ゼリィ・フィッシュの憂鬱
(04/04)


 そして日曜日の午前十時、僕は香奈恵が自殺前に行った水族館の前で、彼女と待ち合わせたのだった。僕はきっかり十時に来たのだが、既に彼女は待っていて、別に遅刻したわけでもないのに、遅い、と叱られてしまったのだった。
「女の子との待ち合わせだったら、早めに来るのが常識でしょ?」
 それが彼女の言い分だ。何か言いがかりめいた不条理なものを感じて、僕は反論を試みようとする。が、僕が口を開くより前に、次の攻撃が彼女の口から発せられたのだった。
「なーに、日曜日なのに背広なんか着てんの?」
 よりによって次のチェックポイントは服装だ。いったい何がお気に召さないのか。
「背広だと何か、都合が悪いことでも?」
「これから、どこ行くつもりなの? 水族館だよ、水族館。その格好じゃいかにも、これから仕事行ってきますって感じじゃない」
「……しょうがないだろ」
 しょうがないだろ、だって仕事なんだから。そう言おうとして僕は、不意に口をつぐんだ。仕事? ――今さらながら僕は、新藤香奈恵の自殺について調べることは、僕にとっては仕事に過ぎなくとも、彼女にとってはそうでないことに気づく。そう言えば彼女は、どうして香奈恵のことにこんなにこだわるのだろう。彼女はどうして、こんな風に僕の「仕事」に協力してくれるのだろう。
「ほら、早く行こう。日曜だし、そろそろ混み始めるよ」
 彼女が僕の袖を引いて、水族館の入っているビルの中へ歩いていく。引きずられるようにしながら僕は、制服姿でない彼女を見るのは初めてだと、ようやく気づいたのだった。
 ショッピングモールを抜け、エレベーターへ。水族館はここの十階だ。エレベーターに乗ると、平衡感覚がふっと狂い、体重がふわりと軽くなるような、独特の感覚がある。僕の袖口をつまんだままの彼女を見て不意に僕は、こうしてエレベーターに乗り、水族館に着くのを待つ数十秒の間、たった一人で新藤香奈恵は何を思っていたのだろう、と考えた。
 扉が開く。すぐにチケット売場、そして入場ゲートだ。彼女は僕の方に見向きもせず、ただ握った袖口だけは離さないで、ずんずん歩いていく。さしずめ地方から遊びに来た姪に引きずられる若い叔父といったところか。僕はそんな悠長な空想をしてみた。案外当を得ているように思えて、それだけに笑えなかった。
「……さて」
 水族館の中に入り、ようやく彼女の足が止まったところで、僕はおもむろに口を開く。
「香奈恵さんは自殺する前、ここの水族館に来ていたんだな」
「…………」
 彼女からの応答はない。どうも今日は、彼女の様子が変だ。何か、普段に増して気にかかるようなことでもあるのだろうか。
 マグロの周遊槽や、巨大なカニの水槽を遠目に見ながら、僕と彼女はゆっくりと歩き出した。日曜日の水族館は、家族連れやカップルの姿が目立つ。水槽の周囲には人垣。もとより魚を見に来たわけでもなく、ましてや人波をかき分けてまで見たいものなど何もなかったから、僕らは少し離れたところから水槽を眺めつつ、足を止めずに歩いていくほかになかった。
「やっぱり、クラゲが目的だったのかな」
 彼女がぽつりと言う。ちょうど照明の暗いところだったので、彼女の表情がいまひとつ見えない。僕が何も答えずにいると、彼女は少し間を置いてから、さらに言葉を続けた。
「どうしてクラゲなのかな。水族館だったら、他にもいろいろいるのに。ラッコとかマンボウとかペンギンとかじゃなくて、どうしてクラゲなんだろう」
「……何か、クラゲに特別な思い入れがあったとか。香奈恵さんからそんな話、聞いたことない?」
「ない。香奈恵の口からクラゲのことなんて、聞いたこともなかった」
 香奈恵が自殺した日、八月一二日の日記を思い出す。Were I JELLYFISH――もし私がクラゲだったなら。あの日記は、この水族館に来る前に書かれたのか、それともここでクラゲを見てからか。それまで香奈恵がクラゲについて何も特別に思うことがなかったとするなら、水族館でクラゲを見て、そこから何かを感じて、それであの日記を書いたのだろうか。もし私がクラゲだったなら? クラゲには何か彼女を自殺に追いやるような重大なテーゼでも含まれていたのだろうか。
「クラゲを見に行こうか。何か分かるかもしれない」
 僕がそう提案すると、彼女も反対しなかった。僕らは色とりどりの魚や海藻には見向きもせず、ただ順路に沿ってひたすら進む。クラゲの展示されているところまで。
 それにしても、なぜクラゲなのだろう? 別に生き物を差別するつもりはないが、クラゲなんて何だか地味な生物だ。それに、水族館なんて場所には、もっと一般的に人気のある生物が、いくらでもいるではないか。それなのに、どうしてわざわざクラゲを選ぶ理由があるのか? どうして香奈恵は、自分がクラゲであったなら、という不可解な想像を、死の直前に巡らせていたのだろう?
 そんなことを考えながら歩いているうちに、お目当てのクラゲを見つけた。「ミズクラゲ」のネームプレートがある、小さな水槽。ブースの一角にひっそりとあるクラゲの水槽の前には、足を止めて見入る客の姿はなく、皆が軽い一瞥をくれただけで通り過ぎてしまう。
「香奈恵も、このクラゲを見たのかな」
 彼女がそう言って、水槽の前に立つ。僕も彼女の横に立って、二人してじっとミズクラゲの様子を観察した。
 クラゲは、泳いでいた。傘状の部分をふわり、と蠕動させると、クラゲの体がふっと浮かび上がる。僕はクラゲがこんな風に泳ぐものだということを、この時初めて知った。もっと無気力に、漂うように泳ぐものだとばかり思っていたのだ。
 ふわふわと規則的に浮き沈みを繰り返すクラゲの姿を、僕は目で追い続ける。しばらくの間、言葉はなかった。その沈黙を慎重に切り開いていくように、彼女がゆっくりと、抑制の効いた声で、呟くように話しかけてくる。
「……なんか、きれい」
 その意見には僕も同感だった。確かに、クラゲがこんなに綺麗なものだなんて、考えてもいなかった。透き通った体を水中でふわりふわりと踊らせるクラゲの姿は、とても美しくて――僕は香奈恵の残した言葉を胸中で何度も繰り返したのだった。
 Were I JELLYFISH。もし私が、クラゲだったなら。
 もし僕がクラゲだったなら、重力から解き放たれたように、波間を自在に泳ぎ回ることができるだろう。もし僕がクラゲだったなら、その身体は青白くまたゼリーのように透明で、その体重はもはや忘れ去ることができるほどなのだろう。ああ。ため息が出そうになる。僕がクラゲだったなら。
 香奈恵の残した言葉が、脳裏でフラッシュバックする。『血ってなんだか黒っぽくて汚い。あたしの存在はこんなにも透明なのに、あたしの身体はこんなにも赤黒く、鈍重だ。わずらわしい』――そして香奈恵は、どこまでも透明なクラゲになることを夢想した。香奈恵はきっと、クラゲになりたかったのだろう。肉体の重さから解放された、美しく透明なクラゲに。
 だから香奈恵はクラゲを見た後、ビルの屋上から身を投げたのだろうか? 鈍重な身体から離れ、軽やかで透明なクラゲになるために、自らの身体を屋上から「投げ捨てた」のか? 香奈恵の「クラゲになりたい」という欲求は、そこまで切迫したものだったのだろうか。
 ふと、袖口を引っ張られる感触があって、僕は彼女の方を見やった。僕を見上げている彼女は、何か言いたそうな顔をしながら、口をへの字に歪めて何も言わずにいる。きっと彼女も、僕と同じようなことを考えていたのだろう。僕はそう思った。彼女も僕と同じように、新藤香奈恵について知り得たことを頭の中で反復させながら、クラゲを見ていたに違いない。
「……行こうか」
 放っておいても彼女は何も言い出さないだろうと思ったので、僕はそう促した。彼女はただ黙って頷いた。僕らはクラゲの水槽を後にした。


 水族館の外に出てみると僕は、さてこれからどうしたものかと途方に暮れた。
 この水族館に来てみたのは、成功だった。僕は自分が少しだけ新藤香奈恵に近づいたことを自覚している。もう少し。もう少しで、香奈恵が自殺した理由が、見えてきそうな気がするのだ。ただ、そのあと少しがいったい何なのかは、僕には分からない。
「これから、どうしよう?」
 僕は声に出して、彼女にそう尋ねた。新藤香奈恵の自殺の謎を解き明かす最後の一手を、僕は自分で見つけることができず、隣にいる彼女に求めたのだ。彼女は少し何かを噛みしめるようにしてから、ゆっくりと口を開く。唇の間からはすぐに言葉は出てこず、彼女は軽く口を開いたまま瞬きを一回して、それからようやく、こう言ったのだ。
「――香奈恵がどうして自殺したのか、分かった?」
 彼女のこの質問に対しては、僕は返答をためらった。香奈恵はどうして自殺したのか。この水族館に来る前は、あのクラゲを見る前は、どうにもよく分からなかった。だけど今の僕の心境を正直に言えば、分かったようでいて分からないような、自分が分かっているのか分かっていないのかそれすらも分からないような感じなのだ。香奈恵はどうして自殺したのだろう。それはこの取材を開始した当初から一貫して僕に投げかけられている問いで、そして僕はまだそれに答えることができない。
「……分からないな」
 やや間があってから僕がそう答えると、彼女は露骨にがっかりしたような表情を浮かべた。これはどうも返答が適切でなかった、と僕は思い、慌てて言い直す。
「分からない、って言うのかな、何か分かりそうな気はするんだ。だけどまだ、香奈恵さんはどうして自殺したのかって質問されたとしても、上手く説明することはできない。そんな感じ」
「あたしも、同じ。何か分かったような気はするんだけど、でもまだ香奈恵がどうして死んだのか、はっきりとは言えない」
 彼女は少しだけ安堵したように、そう言った。
 同じなのだ。そう考えると僕も、少しだけ何かほっとしたような気分になった。彼女も僕と同じように、クラゲを見ながら香奈恵の自殺について考え、そして何か分かったような、でもまだ何か分からないような感覚を有しているのだ。それでは、僕と彼女がこの感覚を脱し、香奈恵の自殺について確信を持って理解することができるようになるためには、どうすればいいのか。
 九月の陽光はまだじりじりと熱い。時刻は午後三時で、西に傾きかけた太陽が不意にビルの窓に反射して目に入り、僕は目元に手をかざした。一ヶ月前、新藤香奈恵が自殺したのも、こんな風に暑い日だったのだろうか。昔読んだ小説に、太陽のせいにして人を殺す話があったけれど、それでは太陽のせいで自ら死を選ぶ人間もいるだろうか。それこそ、まったくの不条理だ。
「香奈恵はこのあと、ビルの屋上に上って、そこから飛び降りたんだよね……」
 彼女がぽつりと呟く。
 水族館を出た香奈恵は、どんな気持ちで自殺へと向かったのだろう。決然としていたのか、それともまったく衝動的だったのか。ビルの屋上。クラゲを見て、クラゲになりたいと思って、それからビルの屋上に立って街を見下ろしたら、どんな気分になるのだろう。
 ふと僕は、僕らが今ビルの屋上に上ってみたらどんな気分がするだろう、と考えてみた。上ってみないことには分からない、と思った。ビルの屋上に行ってみよう。僕はようやく、新藤香奈恵に近づくための鍵を探し当てた、そんな気がした。そうだ。水族館に行ってみることで香奈恵の気持ちが少しでも分かったのだとすれば、もっと分かりたいのなら香奈恵と同じように、ビルの屋上に立ってみるより外にないではないか。
「香奈恵さんが自殺したのって、どこのビルだったか、知ってる?」
 僕がそう尋ねると、彼女は首を振った。この水族館の近くのどこかのビルらしい、ということは知っているが、具体的にどのビルであるかまでは分からないという。それなら、どこでもいいから近くのビルに上ってみないか、と僕は提案した。彼女は反対しなかった。


 通りを一本裏手に入った、地味な雑居ビルを僕らは選んだ。ビデオの販売店や事務機器の販売会社といったテナントを尻目に、僕らはただ上へ上へと階段を上っていく。階段の行き当たったところに、屋上へ通じるドアがあって、鍵はかかっていなかった。先月この街で自殺があったというのに、どうもこのビルの管理者は屋上に行くドアを閉めておこう、という気は回らなかったらしい。自殺なんて案外簡単にできるものなのかもしれないな、と思いながら、僕はドアを開けた。途端に屋上から、強い光が射し込んでくる。低くなり始めた太陽がちょうど、目に入る高さだったのだ。僕と彼女はビル屋上に出ると、ドアを閉める。それでもう、僕と彼女とは何もない殺風景なこの屋上に、二人きりなのだった。
「香奈恵もこんな風に、ビルの屋上に上ってきたんだね」
 彼女が呟く。僕は辺りを見回した。香奈恵が自殺の直前に見たのも、きっとこんな景色だったからに違いないからだ。僕らの上ってきたビルは、この辺りではそう高い建物ではなかったけれど、それでも地上にいた時とはまた違って、この街の少々広い範囲まで見渡すことができた。
 僕は屋上の端を囲む鉄柵のところまで行って、足元にこの街を見下ろした。道路を行き交う人の数はまばらだが、いずれも似たように軽く背を丸めて俯きがちに歩く様は、少々滑稽だ。もう少し遠くの方に視線をやると、ゲームセンターやら風俗店やらの派手な看板の、攻撃的な色彩が網膜をちくちくと刺激する。それらはむき出しになった欲望の象徴のようにも見え、僕は目のあたりがチカチカするのを解消するために、二、三度瞬きをしなければいけなかった。
 新藤香奈恵は、ここへ向かって飛び降りていったのか。そう思うと僕は、何ともやりきれない気持ちになる。自殺するにしたって、もう少し場所を選んでもよかったのではないか。こんなに雑然とした、ゴミ溜めのような街に向かって、飛び込んでいくことはなかったのではないか。
 少し目が疲れてきたような気がした。僕は目を閉じて、すべての視覚情報をシャットアウトする。ああ、そうか。香奈恵も飛び降りるときには目をつむっていたのかもしれないな。瞼の内側に展開する漆黒の中に身を委ねていると、僕は少しだけ気分が落ち着いてきた。
 鉄柵に寄りかかりながら僕は空想する。目を閉じて、この鉄柵の向こう側に、自らの体を投げ出していく。飛び降り自殺、と言うけれど、きっと嘘だ。さあ自殺しよう、という好戦的な気持ちで、自殺なんかできるもんじゃない。飛び降りるのではなくもっと自然に、虚空に向かって体を投げ出すのだ。きっと香奈恵はそうやって死んだに違いない。
 さらに空想を続ける。ここから身体を放り出す。ふわり、と、さっき水族館で見たクラゲのように体を浮かべるのが、究極の理想だ。だけど僕の肉体は重たくてすぐに落ちてしまう。それでも、地面にインパクトするまでのごく数秒の間だけでも、僕はあのクラゲの感覚を手に入れることができるだろう。
 死ぬ瞬間に、何を思い浮かべるだろう。よく、死の間際になると思い出が走馬燈のようによぎるという。僕なら何を思い浮かべるだろうか。親兄弟、友人の顔。こんな時に名前を呼ぶことのできる恋人でもいればいいのだけど。仕方がないのでもう何年も前に別れた、学生時代の彼女の顔を思い浮かべる。だけどどうして別れたのだったかな、何か些細な理由だったような気がするな。……。
 それから僕は、もし僕が新藤香奈恵だったら、こうして自殺するときに誰の顔を思い浮かべただろう、と想像してみた。家族? ――叱りもしない父親、自分好みの「いい子」としてしか香奈恵を見ない母親、隔意を抱く弟。恋人? ――気晴らしにセックスをするクラスの男子。そいつが空虚な「愛してる」を囁く。いくばくかの金で香奈恵の身体を買う援助交際の中年男。自分で金を払って買っているくせに説教をしたりする。
 友人? ――香奈恵が自殺するときに、思い浮かべることのできるような友人などいたのだろうか。学校でも休み時間には本を読んだり音楽を聴いたりして、一人で過ごしている香奈恵に、親しい友人などいたのだろうか。手紙を書いても、趣味の話も男の話もしない。本を貸し付けたりするけれど、読んでもらえたわけでもない。手帳にはプリクラも貼られていない。
 香奈恵は死の間際に誰を思い浮かべたのか。誰も思い浮かべることができなかったのではないか。香奈恵が誰を見ていたというのか。誰が香奈恵を見ていたというのか。――誰が香奈恵について語ることをしていたというのか。だって香奈恵は手帳にこう記していた。『あたしの存在はこんなにも透明なのに、あたしの身体はこんなにも赤黒く、鈍重だ。わずらわしい』……。
 ……僕は目を開いた。首筋にちくちくとしたものを感じて振り返ると、彼女が不安げな瞳でこちらをじっと見ていた。まったく、この屋上はあまりにも殺風景すぎた。僕は自分と彼女とがこの世界に二人きりであるかのような錯覚に囚われた。
 そのとき僕はようやく、新藤香奈恵を死に追いやった、そいつの正体を知ることができたのだった。胸から喉元までを締め上げるような寂寥感。ああ、香奈恵はこんな気持ちのときに自殺したのだな、と思った。彼女が僕の方に歩み寄ってきて、ブラウスの袖のところで僕の頬をさすった。彼女がそんなことをするまで僕は、自分が涙を流していたことにすら気づかなかった。
「……一人じゃなくて、よかった」
 自分も泣きそうな顔になりながら、彼女が言う。
「もし今、ここで一人ぼっちだったら、あたしも香奈恵みたいにここから飛び降りていたと思う」
 その通りだった。僕は自分を包み始めた恐怖から逃れようと、手を伸ばして彼女に触れようとする。彼女もすっと手を伸ばして、僕の手を握った。彼女の手のひらは思いのほか温かく、僕はまた少し涙が出そうになった。
 何か、言わなければいけない。そうと分かっていたが僕の口からは、どうしても言葉が出てこなかった。僕は呼吸困難に陥ったかのように、音を立てながら息を吸ったり吐いたりする。僕は必死になって自分が口にすることのできる言葉を探した。見つからなかった。
「……もっと、話をしよう」
 どうにか僕が口にすることができたのは、そんな台詞だ。ひとたび声を出すと、僕の口はもはや僕の意思から離れたように、無秩序に言葉を紡ぎ出す。
「もっと、話をしよう。何でもいいんだ。昨日見たテレビのことでも、明日の天気のことでも、何でもいい。とにかく、もっと――もっと、言葉が必要なんだ」
 僕の言うことを、静かに頷きながら聞いていた彼女は、ふと顔を上げると、聖母のように微笑んだ。彼女は僕の手を握った指先に少しだけ力を入れ、強い光を帯びた瞳で僕を見据えて、言う。
「話すことは、いくらでもあるよ。だってあたしたち、まだお互いの名前も知らないでしょう?」
 彼女の言う通りだ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。僕はどうやら、自分が新藤香奈恵と同じ危機の中に身をさらしていることを理解した。そして同時に、このことを記事に書くことのできるどんな言葉もないことを知った。
 僕は彼女の顔をしっかりと見つめながら、まず何から話し始めようか、と考えた。話すべきことは、話さなければいけないことは、きっと無数にある。僕は彼女に、君のことを何と呼んだらいいか、と尋ねた。彼女は初めて僕の前で自分の名前を口にした。長い一日になりそうだ。


〈了〉