吸血鬼マリア
(02/04)
「昨夜、あなたの夢を見たわ」
一週間ぶりに会った舞子の第一声がそれだった。
「時々すごく、昔のことばっかり思い出すことがあるの。いろんなことをいっぺんに思い出しちゃって、頭の中をぐるぐる走ってる感じで、もう何だか分からなくなる。ねえ、あなたはない?そういうこと」
「――時折、猫のことは思い出すね」
僕の返答は明らかに舞子を不快にした。だけど仕方がないのだ。それは僕の、誠実で正直な答えなのだ。僕は舞子のことを思い出さない。こうして舞子と会っているときに、ふと離婚する直前のことを思ったりはするけれど、例えば二人が互いに学生だった頃のことなんかは、意識して思い出そうとしたってなかなか頭の引き出しから出てこない。それよりも思い出すのは、猫のことだ――八月の暑い日に、ベランダの片隅でぼろ雑巾のように死んでいた哀れな猫。彼はなぜ、あるいは何のために、死んだのだろうか?
「覚えてる?この同じカフェの、同じ席に座って。あなた、こんな話をしてくれたのよ。『すべてのものに物語がある。例えばこのスプーンにも、窓際の鉢植えにも、このグラスの中の水にだって、物語があるんだ。僕ら一人一人に物語があるようにね』って。突然、そんなことを思い出したりするの」
「ふぅん」僕じゃない、誰か他の人の話を聞くような気分で、僕は舞子の話を聞き流していた。「それって、いつの話?」
「五年か十年か、もう少し前かな。二人とも学生だった頃よ」
そう聞かされてもやはり僕は、そんな話を自分がしたことも思い出せなかった。すべてのものに、物語がある。それはかつての僕の言葉というよりむしろ、誰か他の人が残した言葉のように感じられて、僕は感心すらしていたのだった。すべてのものに物語がある。その通りだ。だけど猫の物語は八月の焼けつくように熱いベランダの上で終わってしまったのであって、そこからはもう猫の物語ではなく、汚れた毛皮と腐り始めた肉と頑健な骨の物語が、地中深くへと埋められてゆく。
「ねえ、あたしたちの物語はどうなったの?」
舞子が尋ねる。僕は返答を考えるのではなく、別のことを考えていた。例えば、八月の焼けつくベランダの物語。あるいは、岩盤に根を下ろしたひ弱な花の物語。猫も花も僕らもやがて死に絶え、ひからびていく。物語だってそうなのかもしれない。
「考え方はいろいろあると思う。だけど、あなた自身の物語だってあたしたち二人の物語だって、特別素晴らしくはないにせよそう悪いものじゃなかった。そうは思わない?毎日仕事に出かけて、夕飯を一緒に食べて、週末にはお気に入りの音楽を聴いて、たまにはドライブに出かけて。平凡だったとは思うわ。でもそんな平凡な生き方が出来ていたってことは、世の中全体から見たら、かなり恵まれた部類に入るんじゃないかしら?」
「その通りだね」本心から僕はそう答える。「ただ、そうした世間的に恵まれた状況に、僕らが再び戻ることができるとは、到底思えない」
「――そうかもしれない。でも」
舞子は次の言葉を継ぐ前に、コーヒーを一口飲んで、小さくため息をついた。彼女はいったい、何を僕に訴えようとしているのだろう?それが僕には疑問であり、不愉快な点でもある。僕は内心、舞子が早々に僕を見捨ててどこかでもっとまともな男と再婚でもして、それきり連絡が途絶えてくれることを願ってさえいた。だけど舞子は僕をこのカフェ――なんと感傷的でむず痒い物語に満ちた場所だろう!――に呼び出し、いつも何かを伝えようと必死になっているのだ。
「分かるでしょう?今の状態が、永遠に続くわけじゃないって。経済的な問題としても、それ以外の点についても、あなたは今のままじゃいけない、どこかで方向転換を考えなきゃどうしようもない。ねえ、あなたはすごく優秀な人間なんだと、あたしは思ってる。実際今までだって何の問題もなく仕事をこなしてきたんだし、これからどこで働くことになったって、何だってそれなりに上手くいくと思うの。そろそろ、考え直してみる時期じゃない?あなたは部屋に籠もって小説を書いていたいかもしれないけど、あたしの見る限り、あなたに必要なのは昔あたしといた時みたいな、もっと平凡で平穏な物語だと思うの。少なくとも今は、まだ」
「――要約すると、就職しろってことだね」
僕に気を遣って迂遠な会話を続けてきた舞子の努力を、僕は一方的に叩き壊した。舞子の言うことはきわめて正しく、筋が通っている。しかし彼女が僕について間違えているのは、僕が小説を書こうとしている、と思いこんでいることだ。僕は小説が書きたくて仕事をやめたわけではなかったし、舞子との間にあった平凡で平穏な物語とやらを否定するつもりもなかった。ただ――ただ、平凡とか非凡とかそんな概念そのものさえ、僕には空虚に感じられていたし、律儀な勤め人の物語と不埒な無職者の物語のいずれを選択したとしても、八月のベランダで石焼きにされた猫の物語には到底かなわないのだ、と思っていた。それだけだ。
すべてのものに物語がある。帰宅すると、テレビのワイドショーは、母親を包丁で刺し殺して逃走中と見られる少女の物語をたれ流していた。まりあはベッドに膝を抱えて座り、ポテトチップスの袋に手を突っ込みながら、大嫌いな教師の授業を受けるみたいな目でぼんやりと、テレビの方を見やっていた。
「ベッドの上で物を食べるなって言ったろ?」
僕はまりあの手からポテトチップスを取り上げた。まりあはしばらく何かを考えるように指先を見つめていたが、そのうち指についた塩とポテトの屑を舐め取って、それから、ここ一年で起こった少年犯罪のリストを表示している、テレビの電源を消した。それでいい。テレビでは毎日膨大な量の物語が生み出され、そして速やかに浪費され、消えていく。その短命なサイクルに僕らが付き合う義理はないのだ。
ふと、まりあが僕の顔を見上げているのに気づいた。打ち捨てられた子犬みたいに黒く濡れた瞳で、まりあが僕を見ている。まりあは何も言わない。僕も、何も言えない。呼吸をすることさえためらう。
どちらからともなく、キスをした。まりあの唇はポテトチップスの味がした。唇が離れると、僕の口元からまりあの口元まで、唾液がつっ、と糸を引いて橋渡しをした。それに誘導されたわけではないだろうが、ようやくまりあが言葉を発する。
「セックスしながら、何かを考えたりする?」
まりあは僕の股間に手を添わせる。何かを不安がるような、あるいは何かを訴えるような、不思議な目で僕を見ながら。僕はまりあの背中に指を滑らせる。まりあの肩がびくん、と小さく震える。
「考えることもあるよ」
「どんなことを考えるの?」
「どんなことって……色々さ。固い岩盤の上に咲く花のこと。引き取られていったオーディオセットとダブルベッドのこと。ベランダでひからびていく猫のこと」
そのときちょうど頭をよぎった事柄を、僕は列挙した。シャツの内側に忍び込んで、裸の背中に触れてやりながら、僕はまりあの耳元で囁く。
「まりあも、何か考えるの?」
「――なにも考えたくないときに、セックスをするの」
それは至極もっともであるようにも、また奇妙な答えであるようにも感じられた。僕らは再びキスをして、そのままもつれ合うようにベッドに倒れ込んで、血と汗とポテトチップスの味が混ざったようなセックスをした。僕はセックスをしながら何かを考えようとしていたようだった。だけど猫も花もベッドの物語も、射精した瞬間にすべてばらばらになって消し飛んでしまい、もうどこかへ行ってしまった。
それから僕は少し眠ろうとした。まりあも眠ろうとしていた。二人で心中するみたいに抱き合って目を閉じ、落ちていこうとした。だけどまりあがそのうち僕の頬を指でつまんで引っ張り、それで僕は眠ることを諦めざるをえなくなったのだった。
「ねえ、おはなしして」幼児みたいに、まりあが言う。「眠れないの」
小説家かミュージシャンかペテン師になろうと志していた僕は、今度は童話作家にならなければならないのだった。僕の頭の中を、様々な物語の断片が駆けめぐっている。だけどそれらのどれ一つとして物語として結実することはなく、僕はまりあにこう尋ねるしかなくなったのだった。
「――どんなお話がいい?」
「何でもいい。何か、おはなしして。だけど――」僕の胸の上でごろん、と寝返り。「ハッピーエンドは嫌いなの。ねえ、なるべく残酷なお話にして。みんなで殺し合って最後は誰もいなくなっちゃう、みたいな――」
「ハッピーエンドは嫌い?」
「大嫌い。日曜日と同じくらい嫌い。だって作り物で大嘘で、みんなそのことを知ってるのに気づかないふりをしてるんだもの。王子様とお姫様は結婚して、そうしていつまでも幸せに暮らすの?ありえない。だっていつか、どっちかが先に死んじゃうんだし、その前に王子様は脂ぎった太鼓腹のオヤジになるし、お姫様はしわくちゃで化粧まみれのオバサンになるんだもの」
「――不思議だね」僕はまりあの頭を撫でた。「君はすごく、不思議なことを考えるね。だけどそうだ、君の言うとおりだ。ハッピーエンドなんて、ほんとはありえないのかもしれない、作り物で大嘘なのかもしれないね」
ほんとうにその通りだ、と僕は考えた。ハッピーエンドの正体は、エンドではなかったのだ。ほんとうはそれが終わりではなくって、その先に続く物語があるはずで、それは必ずしもハッピーではありえないのだし、最後に訪れるほんとうのエンドは、死以外の何者でもないはずなのだ。だからハッピーなエンドなんて実際にはありえないのだし、物語の終焉はいつだって熱いベランダの上の猫みたいなものなのだ。
「ねえ、早くおはなししてよ。救いようのない、残酷なお話がいいな」
まりあに急かされて、僕は頭の中で物語をひとつこしらえた。とても残酷な物語だ。登場人物は最後には全部死んでしまって、ハゲタカの餌くらいにしかならないような、そんなお話だ。僕は唇を開いて、編み物をするとき一目ずつ数えるみたいに、慎重に、物語を紡ごうとした。
「むかしむかしあるところに、たいそう美しいお姫様が住んでいました。お姫様の名前は――」
「まりあ」
しかし組み立てられ始めた僕の物語に、まりあが唐突に介入してきたのだった。「そう、お姫様の名前はまりあだ、まりあは――」僕はそう続けざるをえなかった。話しながら僕はまりあの目を見つめて、いいの?と尋ねた。まりあは微笑する。とびきり残酷な物語にしてね、とねだる。だけど主人公の名前は、まりあだ。
僕が何か少し話そうとするたびに、まりあは口を挟んで、僕の意図とは全然違う方向にお話を進めてしまうのだった。その結果、美しいまりあ姫はお城を追放され、薄汚いなりをした男たちに代わる代わるレイプされ、裏通りで物乞いをしているうちに力つき、最後は生きたまま野犬に食い裂かれて死んでしまったのだった。そんな滅茶苦茶な物語を、まりあは身をよじらせながらきゃっきゃと笑って、嬉しそうに聞いていたのだった。
「――ねえ、またおはなししてね」
目をきらきらさせながら、まりあが言う。僕にはまりあが何をそんなに喜んでいるのか、よく分からない。
どこにも行かないで。僕の胸の上に頭を横たえながらまりあが言う。どこへも行きやしないよ、と僕は答える。嘘、と言ってまりあは笑う。たぶんその通りなのだ。僕らのこうした物語は遅かれ早かれどこかで終わりを告げるのだし、そしてエンドはいつだってハッピーからほど遠いところにあるのだ。どこかで何かが終わろうとしている。だけどその瞬間がいつ訪れるのか、どんな形で訪れるのか、僕にはまだ、分からない。終焉の訪れより前に、僕は何かをしなければならないのだろうか?それも分からない。分からないから僕は、セックスをしたり小説を書いたり荒唐無稽なお話を紡いだりしながら、ただゆるやかに時が流れ、腐り落ちていくのを見過ごしている。
ずっと一緒だよ、とまりあが言う。ああ、ずっと一緒だ、と僕は答える。嘘、と言ってまりあはまた笑う。だって仕方がないのだ。この世界は全部作り物で、大嘘で、みんなもそのことに気づいてるはずなのに、示し合わせて見ない振りをしてるのだ。いつかまりあが言ったように。だけどまりあと唇を重ねると、それはやっぱりどこか少し血の味がして、そのことだけは八月のベランダで死に絶えた猫のように圧倒的だ。鉄錆と塩の混ざった味と、温かくぬめった口腔の感触が、この世界のすべての嘘を吹き飛ばす。
最高にでたらめな嘘をつこう、と思う。最高にでたらめで、救いようのないくらい残酷なお話を語ろう、と思う。それしかないのだ。それだけが、嘘で塗り固められたこの世界に立ち向かう、僕らに残された最後の手段。世界の終わりのその日まで、僕らは徹底的にでたらめな物語を紡ぐのだ。それだけが、僕とまりあが真に共有しうる唯一のものなのだ――僕と舞子がとうとう一匹の猫以外に、何も共有しえなかったように。
思い出したように銀行へ行き、久しぶりに預金通帳に残高を記入してみて、僕は少しだけこの「現実の世界」とかいうやつに呼び止められた。それは確かに、僕とまりあに与えられた残り時間があまり多くないことを伝えていた。まるで時限爆弾のタイマーみたいだ。目減りしていく数値がゼロをカウントしたときに、僕らの物語は終焉を、おそらくあまりハッピーでないエンドを迎える。
「就職したら?」舞子はそう言う。
「別に、一生涯そこで働く、っていうんじゃなくて。あなたにとっての天職を探すのでもなくて、ただちょっと働いてみる、っていうのも選択肢にあるんじゃないかしら?それでやっぱり違うって思えばまたやめることもできるんだし、そんなに難しく考えなくっても、できると思うの」
「そうかな?」
確かに舞子はある一つの解決策を示しているのだ。それは僕にだって分かる。だけどそれは、僕とまりあの間に、あるいは僕とまりあが共有する物語に、決定的な、不可逆的な変化をもたらすことになるのだ。理由はうまく説明できないけれど、何故か僕はそう確信している。
午後三時のカフェには嘘みたいに静かで穏やかな時間が流れていて、それで僕はまたすべてが嘘であるように思えてきた。だから僕は、水のお代わりを持ってきたウェイトレスの女の子の、僕らのテーブルから離れていく後ろ姿を見ながら、彼女は仕事が終わったあと誰とどんなセックスをするんだろう、と空想してみた。それはこの平穏で空虚な空間に対する、僕なりの反逆なのだ。ウェイトレスのお尻はなかなか見事だったから、彼女はセックスの相手には事欠かないだろう、と思った。
「ねえ、何ぼうっとしてるの?」
舞子が不思議そうに問い正す。僕は舞子がこの後誰とどんなセックスをするか想像しようとして、失敗した。それは例えば、自分の両親がセックスしている姿を想像するのと同様に、困難だった。学生時代から結婚して離婚に至るまでの間、僕は舞子と何百回ものセックスをしたはずなのに、そのどれ一つとして思い返し想像することができない。
まりあとのセックスを想像するのは簡単だ。昨夜、彼女の肉体のどこに触れ、どのように重なったのか、すべて思い出すことができる。あるいは今まりあが僕の知らない誰かに抱かれている姿を想像して、その仮想の相手に深く嫉妬することさえ可能だ。お話に出てきた、幾人もの薄汚い男たちがまりあを強姦する光景を思い浮かべて、その男たちを一人残らず屠殺場の牛みたいに切り殺す、そんな自分の姿さえ見ることができる。そしてそんな空想を巡らせながら、僕は少し勃起する。
お姫様の名前はまりあでなければならないのだ。そう確信した。
「――ねえ」焦れて、舞子が言う。「何か、考え事してる?」
「そうだね。いろいろ考えてる。だけど君の期待してるようなことは、あまり考えてないんだ。僕が考えるのは例えば、荒唐無稽で残酷なおとぎ話のこと」
「……変なの」
僕の言ったことが舞子に理解できないことは、分かりきっている。だから僕は、このことについて特段舞子の返答を求めたつもりはなかった。だから舞子がこの先に続けた台詞は、僕にとっては少々意外であると同時に、新しい考えを進める契機として、ちょうどよかったのだ。
「あたしは、おとぎ話は明るくて夢がある方がいいな。ディズニーの映画みたいな」
「ミッキーマウスはミニーとセックスするのかな」
帰ってから、舞子と話したような内容をまりあにも話してみたら、まずそんな返事がきたので、僕はううん、と唸るよりほかになかった。テレビは相変わらずワイドショーで、芸能人の三角関係は下手なドラマ番組よりもよく練られたシナリオだった。ベッドの上には固焼きせんべいの破片が散らかっていて、まりあはテレビ画面の方から視線を外しもせずに、僕に衝撃的な言葉を投げつけてきたのだ。
「昔から不思議だったの。ミッキーがミニーとセックスしたり、ドナルドダックがトイレでオナニーしたり、白雪姫が七人の小人と乱交パーティーしたり。そんなことにはならないのかなって。もしそうなったら、どうなるのかなって。想像したら、すごくグロテスクな気がした」
「相変わらず、不思議なことを考えるね」
そう言って僕はまりあの頭を撫でた。撫でながら、ミッキーとミニーのセックスを想像した。それはやはり困難な想像だった。そもそもミッキーの股間には、ちゃんとペニスが備わっているのだろうか?仮にそれを欠いているとすれば、ミッキーを男の子たらしめているものは、いったい何なのか?
「だけどね、もっとグロテスクに感じたの。セックスもオナニーもしない、もしかしたらトイレにさえ行かないかもしれないミッキーマウスは、何かすごく気持ち悪い、生き物じゃなくてぬらっとした金属の塊が動いているような、そんな感じがした。ねぇ、こんなこと考えてるまりあは、やっぱり何かおかしいのかな」
「――そうでもない」ある種の確信とともに、僕は答える。「たぶんミッキーマウスも、ハッピーエンドの日曜日に生きているからだよ。世界中が騙されてるんだ。示し合わせて見ない振りをしてるんだ」
そう口にしながら僕は、ようやくミッキーとミニーのセックスを空想することができた。無数のオーディエンスがいて、皆が必死に目隠しをしている中で、汗だくになって腰を振っているミッキーの姿が想像できた。想像したら、何か少し安心した。勃起したペニスをミニーの陰部に擦りつけるミッキーマウスの姿は、本来の彼よりも何か少し愛らしいように、僕には感じられた。
「ミッキーとミニーのセックスを見届けなきゃいけない。それが、僕らのすべきことだ」
「よく分からない」
「――つまり、退屈な日曜日の嘘や、ハッピーエンドのおとぎ話のいんちきを見抜くことだ。こう言えば分かるかな?」
しばらくきょとんとした顔で僕の方を見ていたまりあは、ふと身を乗り出して、僕にキスをした。それから、服を脱ぎ始める。だぼだぼのTシャツの下から小さな胸が顔を覗かせて、そしてまりあは、こう尋ねる。
「……こういうこと?」
「正解」
僕はまた、まりあの頭を撫でる。再び唇を重ねて、それからまりあの手は自然に僕のペニスへと導かれていく。ざまあみろ、と僕は思う。ミッキーとミニーとドナルドとその他諸々のディズニーのキャラクターたちが、たとえ百人束になってかかってきたって、今の僕たちにはかなわない。そんなことを考えていられるのもほんの一瞬で、僕のペニスをまりあが口に含んだ瞬間、ディズニーのこともおとぎ話のことも、みんな頭の中から消し飛んでしまい、まりあのシャンプーの匂いや、まりあの熱く湿った舌の感触や、まりあの少しだけ荒くなる鼻息や、そんなもの以外は何ひとつ、僕の頭には残らなくなる。
「まりあのこと好き?」
いつもの質問を、まりあがまた口にする。
「好きだよ」
だから僕もいつもと同じように答える。
「ほんとに好き?」
「好きだよ。まりあのことが一番好き。別れた奥さんよりも、本棚の上のサボテンよりも。ミッキーとミニーが百人束になってもかなわないくらい」
八月のベランダで焼けた猫も、固い岩盤の上で枯れてゆく花も、もはや僕らの間には入り込めない。だって僕のペニスはもうすっかりまりあに飲み込まれて、僕らの距離はゼロを超えてマイナスになった。どこまでも行ける。まりあの他に、何もない世界。誰もいない世界。