ゼリィ・フィッシュの憂鬱
(02/04)


 翌日僕は、さっそく新藤香奈恵の家に電話をかけた。まず午後一時に電話してみたが、留守電に応じられてメッセージを残さずに通話を切った。三十分おきに一時半、二時と電話をかけるも同じことの繰り返しだ。結局電話が通じたのは夕方六時のことで、僕は電話口に出た新藤香奈恵の母親に取材の是非を尋ねた。拍子抜けなことに、母親は二つ返事で応じた。いつなら都合がよいかと聞くと、明日は仕事が休みだから、と言われ、翌日に近くの喫茶店で会う約束を取り付けることができた。
 次の日、指定された喫茶店に行ってみると、待ち合わせの時間より十五分も早く着いたにも関わらず、既にそれとおぼしき中年の女性が窓際の席に待っていた。上品な雰囲気のある人だ。母親がこの様子なら、自殺の原因は家庭の問題でもなさそうだな、と僕は思った。
「香奈恵は……娘は、自殺するような子じゃなかったんです」
 新藤香奈恵の母親は、僕が質問を切り出すより前に、そう話を始めた。こんなに簡単に取材に応じてくれた理由は、どうやら彼女自身が娘の自殺について真相を知りたいかららしい。母親は香奈恵がどれほど素直で親の言うことをよく聞くいい子だったかを熱弁してくれた。
「学校側は、いじめなどの自殺に直接つながることは学校ではなかったと言い張っています。でも、私には信じられません。学校に原因がないのなら、いったい何が理由で娘は自殺したというのですか」
 つまるところ母親の主張はこの言葉に要約される。何が理由で自殺したというのか。まったく、それこそ僕の方から聞きたい質問だ。新藤香奈恵を挟んで、学校と家庭とが双方とも「自分に責任はない」と言い張っているわけか。第三者である僕の視点から見れば非常に滑稽だ。
 僕は手帳のページを繰る。そこには一昨日、香奈恵の友人に行ったインタビューのメモが残されている。友人の目から見た新藤香奈恵。そこには母親の目から見た新藤香奈恵との間の、どうにも埋めがたい溝が横たわっている。僕はこの両者を直接ぶつけてみることにした。
「実はお母さんのお話を伺う前に、何人か、香奈恵さんのお友達に取材したのですが」
 母親の眉がぴくり、と動く。どの辺りから攻め込んでみようかと、僕は多少嗜虐的な気持ちになった。
「――お友達から聞いた話だと、香奈恵さんは時々、何となく死にたい気持ちになる、と訴えていたそうですが?」
「知りません……知りません、そんなの」
 母親は頭を振った。頬が微かに上気している。
「実際にお母さんが、香奈恵さんからそんな相談を持ちかけられたことは?」
「ありません。……きっと、冗談か何かだったのでしょう?」
「――かもしれませんが」
 だめだ。僕はそう覚った。どれだけ問いつめてみたとしても、この母親は娘が「死にたい」と言っていたことを認めはしないだろう。もしかしたらこの母親は、香奈恵が「いい子」だと思っていたというより、香奈恵の中の「いい子」の部分しか見ようとしていなかったのではないか。そんな疑念が沸き上がってくると、自然と僕は次の質問を口にしていた。
「それでは、この話はどうでしょう? お友達の話によると香奈恵さんは、不特定多数の男子生徒と付き合っていたとか」
「……付き合っていたとは、どういう意味でですか?」
「それはつまりその、セックスが気晴らしにいいと話していた、とも聞きましたし、それに援助交際をしていたという噂も」
「いい加減にしてください!」
 母親は激昂した。やれやれ、と僕は思った。どうやら母親は娘のことをろくに知らない。
「何なんですか、いったい!そんなのは全部、根も葉もない噂です!」
「……分かりました」
 疑念は確信に変わった。もし母親が自分の口にしていることを自分で信じているのなら、こんな言い方はしないだろう。つまり新藤香奈恵の母親は香奈恵のことを知らない。知らないから不安にもなるし、むきにもなるのだ。
 母親にいくら話を聞いても、新藤香奈恵のことを何も知ることはできないだろう。僕はそう覚った。とはいえ、収穫がなかったわけではない。母親の話から娘のことは何も分からなかったが、母親が娘のことを何も分かっていないということが分かった。差し当たって今日のところはこれで十分だろう。
 その後僕は、当たり障りのないことを二つ三つ話してから、新藤香奈恵の母親と別れた。
 母親の話を聞きながら思った。これはどうやら父親を含め、他の新藤香奈恵の家族とも話をする必要がありそうだ、と。家族は香奈恵をどう見ていたのか。家族の中で、香奈恵はどんな存在だったのか。これはなかなか深刻な問題であるように思えた。


 その日の夕方、昨日会った新藤香奈恵の友人から、僕の携帯に連絡があった。会って話がしたいと言う。どうやら彼女は僕にとってこの上ない協力者になってくれそうだ。昨日と同じファミレスで学校帰りの彼女に会ってみると、何はさておきまず、いくつかの冊子と少々の紙束を見せられた。中学校の文集。借りたままの本。手紙。それらはすべて、新藤香奈恵の断片なのだった。
「……どう、何か分かりそう?」
 彼女が不安げに僕に尋ねる。僕は答えず、ただ黙って渡された文集に目を通した。
 香奈恵の作文――香奈恵の残した言葉。それは僕が初めて目にする、伝聞形ではない、新藤香奈恵自身のものだ。いったい僕はそれらの中から、どれだけ新藤香奈恵について知ることができるのだろう。
 中学校の文集には、「飛翔」とタイトルが打たれていた。卒業生に将来の夢についての作文を書かせて掲載した、卒業文集なのだという。香奈恵と同じ中学校だったのか、と尋ねると彼女は、小学校からずっと一緒、と訂正した。この文集の中には彼女自身の作文も掲載されているのだろうが、差し当たってまずは香奈恵の作文からだ。僕は目次を開いて新藤香奈恵の名前を探した。
「『将来の自分について』か……タイトルは平凡だね」
 新藤香奈恵の作文が載っているページを開いて僕はそう言った。彼女からの応答はなかった。僕は再び文集に視線を落とした。最初の数行を、自分で声に出して読んでみる。
「『将来の夢は何か、なんて尋ねられても、何だかピンとこない。そんなこと考えてみたこともないからだ。どんな職業に就きたいかとか、どんな人間になりたいかとか、なんとなく空想してみたことはあるけれど、そんなのはずっと先の話のような気がしていて、今までずっと、真剣に考えてみたことはなかった。』……」
 読んでいくうちに、僕はだんだん口ごもるように、声を小さくしていってしまう。それだけ、新藤香奈恵の作文に集中していたのだ。それは集中というよりむしろ熱中だったかもしれない。そのうち僕は、声を出すことはおろか呼吸することさえ忘れて、文字どおり息を呑んで香奈恵の作文に見入ってしまっていたのだった。
 A四版の冊子一ページに収まっているその作文は、こんな文章で結ばれている。
『たとえこの先、どんな大学に行ってもどんな職業に就いても、お金持ちになっても貧乏になっても、とにかく私は私だ。そう言って胸を張れるようになれれば、それが一番いいと思う』
「……香奈恵さんは、ずいぶん明晰な子だったみたいだね」
 辛うじて僕が口にすることのできた感想は、それだけだった。まったく、文章に関しては腐ってもプロであるはずの自分が、こともあろうに中学生の作文に圧倒されるなんて。新藤香奈恵の作文は、同じ文集に載っている他の生徒のものと比べても、群を抜いていた。正直で誠実で、曖昧なところのない文章だ。
「中学の頃から、国語の成績はトップクラスだったよ。読書感想文とか書かされたときも、よく先生に褒められてた」
 彼女は香奈恵についてそう説明した。
「……ふぅん」
 圧倒されるばかりではどうしようもない。僕は当初の目的に戻り、再び文集を読み返す。香奈恵の作文が他の生徒と明らかに違うところは、具体的でないところだ。可愛げのある中学生ならここで「みんなの役に立つ立派な人間になりたい」とか「いろいろなことに積極的に取り組んでいきたい」とか、少しは具体的な方向性を見せてくれるものなのに、香奈恵が選んだ結句は「とにかく私は私」だ。この抽象度の高さは他にない。そしてそのことは、新藤香奈恵の作文が他の生徒のものに比べ、格段に真意が掴みづらいことを意味する。
 僕はふと、以前に彼女から聞いた話を思い出した。大学に行って就職して結婚して、そんな人生のどこが楽しいのか――香奈恵はそんなことを口にしていたというのだ。すると香奈恵は、自分の将来に失望していたのだろうか。でもいったいどうして?
 奥歯にものの引っかかったような気分で、僕は文集を閉じた。同時に彼女から、次の「資料」が手渡される。彼女が新藤香奈恵から借りていたという、何冊かの本。僕はそれぞれの表紙にざっと目を通した。――『ビッグ・オーとの出会い』シェル・シルヴァスタイン。『葉っぱのフレディ』レオ・バスカーリア。『ソフィーの世界』ヨースタイン・ゴルデル。いずれも昨今のベストセラーだ。
「最初に『ぼくを探しに』を貸してもらったの」彼女はそう説明した。「面白かった、って言って返したら、それならその続編があるよ、って言って『ビッグ・オー』を貸してもらって。あとの『フレディ』と『ソフィー』は、別に読みたいって言ったわけでもないのになんか無理矢理貸し付けられた感じ。『ぼくを探しに』が面白かったなら、これも絶対面白いからって言って」
「それで君は、これを全部読んだの?」
「全然。『ソフィーの世界』なんか、本の厚さを見ただけで嫌になっちゃった」
 確かに、この本の厚さを見たら普通は閉口するだろう。手渡された『ソフィーの世界』の本をぱらぱらとめくりながら、僕はそう考えた。それにしても香奈恵は、何を考えてこれらの本を彼女に貸し付けたのだろう? 素人向けに書かれた哲学の入門書。香奈恵は彼女にこれを読ませたかったのか。でもいったいなぜ?
 本を彼女に返すと、最後に渡されたのは便箋の束だった。すべて、新藤香奈恵から彼女に宛てて書かれた手紙で、かなりの量がある。どうしてこんなに頻繁に手紙のやり取りなんかしてたのか、と僕が質問すると、彼女は怪訝な顔をした。どうやら、親しい友人同士で日常的に手紙を送り合うのは、そう珍しい行為ではないらしい。夏休みなど、学校が休みで会う機会が減ると、その分手紙の頻度が増えるのだという。
「そう言えば、封筒に入っていないのはどうして?」
 ふと気づいた質問を僕は口にして、それから彼女の返答がある前にすぐ、その答えに気づいた。手紙の封筒なんて、住所とか名前とか、個人情報の山だ。そんなものを見せてもらえるほど、僕はまだ彼女の信頼を獲得できていないというわけか。僕は彼女にそれ以上何か尋ねることはせず、黙って手紙を読み始めた。
 しかし、その手紙はどれを取っても、当たり障りのない話題に終始しているのだった。例えばこんな風に。
『お隣の家の庭に大きな柿の木があって、今日帰りがけに見たら、大きな実がいくつもなっていました。これだけあるんだから一つくらい取ってもバレないかな、なんて不謹慎なことも考えてみたりして。いや、取ってないよ、取ってないってば(笑)。……』
『寒いっっ!今日はすごく寒いです。こんな寒い日は外に出たくないのですが、図書館で借りてる本の返却期限が今日までなので、泣く泣く出かけてきました。ほっぺたがガサガサです。……』
『ふと気づくとお小遣いが全然ありません。なんでこんなに足りないんだろう、と思って机の横を見ると、まだ読んでないハードカバーが山のように。……原因はこれか(笑)。……』
 手紙の中にはかなりの文章量になるものも少なくなかったが、そのいずれもが身の回りの他愛もない話題に占められている。どうして香奈恵はこんな些細な事項を、いちいち手紙にして送ったのだろうか? 一通り読み終えた手紙を彼女に返しながら、僕はこんなことを尋ねた。
「趣味の話とかが全然ないんだね」
「……あたしと香奈恵、趣味が全然合わなかったから。あたしが音楽の話とかゲームの話とかすると、香奈恵がよく分かんないみたいで困ってたの、覚えてる」
「男の話は? 恋愛の話なんて、盛り上がるのに一番だと思うんだけど」
「うーん、それも全然なかった。あたしと香奈恵の間ではなんか自然と、男の話はタブーになってたみたい。……香奈恵がいろんな男と付き合ってるとかって噂もあったし」
「ふぅん……」
 趣味の話も恋愛の話もなし。それで、当たり障りのない日常的な話題でコミュニケーションを取っていたのか。僕にはそれは何だか、ずいぶん無駄な行為のように思える。
 彼女から提供された材料はそれで全部だった。僕はそれらの中から、何とか新藤香奈恵の像を構築しようと試みる。今までに聞いた話を思い出しながら。なんとなく死にたくなる気持ち。気晴らしとしてのセックス。母親との断絶。『私は私』。一方的に貸し付けた哲学の入門書。無難な内容の手紙。それらの断片的な情報は、僕の中におぼろげな新藤香奈恵の輪郭を描き出そうとするが、それは常に不安定な形状のまま揺れ動いているような感じなのだった。
「……借りた本、あたしがちゃんと読んでればよかったのかな……」
 僕が考え込んでしまったことで途絶えた会話の隙間に、彼女がぽつりと呟いた。僕は彼女の手元に置かれたままの本の背表紙に目をやる。貸された本。手紙の束。……。
 ふと、僕の中で途切れていた何かと何かが繋がったように思えた。僕は半ば反射的に立ち上がろうとして、膝の辺りをテーブルにしたたか打ち付けてしまった。唖然とする彼女に対し、膝をさすりながら座り直して僕は、こう弁解をした。
「何か、ちょっと分かったような気がするんだ。もしかして香奈恵さんは、その本を君に読んで欲しかったんじゃないかな」
「はあ?」
 僕の新発見がお気に召さなかったらしく、彼女は眉を寄せた。
「当たり前じゃない。読んで欲しいんじゃなかったら、本なんて貸すわけないでしょ」
「そうじゃなくって……ほら、さっき趣味とかの話題が合わなかったって言ってたじゃないか。だから、もし君がその本を読んでいたら、共通の話題が出来ていたわけで……」
「…………」
 彼女は考え込む。ずいぶん長く考え込んでしまって、その間僕はどう間を保たせたら良いのかと途方に暮れた。我慢の限界すれすれまでの長い沈黙の後に、彼女はようやく口を開いた。
「……もしあたしがこの本を読んでたら、香奈恵は自殺しなかったと思う?」
 彼女は顔を伏せがちにして、上目遣いに僕の方を見ている。その目が心なしか潤んでいるように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「分からないな」
 僕は正直にそう答えた。
 彼女がゆっくりと顔を上げて僕の方を見た。ぱちぱちと二、三度瞬きしてから、ふっと小さく息をつく。それから彼女は、不意にこんな提案を僕に投げかけてきたのだった。
「明日の夕方、何か予定ある?」
「空けろと言われれば空けられるけど……何か?」
「香奈恵の家に行ってみよう。もう少し、何か分かるかもしれない」
 まったくそれは、僕にとって願ってもない申し出だった。僕のことを多少は信頼してくれたのか、それとも単に香奈恵についてもっと知りたくなっただけか。どんな心境の変化が彼女にあったのかは分からないが、この好機を逃すわけにはいかない。僕は二つ返事で承諾した。
 翌日の待ち合わせ場所と時間を決めて、僕は彼女と別れた。


 そして僕と彼女は約束通りに翌日の午後、待ち合わせて新藤香奈恵の家を訪ねたのだった。都心から少々外れた、建て売りの並ぶ新興住宅地が、香奈恵の住んでいた街だ。行きがけの駄賃、というわけでもなかったが、僕は新藤香奈恵の家の近所で、主に主婦層をターゲットにして取材をしてみることにした。雑誌名の入った名刺を見せると皆途端に饒舌になり、僕は思いのほか多くの情報を得ることができたのだった。
「新藤さんちの香奈恵ちゃん? ええ、自殺したんですってね。本当におとなしいいい子だったのに、いったいどうしたんでしょうねぇ」
「あそこの家は、いつもご主人の帰りが遅いのよね。大手電機メーカーの管理職だから残業が多いっていうのは分かるんだけど、それにしても毎日だもの。あたしが奥さんだったらもう、外に女がいるんじゃないかって疑っちゃうわね」
「ええ、見たわよ。新藤さんとこのお嬢さん、昼間っから男の人を家に連れ込んでたの。それも一度じゃないのよ、二度も三度も」
「前に一度、夜中にご主人が凄い大声で怒鳴りつけてたことがあってね。こっちまで聞こえてきたのよ。たぶん、娘さんを叱ってたんじゃないかしら。ええ、そんなことは一回あったきりだけど」
 もちろんいずれも偏見と好事家の視線に満ちた意見ではあったが、それでも今の僕には貴重な情報だ。
 道路の端で買い物帰りの主婦から話を聞いている時、ちょうど道の向こう側から学生服姿の男の子が歩いてきた。それを見た途端、不意に彼女が身をこわばらせた。僕と主婦の話している場所から少し離れていって、やって来た少年に挨拶する。
「……こんにちは」
「何してんだよ、こんなとこで。そいつ、誰だよ」
 少年は僕の方を睨み付けながら、彼女にそう言った。
「雑誌社の人が、取材に来てるのよ」
「姉貴のことで?」
「…………うん」
 少年は僕の方に歩み寄ってきた。見たところ、まだ幼い雰囲気がある。きっと、高校生ではなく中学生だろう。詰め襟のカラーを外してあったり、髪が微かに茶色がかっていたりするところが、中途半端に不良ぶっているように見える。
「おい」
 少年はひどく挑戦的な態度で、僕に話しかけてきた。
「邪魔だ。帰れ」
 それだけ言うと少年は、僕の反論を聞き入れる余地もなく、くるりと背を向けて歩き去っていく。唐突のことにしばし呆然としていた僕は、その言葉の意味を反復すると、不意に腹が立ってきた。
「……何だ、今の小生意気なガキは?」
 吐き捨てるように、僕は彼女に質問を投げかける。香奈恵の弟の克己だ、と彼女は答えて、それからため息混じりにこう呟いたのだった。
「……あんまり、香奈恵とは仲が良くなかったみたいだけどね」
「ふぅん?」
 不仲な弟か。僕は香奈恵に兄弟がいる可能性を失念していたことに気づいた。自殺の原因は、ひょっとしたら家庭内にあったのかも知れないではないか。僕はすぐに彼女を連れて道路を走り、新藤香奈恵の弟を追いかけることにしたのだった。
「ねえ、ちょっと、君」
 背後から声を掛ける。克己は、ひどく不機嫌な表情を作って振り返った。本人は凄みを効かせたつもりなのだろうが、あいにくと中学生の顔立ちには可愛げがありすぎて、どうにも迫力不足だ。
「何だ、おっさん」
「雑誌の取材なんだけど、ちょっと話を聞かせてくれないかな」
「嫌だ」
 僕の申し出はすげなく断られてしまった。まあ、最初からこの程度で引き下がるつもりは毛頭ない。僕を無視して歩き出そうとする彼の横について歩きながら、僕はなおも食い下がる。
「そんなに時間は取らせないよ。それでも駄目かな?」
「しつこいな。嫌だって言ってんだろ」
「君のお姉さんのことを、このままにしたくない。本当のことを明らかにしたいんだ。そのために君の話が必要なんだよ」
「うるせえな」
「……どうしてそんなに、お姉さんのことが嫌いなんだ?」
「!」
 ここで克己は初めて足を止め、僕の方に向き直った。その目が怒りに満ちている。僕の胸ぐらに掴みかかろうとするのを、僕は手首を掴んで制した。途端にばつの悪い顔になった彼は、視線を僕の方から逸らして、口を尖らせて呟いた。
「……あんな女、死んで当然なんだ」
「穏やかじゃないな」
 克己は必死で僕の手を振りほどこうとするが、幸いにして中学生としてはそう大柄でもない彼より、僕の方が腕力で勝っていた。この少年がこれほど過激な台詞を口にした、その真意を知りたい。この機会に僕は、次々に質問を浴びせた。
「死んで当然、と言ったね? 君にとってお姉さんは、そんなに嫌な存在だった?」
「……うるせえな、関係ねぇだろ」
「お姉さんの何がそんなに嫌なんだ? おとなしい子だったって聞いてるけど?」
「だから関係ねえって言ってるだろ、離せよ」
「男を家に連れ込んでたって? そういうところが嫌だった?」
「…………っ」
 克己は唇を噛み、顔を背けていた。さらに僕が口を開こうとすると、それまで黙っていた彼女が割って入った。彼の手首を掴んだ僕の手の上に、彼女がぽん、と自分の手を置く。もう離してやれ、という合図だ。僕は手の力を弛めてやった。
「……悪かった」
 少々やり過ぎたかな、と思い、僕はそう口にした。いくら気丈に振る舞っていても、彼はつい先月姉に死なれたばかりの中学生なのだ。僕が手を離してやってももはや彼は逃げようともせず、ただうつむいてじっと肩を震わせていた。それは、泣きたいのを必死で堪えているようにも見えた。
「ごめん、悪かった。でも、これだけは信じて聞いて欲しいんだ。僕は君のお姉さんがどうして自殺したのか、真実を明らかにするために取材している。そのためには、君の話を聞くことがどうしても必要なんだ」
「…………」
 僕がなおも話しかけても、克己から返答はなかった。参ったな、と思って僕が鼻の頭なんかを悠長に掻いていると、彼女が口を開いた。
「あたしからも、お願い。どうして香奈恵が自殺したのか、本当のことを知りたいの。このまま何事もなかったみたいに済まされるなんて、あたし、許せない」
「…………」
 克己は相変わらず黙りこくっていたが、その表情が彼女の言葉を聞いて微妙に変化したように、僕には思えた。もう一息だ。何かもう一息、決定的なことが言えれば、きっと彼も口を開いてくれるに違いない。そう思ったのだが、僕にはどうしても気の利いた一言が思い浮かばなかった。そうこうしているうちに、彼女が言葉を続けていた。
「……克己君だって本当は香奈恵のこと、嫌いじゃなかったんでしょう?」
 この台詞は劇的に効いた。克己は少し間を置いてから大仰にため息をつくと、二、三歩歩き出し、それから振り返って言った。
「来いよ。どうせ、短い話じゃないんだろ? インスタントで良ければ、コーヒーくらい淹れてやる」
 そんな克己の言葉を合図にしたように、彼女が僕の袖を軽く掴んで引き、率先して歩き出した。ほら、早く行きましょうとでも言いたげな彼女の表情を見て、僕はどうも自分が、彼女に比べ誠意を欠いていたらしいことに気づき、大いに反省したのだった。