吸血鬼マリア
(01/04)


 日曜日は嫌いなの、とまりあが言った。その言い様がまるで自然で、例えば、グリンピースは嫌いなの、とか、ぶつぶつ模様のいっぱいついた芋虫は嫌いなの、とか言うのとまったく同じ調子だったから、僕は危うくさらりと聞き流してしまいそうになった。考えてみれば変な話だ。いったい彼女は、日曜日の何が気にくわないというのだろう?月曜日や水曜日や国民の祝日ではなくて、どうして日曜日を嫌う理由があるのだろうか?
「何だか、世界中が騙されてるような気がするの」
 まりあはそう説明した。
「一週間の中で、日曜日がいちばん嘘っぽい感じがする。すべてが作り物で、大嘘で、みんなもそのことに気づいてるはずなのに、示し合わせて見ない振りをしてる、そんな気がするの」
「不思議なことを考えるんだね――」
 窓の外は素晴らしくいい天気だった。僕とまりあはベッドに並んで腰掛け、熱心に見るでもなくただぼうっとテレビを眺めていた。日曜の午後、くだらない十四インチのブラウン管には、くだらない落ち目の女優とコメディアンが映し出され、くだらない世界の珍味に大仰に驚いているところだった。確かにこんな時には、世界中がくだらないでっちあげの偽物みたいに思えてくる。息苦しさを感じて軽く息を吸ったら、まりあの髪からシャンプーの匂いがして、それで僕はようやくほっとした。
 まりあは軽く寄りかかるように、僕の胸に自分の頬を押しつけている。少し顔を上げて、まりあが僕の目を見る。それきりまりあが何も言わないものだから、僕は幼児をあしらうように軽くまりあの頭を撫でて、こう尋ねたのだ。
「どうかしたの?」
「つまんない」
 それは既に、ひとつの合図だ。僕とまりあはどちらからともなく唇を寄せ合い、重ねる。それからもつれ合うようにして二人でベッドに転がる。ブラも着けず、薄いTシャツ一枚だけを隔てて感じられるまりあの胸は、微かに熱く、動悸も早まっているようだった。
 背筋に沿って指を滑らせてやると、まりあの体がびくん、と反った。耳や、首や、いろいろなところを撫でてやる。その都度まりあの指先に力が入って、結果、彼女は僕の腕や背中にたくさんの爪痕を残すのだった。
「痛っ」
 かりっ、という音が聞こえた、ような気がした。まりあが僕の唇の端に噛みついたのだ。痛いよ、と言って僕は、まりあの頭を軽く小突く真似をする。まりあはただにっ、と猫のように微笑んだだけで、何も言わない。それからもう一度キス。
 まりあはその舌と唇で、吸いつくように、すくい上げるように、僕の傷口を舐め回す。ねっとりと熱く濡れて、ざらついた感触が、切れた唇の端から僕の体に入り込んで、浸食していくような気すらする。舌を絡め合うと、錆びた鉄の味がする。僕の上に馬乗りになったまりあは、食事を終えた猫みたいな表情で、満足げに、手の甲で口を拭う。そんなまりあを見上げながら、僕は――勃起していた。


 猫が死んだのは八月の暑い夕方のことだ。それは覚えてる。子供もない僕らの関係はすっかり冷え切っていて、そんな些細なことさえ離婚を加速するきっかけになった。そのことも覚えてる。だけど振り返ってみれば、僕は舞子に特段の不満があったわけではなかったし、たぶん舞子の方にしてもそれは同じだったろう。つまり、別れる決定的な理由があったのではなく、それ以上結婚生活を続ける決定的な理由が何もなかったのだ――要するに僕らは、結婚なんかしたことそれ自体が間違いだったのだ。
 舞子と別れてからたかだか半年なのに、僕の身のまわりのものは何もかもが変わってしまっていた。まず、二人で住んでいたマンションを引き払い、それぞれもう少し狭くて手頃な住み処を探してきた。テレビやオーディオやダブルベッドは、あれば使うわ、という申し出に従って、すべて舞子に引き取ってもらうことにした。そして、僕らが本当の意味で唯一共有していたと言えるもの、すなわち猫は、二人で公園の片隅に埋めてやった。結婚式では二人の最初の共同作業って言ってケーキを切ったけど、これは二人の最後の共同作業だね、と僕は言った。舞子は笑わなかった。僕の冗談の出来が悪かったのだろう。
 何もかも――そうだ。乗っている車も違ってしまった。舞子と別れてすぐ、僕はあの広々としたRVを手放して、ツードアの可愛らしい軽自動車を買った。二人で乗るときには二人の、一人だけで乗るときには一人の、それぞれ適切な空間の広がりというものがあるのだ。僕はその、舞子と別れてから買った軽自動車に乗って、舞子の待つカフェに向かっている。
「仕事で近くまで来たの。出てこられる?お茶くらい、一緒にどう?」
 離婚してから、それが舞子の常套句になった。そう頻繁に仕事の都合で近くに来ることなんて、あるのだろうか?だけどそんな疑問は考えても仕方のないことだから、僕は舞子の呼び出しに応じて、学生時代から変わらず使っている、いつものカフェに向かうのだ。
 カフェの目の前が駐車場だ。駐車場、なんて言うのが恥ずかしい程度のものだ。通りに面したそのささやかなスペースには、車が二台しか入れない。だけど僕は軽自動車のサイドブレーキを引きながら、この車はこのカフェの前に駐車するにおいて、最高に正しい車なのだ、と確信していた。例えばここにアルファロメオで乗り付けたら悪い冗談だと思うし、真っ赤なフェラーリを駐車させたら犯罪だ。車を降りるとすぐに、ウィンドー越しに舞子の姿が見えた。いつもの場所だ。舞子は駐車場が一望できる位置に陣取って、僕が車から降りてくる様を最初から見張っている。
「――元気そうね」
 会う前から台詞を決めていたように、舞子はそう言った。まあね、と僕は答えた。少し腹が減っていたから、クロワッサンサンドとエスプレッソを注文したら、舞子はついでにブレンドのお代わりを追加した。たぶん、舞子の注文の仕方のほうが正しい。
「どう?最近は、何か書いてるの?」
 カップの底の方にへばりついているコーヒーを、スプーンでかしゃかしゃと引っ掻きながら、舞子が尋ねてきた。
「――全然」
 僕は軽く首を振った。そう、と舞子は軽く相槌を打つ。まるで大したことではなさそうに応じておきながら、そのくせ舞子は、ひどく落ち着かない様子でカップをかしゃかしゃ鳴らしているのだった。舞子の言いたいことを、僕は分かっているような気がしていた。だけどそれはあまり楽しい話題ではなかったから、僕は舞子の話を促すような真似はせず、黙っていたのだった。サンドウィッチとコーヒーが運ばれてきて、僕がサバンナの猛獣の気分になってパンに噛みついた途端、舞子は無理をするように口を開いた。
「ねえ、あたしね、あなたには確かに才能があると思ってるの。本当よ」
「――ん」ろくに味わわずパンを飲み込んで、僕は答える。「知らなかった」
「だけど本当よ、あなたには才能があるわ。あなたは確かに他の誰にも書けなかったすごいものを、いつかきっと書ける。あたしには分かるの」
「そうだといいんだけど」
「でもね」舞子は母親のような顔になって言う。「適切な時期とか、環境とか、経験とかってあると思うのよ。どんなにきれいな花を咲かす種だって、固い岩盤の上に蒔かれれば根を張らないのと同じように」
 舞子の態度や言っていることが気にくわなかったから、僕は話を聞くふりをしながら、別のことを考えることにした。固い岩盤の上に蒔かれた花の種のことを考えた。案外その種は岩盤をえぐり、僅かな隙間を縫うように根を張りめぐらして、美しい花を咲かせることができるかもしれない。あるいは、必要な水分や栄養分を明らかに欠きながら、瀕死の病人のようにひょろひょろと伸びていく植物の姿は、本来の健康で健全な花より美しいかもしれない。そんなことをとりとめもなく空想していた。
「――ねえ、これは真面目な話。少し、働いてみる気はない?別にアルバイトでも何でもいいの、そんなに長い時間じゃなくたっていい。ただ、あたしはあなたが、そうやってずっと家の中に閉じこもったきりで、外の世界を見ようとしていないことが心配なの。もっといろんな場所に出て、いろんなものを見てきた方が、きっといい小説が書けると思う。そうは思わない?」
 舞子の結論はいつもと同じだ。僕は苦い苦いエスプレッソで唇を湿らせてから、いつものように、答えた。
「それもひとつの考え方だね」
 だけど僕の考えじゃない、というのは、さすがに言わなくても分かる。舞子は残念そうに微笑を浮かべて、伝票を持って立ち上がった。僕が財布を取り出すより前に、舞子はいいわよ、と遮った。
 別れ際に舞子は僕にキスをして、こう言ってきた。
「あなたのこと、嫌いになったわけじゃないのよ。あなただってそうでしょう?」
「そうだね」僕はそう答える。
「たぶん何かが、ちょっとずれちゃったのよ。それさえ直せれば、あたしたち、またもと通りやり直せる。そうは思わない?」
「どうかな?」今度の質問にはそう答えた。
 舞子はそれ以上僕の意見を確認することはなく、カフェを出ていく。一人で残っている理由はあまりなかったから、窓の外に舞子の姿が見えなくなったことを確認すると、僕は少し冷めたエスプレッソを一気に飲み干した。


「女の人の匂いがする」
 まりあは口を尖らせる。嫉妬の深さだけは一人前だが、大人の女を目指すにはその表情があまりにも幼すぎた。舞子とお茶を飲んで帰ってきた僕が、玄関で靴を脱ぎ出すより前に、まりあは僕の首に抱きついてきたのだ。テレビの音声が微かに聞こえる。午後のワイドショーは、どこかで起きた保険金殺人事件を報じているらしかった。
「口紅、ついてるよ」
 自分の唇の端を指さしながら、まりあがそう言った。だから僕は手の甲で口元を拭ってみたのだけど、そこには何の痕跡もなかった。まりあは眉を寄せて、嘘だよ、と言った。
「キスしたの?」
 そう聞かれて、僕は曖昧にうなずく。そうすると、まりあが背伸びをして僕の唇を奪いに来た。貪るようなキス。まりあの舌が僕の口をこじ開けて進入してくる。唇と唇が互いを食べ合うように重ねられ、舌と舌が二匹の蛇のように絡み合う。まるで舞子としたキスをすべてはぎ取るみたいに、まりあの舌が僕の唇の形に沿って流れていく。
「まりあのこと、好き?」
 僕の頬を両手で挟んで、まりあが尋ねる。
「好きだよ」
 僕は答える。まりあはまだ唇を尖らせて、相変わらず子供の表情のままで、子供じみた質問を繰り返すのだった。
「ほんとに好き?」
「好きだよ」
「世界で一番好き?」
「好きだよ」
「前の奥さんよりも?」
「前の奥さんよりも、好きだよ」
「もっと」
「――好きだよ」
 それはもう何だか、ひとつの呪文みたいなものなのだった。毎日、何度でも、好きだよ、と言ってやらないと、まりあは不安になるのだった。だから僕がちょっとどこかに出かけただけでも文句を言うのだし、前の妻と会ってきたなんてことになれば、この好きだよ、を飽きるまで聞かないことには、納得しないのだった。
「ねえ、もっと」
「好きだよ」
「もっと」
「好きだよ」
「名前も言って」
「好きだよ、まりあ」
「ほんとのほんとに、好き?」
「ああ、好きだよ。世界で一番、まりあのことが、好き」
「――ありがと」
 まりあはようやく、そう言って全身の緊張を解いた。急に力の抜けたまりあは、突然猫みたいにぐにゃりとなって、僕に体重を預けてきたのだった。おかげで僕は、確かに猫みたいに軽くて柔らかいまりあの身体を、抱きとめて支えてやらなければならなかった。
「――ねえ」甘えた声をまりあが上げる。「抱っこして」
「やれやれ」
 僕はお姫様みたいにまりあを抱き上げて、玄関からベッドまで連れていく。二人で住むには窮屈なワンルームでは、ベッドとテレビの距離が近すぎて、まりあをそっと降ろしてやっている僕の背中には、安眠を約束する磁気枕の効能を熱っぽく語る、テレビショッピングの声が突き刺さってきていた。


 あたしのこと好き?まりあが尋ねる。好きだよ、と僕が答える。まりあの何が好きなの?何もかも。何もかもって何?何もかもって何もかもさ。この唇も、この頬も、この髪もこの指もこの胸も。そう言いながら唇に頬に胸にキスの嵐。まりあは自分の胸嫌いだよ、だって小さいもん。それでも僕は好きだよ、だってまりあの胸だもの。もう一度胸にキス。まりあの身体がさっきより大きく、びくり、と反応する。あたしのこと好き?もう一度まりあが尋ねる。好きだよ。苦笑混じりに僕が答える。もっと言って、とまりあが言う。好きだよ。愛してる。もっと。名前を呼んで。好きだよ、まりあ。耳元で囁いてやると、まりあはくすぐったそうに身をよじる。性器に触れてやるとまりあは狂ったように声を上げる。もっと。もっと。何がもっとなのか分からない。だから僕はまりあの耳元で好きだよ、と囁いてやりながらまりあのクリトリスを愛撫する。 もっと。もっと。ペニスを押し込むとまりあは顔をしかめる。どうやらまだ痛いらしい。まりあは僕の背中に手を置くと、ぎゅっと爪を立てる。僕がペニスを深く差し入れるごとに、まりあはより強く爪を食い込ませる。痛い。痛みと快感と、汗と血液とが混濁する感じ。もっと。もっと。共有される行為と共有される痛み。絶頂。それから脱力感。全身の感覚に靄がかかったような感触の中で、ただ背中に食い込んだままの爪の痛みだけが、鋭く僕を刺激する。僕はまりあの小さな身体を強く抱きしめる。あたしのこと好き?とまりあが尋ねる。好きだよ、と僕は答える。


 だけど考えてみれば奇妙な状況なのだ。ほんの一年前には、今あるすべてのものがなかったし、一年前にあったすべてのものを今の僕は失っていた。仕事をやめ、やがて猫がいなくなって、舞子がいなくなった。それから僕は、小説を書き始め、サボテンを育て始め、日記をつけ始めた。小説は一つとして完結したことはなく、サボテンは水をやりすぎて枯らしてしまってはまた新しいのを買う繰り返しで、日記は一日つけると次に書くまでに一週間のブランクがある。そして――かつて捨て猫を拾ったときみたいに、雨の日に傘も持たずコンビニの駐車場で泣いている女の子を拾ったのだ。そして今、彼女は僕の左腕を枕にして裸で眠っている。
 彼女のことを僕は何も知らない。まりあ、というのが彼女の本当の名前かどうかすら、確かめたことはない。見たところ中学生くらいだと思ったが正確な年齢は分からないし、どうして雨の中ずぶ濡れで泣いてたのか、家に帰ろうとしないのは何故なのか、僕の何が気に入ったのか、僕は本当に何も知らないのだ。ただひとつだけ確かなのは、まりあは今こうして僕の腕の中で眠っている、ということ――それ以外にない。
 今の僕の、なんと安らいでいることだろう。一年前には想像もつかなかったことだ。もちろん、僅かばかりの蓄えを食いつぶしてやっている今の暮らしが長続きしないことは分かっているし、自分がどうもまずいことをしているという自覚もあるのだけれど、それでも、こんなに落ち着いた気持ちで日々を過ごすことが、これまであったろうか?
 舞子と暮らしているときはずっと、何か違和感があった。毎朝六時に起きて仕事に出かけ、舞子の作った弁当を自分のデスクで食べ、夜十時に帰ってきて小説を少し書いてみては破り捨て、週に一度舞子とセックスをする。すべてが歯車のように精密に噛み合って動いているようでありながら、何かが少しずつずれていって、そのうち決定的などこかのギアが外れたようになって、僕は仕事をやめてしまったのだ。今はもう、そんなことはない。起きたい時間に起き、食べたいものを食べて、不規則なセックスをして、また少し眠る。僕はもう、まりあのことだけを考えていれば、それで一日が終わってしまう。もう、まりあのこと以外はろくに考えられない。


 ある日思い立って、また小説を書いてみることにした。以前は何か、肋骨の裏側のへんに、まだ言葉の形を取ることができないもやもやした塊のようなものがあって、それに圧迫されるようにして言葉が吐き出されてくる感じだった。だけど、仕事をやめて舞子と別れる頃には、それは体のいい口実程度のものでしかなくなっていた。小説を書くために仕事をやめて、小説を書くために離婚したのだと、舞子は信じ切っている。実態はもはや逆で、僕は仕事をやめて舞子と別れたことに適当な理由を与えるために、小説を書いている。あるいは、書くふりをしている。舞子が思っているのとは違って、僕は小説家になりたいわけではなかったし、特段世の中に向けて訴えたいことがあるわけでもなかったし、どこかにあるホントーのジブンを見つけたいわけでもなかった。
 それがまた何か書いてみようと思いついたのは、何か文字を書くというプロセスが自分にとって必要であるように、漠然と感じられていたからだ。まりあと暮らすようになってから長らく起動していなかったパソコンを、久しぶりに立ち上げた。僕の指はキーボードの感触を忘れ始めていた。ワープロソフトを開いて、何か書こうとしてみた。一文字も書けなかった。
 何かが違うのかもしれない。僕は少し黄色くなった原稿用紙を机の引き出しから発掘してきて、万年筆を手に取った。何しろこの万年筆もしばらく使っていなかったものだから、ちゃんとインクが出るかどうか、試し書きをしてやる必要があった。僕は原稿用紙の端に小さく「あ」と書いた。結局、その万年筆と原稿用紙で僕が書くことができたのは、その一文字だけだった。
 今度はノートと鉛筆で試してみることにした。最初から文章を書こうとするからいけないのだ、と思って。結果はやはり惨憺たるものだった。ほんのメモ書きで構わないんだ、と自分に言い聞かせて、様々なお話の筋を考え、それをノートに書き付けようと試みる。だけど僕が思いつくすべての物語は、そのほんの着想部分をノートに書き出すよりも前に、どこかで見たようなお話だな、と自分で気づいてしまう。そして僕は、何一つ書くことができない。
「何してるの?」
 さっきまで眠っていたまりあが起き出してきた。ベッドから起きあがると、彼女を包んでいたタオルケットがするり、と逃げ出して、ほとんど透明な裸身が露わになる。床に丸まっているショーツに目もくれず、まりあはフローリングの上を裸足でぺたぺたと歩いてきて、僕の膝の上に腰掛けた。
「小説を書いてたんだ」
 僕はそう説明する。まりあは机の上に広げてあった原稿用紙を手に取り、小首を傾げた。「あ」の字が書かれただけの紙を、回したり、裏返したり、蛍光灯に透かしたりして、それでも合点が行かない顔で首をひねる。
「この小説をどう評価したらいいのか、あたしには分からない」
「――そうだね、僕もそう思う」
 僕はまりあの手から原稿用紙を取り上げ、その今日唯一の成果を破いて丸めて、ごみ箱に放り込んだ。
「小説なんか書いてたんだ?」
「昔はね」まりあの質問には、僕は正直に答えることにしている。「昔――と言っても大昔だ、小説家になりたいって思ってたこともある。もっともその頃は、ミュージシャンでも詩人でも哲学者でもペテン師でもいい、って思ってたけどね」だけどこの返答が本当に正直な意見なのか、実際のところ、自分でも判断がつきかねた。
「じゃあ、今は何になりたいの?」
 僕の耳の辺りに唇を押しつけるようにしながら、まりあが尋ねる。視線を落とした先、僕の膝の上にちょうど、まりあの陰毛がある。まりあの陰毛には僕の精液がこびりつき、乾いて固まっていた。指を伸ばして触れてみると、ごわごわした固い感触があった。それで僕はまた勃起した。
「特別、何かになりたいとは思わない。そんな歳じゃないしね」そう言いながら暗く湿った陰毛をかき分け、まりあの性器を探り当てた。「ただ、今みたいなゆったりとした状態が、なるべく長く続いたらいいな、って、それくらいのことは思うけどね」
 陰唇を指でつまんで軽く引っ張る。まりあが僕の耳に噛みつく。親指でクリトリスの付近を撫でてやりながら、中指をまりあの内側にそっと滑り込ませる。
「まりあは、何になりたいの?」
 僕は尋ねた。
「まりあはまだ若いから、これから何にでもなれるよ。何になりたい?」
「あたしは――」
 まりあはそこで言葉を切った。考え事をしているのか、愛撫を味わうことに集中しているのか、僕には区別がつかない。どこか遠くの方を見ているような表情で、少しだけ目を細めて、まりあはやがて、言葉を継いだ。
「あたしは、なるべく早く死にたい」
 その言葉の意図するところは、僕にはよく飲み込めなかった。だからまりあの股間を探る手の刺激を強めてやると、途端に嬌声が部屋中を支配して、それでこの話はお終いになった。だけどまりあの言葉は、まるでバラの刺を飲み込んでしまったみたいに、僕の胃袋をちくちくと抉り続けていた。


 まりあの腕には傷痕がある。そのことに気づいたのはつい最近だ。左の手首から肘の内側にかけて、背比べでもしたみたいに平行な筋状の傷が並んでいるのだ。その傷の上にキスをしたら、まりあは不思議そうな顔で僕を見た。
「この傷、どうしたの?」
 僕が尋ねると、まりあは儚く笑って、切ったの、とだけ答える。何かの事故で偶然に切ってしまった、という風には、どうしても解釈できなかった。切れたの、でも切られたの、でもなく、切ったの、と答えた。自分で自分の腕を傷つけたのだろうか。何のために?
「安心するの」まりあはそう付け加えた。「血が少しずつ出てくるのを見てるのが好き」
 それからまりあは裸のままベッドから抜け出し、台所へ行ってぺティナイフを持ってきた。カーテンの隙間から、街灯の光か月明かりか分からない、微かな光が漏れ出ていて、闇の中で薄い光に照らされ、ナイフを手にして裸で立っているまりあの姿は、幻想的なまでに美しいのだった。まりあは左手首を上に向けて、ヴァイオリンでも弾くような優雅な仕草で、右手のナイフをひゅん、と引いた。色彩のない夜の部屋の中で、まりあの手首から滲み出す血が、その血だけが、何故か鮮やかな赤に見える。
 ナイフをテーブルに置き、まりあは僕の上に馬乗りに跨る。左手を傾けると、つっ、と血の滴が肘の方へ伝って、僕の胸の上に落ちた。右手の指先で僕の胸に血文字を書きながら、まりあは囁いた。
「なんか、すごくエッチな感じがする」
 裸の胸の上に落ちた血のことを言っているのだ。それはまりあの言う通り、極めて淫猥な光景であるように思えた。まりあは僕の胸に顔を寄せ、ミルクを舐めるときの猫のように、血液を舐め取り始めた。
 ふと顔を上げたまりあと目が合った。磁器のように真っ白なまりあの頬に、血が、赤い血がこびりついている。それはまるで美しい肉食獣の食事する姿みたいで、僕はまりあという可憐な獣に食べられている草食動物なのだった。まりあは笑う。極上の肉に腹を満たす満足げな獣の笑み。
「血が、好きなの?」
 僕は尋ねる。まりあは音声でもって答えることはせず、ただ、僕の首筋に顔を寄せ、力強く牙を立てた。まりあの犬歯は僕の皮膚の表面を引き破くくらいには鋭くて、僕は首と肩の境界のあたりに痛みを感じる。まりあはそのまま、ちゅうっと音を立てて、僕の新しい傷口に吸い付いた。まりあの熱く濡れた舌と熱く濡れた息を感じながら、僕はまりあの頭を軽く撫でてやり、呟いた。
「まるで、吸血鬼みたいだ」
「いいな」口を拭いながら、まりあは笑う。「そういうの、なんかいいな。あたしが吸血鬼で、あなたは可哀相な囚われの令嬢なの。あたしはあなたの血を吸って命をつないで、あなたはあたしの虜になるの。なんだか、面白いと思わない?」
「――そうかもしれない」
 答えて、僕は思う。本当にまりあは吸血鬼なのかもしれない、と。僕は自分が気づいていないだけで、まりあに血を吸われたそのときから、まりあに魅了され、まりあの意のままに従う物の怪に成り果てているのかもしれない、と。