ゼリィ・フィッシュの憂鬱
(01/04)


「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学上の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。そして、ニーチェののぞんでいることだが、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか――この答えにつづいて決定的動作が起るかもしれないのである――それが納得できよう。以上は心情では明白に感じられることだが、この明白さをさらに深くきわめて、精神にとって明瞭なものたらしめなければならない。」
――アルベール・カミュ「シーシュポスの神話」



「お前の記事、面白くないわ」
 その事件を取材するようになったきっかけは、編集長の厳しい一言だった。
 僕は、三流ゴシップ誌のライターである。春先にこの雑誌に配属されてから半年、小さな記事をいくつか書かせてもらってきたが、自分ではそれなりに上手いこと仕事をこなしているつもりでいた。
 編集長のこの言葉は、僕にとってはさながら顔に冷水でも浴びせられたようだった。面白くない。別に面白ければいいというものでもないだろうが、それでも面白くないというのは大問題だ。中小出版社のゴシップ誌など、売れなかったら即廃刊なのだ。そのためには読者の関心を惹く記事を書けなければならない、という編集長の指摘は、まことに正しい。
「……どこが面白くないんでしょうかね」
 僕は編集長に尋ねた。原因を究明して解決しないことには、僕の前途は開けない、と理解したからだ。編集長は顎をさすりながら、ううむと唸って、それから少しして話し出した。
「どこが、っていうよりも、なんか全体的にピンとくるものがないんだな。単純にネタが悪いんじゃないのか?」
 そう言われて僕は後ろ頭を掻いた。正直、そんなことを言われても困るのだ。ライターとしてはまだまだ駆け出しの僕は、そんなに大きな記事を任せてもらえるわけじゃなく、大手の出版社なんかでは歯牙にもかけないような小さな話題のいくつかから、自分の記事にすべきものを探さなければならないのだ。ネタが面白くないと言われても、僕の手の届くところに面白いネタは転がっていない。
「それじゃ、どんなネタを書いたらいいでしょう?」
「それを考えるのもお前の仕事だ。……そんなに嫌な顔をするもんじゃないぞ。俺だってお前くらいの時には、いいネタがないかとあちこち駆け回って取材したもんだ。記事ってのは足を使って書くもんだ。お前もちょっと必死になって何か一発面白い記事を書いてみろ」
 まったく無責任な言いようだと思ったが、いちいち正論ではあるので反論のしようがない。僕は引き下がって自分のデスクに戻り、これからどうしたものか、と頭を抱えた。


 新聞の社会面にその小さな記事を見つけたのは、その日の夕方のことである。新聞と言っても半月前のものだ。何かいい取材の種はないか、と古新聞を漁っていて見つけたのである。これは使えるかな、と僕が思ったその記事は、都内の高校に通う女子生徒がビルから飛び降り自殺した、というものである。
 もちろんこのご時世、自殺なんて年間何千何万と起こっているのだから、それ自体は何も珍しくない。ただこの事件に僕の食指が動いたのは、自殺したのがいじめられっ子の中学生やリストラされた中高年ではなく、高校二年生の女子であったことだ。女子高生、というブランドは手垢がついてはいるもののまだまだ強力で、中吊り広告の見出しにこの文字が入るだけで雑誌の売り上げも違うほどだ。
 にも関わらずこの事件は、どうしたことか、報道の波に乗せられていない。僕の記憶している限りでは、せいぜい昼間のワイドショーが十分間ほど扱った程度だ。そんなに面白くない事件だろうか。切り口さえ工夫すれば、十分読者の目を引く記事に仕上げられそうに思えるのに。
 ひとまず今の僕に分かっているのは、自殺したのが高校二年生、十七歳の女子生徒であることと、その高校の名前。手がかりとしては何とも心もとないが、動きようはある。時刻は四時半。上手くすれば、下校中の生徒を捕まえて話を聞けるかもしれない。現在急ぎの仕事がないことを確認し、僕はホワイトボードに「取材に出てます 浅野 一六時三二分」と書き殴って、上着をひっつかみながら外へ飛び出した。
 高校の前に着いたのが、五時を十五分ほど過ぎた頃だった。九月の半ばでまだ辺りはずいぶん明るいが、それでも下校のピークには少々遅かったらしく、高校から出てくる生徒の姿はまばらだ。それでも何もしないよりはよほどましだと思い、僕は校門から出てきた生徒を片端から捕まえて、強引なインタビューを開始したのだった。
「すいませーん、週刊××の者なんですけど、ちょっとお話聞かせてもらえませんか?あの、先月この学校の生徒が自殺したって……」
 ご丁寧に名刺まで出しながら尋ねているのだが、どのような教育の賜物か、生徒たちは一様にこちらを見もせず、足も止めずに歩き去ってしまう。歩調を合わせて横に並ぶようにして話しかけてみても、すっかり無視されるだけだ。たまに応じてくれる生徒がいても、
「ああ、二年生で誰か死んだって話は聞きましたけど。僕は一年生なんで、全然知りません」
「え、そんなことあったんですか? いや、初めて聞きました」
 等々、しらを切っているのか本当に知らないのか、有益な情報は何も聞き出せやしない。
 まったく、今時の高校生の態度の悪さときたら、と僕はひとりごちた。同時に、こんなことを感じるようではどうやら僕ももう若くないらしい、と少々の自己嫌悪に陥った。都立ではそこそこレベルの高い進学校であるこの高校の生徒たちは、地味なデザインの制服を生真面目に着込んでいるが、女生徒の半数以上はルーズソックスを履いている辺りが何ともアンバランスだ。
 そんな時ちょうど、前から女子生徒の一団が押し寄せてきた。例によって一人の例外もなく、くるみボタンのベストに丸襟ブラウスの地味な制服に、ルーズソックスという組み合わせだ。見れば髪型や顔つきもどことなく似た者ばかりに思える。いったい彼女たちは、どこで自分らしさを確立しているのだろう。そんなことを漠然と考えながら、僕はその女子生徒たちにインタビューを試みた。
 すると、思いがけない返事が返ってきた。
「あー、カナエのこと?」
 この学校の生徒が自殺、と言っただけで、一人の女生徒が口を開いた。それが合図であったかのように、あとはもう僕が口を差し挟む余地もなく、生徒たちが口々に思い思いのことを話し出す。
「なにこれ、雑誌の取材? なんて雑誌?」
「あたしたち、カナエと同じクラスだったんだー。マジでビビったよねー、夏休み終わって学校来たらいきなし自殺したって言うんだもん」
「でもさー、カナエってなんで死んだの?」
「だから自殺だって言ってるじゃん。ビルの屋上から飛び降りたって」
「ってゆーか、なんで自殺なんかしたの? あたし、カナエとあんま喋ったトキないから分かんないんだけどぉ」
「あたしも、ってゆーかさぁ、そもそもカナエってあんま喋んない子だったじゃん?」
 このまま放っておくと収拾がつかなくなりそうなので(既にして十分に収拾がつかなくなっている気もしたが)、僕はどうにか彼女たちの輪の中に割り込んでいく。僕は何とか記事にできそうな話を聞き出さなければならないのだ。
「ちょっと、ちょっといいかな。その自殺した子、カナエちゃんだっけ? どんな子だったの?」
 とりあえず、自殺したというその生徒がどんな子だったのか、僕は情報を集めてみることにした。例によって彼女らはめいめいが勝手なことを話し出す。
「どんな、っつってもさぁ、別にフツーの子だったよねぇ」
「えー、アレがフツー? ぜったい変だったよぉ」
「なんかさー、暗かったよねー。あんま喋んないしさ、なんか何考えてんのか分かんないタイプ?」
「でもさ、なんか彼氏はいたって聞いたよー?」
「えー、それってG組の西岡のこと? なんかすぐに別れたって聞いたけど?」
「あたしが聞いたのだと、ウチの学年の男子と片っ端から付き合ってたって」
「ウリやってるって噂も聞いたよ?」
「それは嘘でしょー?」
「……分かった、分かったから、ちょっと落ち着いて、一人ずつ喋ってくれないかな」
 まったく女子高生というのは、会話していて疲れる連中だ。彼女らの話の真偽の程は明らかでないが、問題のカナエ嬢は、どうもあまり社交的な性格でなかったことは窺えた。ここに集まっている女の子たちは皆クラスメイトだったと言うが、直接カナエと言葉を交わしたことはなかったらしい。
 とすれば、彼女らの偏見と空想に基づいたカナエの印象を聞かされるのは、ほどほどにしておいた方がいい。ひとまずもう少し重要な情報をいくつか聞き出して、この女子高生たちとはとっとと別れよう。そう思って僕は、質問の内容を絞ることにした。
「ええと、その自殺したカナエちゃんって、名字は?」
「なーに、オジさん、そんなのも知らないで取材してたの?」
 オジさん、という呼ばれ方には少々反論の余地を感じたが、ここでそんな細かいことを気にしても仕方がない。僕は黙って彼女の次の台詞を待った。
「シンドウだよ、シンドウカナエ」
「漢字で書いてもらえるかな?」
 僕は手帳の空いたページを示し、彼女にペンを渡した。彼女は丸みがかった癖の強い字で、新藤香奈恵、と書いた。
「ありがとう。それじゃ、もういいや」
「あ、そう? じゃあね」
 とりあえず自殺した少女の名前を知ったことで、僕は十分だと思うことにした。正直なところを言えば、彼女、新藤香奈恵の住所なり電話番号なりが分かれば家族に話が聞けてよかったと思うのだが、そこまで聞き出すのは無理だろう。
 女子生徒たちと別れ、僕自身もいったん社に戻ろうとしたその時、突然背後から肩を掴まれた。まずびっくりし、次いでこの高校の教員にでも見つかって咎められるのかな、とびくびくしながら振り向くと、そこにはまた別の女子生徒の姿があった。何事か知らないが、ずいぶん険しい表情だ。
「……何か?」
 及び腰になりながら僕が尋ねると、彼女はさらに一歩僕の方に踏み込んできながら、穏やかでない様子で、こう尋ねてきた。
「マスコミの人?」
「うん、まあ一応」
 遠慮がちに僕が答えると、その少女はより一層険しい顔になった。彼女は自分の顎を指さすと、少し胸を反らせながら、こう言った。
「あたし、香奈恵の友達」
「…………?」
 僕は最初、彼女の言っていることが理解できなかった。どうにかその意図するところを飲み込む。つまり彼女は、取材に協力してくれるというのではないか。
「え、あ、そうなんだ。これから、時間ある? 良かったら、ちょっと話を聞かせてほしいんだけど」
「最初からそのつもりだよ」
 彼女はそう言うと、鞄からPHSを取り出し、電話をかけ始めた。どうやら家にかけているらしい。友達と夕飯食べてくるから遅くなる、と言って通話を切ると、さほど面白くもなさそうな表情で、
「――そんなわけで、夕飯おごってね」
 と言った。
 僕は彼女の図々しさに半ば呆れたし、残りの半ばほどで舌打ちをしたい衝動に駆られたが、ともかく貴重な情報源を得たらしい、と自分に言い聞かせることでどうにか我慢した。


「――最初に言っとくけど」
 近くのファミレスに入って席に着くなり、彼女は僕に向かってひとつ注意を始めた。
「あたしは香奈恵の友達として、あんまり香奈恵についていい加減な報道をしてほしくないから、こうやって話をしてあげるんだからね。面白おかしくでたらめなこと書いたりしたら、許さないから」
「……了解した」
 つくづくしっかりした子だ、と僕は感心すると同時にまた呆れた。いったい彼女が何にそんなに入れ込んでいるのかは知らないが、この様子だと新藤香奈恵の自殺した背景について、他のメディアが報道していないような情報が得られるかもしれない。期待しながら、僕はテープレコーダーを取り出した。
「テープ、回してもいい?」
「だめ」
 しかし、インタビューの内容を録音することについては、彼女の許可が下りなかった。説得してみようかとも思ったが、ここで下手に機嫌を損ねては元も子もないだろう。僕は仕方なく電源の入っていないテープレコーダーを机の端に置いたままにして、手帳とペンを取り出す。
「それで、あなたは香奈恵の何を聞きたいの?」
 僕が質問を準備するより前に、彼女が口火をきった。正直、新藤香奈恵に関することなら何でも聞きたいのだが、多少悩んだ末に、僕はこのような質問をすることにした。
「新藤香奈恵さんが自殺した理由」
「…………」
 彼女は黙り込んだ。何やら考え込んでしまっているようで、そうこうしているうちにウェイトレスが注文を取りに来ても、彼女は黙って考え込んでいるきりだった。何を食べるんだ、と僕が促してやると、ようやく彼女はメニューを開いて、チキンドリアの写真を無言で指さしたのだった。ウェイトレスが立ち去ったことを目で確認してから、ようやく彼女はぼそぼそと話し始めた。
「……夏休みに入る前から、香奈恵が時々話してたの。自分はどうして生きてるのか、何のために生きてるのか、とかって。たとえば自分が今突然事故か何かで死んじゃったとしても、別に悲しくないし悔しくもない、とかも言ってた。……でもあたしは、冗談だと……まさかほんとに死んじゃうなんて、思ってなかった」
 僕はメモを取りながら、何も言わずうんうんと頷いて彼女の話を聞いていた。彼女は時々言葉を詰まらせたり、途切れさせたりしながら、それでも話を続ける。
「こんな話もしてた。このまま高校出て大学に入って、どっかに就職してお茶くみやコピー取りのOLやって、結婚して子供産んで育てて、おばさんになっておばあちゃんになって、そんな生き方のいったいどこが楽しいんだろうって。あたしが人生ってそんなもんだよって言ったら、香奈恵はそうかもね、って言って笑ってた」
 話しているうちに喉が乾いたのか、彼女の水のグラスはもうほとんど空になっていた。僕が自分の口をつけていないグラスをそっと彼女の方に押しやると、彼女は礼も言わずにそれを受け取り、水を口に含んだ。
「はっきり、死にたいって言ってたこともある。だけどなんで死にたいのって聞いてみても、香奈恵は分からないって答えた。ただ時々、なんとなく死にたい気持ちになるんだって。疲れてるんじゃないって言ってみたら、やっぱりそうかもねって笑って返された。だからあたし、冗談だと思ってたのに……」
「…………」
 ただなんとなく死にたい気持ちになる。そうメモを取りながら、僕はため息をついた。まったく、これでは分からない。本人にも分からないような自殺の動機を探るなんて、無茶な仕事だ。我ながら面倒な事件に首を突っ込んでしまったようだ、と僕は自覚した。
 メモを再び読み直してみる。どうして、何のために生きているのか。高校、大学、就職、結婚、おばさん、おばあちゃん、そんな生き方のどこが楽しい? ただなんとなく死にたい気持ち。――これらの何をどうまとめれば自殺に行き当たるのか。僕には分かりかねた。
 僕の注文したコーヒーが運ばれてきた。彼女の言葉は途絶えたきり、続かない。コーヒーにクリームと砂糖を入れてかき混ぜている間、僕は彼女の次の言葉を待ち続けたが、彼女の唇は固く結ばれたきり微動だにしなかった。コーヒーに口をつけると、どうやら少々話を促してやる必要を感じて、僕は質問を投げかけてみた。
「クラスの中では、香奈恵さんはどんな子だったの?」
「……別に。普通だったし、地味だったよ。あたし以外とはそんなに話してないみたいだったし、部活とかも入ってなかったし、成績も真ん中くらいだった。休み時間は本とか読んでたり、音楽聞いたりしてた」
「いじめとかは?」
「なかった。あたしが見てる限りでは、なかったと思う」
 普通で地味な少女。社交的でなく、だからと言っていじめられていたわけでもない。そうした新藤香奈恵の像を浮かべる限りでは、特別自殺に向かうようなキャラクターでもなかったように思える。どうしても分からない。どうして、新藤香奈恵は自殺したのか?
 ふと、先程話をした一団の女子高生たちが言っていたことを思い出した。彼女らの新藤香奈恵に対する評価もあまり変わらないものだったが、それではあの時聞いた、いくつかのまことしやかな噂については、どうなのだろう。僕は単刀直入に聞いてみることにした。
「いろんな男子と付き合ってたとか、援助交際やってたとかって噂は?」
「…………知らない」
 彼女がそう答えるまでに、微妙な間があった。いったい何を意味するのだろう。
 僕のコーヒーはもう残り半分くらいになっていた。この調子だと先が辛そうだな、と思い、僕はコーヒーを飲むペースを落とした。ちびちびと舐めるようにコーヒーを口に運びながら、僕は彼女の顔色を窺う。はたして彼女の「知らない」をどう解釈すべきなのか、僕は迷った。
 ようやく、チキンドリアが運ばれてきた。しかし彼女は手を着けずにいる。冷めちゃうよ、と僕が言っても、彼女は何の反応も示さなかった。この様子だと、噂はまんざら嘘でもないのだろうか? とはいえ、これまでに聞かされてきた新藤香奈恵のキャラクターと、援助交際や彼氏をとっかえひっかえのイメージとは、どうしても重なり合わないように思えた。
「……ねえ、おじさん」
「お兄さんと呼びなさい。僕はまだ三十一だ」
「十分おじさんだよ。ねえ、おじさんは約束できる? 分かったような適当なこと書いて、勝手に変な記事作ったりしないって」
「…………」
 今度は僕が返答に窮する番だった。なにぶん僕は、弱小週刊誌の下積みライターだ。今回の取材の動機だって、女子高生と自殺というネタなら読者の受けがいいだろうと踏んだからだ。記事を書くに当たっては読者の目を気にするし、面白い記事にしなければしょうがない。
 しかしここでは自分の利益よりも、ジャーナリズムの片端に位置する者としての矜持がわずかに優った。ずいぶん悩んだ末に、僕はこう答えたのだ。
「分かった。必ず、公正な記事にする。約束する」
 その返答を聞くと、彼女はすぐに言葉を続けた。どうやら重大なことを話そうとしているらしいと覚って、僕のペンを握る手にも心なしか力が入った。
「……香奈恵は、セックスがいい気晴らしになるって言ってた。詳しく聞いたわけじゃないから、いつ誰とやってたのか分からないけど、とにかくしょっちゅう誰かとセックスはしてたみたい」
「…………」
 表情を隠すように顔を伏せながら、僕は黙ってメモを取った。今時の高校生の性道徳は、などと年寄りじみた偏見を口にするつもりはないが、それでもこれまで聞かされてきた「地味でおとなしい」新藤香奈恵のイメージとの間に、少々の違和感を感じる。
 僕の様子に何か感じるところがあったのか、彼女は慌てて付け加えた。
「あ、でも、別にそんなに珍しいことじゃないと思うよ。特別話題にもならないから詳しいことは知らないけど、多分みんなセックスぐらいやってると思う。って言うより、やってる子はやってる、って感じかな。だから、そのことで香奈恵が特別ってわけじゃ」
「分かってる。ただ、何でもいいから香奈恵さんのことを聞きたいんだ。そのどれかが自殺の理由に関わっているかも知れないしね」
 ようやく彼女がチキンドリアに手をつけた。スプーンの先が切り開いたホワイトソースの裂け目からはもはや申し訳程度の蒸気しか上がらない。彼女は面倒な宿題でも片付けるように、気乗りしない風でのろのろとスプーンを口に運んだ。
「……香奈恵の写ってるプリクラぐらいあると思うけど。見る?」
 彼女は唐突に申し出て、僕の返答も聞かずに鞄から手帳を取り出した。手帳を開くと、僕の方にぶっきらぼうに突きつける。ページいっぱいに溢れる小さな写真の群れ、群れ、群れ。どれが香奈恵なのかと僕が尋ねると、彼女はスプーンを口にくわえたまま一人を指さした。
 数人の女子生徒に混じって、端の方に申し訳なさそうに香奈恵がいた。他の少女たちが歯を見せて笑っているのに対し、香奈恵は唇の端を微かにつり上げているだけだ。香奈恵が写っている写真は他にもいくつかあったが、そのどれでも香奈恵は同じ表情をしていた。こうして見ると確かに、地味な印象だ。積極的に感情表現をするタイプではないのかもしれない。
 ますます分からない。新藤香奈恵は、何か特別に自殺するような理由のある人間だったのだろうか? 見れば見るほど香奈恵はどこにでもいそうなただの高校生で、自殺を選択する特殊な人間であったようには思えない。いったい何が彼女を自殺へと駆り立てたのだろうか。
「他に何か、香奈恵さんについて知っていることは?」
「……分かんない。あたしの知ってる香奈恵のことは全部話したつもりだけど。でも、あたしもどうして香奈恵が自殺したのか分かんないし、何かあたしが話さなかったことで、香奈恵が自殺した理由を知るために大事なことがあるのかもしれない」
 聡明な子だ。彼女の言うように、新藤香奈恵が自殺した理由を理解するためには、まず新藤香奈恵本人のことを、何か僕らが思いつかないような些細なことについてまで知る必要があるのだろう。ひとまず今彼女から聞ける話はこの程度だな、と僕は覚り、同時に彼女とはまたいずれ新藤香奈恵について話す必要がありそうだな、とも覚った。だから僕が彼女の名前と連絡先を聞いておこうとしたのは、非常に自然な行動であったと思う。
「また話を聞かせてもらうかもしれないから、君の名前と、あとピッチの番号か何か、教えてくれないかな。どっかこのへんに書いて」
「それより、おじさんの番号教えてよ。携帯ぐらい、持ってるでしょ? 何かあったらこっちからかけるから」
 ところが彼女は僕よりさらにしたたかだった。あるいは僕は、自分が思っているほどには彼女の信頼を勝ち得ていなかったのかもしれない。僕が自分の携帯電話の番号を読み上げると、彼女は自分のPHSにその数字を打ち込んでいった。そんな彼女の動作を見ているうちに、ふと、僕はあることに思い当たった。
「もしかして、新藤香奈恵さんの家の番号とか、それに登録されてない?」
 彼女は渋い顔をした。
「教えろっていうの?」
「できれば、香奈恵さんの家族に話を聞きたいんだ」
 僕がそう言っても、彼女の強張った顔は弛む兆しを見せなかった。僕は少しだけ思案して、それから一言付け加えた。
「公正な記事を書くためにね」
 この言葉は思いのほか効果があったらしい。彼女は開きっぱなしだった手帳を取り、別のページを開いた。自分のPHSには新藤香奈恵のPHSの番号しか入っておらず、家の番号は手帳に書いてある、と彼女は言った。彼女が読み上げる数字を急いでメモしながら、僕はふと、記事ひとつ書くのにこれだけ骨を折ったことはなかったな、と軽い感慨にふけったのだった。


 結局、僕の取材初日はこれで終わった。自殺した女子高生、新藤香奈恵。地味でおとなしい少女。彼女はなぜ自殺したのか。明確な理由――例えば「いじめ」のような――の不在。時々何となく死にたくなる気持ち。セックスが気晴らしになる。……何かしっくりこない。
 どうにもぼんやりとしている。新藤香奈恵という少女が、僕の頭の中で一つの像を結ぶことができず、輪郭がぶれている感じだ。僕はもっと新藤香奈恵を知らなければいけないのだろう。新藤香奈恵のイメージをしっかり捉えることができた時、きっと僕は今までにない記事が書ける。そんな予感がしていた。