花
(02/02)
翌日、僕が仕事から帰ってくると、昨日の元気が嘘のように、彼女はすっかり無気力状態だった。リビングの床の上にぺたんと座り込んだ彼女は、どこかぼうっとした様子で天井の方を見上げている。僕が帰ってきたことに気づくと、彼女はゆっくりと首を回して僕の方を向いた。その表情は、何かに苛立っているかのようだった。
「……何、してるの?」
「別に」
面倒くさそうに受け答えをする彼女の服の袖口に、僕は赤黒い汚れを発見した。嫌な予感がして、鳥籠の方に駆け寄る。予感は的中した。――二羽のシジュウカラのうちの一方が、止まり木に止まることができず、鳥籠の床のところでうずくまっている。籠の横には血でべたべたに汚れた爪切りと、切り離された鳥の片脚があった。
僕が彼女の方に向き直ると、彼女は険悪な目つきで僕をにらみ返してきた。まったく、何が不満だというのだろう。僕はいつものように彼女にお説教を始めようとした。ところが。
「嫌い」
僕が何か言おうと口を開いた瞬間に、彼女に機先を制されてしまった。唐突だったので、面食らった僕は口まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。彼女は続けた。
「嫌い。そうやって、いっつもお説教するんだもの。あたし、あなたのこと、嫌い」
「……まだ、何も言ってないだろ?」
「ほら、またそうやって、あたしのこと叱る。嫌いだよ、そういうの」
彼女は口を尖らせた。
まったく、彼女のわがままはいつものことではあるのだが、この場合はまったくわけが分からなかった。僕が何をしたっていうんだ、と怒鳴りつけてやりたい気持ちでいっぱいだったが、それで事態がいい方向に推移するとは到底思えなかったので、しばし僕は無言でいた。彼女は勢いよく立ち上がると、僕の頬を両手で乱暴に掴んで、ぐっと顔を近づけ、突然キスをした。彼女の舌が僕の唇を割って侵入してくる。
……キスをしていた時間は、それほど長いものではなかったかもしれない。彼女は始めたときと同様、唐突にキスを終わらせた。相変わらず眉をひそめた表情の彼女は、
「やっぱり、嫌い」
と言い放って、寝室に逃げ込んでしまった。
僕はしばらくリビングに立ちつくしていたが、やがて自分のすべきことを思い出した。つまり、背広を脱いで普段着に着替え、リビングに飛び散った血や羽毛、血まみれの爪切りなんかを片づけ始めたのである。
いったい何が不満なのだろう。僕は相変わらず彼女の気まぐれに閉口している。居候のご身分で、家主に向かって「嫌い」とはよく言ったものだが、それに対して「じゃあ出て行け」と言えないのが、僕の弱いところだ。――つまるところ、僕はこの破天荒な彼女に惹かれつつあるのだった。
彼女が傷つけた小鳥は、これで何羽目になるのだろうか。僕は鳥籠の中に手を差し入れてみる。片脚を失い、うずくまっているシジュウカラは、いかにも怯えた様子で小刻みに身体を震わせていた。考えてみれば、よく痛みでショック死しなかったものだ。僕は傷ついた小鳥を撫でてやることは諦め、鳥籠の戸を閉めた。
それから僕は彼女のためにお茶を淹れる。最初にリクエストされたとおり、フォートナム・メイソンのダージリンだ。実は彼女のためにこっそり買ってきてあって、リプトンのティーバッグとほぼ交互の割合で出しているのだが、どうも彼女の反応はない。気づいていないのかもしれない。必要以上に気を使ってしまっている自分を滑稽に思いながら、ともかく僕は紅茶を携えて寝室の彼女を訪れる。
彼女は無言で、しかし素直にティー・マグを受け取り、飲んだ。ふうっとため息をつくと、捨てられた子猫の瞳で僕を見上げて、おずおずとこんなことを尋ねてきた。
「……あたしのこと、嫌いになった?」
「どうして?」
「嫌い、なんて言っちゃったから」ぱち、ぱちと二回まばたき。「嫌いにならないで。あたし、あなたのこと大好きだから」
「……『ごめんなさい』は?」
少々意地悪な気持ちになって、僕がそんなことを言うと、彼女はマグカップをサイドボードに置き、腰掛けていたベッドから立ち上がって、僕の首のところに抱きついてきたのだった。
「……ごめんなさい」
先程とは別人のように、彼女は素直だった。僕は彼女の背中を軽く撫でてやる。彼女は僕の胸に顔を押しつけたまま、もごもごと話し出した。
「――時々、何もかもが気に障ることがあるの。今日もずっとそうだった。小鳥が、小鳥の鳴き声が、すごく耳障りで嫌な感じがした。許せない気分になったの」
「それで、脚を切っちゃったの?」
「そうすれば少しは気が晴れると思ったの」
彼女は不安げな目で僕を見上げた。許しを乞うような目。何か優しい言葉をかけてやれば、彼女は満足するのだろうか。気の回らない僕には、ありきたりのことしか言えなかった。
「……もう、駄目だぞ。こんなことしちゃ」
「どうして?」
――彼女の返答は、僕の想像の範疇を越えていた。それはひどく素朴な質問で、だからこそ僕は安易な答えを返すことをためらった。なにしろ彼女の瞳が、僕をまっすぐに見据える彼女の瞳が、簡単な嘘やごまかしは一瞬で見抜く鋭さを持っているように思えたからだ。
どうして?
どうして、小鳥の脚を切ってはいけないの?
僕は自問し、そして自分自身を納得させる答えすら得られない。僕にとって、飼っている小鳥の脚をむやみに切ったりしてはいけないことは、当たり前であって、理由なんかなかったのだ。だからいざ、何がいけないのかと尋ねられれば、納得のいく答えを返すことは難しい。
僕が言葉に詰まっていると、彼女は僕の胸をどん、と両手で突き放した。どうやらわがままなお姫様は僕の態度がお気に召さなかったらしい。彼女はベッドの上に膝を抱えて座り、僕に背を向けて、
「――やっぱり、やっぱり嫌い!」
と言い捨てた。
*
脚を切られたシジュウカラは、その後三日間は生きていた。――こういう言い方をしなければならないのは、四日目に死んでしまったからである。金曜日、残業で少々遅くなって帰ってくると、僕は自分のマンションのリビングに、今朝までなかったはずのものを見つけた。部屋の片隅でじたばたと動き回っていたそれは、僕の帰還に気づくと不遜な顔をこちらに向けて、にゃあと鳴いた。
「…………?」
それは――子猫は、僕にはさして興味もなさそうに、何かを前足で弄んでいる。白色の毛玉のように見えるそれは、シジュウカラだった。身動き一つしないところから見て、既に死んでいることは明らかだった。
「あ、おかえり」
ぼさぼさの頭をかき回しながら、彼女が寝室から出てくる。僕は精一杯険悪な顔を作り上げて、彼女に説明を求めた。
「……これは、どういうこと?」
「可愛いでしょ?」
「……可愛いとか、そういう問題じゃない。このマンションは原則としてペット禁止なんだ。小鳥くらいなら良かったものの、猫なんて……いや、それ以前に、このシジュウカラについて説明を求めたいね。いったい、どういうことなんだ?」
「あのね、この子、すごいのよ。さすが猫って感じ。ちゃんと狩りをするの」
「…………」
怒鳴りつけてやるべきか、切々とお説教を続けてみるべきか、僕は迷った。迷っている間に、彼女は次の台詞を並べ始めていた。
「マンションの前で、鳴いてたの。すごく寒そうで、可哀想だったの。ね、飼ってもいいでしょ?」
どうやら彼女の興味は、もはや寸分たりともシジュウカラの方を向いていないようだった。見ると、鳥籠の中にはもう一羽の姿もない。まさか、と思って部屋の中を見回したら、さすがに杞憂だったようで、ちゃんとカーテンレールの上に避難していた。単に鳥籠の扉を開け放しておいた結果らしい。
「……あのね」
一羽だけでも無事であることを確認して、僕は少しだけ平静を取り戻し、結果、ゆっくりとお説教を続けてみることにした。
「いいかい、うちにはもう鳥がいるじゃないか。猫なんか、飼えないだろ?」
「どうして?」
「……殺されちゃうだろ」
「そうね。でも、それが何かいけないの?」
……まただ。僕はもはや呆れ返る。彼女はいつだって無邪気で、そして真剣なのだ、困ったことに。僕はしばらく逡巡したのち、慎重に言葉を選びながら答えを返した。
「可哀想だとは思わないのか?」
「別に。どうして?」
「…………」
降参したい気持ちに駆られながら、それでも僕は土俵際で必死に踏みとどまる。ここで説得を諦めてしまったら、また彼女は気まぐれにシジュウカラを殺すのだろう。それはどうしても許せないことのように思えた。
「いいかい、もし君が、今誰かに気まぐれで殺されるとしたら、すごく嫌だろう?それと同じことだよ。鳥だって、殺されるのは嫌だろうと思うよ。だから」
「でも、別に可哀想じゃないわ」
「……どうして?」
僕は彼女のやり口を真似て、反撃を試みる。しかしそれがまったくの無駄であることを、僕はすぐに理解させられることになった。
「だって、誰もあたしを殺したりしないもの。あたしが殺されることと鳥が殺されることとに、何の関係があるっていうの?」
「…………」
今度こそ僕は完全に閉口した。
すっかり疲れ果てて、僕がビーンズバッグ・チェアに沈むように座ると、彼女が心配そうな顔で僕を覗き込んだ。
「大丈夫?具合、悪いの?」
「…………」
こんな時に、「お前のせいだ」と怒鳴れない自分がもどかしい。
彼女は何かを思いだしたように走り去ったかと思うと、何かを手に握りしめて、すぐに戻ってきた。僕の目の前ににゅっと握り拳を突き出し、ぱっと開く。手の中には薬が一錠転がっていた。
「飲む?」
「……これは?」
半ば分かりきったことではあるが、一応質問してみると、彼女は相変わらずまったく無垢な微笑を浮かべて、こう答えたのだった。
「元気になる薬」
「…………」
もはや何を反論する気力もなかった。この薬の正体が何なのか、気になるところではあったが、ともかく彼女が飲んでいるものだし死ぬこともないだろう、と思い、彼女の手から錠剤を受け取る。彼女がひどく嬉しそうに持ってきた水のコップを受け取ると、僕はもう自棄になって、何も考えず一気に薬を喉の奥の方まで流し込んだ。
その晩、僕と彼女とは狂ったように何度もセックスをしてから眠った。
僕は珍しく夢を見た。花の夢。極彩色の花が狂ったように咲き乱れる夢だった。それは美しいというよりもはや混沌としていて、むしろ生理的嫌悪感や吐き気を催す類の色彩だった。夜中に何度か目を覚ますと、ずいぶん気分が悪くて、何度か嘔吐した。
どうにか朝を迎えてみても、信じられないほど嫌な気分だった。吐き気はするし、腹痛はするし、何だか起きあがる気にもなれないくらい無気力だ。リビングの方で猫のにゃあにゃあ鳴く声が、やたらにうるさかった。
ひどく口の中が乾いていた。食欲はまるでなかったが、水を一口飲みたくてたまらない。とはいえ起きあがる気力もないので、彼女に水を持ってきてもらおうと思って、呼んでみた。
「ねぇ」
返答はない。
「おぉい」
もう少し声を荒げてみても、結果は同じだった。仕方なく僕は重い体をどうにか起こし、キッチンまでよたよたと歩いていく。
キッチンで水を汲みながら、ふっとリビングの方に視線をやると、彼女が猫と遊んでいた。手に何かを持って、猫じゃらしの要領でからかっているのだ。――彼女が手にしているのが、昨夜まだ生きていた方のシジュウカラである、ということに気づくまでには、多少の時間が必要だった。
どうしたわけか、彼女を叱る気にはなれなかった。自分の気分が悪すぎて、それどころではなかったせいかもしれない。僕が起きてきたことを見つけて、彼女は嬉しそうに駆け寄ってきた。その手には、ぐったりとしたシジュウカラをぶら下げたままだ。
「ねえ、一緒に遊ぼう?」
無邪気にそう微笑みかけてくる彼女を見ると、僕の脳裏にふっと昨夜の夢の光景がよぎった。極彩色の風景。色とりどりに咲き乱れる花の息苦しい光景。
彼女は花なのだ。
そんなことを不意に思いついてしまって、僕は自分でも自己分析をするのに手間取ってしまった。……ああつまり、彼女のこの無邪気さ、素朴さ、残酷さは、花のそれにひどく似ているのだ。花はただ、その植物が子孫を残すために咲く。蝶や蜂を誘い込むために甘い蜜や鮮やかな色を用意し、これらの昆虫を自らの繁殖のために利用する。それゆえに花の色は鮮やかで美しく、そして不気味でひどく気持ちが悪い。それは彼女の無邪気さゆえに生ずる残酷さに、非常に似ているように思えた。
彼女が宙にぶらさげたシジュウカラに、子猫が必死で飛びつこうとする。もう少しのところで届かず、猫は悔しそうに何度もジャンプを繰り返す。シジュウカラが時々ばさ、ばさと翼を動かす。どうやらまだ死んではいないらしい。
彼女は興味深げに猫と小鳥を見やっていた。猫の動作と、鳥の死んでゆく様と、どちらにより強く興味を引かれているのか、僕には分からない。僕は椅子にふんぞりかえって水を飲みながら、彼女の様子を見守っていた。
彼女はシジュウカラの羽根を一枚摘んで、引き抜く。シジュウカラが悲鳴を上げる。彼女は引き抜いた羽根を手のひらに乗せると、ふっと息を吹きかけて飛ばした。ゆらゆらと落ちていく白い羽根に、子猫がはっしと飛びつく。彼女は声を立てて笑った。
「……どうしたの?」
しばらくして、彼女がそう尋ねてきたのは、僕がずっと何も言わずに彼女を見つめていたからだ。僕は曖昧に笑いながら、思った通りのことを答えた。
「なんだか、花みたいだって思って」
「何が?」
「きみが」
彼女は小首をかしげた。
しばらく何か考えていた彼女は、やがてくすくすと笑い出した。なにがおかしいのかと僕が目で尋ね返すと、彼女は手にしていたシジュウカラを無造作にぽいと放り投げ、こう答えた。
「ずいぶん、不思議な台詞だね」
投げ捨てられた哀れな小鳥に猫が飛びかかって、前足で押さえつける。しばらくばたばたと動いていたそれが、やがて完全に動かなくなるのを確認している間に、何を思ったのか、彼女はジーンズのベルトをゆるめていた。
彼女はジーンズとショーツを同時にずり下ろして、性器を指でまくり上げて見せた。
「でも、ほら、女の子って花みたい」
僕はそういう意図で発言したのではなかったのだが、案外彼女の指摘は的を得ているようにも思えた。確かにこれは、花なのかもしれない。無邪気で残酷で美しく不気味な。僕は彼女の鮮やかな花にそっとキスをした。
……セックスを終えると、僕と彼女とはしばらく椅子の上で、裸で抱き合っていた。彼女の弾む吐息が肩にかかる。そんなことをしてる間に、子猫はもう部屋中に真っ白な羽根をまき散らしていた。床がすっかり小鳥の羽根と血とで散らかり、汚れてしまって、僕は掃除が大変だな、などと悠長なことを考えていた。
「……何、見てるの?」
唇を尖らせながら、彼女が尋ねた。どうやら自分を見ていないことが気にくわなかったらしい。僕は黙って、顎で子猫の方を指す。彼女は振り返って猫の方を見て、それからもう一度僕の方を向いた時には、もうすっかり口元を綻ばせていた。
彼女は僕の膝の上から立ち退くと、下着さえも身につけずにそのまま、キッチンの方へ歩いていく。リビングに戻ってきたとき彼女は、右手に包丁をぶら下げていた。彼女が何をしようとしているのか、僕には皆目見当もつかなかった。
彼女は子猫の首のところをつまんで持ち上げると――無抵抗の子猫の腹部に、突然包丁を突き立てたのだった。子猫が悲痛な声を上げる。彼女はそんなことにはお構いなしに、それどころかむしろ嬉々として、包丁を引き抜くと再度猫に突き刺した。僕は椅子から立ち上がり、それきりどうすることもできずに立ちつくす。
三度、四度と猫を刺したところで、彼女は無造作に包丁を投げ捨てた。左手には猫を掴んだままだ。子猫はだらりと力なくぶら下がりながら、時々びくり、びくりと動いていた。そんな子猫の様子を、彼女は恍惚とした表情で見つめる。
子猫が完全に動かなくなるまでの数十秒の間、彼女はただうっとりと子猫を見つめていた。やがて子猫が絶命したことが分かると、彼女はもうそれに興味がなくなった風で、子猫の骸をぽい、と後方に放り投げた。
「あ……」
何か声をかけようとしたが、僕の声帯は僕の物でなくなってしまったかのように、音を発してくれなかった。彼女は満足げな表情で、ゆっくりと、僕に近づいてくる。途端に、僕は背中にぬるりとした感触を覚えた。彼女が僕に抱きついてきたのだ。彼女の両手は子猫の血液ですっかり濡れていた。
「ねえ……」
甘ったるい声が僕の耳元で蠢く。
「何だか、興奮してきちゃった。もう一回、しよう?」
そう言いながら、彼女は僕の太股に股間をすり寄せてくる。彼女のそこはもうじっとりと潤いを帯びていた。
「何かを殺していると、すごく興奮するの」
腰を揺らしながら、彼女はそう告白する。
「血が好きだし、それに、何かが死んでいくのを見るのが好きなの。……ううん、好きなんじゃない。ただ、興奮するの。頭がぼうっとして、心臓がどきどきして、それから、あそこが濡れてくるの」
僕はそんな彼女の言葉のひとつひとつを、何か絶大な恐怖と共に聞いていた。僕の上に跨った彼女の身体が、ゆさゆさと揺れている。彼女の薄い乳房を手で包み込むと、その上下に見える肋骨の凹凸がやたらと目についた。
ひどく落ち着かない気持ちだった。僕は彼女に何かを言わなければならないような気がして、けれども何も言うことが思い当たらず、ただ淡々とセックスを続けていた。――このままでは、いけない。そうと分かっていながら、しかし僕にはどうすればいいのか分からない。
「今度は、子犬がいいな――」
彼女が無邪気な微笑をたたえて言う。
「すごく、ちっちゃな犬がいいの。昔、何かの雑誌で見たんだ。ちっちゃくて、目なんかくりくりって丸くって、ふわんふわんなの。ねぇ、買ってきてくれるでしょ?……っ」
そんなことを話しながら、僕と彼女とは同時に絶頂を迎えた。靄のかかる意識の中で、どうにか猫の死体を視界の端に留め置きながら、僕は思う。――明日にでも、子犬を買ってこよう。そうしないと、彼女は何を始めるか分からないから。
*
翌日は日曜日で、僕はペットショップが開く午前十時に、早速チャウチャウの子犬を買って帰ってきたのだった。それは決して安い買い物ではなかったし、彼女に殺させるために買っていくというのも気が重かったが、それでも僕はそうする以外に何も思いつかなかったのだ。犬を買って帰れば、彼女は犬を殺すだけで済む――それ以上のことは、何も起こらないはずだ。
しかし実際にマンションに帰り着いてみると、僕は自分の考えが甘かったことを思い知らされたのだ。玄関から見えるリビングには、彼女が呆然と立っていた――血まみれで。殺すべきものなんて何もいないはずなのに、と思いながら慌てて駆け寄ってみると、彼女の足元には何か赤黒い塊が転がっていた。
人間だった。
五、六歳くらいの女の子だ。服を引き裂かれ、その服の切れ端を口の中に詰め込まれて、全身をめった刺しにされていた。彼女の足元にはやはり包丁があって、部屋の中はもう、血でぐちゃぐちゃになっていた。
「あ、おかえり」
僕を見ると、彼女は何事もなかったかのように笑った。
――心臓がばくん、ばくんと、飛び出しそうな勢いで脈打つ。全身がかあっと熱くなり、汗が噴き出す。僕はもうすっかり頭の中が真っ白になっていた。視界の端で、倒れている少女の手指が微かに動いた。まだ生きているのかも知れない。救急車を呼ばなければ。警察にも電話しないと。僕の理性はそう訴えかけるのだが、全身が金縛りにあったように動かない。
「ねえ、あたしね、いま、すごく興奮してるの。こんなの、初めて」
息を弾ませながら、頬を上気させながら、彼女がそう言う。彼女の手が、僕のベルトをかちゃかちゃと外し始めた。――その時僕はあることに気づき、唖然とした。僕は、勃起していたのだ。
頭が真っ白になる。ほんとうに。僕はどうしてしまったというのだろう?頭がぼうっとして、心臓がどきどきして。そして――何もかも、昨日彼女が言っていたのと、同じではないか。僕は、興奮しているのか。でもいったい何に?彼女が人を刺した、という出来事になのか、それとも目の前で今まさに死につつあるこの命のためになのか。
彼女が僕のペニスに舌を這わせる。確かな熱と湿った感触が伝わる。それは彼女が生きていることの証明。部屋の中はどこを見たって鮮やかな赤色だ。ついさっき、彼女がこの部屋に連れ込んで包丁で刺した、少女の血だ。それは死んでゆくものの証明。
だけどそれは、なんて鮮やかな赤なんだろう。僕は自分が血液の赤に興奮していることを自覚した。鮮烈で、強烈な色彩。それはまるで先日の夢に見た花の極彩色だった。何よりも美しく、何よりも生々しく、何よりも強い赤色。
彼女はぴちゃぴちゃと音を立てる。僕は色々に視線を移動させた。床の上には、まき散った少女の血液。散らかった部屋。割れたグラスと倒れた鉢植えとひっくり返ったくずかご。そして、もはやまったくの無機物のように倒れている少女。
少女の目と僕の目が合った。さすがにもう、死んでしまったのかもしれない。まったく生気のない瞳に、しかし僕は恨みがましく見据えられているような気がして、背筋がぞくぞくと寒くなるのを感じた。同時に僕は、彼女の口の中に射精した。
玄関の方が、やたらに騒がしくなる。呼び鈴がけたたましく三回鳴らされると、返事を待たずに男が三人、踏み込んできた。彼女にペニスを啣えられたままの僕の目の前に、男が何かを差し出した。
警察手帳だった。
*
取り調べの段になっては、僕は何もかも正直に打ち明けた。少女を殺したのは僕ではなく彼女だ、ということも主張した。ただ僕を取り調べている警察の男は、それでも僕は罪科を追及される立場にある、と言った。
「これが何だか、知っているね?」
そう言って見せられたのは、銀色のフィルムで包装された錠剤だった。彼女が言うところの「元気になる薬」だ。僕が頷くと、続いてそれがMDMAと呼ばれる薬品であることが説明された。「麻薬及び向精神薬取締法」に抵触する、ということも言われた。
「もちろん、君に向けられる容疑は、それだけではない。――仮に君の言うとおり、殺したのは君でないとしても、君が部屋に戻ってきたときにその女の子が生きていたというのなら、君は遺棄致死傷罪に問われる可能性がある。もちろん、君を殺人罪と遺棄致死傷罪のいずれで起訴するかは、我々ではなく検察の判断するところだがね」
「…………」
僕は無言でいた。もはや自分の罪状が何であるかなど、興味がなかったのだ。僕はこの時ずっと、彼女のことを考えていた――彼女なら、平然とした顔で、「どうして人を殺しちゃいけないの?」とでも尋ねるのだろうな、などと。
「……それにしても、君の言うことが本当なら、どうして君は死にかけている少女を助けようとしなかったんだ?どうして少女を放ったらかしにして、その横でセックスなんかしていられたんだ?」
再び質問が向けられる。その質問で、僕はまたあの時のことを思い出していた。本当に、自分でもわけが分からなかったのだ。どうして自分はあのような行動を取ったのか。どうして彼女の為すことすべてを、何もせずにただ見守っていたのか――。
脳裏を極彩色の花々がよぎる。その夢がドラッグによってもたらされたものであることは、もう分かっていた。だけどその夢は、決してでたらめな嘘ではなく、僕の脳細胞のどこかに確かに眠っていた光景なのだ、と僕は確信している。――そうだ。僕はずっと、あの光景に憧れていた。咲き乱れる花々。毒があるのかもしれないけれど、美しく咲いている花。それはひどくリアルな生であり性。無邪気で残酷な。
「僕は、ただ――」
脳裏を彼女の笑顔がよぎる。無邪気で残酷な笑顔。それは花の美しさだった。
「――僕はただ、彼女になりたかったんです」
〈了〉