吸血鬼マリア
(04/04)
――汚泥の中を泳ぐ夢を見ていた。水を掻いて進もうとする手や脚に、濃いタールのような粘液が絡みつき、いくら泳いでもほとんど先に進んでいるように感じない。僕はもうすっかり泳ぐことに疲れ果て、このまま泳ぎ続けることがたまらなく苦痛に感じられてきていた。
だけど僕は知っている。泳ぐことをやめ、手足の運動を止めた途端、僕の身体はこの汚泥の中に、瞬く間に沈んでいくのだ。だから僕は、どこまでも泳いで行かなければならない。ゴールは見えない。対岸はいっこうにその姿を見せないし、振り帰っても陸地の姿はない。そんなものは、最初からないのかもしれない。ともかく僕は、今この肉体が汚泥に飲み込まれないよう、粘りつく液体の中で不格好に手足をばたつかせながら、泳ぎ続けなければならないのだ。
筋肉は疲労を蓄積し、心肺はその機能の限界に近づく。泳ぐことをやめたら、それは一巻の終わりだ。だけど、どこまで泳ぎ続けたらいいんだろう?その答えだって、僕には何となく分かっている。拷問のようなこの遠泳は、僕が疲れ果てて泳ぐことをやめ、汚泥の中で溺れ死ぬその時まで、終わることはないのだ。そしてもう、終焉はすぐそこに近づいている。
まりあ。僕はそう叫ぶ。だけどどうして彼女の名前が口をついて出たのか、僕自身にも分からなかった。進み続けなければならない、止まったり休んだりすることは許されない、だけど泳げば泳ぐほど破滅に近づいていくチキン・レースのようなこの状態。僕は救いを求めるように、祈るように、彼女の名を呼び続ける。まりあ。まりあ。
――全身にびっしょりと汗をかいて目覚めた。僕の腕を枕にして眠っていたはずのまりあは、僕より先に目を覚ましていて、どうしたの、と怪訝な声で尋ねてきた。悪い夢を見てたんだ、と僕は正直に答えた。
「夢の中で、ずっと君の名前を呼んでた」
まりあの頭を撫でながら、僕は言う。いつもと同じシャンプーの匂いと微かな熱気を鼻先に感じて、それで僕は少しだけ、涙が出そうになった。
「救いのない夢だったんだ。だから僕は、弾圧された果ての殉教者がクライストの名前を呼ぶような気持ちで、君の名前を呼んだ」
「――それであなたは、救われたの?」
「分からない。でも、そうするしかなかった。ハッピーじゃないエンドが、もう目の前に迫っていたんだ。だから僕は、君の名前を呼ぶしかなかった」
「大丈夫だよ――」
まりあが僕の頭を胸にかき抱き、そっと撫でる。僕はまた少し、泣き出しそうになった。
「大丈夫だよ、だって、誓ったもの。ずっと一緒だって。結婚式をしたんだもの。だから、まりあはずっとあなたと一緒だよ」
「――そうだね。病めるときも、健やかなる時も。死が二人を分かつまで」
「違うよ」まりあは含み笑いをもらす。「死んだって、一緒だよ。だってあなたが死んだら、あたしも死ぬもの」
「――そうだね」
まりあが死んだら、僕もきっと死ぬだろう。その時、本当にそう思った。僕らは汚泥の中を泳いでいる。進むことをやめたら即座に、沈んでいく。だけどハッピーなゴールはもうどこにもないのだから、泳ぐのはもう終わりにして、まりあと抱き合ったままどこまでも深く沈んでいこう。
ふとまりあが立ち上がって、台所からナイフを持って帰ってきた。僕は起き上がってベッドに腰掛け、そのまま、魅入られたように動けないでいる。まりあは右手にナイフを持ったまま僕の膝に腰掛け、キスをしてきた。そのまま僕の方に体重を預けてくる。
「おい、危ないよ」
ひどく間抜けな僕の忠告は当然、まりあの耳には届いていなかった。まりあは僕の上に馬乗りになった。その右手にはナイフが閃く。こんな状況になっても、僕はなぜか身動きひとつできず、まりあにされるがままになっているのだった。まりあはナイフの刃先を僕の胸の中央に当てた。金属のひやりとした感触に、全身が緊張する。
「――これは、ずっと一緒だよっていう、しるし」
そう言いながらまりあは、僕の胸にナイフの刃を滑らせた。思いのほか深く切られた皮膚から、じわじわと血がしみ出してくる。肋骨の谷間に縦一文字に刻まれた傷に、まりあはそっと一回キスして、それから僕の目を見て微笑した。こうすればこの傷を見るたびにまりあのことを思い出すでしょう?無言のまま、まりあはそう言っているように思えた。
心臓がばくばくと脈打つ。背中から指先までさあっと血液が流れていくのが分かる。全身の細胞よ、目覚めよ。僕らは今ここで新しい猫を殺し、古い猫の物語を退けた。母親を殺し、猫を殺したこの少女は、そのナイフで僕の眼前に新しい世界を切り開こうとしている。
「もうすぐ、捕まると思う。だって、昼間のニュースで言ってた。ママを殺した後、電車に乗るまりあのことを、近くの駅で見た人がいたって」
そう言いながら、まりあは僕の手にナイフを握らせる。まりあはこれから僕を抱きとめようとするみたいに、両手を大きく横に広げた。
「ねえ、まりあにも、お願い」
僕は起き上がって、ナイフの先でまりあの身体を撫でてやるように、そっとまりあの胸を切りつける。それは何か秘蹟を与えているかのような、荘厳さと神聖さに満ちた行為であるように、僕には感じられた。
「もうすぐ、捕まると思うの。だからその前に――」
その前に、いったいどうすればいいのか、まりあは言わない。とにかく、僕らに残された時間がそう多くないことは、分かっていた。だから僕らは、もつれるようにしてベッドに倒れ込み、狂ったようにお互いの体を舐め合った。僕の胸とまりあの胸が触れ合う。僕の傷とまりあの傷が触れ合う。もうすぐ終焉が訪れる。それは分かっている。だから、その前に――
僕らは二匹の獣になって、互いの傷口をいたわるように血を舐め合う。互いの血と唾液と汗が混ざり合う。まりあの頬に僕の血がこびりついて、黒っぽく汚れていた。その姿に僕はひどく興奮した。息が詰まるほどの長いキス。僕とまりあは、いつか必ず訪れる別れの恐怖から逃げるように、一晩中互いの身体を貪り続けた。
タイムリミットだ。抱き合ってテレビを眺めながら僕らは、不意にその認識を持つにいたる。別段はっきりとした理由があるでもなく、ただ唐突に、そう感じた。何かが限界に達している。それが何なのかは、分からない。ただとにかく、何らかのアクションを起こさなければならない、その段階に達したのだ。そのことを、まりあは極めて単純な、そして的確な言葉で言い表した。
「ねえ、人を殺しに行こう」
その声はミルクをねだる子猫のように甘かったから、僕は危うく勃起しそうになった。人を、殺しに行こう。そんな言葉が何故これほど、官能的に聞こえるのだろう?
まりあは、母親を殺している。彼女の手にはいつだってナイフが握られているのだ。ケーキだって猫だって母親だって、何でも切り裂くことができる。僕らはこの前猫を殺した。だからまりあと一緒なら、あるいは僕だって――舞子にカフェ・オ・レを浴びせかけることすらできなかったこの僕だって、人を殺すこともできるのかもしれない。まりあと一緒なら。
「人を殺しに、行こう」
もう一度まりあが言う。どこへ?僕は思わず尋ね返す。だけどその質問はあまりに馬鹿げていたから、まりあは笑った。どこだっていいのだ。行き先なんか、大した問題じゃない。
「行こう。どこかへ。どこか、ずっと向こう側へ」
それがまりあの答えだった。
僕らの物語は確かに、ゆるやかに、ハッピーでないエンディングへと向かっていた。だから僕になしうることは、てっきりこの物語に幕を下ろすことだとばかり思っていた。だけど、そうじゃない。向こう側へ行こう、とまりあは言う。物語も日曜日もミッキーマウスも全部飛び越えて、ハッピーもアンハッピーもない、エンドマークの向こう側へ、到達することを欲望しているのだ。新しい世界。いったいまりあ以外の誰が、そんな地点を目指してくれるだろう、僕と一緒に?
どこへでも行けそうな気がしてきた。電話がけたたましく鳴り始めたけど、その受話器に手を伸ばす必要は、もうなかった。鳴り響く電話機の横で、僕らは長い長いキスをしていた。それはまるで根比べをしているみたいで、十五回目のベルの途中で電話が沈黙すると、僕はもう勝利を確信したのだった。
二人で軽自動車に乗り込み、キーを回した。ぶぅん、という軽快なエンジン音が響く。それだけでもう、空だって飛べそうな気がしてきた。忘れ物はないね?と僕が尋ねると、まりあは微笑んでうなずく。遠足に行くみたいな気分だ。だけど、もうこのマンションには帰ってこないことを、僕もまりあも分かっている。
「新婚旅行だね」
まりあが言う。その通りだ、と僕は思った。
サイドブレーキを下ろし、アクセルを踏み込む。道路に出ると僕の軽自動車はすいすいと加速して、どこへでも行けそうな感じだった。少しばかり窮屈かと感じていた車内も、まりあと二人で乗ると、不思議とちょうどよく感じられる。まるで車に魔法がかかったみたいだった。シンデレラのカボチャの馬車より、もっと上等な乗り物だ。だって僕らは並んで座ることができるし、ハンドルは僕が握っている。
人を殺しに行こう。口の中で、もう一度繰り返してみる。僕らは新しい猫を殺し、古い猫の物語にとどめを刺したのだ。猫が死んだのは八月の暑い夕方のことだ、それは覚えてる。だけど猫が本格的に、確実に死に絶えたのはまりあのナイフによってであって、僕の背後を幽霊のように漂っていた古い猫はもう、僕らの前に立ち現れることはない。まりあは母親を殺した。キッチンから持ってきた包丁で、六回刺して、殺した。僕らは人を殺しに行く。それは例えば、新しい母親を殺しに行くことなのだ。そうして、古い母親にとどめを刺す。
向こう側へ。向こう側へ。アクセルを少しだけ強く踏む。周りの景色が出来の悪い水彩画みたいに流れ出して、その輪郭を失い始めた。それはまるでこの世界が壊れていく、そんな風景みたいに見えてきた。この小さな車の内側と、それから、まりあだけが、確かな線を保っている。さあ、この古びた世界にとどめを刺して、嘘つきではりぼてみたいな日曜日を軽やかに跨ぎ越えて、向こう側へ、行こう。
視界の端に、いつものカフェが見えた、ような気がした。僕はブレーキに全体重を乗せるみたいにして踏み込み、同時に、ハンドルを力いっぱい切った。きききぃっという三流のヴァイオリンみたいな音がして、僕らを乗せた軽自動車はテールから滑り出し、二回転半してから、カフェの窓をえぐるように突っ込んでいった。
ぱりん、という儚くて美しい音が、あるいは感触が、聞こえた。粉砕されたガラス窓は降水確率ゼロパーセントの陽光を浴びて七色のスコールとなり、僕らを祝福するみたいに降り注いだ。跳ね上げられた舞子の肉体が、ぼすん、と鈍重な音を立てて、ボンネットに落っこちてきた。
僕は再度アクセルを踏んだ。だけど、どこかで何かが空回りするような、引っかかっているような、気の抜けた感触があって、車はもうまったく動きだそうとしない。馬車はもうカボチャに戻ってしまったのだ。やれやれ。そう呟いて僕は額の汗を拭った。ぬるっとした生温かい感触が手の甲に広がって、ふと見ると、一面の血だった。
「ねえ、見て」まりあが言う。「あなたもあたしも、ほら、こんなにきれい」
まりあが血に濡れた僕の指を舐める。そのまりあだって額がぱっくりと割れて、頬から顎の辺りまでもう、大道芸人みたいに真っ赤な化粧を施されているのだった。僕はまりあの顎の先から頬へ、舌を滑らせた。まりあの血は汗と涙と尿が混ざったような、人間の廃液みたいな味がした。
僕らは互いの頬を、唇を、喉元を、飽きることなく舐めあう。舐めても舐めても血はとめどなくあふれ出てきて、それで僕らはこの神聖な食事をやめることがないのだった。まりあの舌が耳に入り込んできた瞬間、僕は唐突に、勃起した。それを目ざとく見つけたまりあが、僕のスラックスの股間に指を這わす。
まりあが僕のペニスを口に含んだとき、ふと僕は、窓の外に視線を感じた。クモの巣みたいな美しい模様を描くフロントガラスの向こう側で、ボンネットに寝そべった舞子が、僕らの行為の一部始終を見ていたのだ。手足はだらりと伸びきって、スーパーの売れ残りの鮮魚みたいに光のない目をした舞子に向かって、僕はざまあみろ、と呟く。
まりあの小さな舌の上に、僕は射精した。僕の脚の間に顔を埋めたままのまりあの、くしゃくしゃになった髪を、指で解いてやる。まりあの頬をつっ、と血が一滴流れて、ちょうどまりあの口元に吸い込まれていった。僕の精液と自分自身の血液を口腔で混ぜ合わせて、まりあが飲み込む。その瞬間に僕は、彼女こそは、新しい世界に僕を産み落としてくれる聖母なのだ、と確信した。どこかずっと遠くから、サイレンの音がぼんやりと聞こえてくる。
〈了〉