?」などと尋ねてきた。すぐに大小さまざまの鳥が並ぶケージの前に連れて行かれる。
 もとより小鳥でありさえすれば何でもいい。
「なるべく、安いのを」
 そう言うと店員はシジュウカラのつがいを勧めてきた。提示された値段は貧乏サラリーマンの僕にも余裕のある程度のものだったので、素直に勧めに従うことにする。代金を支払っていると、こんなことを尋ねられた。
「小鳥、お好きなんですか?こんなにいつも買っていったら、お家がすごいことになってるんじゃありませんか?」
 僕は軽く苦笑した。
「彼女がね。寂しがるんですよ」



 午後6時のマンションは部屋の電気もついておらず、薄暗かった。西向きの窓から差し込む橙色の光が、彼女の輪郭だけを浮き立たせる。無秩序に散らかったリビングの中央の床に、彼女はぺたんと座り込んでいた。
 握った左手の中には、先週僕が買ってきたセキセイインコがいる。
 非音楽的な声がした。インコが彼女の手の中で悲鳴を上げたのだ。彼女はまるで花でも摘むような優美な仕草で、インコの方に右手の指をそっと伸ばすと、羽根を一枚抜き取った。
 やがて僕は、部屋中に散乱している小さな白い綿埃状のものが、インコの羽毛であることを理解する。彼女は先程抜き取った羽根を人差し指に乗せると、ふっと息をかけて飛ばした。羽根がゆらゆらと揺れながら落ちていく様を、彼女は興味深そうに見つめていた。
 その間にもインコは、自らの生命の危機を感知しながら、必死で叫んでいる。よく見れば、彼女の左手は、ところどころがインコに噛みつかれて、ぷっくりと血をにじませていた。
 ようやく彼女が僕に気づいた。彼女は微かに顔を上げ、口許を綻ばせて、
「あ、おかえり」
 とだけ言った。
「……ただいま」
 そう言うのがやっとのことだ。既に手の中の小鳥は力を使い果たしたのだろうか、その抵抗は弱まってきている。僕が彼女の左手を開かせると、インコはもはや飛ぶこともできず、するりと床の上に落ちた。
「こんなに、血が出てるじゃないか」
 彼女の手を取って僕が言う。彼女はきょとんとした顔で僕を見上げる。まるで流れ落ちているのが自分の血であることを理解していないかのように。
「……消毒は、嫌だよ。しみるもの」
「わがままだな」
 僕は彼女の手に顔を近づけ、血の滴を唇で拾うようにして、舐めてやる。彼女は満足げな顔をして、さらに手を僕の方に差し出して、言った。
「もっと」
「……しょうがないな」
 僕は再び彼女の手に口をつけた。彼女の全身が時折びくり、と震える。僕は彼女の呼吸が先程より少しだけ早まっていることに気づいた。
「……さあ、これでおしまい。あとは水で洗っておいで」
 そう言われて彼女は、一瞬悲しげな顔をしてから、のろのろと洗面所の方に足を運んだ。彼女が視界から外れると、改めて僕は床の上でうごめいているその小さな塊に目をやった。このインコも、今夜のうちには死ぬだろう。

 リビング一面に散らばったインコの羽毛を片づけるために、僕が掃除機を転がしている間、彼女はビーンズバッグ・チェアの上で、手足を猫のように丸めていた。どうやら彼女は掃除機の音が嫌いらしく、掃除機を使っているときはいつも、こうして椅子の上に避難している。
「…………の?」
 微かに彼女の声が聞こえて、僕は掃除機を止めた。
「今日は、何を買ってきたの?」
 ああ、そうだ、忘れていた。僕はペットショップで渡された小さな菓子箱から鳥籠へと、シジュウカラのつがいを移してやる。昨日までこの鳥籠の主であったセキセイインコは、どうせもうこの籠に戻ることはない。
「わあ、可愛い」
 彼女は籠の中に手を差し入れる。シジュウカラは既にそうしつけられているのか、彼女の指にすり寄ってきた。彼女は指の先でシジュウカラの喉やら腹やらを軽く撫でてやる。
「……どうしていつも」
 僕が口を開くと、後に続く言葉がお説教であることを覚ったのだろうか、彼女は眉をひそめた。
「どうしていつも、そんなふうにずっと可愛がってあげられないんだ?」
「だって、飽きちゃうんだもの」
 彼女は口を尖らせた。
 手を引っ込め、鳥籠の戸を閉めると、彼女は拗ねたような仕草で椅子に座り込む。掃除機をひとまず置いて、僕は彼女の方に歩いていく。
「だいたい君は……」
 本格的にお説教を始めようとした僕の腕を、彼女が不意に掴んだ。そのまま強く引っ張る。僕は彼女の上からビーンズバッグ・チェアに倒れ込んでしまった。
 なおも言葉を続けようとする僕の口を、彼女は自分の唇でふさいだ。彼女は顔を上げると、まるでお伽話の悪魔か、あるいはチェシャ猫みたいに歯を見せて笑う。
 僕の負けだ。そんなことは分かっている。
「飽きっぽい女の子は嫌い?」
 彼女が尋ねる。僕が返答せずにいると、彼女は僕の首に手を回して、細い身体を僕の胸に押しつけてきた。
「……だいすき」
 彼女はそう言って、再び唇を重ねてきた。キスをする僕の視界の片隅で、セキセイインコはもう今にも息絶えようとしていた。

 子供がお小遣いでもねだるかのような気軽さで、彼女は僕にセックスをねだる。
 僕もセックスは嫌いではないけれど、彼女ほどに好きではないだろう。そう思わされるくらい彼女はセックスをしたがる。
 身体を重ねている最中、彼女は言葉を発しない。うう、とかああ、とか意味のない声を発することはあっても。彼女は目を閉じている。僕の方を見ることはない。終わると彼女は、僕の胸にぎゅっと抱きついて眠る。いつも。
 彼女の小さな身体を腕の中に抱きしめながら思う。僕が愛しているのは彼女だろうか、それとも彼女の瞳の中に映る僕自身だろうか?まるで心中でもするような気持ち、奇妙な安心と絶望が混ざり合う感じの中で、僕は落ちていくように眠る。どうか明日の目覚めがもっと安らかでありますように。



 彼女と初めて会ったときのことを思い出す。冷たい雨がアスファルトを打ち付ける三月、彼女はオートロック式の僕のマンションの前で、胎児みたいにうずくまっていたのだ。何をしているんだろう、と訝しく思いながらも、オートロックを開けて中に入ると、忘れもしない、彼女は当然のような顔をして、僕の後についてきたのだ。
 僕がエレベーターに乗ると、彼女も乗り込んでくる。僕が四階で降りると彼女も降りる。自分の部屋の前に着いて、鍵を開ける段になって僕はいよいよ我慢できなくなって、すぐ後ろにちょこんと立っている彼女に、声をかけた。
「……何か、用でも?」
「ずぶぬれなの」
「…………?」
 僕と彼女との会話は最初からかみ合っていなかった。
「カサ、持ってなかったの」
「……それなら、そこのコンビニでビニール傘でも買えばよかったじゃないか」
「お金ないの」
「…………」
 よっぽど傘代を渡して追い払おうかと思ったが、僕が何か行動を起こすより前に、彼女が口を開いた。
「だから、シャワー貸して」
「……あのねえ……」
 何か文句を言ってやろうと思ったが、適当な言葉が見つからない。どう追い払ったものかな、と思って、僕は彼女の顔を見た。
 息が詰まった。
 というのも、彼女の瞳が、まったく捨てられた子猫のようなそれだったからだ。自分が拒絶されることなど微塵も思っていない、まるで純粋な瞳。その瞬間、彼女と目を合わせた瞬間に、僕の敗北は決定したと言っていい。
 僕がドアを開けてやると、彼女はこの部屋の主である僕より先に、いそいそと入っていった。

 シャワーを浴びて出てきた彼女の姿を見て、僕はさらに唖然とした。というのも彼女は、僕のワイシャツをだぼだぼと着て、それ以外には何も身につけていなかったからだ。シャツの薄い布地越しに乳房が透けて見え、裾からはやたらに白い太股が見え隠れしていた。
「……ジーンズも出しておいたよね」
「だって、ウェストがぶかぶかなんだもの」
「…………下着は?」
「びしょびしょで、気持ち悪いの。着たくない」
「…………」
 何かあったろうか。僕は衣装ケースの中をがさがさと探す。少々色あせたカーディガンがあったので、彼女の方に投げてよこした。
「それ、着てなよ」
「どうして?」
「……そんな格好じゃ、風邪ひくだろう」
「大丈夫だよ。別に、寒くないもん。あ、これもらうね」
「…………」
 僕が何も言わないうちから、彼女はテーブルの上に出してあった食べかけのチョコレートの袋に手を伸ばした。次いで、テレビのリモコンに手を伸ばす。テレビをつけると、ちょうど天気予報をやっていた。
「まだしばらく、降るみたいね」
「…………」
 僕にはいよいよ発する言葉もない。
「もうしばらく、雨宿りしていってもいいよね?服が乾くまで」
「……お茶淹れるけど、飲む?」
 どうやら太刀打ちできない、と分かって、僕はそう言った。彼女はにっこり笑って、遠慮もなく、こう答えたのだ。
「フォションかフォートナム&メイソンのダージリンなら」

 さすがにダージリンとはいかず、僕の食器棚に待機していたのは煎茶と玄米茶とリプトンのティーバッグだけだった。もう何も言わず玄米茶を淹れてやったら、彼女は文句も言わずに飲んだ。
 湯飲み茶碗を両手でちょんと持って、まだ熱い玄米茶にふうふうと息を吹きかけている彼女に、僕の視線はどうしても向かってしまう。何の気なしに見ていると、ついつい危うい胸元なんかに目が行ってしまい、慌てて視線を逸らす。
 ふと、彼女がこっちを向いた。嫌がられたかな、と思っていたら、彼女の口をついて出た台詞は、僕の予想とは、まったく正反対のものだった。
「――決めた。あたし、ここに住む」
「…………は?」
 既にもう何度も唖然とさせられた後だったが、さすがにこれは開いた口が塞がらなかった。僕は酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせる。彼女はハロウィーンを翌日に控えた子供のように笑った。
「だって、この部屋は居心地いいし、あなたの淹れてくれるお茶は美味しいし、それに――」
 彼女の顔がぐっと僕の方に迫る。
「――あなたのこと、好きになったみたいだから」
「…………!?」
 頭の中がすっかり真っ白になった。いったい彼女は何を言い出すんだ?僕はしばらくまともな思考回路を構築できずにいて、その間に彼女はもうすっかり、僕の家に住み着く算段を決め込んでいたようだった。
「ねぇ、いいでしょ?」
「いや、あのね、そんな、いきなり……」
 僕の口をついて出る言葉は、文章を成さない。彼女のこの突拍子もない申し出を、どう言って断ったらいいのか、分からなかったからだ。彼女はミルクをねだる猫のような甘えた声で、こんなことを僕に尋ねてきた。
「……それとも、あたしのこと、嫌い?」
「いや、そんな突然聞かれたって、好きも嫌いも何もあったもんじゃ……」
「じゃあ、少なくとも嫌いじゃないのね。よかった。大丈夫、一緒にいればそのうち、自然と好きになるよ」
 もはや彼女の決意は堅いようだった。彼女は突然僕の首筋に抱きついて、僕の方に全体重を預けてきたのだ。彼女の肩が思った以上に細かったことに驚きながら、僕は彼女を引きはがそうかどうしようかと迷っていた。彼女は僕の胸に頬を押しつけたまま、ぽつりと呟いた。
「どきどきしてる」
 その一言で、僕はもうすべての反論を封じられてしまった。そうだ、僕はこの時もう、すっかり彼女のペースに飲み込まれてしまっていたのだ。もはや何をどうあがいても勝ち目はなかった。

 ――そんな経緯で、彼女は僕のマンションに住み着いてしまった。最初は数日したら自分の家に帰ってくれることを期待していたのだが、すぐに無駄な期待であることが分かった。家の人は心配しないの、と僕が尋ねると、彼女は眉一つ動かさず、こう答えたのだ。
「家なんて、ないもの」
「…………は?」
 つくづく分からないことばかり言う。家出でもしたのか、と尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「それじゃあ、ここに来るまでは、どこに住んでたんだ?」
 僕のその質問に対して、彼女は露骨に不愉快な顔を作り上げた。
「……もう、やめよう。そういう話、嫌い」
 そう言ったきり、彼女は何も答えてくれなかった。ずいぶんな身勝手だ、と思ったが、後から思えば僕は、この時から既に、こうした彼女のわがままぶりを小気味よく感じていたのかもしれない。ともかくも彼女はその後もずっと、僕に自分の名前すら教えてくれないのだった。



 ある日――その日はとても天気がよかった――僕は彼女に、近所の公園まで散歩に行こう、と誘ってみた。というのも、彼女はもう何日も、ずっと部屋にこもりきりだったからだ。彼女の返答は明確だった。
「やだ」
「やだ、って……」
 こうも見事に否定されてしまうと、さすがに僕も返す言葉に苦労する。
「どうして、嫌なんだ?こんなにいい天気なのに」
「だって、出かける理由がないもの。外よりこの部屋の方が居心地がいいのに」
 彼女はカーペットの上にごろりと転がっている。こうなってくると、僕は意地でも彼女を外に連れ出したくなってきた。こうも毎日部屋の中でごろごろされていたのでは、こっちの精神衛生にも良くないし、何より彼女自身にとって健康的でない。
 僕は少し妙案を思いついた。
「それじゃ、僕は一人で出かけてこようかな」
「どこへ?」
「さっきも言ったとおり、公園まで散歩」
「何時頃、帰るの?」
「さあ。夕方くらいになるんじゃないかな。どうする?一緒に来る?それともずっと一人で留守番してる?」
 彼女はがばっと起きあがる。それから、下唇をきゅっと噛んで、上目遣いに僕の方を見上げて、ぼそっと小さな声で、
「……いじわる」
 とだけ言った。

 3月の公園は、陽光は暖かいものの、空気にはまだ多少の肌寒さが残っていた。そのせいでもないだろうが、彼女はずいぶん不機嫌そうだった。
 日曜日の昼下がり、公園には小学生ぐらいの子供たちや、家族連れの姿が目立つ。芝生と植え込みの間をゆっくりと歩いていると、ふと、彼女の目が何かに止まった。
「どうしたの?」
 彼女の視線を辿ってみると、その先には夾竹桃の木が植えられている。薄い桃色の花はまだ開かず、固い蕾の姿のままだ。彼女が手を伸ばして夾竹桃の蕾に触れたのを見て、僕は尋ねた。
「夾竹桃、好きなの?」
「別に」
 彼女は爪を立てて、夾竹桃の蕾をぷちん、とむしり取った。
「夾竹桃の花言葉って、知ってる?」
 唐突に彼女が質問をする。僕が首を傾げると、彼女は別段面白くもなさそうに、こう答えた。
「『危険』っていうのよ」
 彼女は両手の指先で、夾竹桃の蕾を、何か蜜柑の皮でも剥くような動作でむしっていく。縮れた不完全な姿の花びらが、一枚、また一枚と地面に落ちていった。
「知ってる?夾竹桃って、毒があるのよ」
 彼女はまた唐突に言った。話しながらも、視線は手元の夾竹桃の蕾に向けられたままで、その動作は止まらない。
「夾竹桃だけじゃないよ。朝顔の種とか、スズランの根っことか……きれいな花でも、毒があるのって珍しくないんだから」
 そんなことを話しているうちに、彼女の手の中の夾竹桃は、すっかりバラバラにされてしまっていた。最後に手の中に残ったひとかけらを、彼女はもはや何の興味もなさそうに放り投げた。
「……やっぱり、つまんないや。こんなの」
 こんなことを言われては、もはや僕には何とも言いようがない。

 しばらく公園の中を歩き回っているうちに、彼女は芝生の方にばったりと倒れ込んでしまった。何が起こったのかと思って近寄ってみると、彼女はぷっと頬を膨らませたまま、こう呟いたのである。
「……疲れた」
 僕は思わず笑い出しそうになる。彼女の仕草が、あまりに可愛らしかったからだ。彼女の頬を指で押してやりながら、僕はこう言った。
「君は、普段から運動不足なんだよ」
 僕のその言葉に対しては、彼女は何も言わない。うつ伏せに転がっていた彼女は、ごろんと半回転して仰向けになった。芝生の上に大の字になって、また同じ事を繰り返す。
「疲れたのっ」
 彼女はまるで子供みたいに、手足をばたばたさせた。
 僕は彼女の隣に膝を抱えて座り込みながら、ふと、ここの芝生って立入禁止じゃなかったろうか、などと考えた。彼女は僕のそんな心配なんかお構いなしで、芝生の上に十分な領域を確保したまま、首だけをくるりと動かして、僕の方に向けた。
「疲れた、って言ってるのっ」
「言ってるの、って言われてもなぁ……」
 僕は鼻の頭を掻いた。
 こんなときは、彼女の意図をそれとなく予期してやらなければならない。そうでないと、彼女はひどく不機嫌になる。要するに彼女は疲れたから、僕に何かをしてほしいのだ。何をしてほしいのだろう。
 分からなかった。
「……お昼寝、しよう?」
 どうやら時間切れを迎えたようだ。彼女はがっかりしたように微笑して、言った。
「だって、ずっと歩きっぱなしなんだもの。足が、疲れちゃった。あたし、ここでお昼寝する」
「お昼寝ってねぇ……」
 半ば呆れて、僕は彼女の方に手を伸ばした。起こしてやるつもりだったのだ。しかし彼女は僕の手を握ると、強く引っ張って、僕を自分の方にたぐり寄せたのだ。
「一緒にお昼寝するの」
 彼女はそのまま僕の背中に手を回してくる。さすがに僕は慌てた。
「ちょ、ちょっと待てよ、こんな……っ」
 僕の反論を、彼女はいつものようにキスで封じる。どうにか彼女の手を振りほどくと、僕は舌を噛みそうになりながら、必死で文句をぶつけた。
「何考えてるんだよ、こんなとこで!周りに小さい子供だってたくさんいるんだぞ?」
「別に、誰も見てないよ。見てたって、あたし、気にしないし」
「少しは気にしろって……」
 僕は服に付いた芝生の屑を払うと、すっかり歪んでしまったジャケットの襟を正した。
「……分かったよ、もう、帰ろう。帰ったら、お茶淹れてあげるから」
 そう言うと、彼女は待ちかまえていたようににっこり笑って、両手を僕の方に伸ばしてきた。
「……何、それ」
「抱っこして。お姫様みたいに、抱っこして帰るの」
「……まったく」
 つくづく彼女にはかなわない、と僕は思い知らされたのだった。

 マンションに帰り着くなり、彼女は寝室に引きこもってしまった。約束通りにお茶を淹れてやって、彼女を呼んでみると、こっちに持ってきて、という返事が返ってきた。湯飲みをふたつトレイに乗せて、僕が寝室のドアを開けると、彼女はベッドの上に正座して、両手の指先で何か小さなものを弄んでいたのだった。
「……何、それ?」
 尋ねながら僕は彼女の手を見る。彼女が持っているのは、錠剤だった。何の薬だか知らないけれど、病院でもらってくるのと同じような、一錠ずつ銀色のフィルムでパッケージされているやつだ。
「薬」
 僕の質問に、彼女はひどく簡潔に答えた。彼女は僕の手にしたトレイから湯飲みを片方ひったくると、その錠剤を口に運んだ。まだ熱い煎茶で薬を流し込もうとして、彼女はその熱さに顔をしかめ、舌を出す。
「何の薬?」
「元気が出る薬」
 僕の二つ目の質問も、あっさりと受け流された。彼女はもう薬を飲み込んでしまっている。彼女の手に残っている錠剤は、あと三錠だった。
 僕は彼女の手からその薬をひょい、とつまみ上げた。彼女は別段嫌な顔もしない。僕はその錠剤をじっくりと観察してみたが、果たして何の薬なのか、皆目見当もつかなかった。――薬局で市販されているような薬なら、パッケージに商品名が書いてあってもよさそうなものだが、それすらないとなると、これは病院で処方されている薬なのだろうか。訝しく感じる。
「どこから持ってきたの?」
「昔、知り合いにもらったの。すっかり忘れてたんだけど、ジーンズのポケット漁ったら、出てきたの」
 三つ目の質問に対する答えには、僕は少々不満を感じた。彼女の着ているシャツやジーンズは、なにしろ彼女が家事全般に興味を示さないものだから、いつも僕が洗濯してやっているのだ。どこをどう漁っても薬なんか出てくるはずがない。――すると彼女が言っているのは、まったくのでたらめなのだろうか?
「ひとつ、飲んでみてもいいよ?」
 そんな彼女の申し出は、さすがに断らせてもらった。こんな得体の知れないものを、そうそう気軽に飲めたものではない。

 ――彼女の言う「元気が出る薬」の正体が何だったのかは分からないが、ともかくその夜彼女は異様に元気で、おかげで僕は少々睡眠不足で週明けを迎えることになったのだった。