吸血鬼マリア
(03/04)


 ――翌日は日曜日だった。まりあの大嫌いな日曜日。僕らは昼過ぎに目覚めて、パスタを少しだけ茹でて二人で食べ、それから一回だけセックスをして、それでまた少し眠った。僕が再び目を覚ましたとき、まりあはシャワーを浴びていた。僕はテレビをつけて、夕方のスポーツニュースとアニメーションと料理番組を適当にザッピングしてから、すぐに消した。それから、ざあざあと音の止まないバスルームに近づいていった。
「まりあ?」
 返答がない。水の音も止まらない。中でまりあが動いている様子もない。体を洗ったりしている気配もない。
「まりあ、起きてる?」
 バスルームの戸を軽く叩きながら尋ねたが、やはり反応はなかった。シャワーを浴びながら寝てしまったりしているのだろうか。
「まりあ、いいか?開けるよ」
 そう言って戸を開ける。中には全裸のまりあがいて、肩からシャワーを浴び続けていた。まりあはどこかうつろな目で僕をみて、それから、にっこりと微笑んだ。誇らしげに手首をかざす。左の手首からは、血が流れている。バスルームの床には、抜き身の包丁が転がっている。
「ねえ、見て」珍しい昆虫でも採ってきたみたいに、まりあが言う。「すごく、きれいなの」
 まりあの手首からは、赤い、鮮やかに赤い血が流れ出す。高くかざした手首からは、つつっ、と血が流れ落ちて、螺旋のような模様を描き出す。そこにシャワーの水がかかるとすべてが嘘だったみたいに一瞬で消え去り、またそれからじわじわと、同じ模様が腕に描かれていく。その繰り返し。
「きれい、でしょう?」
 酔っぱらったみたいにとろんとした表情で、まりあが尋ねてくる。どう答えたものか、僕は戸惑った。僕は結局シャワーの栓をひねって水を止め、バスタオルを持ってきてまりあの肩をぎゅっと包んでやり、それから、こう言ってやった。
「ああ、すごく綺麗だ。だけど、もういいだろう?」
「……ん……」
 まりあが僕の言葉に何と答えたのか、よく聞き取れない。
 ともかく僕は裸のまりあを抱えて、ベッドまで運んでやる。バスタオルの裾にはところどころ血がついてしまっていた。それは最初鮮やかな赤色だったけれども、じきに失われ、ただの鈍重な茶色になった。
「……時々ね」
 眠たそうに目をこすりながら、まりあが言った。その仕草はまるで赤ん坊みたいだ。普段のまりあに比べ、著しく何かを欠いているように、僕には感じられた。
「すごく、ぼうっとすることがあるの。頭がふわーってして、何も考えられなくなって、どうしてか分かんないけど、突然、不安になるの」
「不安?」
「ふわーってしてるの。だけど、体のまわりの空気か何かが、ふわーって広がっていって、あたしの体の近くにはもう何もなくなっちゃって、それであたしもそのまま消えてなくなっちゃうような、そんな不安な感じがするの。ふわーって、寒気がするの。そういうとき、切るの」
 まりあは名残惜しそうに左手首を見た。出血はもうほとんど止まってしまっていて、肌に微かに茶色くこびりついた血の痕だけが、さっきまでの血をあらわす唯一のものとなっていた。まりあはひどく残念そうに、その血を舐めた。
「切ると最初に、ぞくっとするの。それが気持ちいいの。今まで止まっていた全身の血が流れ出すような、そんな感じがする。ふわふわした嫌な感じがしなくなって、すごく全身が敏感になるの。それから、じわーって血が出てくる。赤くて、すごくきれいなの。興奮する」
 この美しい吸血鬼は、だけどやはり同時に囚われのお姫様なのだと、僕は実感した。やはりお姫様の名前はまりあなのだ。あるいは塔から逃げ出すために必死で髪を伸ばすラプンツェル。それは傍目にはどれほど馬鹿げた行為なのだろう。だけどまりあは、彼女を捕らえている何かから必死で逃げ出そうとしているのだ。どこから?どこへ?
 そして僕は王子様になれるのだろうか?僕はまりあの額にキスをする。眠れる姫をそっと起こすように。どうせエンドはハッピーではありえないのだ。そんなことは分かっている。でたらめな物語を紡ぐしかない。焼け焦げた猫みたいな。
「――大丈夫だよ」僕の胸中をどう察したのか、まりあがそう言って、軽く僕の頭を撫でた。「もう、切らなくても大丈夫。あなたが来てくれたから。ねえ、このままぎゅーって抱いてて」
 言われたとおりに、僕はまりあの肩に手を回し、抱きしめる。何度もキスをする。呼吸が荒くなる。そのうちどちらからともなく互いの股間に手を伸ばし、触れる。僕らは処女と童貞みたいに、不器用でぎこちなくて情熱的なセックスをした。セックスの間、まりあは少し泣いているようにも見えた。


「ママを殺したの」
 月曜日のベッドの中で、まりあはそう告白した。僕らは裸で抱き合ったまま、テレビを見ていた。昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。
「どうしてだか、わかんないの。ただ急に、あのふわーってした感じがしたの。それで、気がついたらもう、包丁でママを刺してた。最初はお腹。それから、胸を刺そうとしたら、骨にぶつかって刺さらなかったから、喉を刺したの。全部で六回、刺した。ママはねじれたアヒルみたいに、ぐわっ、だかぐえぇ、だかって声を上げた。――それから、ああ、着替えなきゃって。何故だか知らないけど、着替えなきゃって、そう思ったの」
 昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。突き立てられた包丁。脱ぎ捨てられた血まみれの制服。テレビカメラは彼女の部屋を、服や靴を、ベッドの上のぬいぐるみや小学校の卒業文集まで、容赦なく映し出し、暴き出していく。
「おかしいよね――」まりあは夢みたいに笑う。「――みんながまりあのことでこんな風に騒いでて、あたしはそれをここで、あなたと見てる。会ったこともない人たちがみんな、まりあの悪口を言ってるの。ねえ、おかしいよね、そんなのって」
 僕はどんな言葉を口にしたらいいのか、分からなかった。まりあはまるで自分には関係ないことのように、笑っている。昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。だけど、ほんとうにその少女が母親を殺したのかどうかは確かでないし、この少女がまりあなのかどうかも、僕には分からない。
 だからそれはもう、ひとつの物語だった。母親を殺した、とまりあが語る。それは現実に起こった出来事なのか、それとも単なるまりあの空想なのか、僕には区別がつかないけれど、そんな区別なんかはどうでもよくて、ただ僕は、例えば荒唐無稽で残酷なおとぎ話と同じように、まりあの話を聞いている。それだけのことだ。
「ママを殺したとき、すごくどきどきしてた。どうしてあんなに興奮してたのか、自分でもよく分かんない。嬉しいのか悲しいのか、それも全然分かんない。ただ今までふわーってしてたのが、急に全身に血が巡って、今まで眠ってた全身の細胞が目覚めるみたいな、そんな感じがしたの。ねえ、そういうことってない?」
「――分からないな」
「手首を切ると、同じような感じがするの。だけど、すぐに元に戻っちゃうの。あんなにどきどきしたのは、生まれて初めてだし、たぶん、あれが最後だと思う」
「…………」
 僕はまりあに何も言ってやることができなかったから、ただ黙ってテレビを見ていた。見ていると、まりあがいつも熱心にワイドショーを見ている理由が、少しだけ分かったような気がした。会ったこともない人たちがみんな、まりあの悪口を言っている。それは確かにまりあの指摘した通りで、ブラウン管の向こう側ではキャスターと精神科医と映画評論家とが、クラスメイトの証言とか小学校の文集とかアルバムの寄せ書きといった断片から、無口でキレやすい今時の児童の像を組み立てることに、懸命になっているのだった。それは例えば誰にも見られないようこっそりセックスをするミッキーとミニーのように、僕らの目には滑稽に映り、また空虚なのだった。
「ねぇ」甘えた声で、だけど真摯な目で、まりあが尋ねる。「テレビに映ってるまりあと、今ここにいるまりあと、どっちが本物だと思う?」
「……難しい質問をするんだね」
 僕は眉をひそめる。だってまりあの問いかけは、安易な答えを返したら蹴散らされそうな破壊力を秘めていた。ママを殺したの、とまりあが語る。それは物語だ。昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。それだってひとつの物語だ。だけど僕がまりあについて思うことは、たとえば絡めた指や舌の感触であり、血と汗の味であり、断末魔のシマウマのような吐息なのであって、それらはあらゆる物語に反する彼岸に立っているもので、何が本物ということでもないように思えたのだ。
「みんな、まりあを化け物だって言ってるの。非の打ちどころのない円満な家庭に育ったはずなのに、理由もなく突然母親を殺した、血も涙もない悪魔だって、そう言うの。ねえ、あなたにもまりあは、化け物に見える?」
「――僕には、まりあが世界でいちばん美しい吸血鬼に見えるよ」
 昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。コメンテーターたちの関心は最近の教育問題へと移り、今後このような少年犯罪を起こさせないために、道徳教育の見直しが不可欠だ、という辺りで意見の一致を見ようとしていた。
「どうしてみんな、まりあのことを悪く言うんだろう」
 心底不思議そうに、まりあが言う。それは本当にその通りで、テレビに出てまりあの悪口を並べ立てているジャーナリストやら教育評論家やらは、直接的にはまりあとの間に利害関係もないはずだし、こんな風に論説を通じてまりあを極悪非道の犯罪者に仕立て上げる理由も、特別ないはずだった。それなのに彼らは、まりあを悪人として糾弾することに、自分の命がかかっているかのように必死だ。何故?
「――昔、何かの本で読んだの」脈絡もなく、まりあはそう話し出す。「みんなに石を投げつけられてる人がいて、その人は悪いことをした、罪人なの。だけど通りかかった偉い人が、ほんとうに悪いことをしていない人だけが、石を投げていい、って言ったら、結局誰も石を投げられなかった、っていう話」
 世界でいちばん有名な本に載っているその逸話を、僕も知らないはずがなかった。ただまりあが何故突然そんな話を始めたのか分からなかったから、僕は黙ってうなずいていた。
「だけどきっと、今同じことがあったら、自分は悪いことをしていない、って信じきっている、図々しくて嘘つきの人たちだけが石を投げて、それで正直な人たちはみんな死んじゃうんだよ。まりあなんか、真っ先に殺されちゃうね――」
 まりあの話を聞きながら、僕はぼうっとブラウン管の上に視線を落としていた。彼らは自らの正しさを疑わず、石を投げ続ける図々しい嘘つきなのだろうか?そうかもしれない、と僕は思う。同時に、彼らは石を投げ続けることによって逆に、自分たちは正しいのだと自分自身に信じ込ませようとしているのかもしれない、とも思った。どっちにしてもそれは、日曜日の嘘やハッピーエンドの嘘と同様に、唾棄すべき欺瞞に満ちていた。昼過ぎのワイドショーは母親を刺し殺して逃走中の少女について報道している。


 僕らは変わらない毎日を繰り返す。目覚め、一回セックスをして、シャワーを浴び、朝食だか昼食だかおやつだか分からない食事を食べ、ワイドショーを見て笑い、でたらめな作り話でまた笑い、それからまたセックスをして少し眠る。だけどこんな日々が長くは続かないことを僕は知っていたし、おそらくまりあも知っていたものと思う。
 そして、すべてを見透かしたように電話のベルが鳴るのだ。「近くまで来たの。少しだけ、会えない?」その常套句は僕にはまるで、ペーパーテストを返却する教師の声みたいに聞こえて、うんざりする。だけど僕は何故か、出て行かないわけにはいかないのだった。
 不機嫌そうなまりあを部屋に残し、軽自動車に乗り込んで、いつものカフェへと走っていく。それはたかだか十分程度の距離だ。カーオーディオを聞く間もなく目的地に到着すると、ガラス越しにもう、座ってコーヒーを飲んでいる舞子の姿が確認できた。
「最近は、どんな感じ?」
 そんな漠然とした質問を、舞子はまず投げかけてきた。相変わらずだよ、と僕は答える。それ以上答えることなんかない。もう席を立ってもいいくらいだったが、さすがに何も注文せずに立ち去るわけにもいかなかったので、カフェ・オ・レを注文した。要はただのコーヒー牛乳だ。
「――ねえ。そろそろ、この先のことを考えてみない?」
 舞子が言う。僕は黙って、立ち去るウェイトレスのお尻を目で追っていた。あまり見たことのない子だったから、最近入ったアルバイトかもしれない。高校生ぐらいだろうか?友達か、あるいは彼氏と遊ぶお金が必要なのかもしれない。お金が必要。例えばこの国では、明日の洋服を買うために喫茶店でアルバイトをするけれども、世の中には明日のパンを得るために、彼女と同い年の女の子が、彼女の時給より安い金で体を売る国だってあるのだ。そして僕は、そうした一連のサイクルから、少し外れかかった場所にいる。
「平均寿命から言ったらまだあたしたち、人生の半分も生きてないのよ。この先はまだまだ長いわ。いい加減にやり過ごせるものじゃないし、逆に、まだやり直しだってきく。ねえ、今ならまだ間に合うのよ」
 何に?跳ね飛ばされひどい怪我を負うリスクを背負ってまで、君が僕に飛び乗らせようとしている弾丸列車は、いったいどこへ向かっているのだ?その質問はしかし、舞子の返答を期待できるとは思えなかったから、僕の胸の中にしまい込まれたのだった。僕はいつものようにただ黙って、舞子の話を適当に聞き流すことしかできなかった。
「最近、何か書いてるの?」
「いや、あんまり」
 深く考えずに、僕はそう口にした。だけど舞子がそれきり、しばらく黙り込んでしまったことは、僕に多少の疑念を抱かせた。彼女は、何を考えているのか?あるいは、何を企んでいるのか?
「……それなら」
 舞子が何か、決意したような顔で僕を見る。やめろ。聞きたくない。そう言い捨ててその場から逃げ出したい気持ちになったが、実行はできなかった。ちょうどカフェ・オ・レがテーブルに届けられたので、僕はそちらに視線を移すことで逃げようとした。
「しばらく小説から離れて、いろいろ考え直してみる気はない?」
「どうかな」
 適当にごまかしてみたつもりだったが、この日に限って舞子はしつこく食い下がってきた。ハンドバッグから、一枚の封筒を取り出す。一センチくらいの厚さがあった。テーブルに置くと、ぱしん、という小気味よい音がした。
「百万円くらいは入ってるわ」舞子が言う、「あたしの、今のほとんど全財産。生活費とかとは別で、貯金してる分のほぼ全部」
「それで?」
「あなたに、あげる」
 僕は思わず、舞子の目を見た。軽い冗談ではなさそうだった。だけど僕だってさすがに、このお金にそれはどうもと手を着けるわけにもいかなかった。舞子は何を考えているのだろうか?今回ばかりは、分からない。
「その代わり――」条件が提示される。「――このお金を使い切って、それでもあなたが就職もせず、小説も書けず、今みたいな状態を続けているなら――もう一度、あたしと一緒に暮らして」
「……面白いことを、思いつくんだね」
 そう言うのが精一杯だった。僕はカフェ・オ・レのボウルを口元に運びながら、この先何と言って返してやろうか、必死で考えていた。実際、不意を突かれたのだ。まさか舞子がこんなことを考えていたなんて。
「ねえ、お願い。あたしもう、あなたが駄目になっていくのを見たくないの」
 よく見ると舞子は、泣きそうな顔をしていた。やめてくれ。本気でそう思う。明らかに舞子は僕を通して、僕の知らない何か別の物語を見ている。そして、それに涙している。やめてくれ。まるで、レイプされてるような気分だ。
「あなたのことが、まだ好きなの」舞子の目から今度は本当に、涙が一滴、こぼれてテーブルの上に落ちた。「だから、お願い。あたしと一緒にやり直してくれなくてもいいの、でも、あたしの本当に好きなあなたに、戻って」
 お姫様の名前はまりあでなければならない。舞子であってはならないのだ。ほとんど唾を吐きたいような気持ちになる。僕は飲みかけのカフェ・オ・レを舞子の顔面に浴びせてもよいし、テーブルをひっくり返して立ち去ってもよい、と本気で考えていた。だけど実行に移すことができたのは、伝票を持って立ち上がり、たまには僕が払うよ、と言ったことだけだった。
 軽自動車の運転席に腰を沈め、エンジンをかけながら、ふと思う。まりあはこんな気分の時に母親を刺し殺したのだろうか、と。だけど僕には舞子を殺すことは絶対にできないのだし、それどころか飲みかけのカフェ・オ・レをぶちまけてやることすら、僕にはできなかったのだった。だから僕は舞子に腹を立てるというよりは、自分自身に腹を立てていたのだ。帰り道では僕の軽自動車は、法定速度を三十キロ近くオーバーしていた。


 玄関を開けると血のにおいがした。それで僕は、またまりあが何かをしているのだと分かった。だけど僕はきっとまりあが自分で手首を切ったのだろうと想像していたし、そんなに大変なことにはなっていないだろうと高をくくっていた。
 だから僕は、窓の方を向いて床の上に座り込んでいたまりあが振り返ったときに、その腕や顔がおびただしい量の血液で染められていたことに、愕然としたのだ。まりあは手の甲で軽く頬の辺りを拭った。そのせいで、顔に付着していた血はますます広がって、彼女はまるで吸血鬼のような形相なのだった。だけど、その口から発せられた言葉はいつものように穏やかで、どこかぼうっとした感じだった。
「おかえり」
 握りしめていたナイフを、ぽい、と投げ捨てて、まりあは僕の方に駆け寄ってきた。突然まりあが抱きついてきたせいで、僕の限りなく白に近い水色のワイシャツは、もう二度と着られないくらい汚れてしまった。
「何をしていたんだ?」
 僕は尋ねる。その声が震えていたことに、僕自身が驚いた。僕はまりあに対して、嫌悪感や恐怖を抱いたわけではなかった。だけどガットの切れかかったギターみたいに不快にぶれる僕の声は、明らかに僕が平常心でないことを示している。
「猫を、殺していたの」
 まりあは平然と答えた。
 猫を?そう言われて僕はようやく、窓辺に転がっている赤黒い肉の塊を見つける。それは確かに猫であるように見えた。毛皮に包まれた肋骨が、まるで眠っているときのように、大きく上下している。だけどそれは安らかな眠りによってもたらされたものではなくて、今まさに死にゆくものの、最期の呼吸なのだった。
「どきどきして、すごく気持ちいいの。ねぇ、あなたも一緒にやろう」
 まりあが僕の手にナイフを握らせる。そして、ナイフを持った僕の右手を、まりあが自分の両手で包み込むようにする。血に濡れてぬるぬるしているまりあの手は、いつになく熱い。床の上で今にも息絶えようとする猫。その身体から切り取られた前脚や尻尾や耳が、無機物のように、フローリングの上に散らばっている。
 まりあは僕の腕にぴったりと寄り添っている。僕らの握りしめたナイフは、その行き先を確かめるようにゆっくりと差し出されていく。まるで結婚式のケーキカットみたいだ、と僕は思った。まりあに導かれるまま、ナイフを下ろしていく。ぶちぶちぶち、と何か線のようなものが切れる感触があって、それから、血液と内蔵とがどろりと、床の上にはみ出していった。
 心臓が激しく脈打つ。手のひらがかあっと熱くなって、その熱が頬に、額に伝わっていく。全身の汗腺が一気に開いたみたいに、汗がふき出す。まりあが僕の頬に自分の頬をすり寄せるようにして、そしてまたゆっくりと、ナイフを猫の身体に突き刺していく。まりあの吐息を耳元に感じた瞬間、僕は突然、勃起した。
 僕らは猫を殺している。新しい猫を。それには古い猫の物語を吹き飛ばしてしまう力があった。僕らは新しい猫を殺している。二人で、一緒に。僕らの握りしめたナイフはペニスのように、異なる生物の体内にもぐり込み、かき回す。これは確かに、結婚式のケーキカットなのだ。二人の最初の共同作業だ。
「――ねぇ」まりあが囁く。「今、あたしが何を考えてるか、分かる?」
 僕は曖昧に微笑を返す。そしてまりあはナイフから手を離し、僕の上に覆い被さるようにして、キスをした。だから僕はまりあを抱きとめるために、ナイフを投げ捨てなければならなかった。血と汗でぐちゃぐちゃに汚れながら、僕らは床の上に倒れ込み、互いの体を舐め合う。屹立したペニスを取り出し、まりあの中に入っていこうとするその瞬間、視界の端にすっかり死に絶えた猫が見えた。僕は普段よりずいぶん早く、射精した。


「結婚しよう」
 その日の晩、僕はまりあにそう提案した。床の上に散乱した血や肉片はもうすっかり僕が掃除してしまって、猫の死体はスーパーのポリ袋で三重に包まれ、もはやベランダで燃えるゴミの回収日を待つばかりとなっていた。部屋に漂う微かな血のにおいを除けば、猫の痕跡はもうこの部屋のどこにも残っておらず、先刻の出来事が、まるで夢か幻のようだ。だけどそれが、僕らにとってどれほど決定的な意味を持っていたのか、僕は知っている。いったいまりあ以外の誰が、僕と一緒に猫を殺してくれるだろう?いったいまりあ以外の誰が、僕と一緒に八月のベランダで死に絶えた古い猫の物語を駆逐し、新しい猫の物語をゴミ袋にくるんでベランダに放り出すことが、できるだろうか?
「いいよ」
 まりあは軽い調子で答えた。「――だけど、どうやるの?」
 僕らの言う結婚が、例えば役所に二人の判を捺した紙切れを持っていくようなことでは決してないことは、まりあだって分かっている。だから、こんな質問をするのだ。僕はまりあの髪を撫でながら、こう答えた。
「特別なことなんて、何もない。ただ、二人でずっと一緒に生きていくことを、誓うんだ」
「誓うって、誰に?神さまに?」
「――たぶん、違う。きっと、お互いに対して誓い合うんだ」
 僕の言葉を聞いて、まりあは薄い微笑を浮かべた。だから僕は最初、まりあがこの提案に肯定的なのか否定的なのか、判断しかねた。だけどまりあは僕の鼻先に軽くキスして、それから急に立ち上がり、こんなことを言い出したのだ。
「指輪を探さなきゃ。結婚式には、指輪が必要だもの」
 僕は最初、まりあが何を言っているのか分からなかった。まりあが台所から、ペットボトルのキャップに付いているリングと、缶詰の蓋からはがしてきたプルタブを持ってきたとき、ようやく何がしたいのか、僕にも分かったような気がした。
 まりあは再び僕の隣に座った。僕はまりあの頭を胸元に抱きしめてやって、それから、こう言った。
「汝まりあは、この者を夫とし、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、生涯愛することを誓いますか?」
「誓います」くすくすと笑い混じりに、まりあがそう答える。
「僕も、まりあを妻とし、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、生涯愛することを誓います」
 そう言いながら僕も思わず、笑みがこぼれた。何か特別な秘密を共有しているみたいな気分になって、僕らは互いに目を見合わせて、くすくす笑った。
「――それでは、指輪の交換を」
 僕はまりあの指に缶詰のプルタブを、まりあは僕の指にペットボトルのリングを、それぞれはめてやる。誓いのキスは合図もなしに、どちらからともなく始まって、それで僕らはそのままセックスをした。まりあの薬指に巻き付いたスチールのリングは、僕の背中を何度も引っかいて、少し痛かった。
 それからまりあは、裸のまま窓辺に駆け寄る。レースのカーテンを体に巻き付けて、恥じらうように笑う。僕もベッドを抜け出し、まりあの隣に立って、その額にキスをしてやり、言った。
「ウェディングドレスだね。すごく、可愛いよ」
「お姫様みたい?」
「――そうだね」
 僕はまりあをお姫様のように抱き上げる。まりあが僕の頬にキスをする。僕もお返しにキスをして、それから僕らは小鳥みたいに可愛らしいキスを、何度も何度も繰り返す。カーテンのドレスにプルタブの指輪。お姫様は吸血鬼で王子様はペテン師だ。それこそ僕らが何より愛する、荒唐無稽なおとぎ話なのだ。ハッピーでないエンドは、もうすぐ目の前に近づいている。だからこそ、僕らは結婚式をする。二人だけの結婚式。でたらめな結婚式。