ゼリィ・フィッシュの憂鬱
(03/04)


 新藤香奈恵の家は、見たところこの辺りではごく普通の一軒家だった。手狭な庭と割にしっかりした車庫。その様子は、新藤家が裕福とは言わないまでもそれなりに潤った経済生活を送っていることを物語っていた。香奈恵の父は大手に勤める管理職だと聞いた。庭の花や芝生が小綺麗に整えられているのは、母親の趣味だろうか。一見、どこにでもある幸せそうな家庭に見え、ここに香奈恵が自殺するような問題が潜んでいたようには思えない。
 克己の案内で居間に通される。テーブルも椅子も食器棚も、食パンのテレビコマーシャルに出てくるような、わざとらしいくらい上品な趣味で統一されている。コーヒーを淹れている克己の背中に向かって僕は、後で香奈恵の部屋を見せてもらってもいいか、と尋ねた。見るだけならな、と返答があった。
「なかなか、立派な家じゃないか」
 コーヒーを三つ、トレイに乗せて携えてきた克己に、僕はそんな正直な感想を述べた。
「見た目だけはな」
 面白くもなさそうに克己はそう言って、僕の前にコーヒーカップをがしゃん、と音を立てて置く。水面が激しく揺れてコーヒーがソーサーの上にだいぶこぼれた。
「見た目だけ?」
「中身は――ここに住んでる人間はめちゃくちゃだ。全部、姉貴のせいだ」
 クリームや砂糖といった気の利いた物は何もなかったので、僕は出されたコーヒーをブラックのまま口に運んだ。呆れるほど苦くて熱かった。
「めちゃくちゃ、って言うのは……お姉さんが、自殺したから? それともその前から?」
「……自殺する、少し前から。姉貴が、だんだん変になっていったんだ」
「変に?」
 何がどう変になったのか。僕は克己に詳しい説明を求めた。克己は少し困った風で、何から話したらいいのか戸惑っているようにも見えた。しばらく待っていると、克己は躊躇する素振りを見せながらも、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……あんまり、家に帰らなくなったのと。あと、時々男の人を部屋に上げてた」
「お父さんやお母さんは、それを見て何も言わなかったの?」
「どっちも仕事で、いつも夜遅くまで留守だから。帰りが遅くなるときは電話しなさい、とかそれくらいのことは言ってたみたいだけど。でも、それだけ」
「男の人を……っていうのは、君が家にいる時に?」
「姉貴は俺がいてもいなくても、全然気にしてなかったから。別に覗いて見たわけじゃないから分からないけど、多分自分の部屋で、セックスしてたんだと思う」
「……ふぅん」
 僕はいつものようにメモを取りながら話を聞いていた。時折、克己と彼女の表情の変化を交互に確かめる。セックス、という単語を口にするときに、克己の顔が奇妙に歪んだ。おそらく、その行為に対して何らかの嫌悪感があるに違いない。
 それを承知で僕は、嫌な質問をした。
「香奈恵さんが、援助交際をしているって噂を聞いたんだけど?」
「……うん」
 案外素直に、克己は頷いた。どうやらこの話も初耳ではないらしい。
「そのことで一度、姉貴と親父がもめてたことがあるんだ。何でだか知らないけど、姉貴が援助交際やってるのが親父にばれたらしくて、喧嘩してた」
「――その時のこと、詳しく教えてくれる?」
「…………」
 克己は天井の方を見上げて、何か口の中でもごもごと呟いた。どうやらその時の状況を思い出しているらしい。
「テーブルのその辺に親父が座ってて……ビールを飲んでて……姉貴がその向かいに座ってたんだ。俺が聞いたのは、親父が姉貴に、小遣いが足りないんだったら増やすから、援助交際だけはやめてくれって言ってたこと……それから、姉貴が突然怒りだしてビールを親父の顔にぶっかけて……親父が、そんな子に育てた覚えはないって怒鳴って……その後、姉貴が何か言い返してたはずだけど……何て言ってたっけ……」
 頷きながら、また時折メモを取りながら、僕は克己の話を慎重に聞き、その様子を細かく思い浮かべていた。娘が援助交際なんかしていたら父親が怒るのは当然だろう。よく分からないのは香奈恵のその後の行動だ。どうしてビールを父親の顔にかけたりしたのだろう?
「……ああ、思い出した。確か姉貴は、最初からそうやって怒ってよ、って怒鳴り返してたんだ。そう言って部屋に戻っちゃった」
「『最初からそうやって怒ってよ』?」
「うん、確かにそんなことを言ってた」
「ふぅん……」
 その台詞も忘れずにメモを取りながら、僕はなお一層不可解な気持ちになった。怒鳴り返すにしても、怒るな、というのならまだ分かるけれども、怒れ、とはどういうことか。変な話だ。
「普段お父さんは、香奈恵さんのことを叱ったりしないの?」
「叱るどころか、全然話さない。家族で何か話をするってことが、ほとんどなかった」
 それで香奈恵は、父親に叱って欲しかったのだろうか? どうもよく分からない。それに、たとえ父親との不仲があったからといって、それと自殺とは結びつかないだろう。とするとやはり、新藤香奈恵はどうして自殺したのか、疑問は解消されない。
 僕と克己との会話が途絶えた。どんな質問をすれば問題解決の糸口が掴めるのか分からず、僕は質問をできずにいる。克己もまた、何を話すべきか分からない様子だった。しばらく二人とも無言でいると、そんな男二人の仕方がない状況を見てとったのか、彼女が不意に助け船を出してくれた。
「ねえ、克己君。もし今話すことが思いつかないんだったら、先に香奈恵の部屋を見せてくれないかな? そうしたらまた、何か分かることがあると思うの」
 まったくそれは見事な提案であるように思えたので、僕は一も二もなく賛同した。克己も同意してくれて、僕らは新藤香奈恵の自室に案内されたのだった。


 階段を上るとすぐに、ローマ字で香奈恵の名が綴られたドア・プレートが視界に飛び込んできた。克己がドアを開ける。そこに広がるのはひどく機能的な、そして殺風景な部屋だ。学習机、本棚、オーディオセット、そしてベッド。部屋の広さは六畳くらいか。家具の類が少ないので、がらんとした印象を受ける。
「ここが、香奈恵さんの部屋か」
 そう言って僕は部屋の中に入り、歩き回った。机の上には教科書やノートが置いてある程度で、すっきりと片付けられている。CDラックの中にしても、半分くらいが空いている。何もかもが整頓された部屋の中で、唯一雑然とした空気を放っているのが、本棚だ。本棚に並べられた本の、さらにその上に折り重なるように本が積まれて、今にも崩れ落ちそうな様子だ。向きの不揃いな背表紙の群れに、僕はざっと目を通してみた。中高生向けの恋愛小説や漫画本の類から、トルストイやヘミングウェイまで、あるいはサルトルやボーヴォワールの名すらちらほらと見え隠れする。かなりの読書家であったことは疑いない。その上、乱読家だ。
 ふと、ハードカバーの間で押しつぶされそうになっている、エミリ・ブロンテの「嵐が丘」を発見し、僕は少々の懐かしさとともにそれを引き抜いた。僕がこれを読んだときは大学生だったのだが、などと感慨にふけっていると、どうもそれが要の一冊であったらしく、まったく関係ないと思われる箇所の本が不意に崩れて僕に襲いかかってきた。エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を軽やかな身のこなしでかわした僕は、反対方向から降ってきたエーコの「薔薇の名前」に脳天をしたたか打たれる羽目になった。荒らすなよ、と言って克己が冷たい目で僕を睨んだ。
 床の上に散らばった本を、拾い集めて元の棚に積み重ねていく。と、ふと僕の手に、本とは違った感触のものが触れた。最初から床に置き去りだったのか、それとも本棚のどこかにあったのが落ちてきたのか。ビデオテープより小さいくらいの紙箱。表面には、ミチコ・ロンドンのロゴが書かれている。――箱を開けてみるまでもなく、それはコンドームだった。箱を片手に僕が振り返ると、克己はぷいとそっぽを向き、彼女は微かに顔をしかめた。僕は何も言わず箱を開けた。中には、未開封のパッケージが七個。妙に説得力のある数字だ。僕は何事もなかったかのように箱の蓋を閉め、平積みにされた本の一番上にその箱を置いた。
 一歩退いて、僕は本棚の全体をもう一度眺めた。――これこそ、新藤香奈恵という人そのものだったのかもしれない。僕はそんな感覚に囚われる。ひどく一貫性を欠く雑然とした本の山に、紛れ込むように置かれた使いかけのコンドーム。それは香奈恵の混乱した思考と、それらと隣り合わせになったセックスとを象徴しているように思えてならないのだ。だがまだ分からない。新藤香奈恵は、どうして自殺してしまったのだろう?この本棚を見る限り、少なくとも香奈恵は同年代の他の少女たちよりよく学び、よく考える人間であったに違いない。その香奈恵が、なぜ理由も明らかでない、不可解な自殺に身を投じていったのか?
 ……僕は別の場所に新藤香奈恵の痕跡を求めた。机の引き出しを開けて、ひとつひとつ調べてみる。どの引き出しも驚くほど軽く、中身はきわめて空疎だ。若干の筆記用具と、学校のテストやプリント、友人からとおぼしき手紙が少々。
 ただひとつ、異彩を放つものがあった。最上段の引き出しに入っていた折り畳み式のナイフは、何かこの机の周りにあるものとしては唯一用途が不明確で、どうにも不吉な印象を僕に与えた。ナイフの持つ、切り裂くもの、傷つけるもののイメージを、香奈恵の自殺と結びつけて考えてしまう僕の思考は、短絡的すぎるだろうか。何に使うのだろう、という僕の呟きには、鉛筆でも削っていたんじゃないの、という彼女の横槍が入った。僕は折り畳まれた刃を開いてみた。少々の汚れか、あるいは錆がこびりついている。
「……この鞄は?」
 僕がナイフを前に首をひねっていると、その背後では彼女と克己とが、もう次の話題に関心を移していた。部屋の隅の方に追いやられたように、ぽつん、と通学鞄が置かれている。香奈恵が自殺した時に、そのビルの屋上に残されていたものだ、と克己が説明した。
「開けてみてもいい?」
 彼女の問いに、克己がうなずく。鞄の中身を床の上に広げ始める彼女を尻目に、僕はこういうものは警察の管轄ではないのか、と思い、それからすぐに考え直した。他殺ならまだしも自殺であることが疑いようもない状況だ、警察がそれほど積極的に動く理由もないのだろう。新藤香奈恵の自殺の理由について、これほど必死で調べている人間は、世界中で僕たちだけなのだ。
 そんな余計なことを僕が考えているうちに、彼女はもう鞄の中身をすっかりぶちまけてしまっていた。ペンケース、櫛と鏡、ソックタッチ、ルーズリーフ、PHS、財布、定期入れ、文庫本一冊、それに――システム手帳。
 彼女は手帳を取り、それから機嫌を伺うように克己の方に顔を向けた。克己は黙っていた。見てもいいか、と彼女が尋ねると、克己はまた黙って首を縦に振った。彼女が手帳を開き、ページを後ろから繰る。僕は身を乗り出すようにして手帳を覗き込んだ。
「プリクラとか、全然貼ってないんだね」
 ふとした疑問を僕は口にする。もはや僕の世代には理解しがたいその写真シールと、彼女らの世代は関わり合いにならずにはいられないはずなのに、香奈恵の手帳にはそれが一枚も貼られていない。ちょうど彼女の手帳がプリクラだらけだったこととは対称的だ。
「そう言えば香奈恵は、プリクラってあんまり好きじゃなかったかもしれない。一緒に撮ろうって言えば断らなかったけど、自分から撮りたいって言うことは、なかったと思う」
 プリクラ嫌い。これは何を意味するのだろう。僕はここで立ち止まって少し考えたかったのだが、彼女はそんなことに関心がない風で、さらに手帳のページをめくっていった。アドレス帳のページは、ほとんど空欄だ。次いで、メモのページがあって、スケジュールのページ。
 手帳の開いたページからふと、何かが落ちた。二つ折りにされた、何かの紙だ。僕がその紙を拾い上げて開いてみると、――水族館の入場券の半券だった。
「……水族館?」
 彼女が首をひねる。どうしてこんなものが、手帳に挟まっていたのだろう。どうやら彼女は僕と同じ疑問を抱いたようだ。
「香奈恵さんは、水族館が好きだったの?」
「知らない。そんな話、聞いたこともない」
 僕の問いかけに対し、克己の答えはそっけなかった。彼女は手にした手帳を逆さにして、軽く二、三度振ってみたが、もう何も落ちてこなかった。この水族館のチケットに、何か特別な思い入れでもあったのだろうか?
「……あっ」
 突然彼女が、小さく驚きの声を洩らす。僕と克己とは反射的に手帳を覗き込もうとして、お互いの頭をぶつけそうになった。
「これ、日記みたい」
 手帳のページを指さしながら、彼女が言う。開いているのはスケジュール帳のページだ。日付ごとに区切られたその空欄に、几帳面な細かい字で何事か、ぎっしりと書き込まれているのだ。ほとんど毎日書かれているそれは、おそらく彼女の指摘するとおり、新藤香奈恵の日記に違いない。
 他人の日記を盗み読みするのは、道義に反するだろうか。それでもとにかく、僕らは香奈恵の日記を注視せずにはいられなかった。誰のためでもなく、香奈恵自身の手で綴られた言葉。僕は自分の目の前に、新藤香奈恵に接近するための門が開かれたことを知った。そう自覚した瞬間、少しだけ背筋が震えた。
 そこに居並ぶ言葉はひどくシンプルで、鋭い。
『六月一八日 西岡とSEX。終わった途端に何を言い出すかと思ったら、「愛してる」だって。くだらない。あんたなんか別に好きでも何でもないって言ってやったら、泣きそうな顔をしてた。男って、馬鹿だ』
『六月二二日 また切った。これだけはやめようといつも思うのに、我慢できない。すごく痛い。だけどその痛さが、ぼうっとした意識をはっきりさせてくれる。他にこんな感じになれるものが何もないから、やめられない』
『六月二六日 援交したら相手のオヤジに説教された。だったら最初っから買うんじゃねーよバカ、とか言ってやりたいけど、一応向こうがお客さんだから黙って聞いてやった。自分も金払ってるくせに、一方的にこっちだけ悪いことしてるような言い方するのって、ムシが良すぎる』
『六月二九日 我慢できずにまた切る。ついに一週間もたなかった。最短記録更新。血ってなんだか黒っぽくて汚い。あたしの存在はこんなにも透明なのに、あたしの身体はこんなにも赤黒く、鈍重だ。わずらわしい』
 手帳を支える彼女の手が、小刻みに震え始めた。今にも泣き出しそうな顔で、僕の方を見上げる。うわずった声で、それでもどうにか僕に質問を投げかけてくる。
「この、時々出てくる『切る』って、もしかして……」
「……手首、じゃないのかな」
 僕は正直にそう答えた。この年代の少女の中に、自らの身体をナイフ等で傷つけるケースが存在することは、僕も知識としては知っていた。とはいえ、新藤香奈恵がそうであったと確認することは、僕にとっても少なからぬ衝撃だ。まして、そのことを綴った日記が残されているとなれば。
 日記は夏休みに入ると少々途切れがちになり、八月の半ばで止まっている。香奈恵が自殺した日を克己に尋ねると、八月一二日、という答えが返ってきた。その言葉に反応するように、彼女が八月一二日の日記の書かれたページを開く。数日前から空白が続く中で、一二日のその欄にはただ短く、一言だけ書き残してあった。

 Were I JELLYFISH,

 ひどく乱暴な、殴り書きのアルファベット。それはこれまでの日本語で書かれた日記のように、すんなりと僕の頭に入ってくることはない。僕はその意味を理解するために、少々考え込まなければならなかった。Were I JELLYFISH. ゼリィ・フィッシュって何だろう。ゼリィの魚? このWereは大学受験でさんざんやらされた、反実仮想のifの省略というやつだ。Were I JELLYFISH――もし私がゼリィ・フィッシュであったなら。文の後半が欠落している。もし私がゼリィ・フィッシュだったなら。もしゼリィ・フィッシュだったなら、新藤香奈恵はどうしたというのだろう? カンマで区切られたその先には、いったいどんな文を続けるつもりだったのだろう?
「……もし私が、クラゲだったなら?」
 彼女の呟きで、僕はゼリィ・フィッシュがクラゲの意であることを初めて知った。クラゲ。もし新藤香奈恵が、クラゲだったなら。そこまで考えて僕は、先程拾った紙切れを思い出す。それはチケットだ、水族館の。クラゲは漢字で海月と書くのだ。クラゲ、海、水族館。僕は半券を裏返す。果たしてそこには、入場した日付と時間がスタンプされていたのだった。八月一二日、午前十時から十一時の間。
「香奈恵さんは自殺する前、水族館に行っていたのか」
 チケットの裏面に押されたスタンプを見せながら、僕は彼女と克己にそう言った。間違いない。新藤香奈恵は自殺したその日の午前中、水族館に足を運んでいる。通学鞄にいつもと同じ荷物を入れて出かけ、水族館に行った後、香奈恵はビルから身を投げ出し、そして死んだのだ。
「でもどうして、水族館になんか……」
「クラゲを、見に行ってたのかな」
 克己の口にした疑問に対しては、彼女がそう答えた。しかし、僕は口に出さず心の中で問いを繰り返す。どうして、水族館になんか行ったのだろう。仮にクラゲを見に行ったとして、どうしてクラゲなのか? また、自殺の直前に、というのも気にかかる。新藤香奈恵は、なぜ自ら死を選ぶその寸前に、水族館という場所でわずかな残り時間を過ごすことを選んだのだろう。
 ――いくら考えても分かりそうにない。そう思った途端、僕はまた別のひとつの考えに思い当たった。その思いつきを口にしてみると、彼女はまた怪訝な表情をした。
「……水族館に、行ってみようか」
「はあ?」
 口に出してみて初めて気づいたのだが、どうも僕のこの思いつき――香奈恵が自殺の直前に訪れた水族館に行ってみる――は、わりあいに突拍子もない申し出であったらしい。水族館に行こう、と彼女に提案している僕の姿は、客観的には女の子を初めてデートに誘う男のような間抜けさを有していただろう。
「別に、水族館に行ってみたからって、香奈恵の気持ちが分かるわけじゃ……」
 それはまったく理性的な意見であり、それだけに僕は彼女を説得するのに苦労した。確かに思いつきに過ぎなかったのだが、それでも僕はこの時、どうしても香奈恵が行った水族館に、自分も行かなければならないような気がして仕方がなかったのだ。もちろん僕だって、香奈恵が自殺する前に行った水族館に自分が行ったからといって、自殺直前の香奈恵の気持ちが分かるなどとは、到底思っていない。ただ、適切な物言いであるかは分からないけれど、あえて言うなら僕は、可能な限り新藤香奈恵に近づきたかったのだ。
「分かろうなんて思ってない。ただ、何て言ったらいいのかな、僕はできるだけ自分を当時の香奈恵さんの状況に近づけたいんだ。その結果僕に何が見えてくるか、それが香奈恵さんの自殺に関係のあるものなのか、分からないけど」
 僕は正直に、彼女にそう伝えた。彼女は小首を傾げた。どうやら僕の言ったことに納得できていないらしい。別にいいさ、と僕は思った。僕は彼女の次の反応を、少々の諦めを交えながら待っていた。だから、彼女が次に口を開いたときこんなことを言ったのは、正直なところ予想外のことだったのだ。
「じゃあ、今度の日曜日でいい?」
「……何が?」
 僕はこの上なく気の抜けた返事を返してしまった。何って水族館の話でしょう、と彼女が笑う。
「それとも、あたしに関係なく一人で行くつもりだったの?」
 彼女はそう付け加えて、さらに意地の悪い微笑を見せた。
 そんな経緯で、次に向かう場所は水族館、と決まったのだった。念のため僕は、克己にも同行する意思があるかどうかを尋ねた。克己は寸分の躊躇もなく首を左右に振った。姉の自殺についてはこれ以上何を知りたくもないし何も語りたくない、というのが理由だ。ただ、そんな克己が別れ際に、
「……あんたの記事だけは、出来上がったら読ませてもらう」
 と言ってくれたのは、僕にとっては救いだった。