目次
表紙
成子さん作品集
追悼文集
写真集

 

はじめに

 

特定非営利活動法人自立生活センターHANDS世田谷 

理事長 今井 志朗 

 

2001年6月19日、私たちの同士であり親友である山口成子さんが突然永眠されました。私たちにとって深い悲しみが全身を覆い尽くしました。あれからいくらか時も過ぎましたが、今でも悲しさと悔しさは変わるどころか増すばかりです。

皆さんもまた山口成子さんに対して、いろいろな思い出、悲しみ・悔しさがあると思います。その思いを一人一人が噛み締め文章にしました。

故人の残した業績は数多くあります。その一つに自立生活センターを作り、障害者運動の先頭に立ちさまざまな場所で当事者の主張を発言していた姿は今でも目に焼きついています。

改めて、山口成子さんの御冥福をお祈り申し上げます。

 


「さよなら成ちゃん」

安積 遊歩

 成ちゃんが私の中で完全に忘れられない人になっている二つの思い出がある。

まず一つ目は、一緒にフィリピンに行った時のこと。そして二つ目は、自分の体と相談し、居心地のいい介助を求めて、選択的、意志的に、異性介助を一時取り入れていたことだった。

 一つ目の、フィリピンに一緒に行った旅は、自分が重度の障害を持っていることで、フィリピンの障害を持つ子供やその親たちに希望を与えたいと言ってくれてのものだった。成ちゃんと成ちゃんの車イスがスラムの道なき道、下水と糞尿が渾然一体となった一角を、大勢の介助者と越えていく姿はなかなかに壮観だった。その夜のミーティングで、お金を援助してもどうなるものでもないと言う人がいるけれど、やっぱり生き延びるためにお金は必要よね、と言ってくれた成ちゃんに、この旅の目的の80%はその言葉で成功を見たと思ったものだった。成ちゃんありがとう。

 そして二つ目の、選択的意志的異性介助については、もしかしてここで書いてしまったら、成ちゃんに叱られるかもしれないが、今後の障害を持つ女性の生き方を一つ開くものとしてとても重要な決断であったと尊敬している。涙とともに自分の体の状況を語り、その決断をどう思うか訊ねてきた成ちゃんに、私は非常に感動し、成ちゃんの考えを心から尊重する、と伝えた。 その後、成ちゃんの取り組みが他の人にどのように影響を与えているかについては、全く聞いていない。しかし成ちゃんが熟慮と知性の上でした決断は、私に大いに生きる希望と勇気を与えてくれた。 どんな時も自立生活は、今を生きるこの大切な私自身から出発するんだよと、成ちゃんのニコニコ顔が目に浮かぶ。成ちゃんありがとう。

そして、さようなら。



切っても切れなかった縁

阿彦 知子

2001年6月19日この日27回目の誕生日を迎えた私と50年間の生涯を遂げた成ちゃん、やっぱり私らは腐れ縁なのね。彼女と私はちょうど二廻りの年齢差。気の強い寅年同士だからケンカの時は全身全霊で罵り合い。4年間の成ちゃんと私の共有してきた時間はとっても密度が濃かった。介助に来て 3回目の私を成ちゃんとは数年間の間柄かと誤解する人もいれば、互いがギクシャクしていた頃の私らを見て「二人の関係ほど愛憎という言葉がよくはまるのもないね」という人もいた。そんな私たちのことを周囲はよく口を揃えて名コンビといってくれた。介助に入っていて常にムキになったこと、それは外出先でのトイレと風呂のこと。何せあの体格だから二人だけで出掛けるときには通行人をつかまえて、3分間のボランティアをお願いした。それも目一杯の偽善者っぽい笑顔を振り撒きながら。事が済むと律儀に名刺交換なんてこともあった。また泊まりがけで出掛けたときには「入らない」という彼女の自己決定を無視して工夫プラス馬鹿ヂカラを持ってして風呂に入ったものだ。ただでさえ慣れないベッドでの地獄の寝返り介助がひと晩続くよりは、清潔を保って安らげる方がお互いに良かったからだ。彼女との一番の思いでは4年前の7月の昼下がり、急な思いつきで行った軽井沢。あの日私たちは親子だった。



早すぎるよ、成ちゃん!

安倍 美知子   

 「お成には、もうじきお迎えが来るから……」

というのが、10年くらい前からのあなたの口癖でしたね。でも、本気にした人はどれほどいたのでしょう。だけどあれは、あなたの本音だったのかもしれません。人知れず押し寄せる自分自身の体の疲れと、重さをひしひしと感じていたのだと思います。それにしても早すぎるよ、成ちゃん。成ちゃんと私ともう一人くらいの世田谷のだれかさんは、あと三年後も縁側で日向ぼっこをしながらお茶をすすっている光景をだれもが思い描いていたのですから。そう、どこから見てものんびり、どっしりと構えていたあなたの本当の姿はとってもナイーブで、傷つきやすかったのでしょう。今思えば、あなたは誰よりも常に先を歩き続けてきたのかもしれない。健全者に近づくことだけを求められた学校教育の中で、人一倍自助努力をし、いつしか美しい絵を描くことに夢中になっていきました。しかし、あなたの中の障害者性が、自分の描いた美しい線を許せなかったのでしょう。そこに、あなたの運動の原点があったのだと思います。その後のあなたの輝かしい業績については、他の方にお願いすることにしてここでは、二人だけの世界で語らせてください。

 私は、あなたに対して一つ大きな心残りがあります。それは、あなたがHANDSを立ち上げた時、私はまだ「介助の労働化」、「有料介助」ということを自分の中でうまく消化できなかったのです。それでも時代の流れは、否応なく私に介助者不足と自分の体力低下という現実をみせつけました。あの時、批判しか出来なかった私は結果的にHANDSの派遣に生活の大部分を支えられることになりました。そのことについて、きちんと面と向かって話し合えなかったことを心から悔やんでいます。本当に申し訳ありません。それにしても、これから時代はますます明るい予感を感じさせてはくれません。私たちは、終わりない戦いを続けていくしかないのでしょう。

 いつの日か戦い終えた日、今度こそ一緒に日向ぼっこをしましょうね。



「成子さんが残したもの」

在原(涌井) 理恵 

「前向きに生きること、それはあなたとふれあうこと」 私が大学1年のときに手にした、介助者募集の黄色いビラには、成子さんの直筆で、この言葉が書かれていました。私は、この言葉の不思議なエネルギーに惹かれて、成子さんに関わるようになったのです。まだ19歳だった私は、それまでとは全く違う角度で、世の中をみることができるようになった気がしたものです。それだけでなく、また違う角度で、自分自身をみつめる機会でもあったのだと思います。

ある日、成子さんは私に、「介助者と障害者の関係は、障害者の方が上なんだよ」という意味のことを言ったことがありました。どんな状況での発言だったかは、定かではないけれど、今となっては、大学で社会福祉を勉強してます!なんていう私を牽制する意味が強かったのではないかと、想像できます。当時の私は、どうして対等じゃないのかなぁ?なんて、軽軽しく思ったものでした。しかし、それ以来、「対等」や「介助関係」というものについて考えることが、私のテーマのひとつになってしまいました。成子さんは、その存在そのもので、関わる人に影響を与え続けたのだと思います。育て続けたのだと思います。「前向きに生き」た成子さんが残したものは、これから先もずっと、いろんなところで、いろんな形で、育ち続けていくのでしょう。私も、育て続けていきたいです。

成子さん、ありがとう。

 

石橋 みずほ

山口さん、
あなたはよく生きられました。
よく歩まれました。
わたくしたちはあなたのことを決して忘れません。
心の友として
永遠の(とわの)友として
あなたのことを
私たちの魂に深く刻みます。
あなたが
再び現身(うつしみ)の人となり
地上を耕す魂として生まれる日まで
私たち現身(うつしみ)に生きる者たちを
温かく見守り続けてください。
強く励まし続けてください。
激しく叱咤し続けてください。

 わたくしたちの魂が眠りを貪らないように、
傲らず(おご)高ぶらないように
呼びかけ続けてください。
わたくしたちは必ずあなたの遺志を
受け継いで生きてゆきます。

  この言葉は、祈りのみちという本に載っている一部分ですが、成子さんにこの言葉を贈りたいと思いました。

  人の命はいつ尽きるかわかりません。でも、尽きてもいいくらいに一生懸命生きていけと、周りで亡くなっていく人達は、私たちにそのことを強く訴えているのだと思います。

私は、輪廻転生ということを信じているんですけれども、成子さんのご冥福をお祈りしつつ、次に生まれ変わった時には今世やり残したことを必ず果たして欲しいと思います

 


成子さんの家で考えたこと    

泉 麻依子 

「人間にとって意思表示は非常に重要なことである」
などと突然言われても、きっと実感がわかない人は多いだろう。それは、私のように特に大きなハンディを持っていない者には、意思表示はごくごく当たり前すぎる行為だからである。
成子さんと初めて会ったのは去年のことだった。私は兄が心身障害者であるが、身体障害者の方と接する機会は今までほとんどなかった。(こう書いても心身障害者というのがすぐにぴんと来る人は少ないかもしれない。心身障害者とはいわゆる知的障害者である) 成子さんと接していていいなぁと思ったのは、成子さんが自分の言葉で意思表示していたことだった。それは私の兄には不十分な形でしかできないことなのである。そんな成子さんでさえ、身体のハンディから意思表示を完全な形で伝達するのは難しいことだろう。伝わらないもどかしさはどんなに大きいものなのだろう、などと介助の最中によく考えた。

こうした人にどういうケアをしていけばよいのか、これからまた介助の合間、合間に成子さんに話を聞こうと思っていた矢先、成子さんは亡くなられた。成子さんに出会えたことで得られた実感を忘れずに、これからもこうしたことを考えていきたい。どこかで成子さんが見守っていてくださると信じながら。

 

市川(石綿) 直子 

成子さんとは、大学1年生の春から、5年余りのおつきあいでした。成子さんのバイタリティにいつも驚かされたものです。

 障害者差別が根強い中で、不利益をこうむったり、道を阻まれたりした場合、「これは差別だ」と立ち向かっていくと共に、個別のことでは、迂回路、次の手、違うやり方を模索できる、現実的能力の高い人でした。

 ハンズ世田谷で、ただでさえ多忙なのに、人生を楽しむことも忘れない生活は、行動力の乏しい私には考えられない多忙なもので、もし障害を負わずに生まれてきたら、女性実業家として名を轟かせたことだろう、動こうにも身軽には動けない身体が与えられたということは、どんなに歯がゆいことだろうと何度も思ったものです。

 しかし、成子さんが亡くなったときに思ったのは、成子さんは成子さんに与えられた課題を果たし、人生の行程を全うしたのだ、と言うことでした。障害と、能力という条件を、最大限に、それも自分のためだけでなく活かして生きたのですから。天国で「神さま、これでいいでしょ」と言っている顔が思い浮かぶようです。

 私の課題は何なんだろう、成子さんのように自分の課題に取り組むことができるだろうか。できるかどうかは別として、成子さんに倣いたいと思うのです。またの日に笑って会えるように。



 大好きな成子さんへ……

市川 恵

 「やっぱりさぁ、こっちの方がいいよネ!男は飽きるけど、これは飽きないヨ!」

二子玉高島屋にてお茶、ケーキを食べる。あのウマイ物を食べている時の顔は、本当に今思い出しても「幸せそうだなぁ〜」と思います。あちこち出掛けたあとすぐ、「ちょっと、お茶しようよ!」になる。「メグ、お洒落なカフェ連れてってよ!」「今日は、映画に行こう!」など、毎回突然なので、連れて行くほうは大変でした。でも今はもう一回、一緒に食事がしたいなぁと思っています。

 本格的な介助の仕事は、成子さんが初めてだったのでかなり心配もあったけれど、「そんなに頑張らなくてもいいよ!」「ちょっと、コーヒーでも飲んで休みなよ!」など、成子さんに励まされながらぼちぼち慣れてきた頃に突然、こういう結果になってしまって本当に残念です。毎回、イラ立つ事もあり、「大丈夫かなぁ?」と思う事もあったけど、今となっては楽しい思い出です。日を追うごとに思い出す回数も少なくなってゆき、ちょっと淋しい気もするけれど、忘れられない人になりそうです。本当に大変なことが多い人生だったと思いますが、成子さん、お疲れ様でした。そして、ありがとうございます。

 

 


    「山口成子さんとの思い出」

                                 市瀬 幸子

私と成ちゃんとの出会いは、光明養護学校入学当初からだから、40年と言う所だろうか。小学生時代は、スクールバスが一緒と言うこともあり、2年先輩の成ちゃんが宿題を手伝ってくれた事や、体の大きさから言えば大先輩のように見えて少し怖かったことを覚えている。

 中学、高校時代は、母親同士が世田谷区の「肢体不自由児者父母の会」の役委員をしていた事で、私と成ちゃんも行動を共にする事が多くなったのだった。養護学校を卒業した後は、成ちゃんが呼び掛けて「肢体不自由児者父母の会」青年部を結成し共に議論を戦わせて、より良い会を目指した事や、地域のボランティア活動の一環として、福祉祭りに近い「雑居まつり」を作り上げたり、常に私の目指す道しるべとして成ちゃんが居てくれた。

 成ちゃんの事で、印象に残っていることをいくつか上げろと言われたら、特に世田谷で障害者のガイドブックを作ろうと、以前有った会なのだが、「世田谷福祉マップを作る会」の中で成ちゃんと私が障害者用トイレの点検がかり専門でウンザリするほど、公共施設のトイレに入らされた事だ。

 成ちゃんとは世田谷の中で70・80歳まで一緒に活動して行こうと約束していたのに、果たす事が出来ず私には残念でたまらない。

 
 

成子さんとの別れ

市丸 和世 

成子さんの葬儀の日、本当にたくさんの人がいらしていたことに驚きました。成子さんのことだから、大勢の人が来るだろうとは思っていましたが、まさかあれほどとは思っていなかったのです。夜しか介助に行かない私達は成子さんのほんの一部しか知らなかったのだと、友達と話したのを覚えています。

私にとっての成子さんはもっと、普通の人でした。いろいろ忙しいけれど、それでも明るく、そしてまた悩んだりする成子さん。もちろん、夜遅くなるとお互いにだんだん辛くなることもありましたが、私にとっては、そんな成子さんと一緒にテレビを見たり、お風呂に入ったりするのは、いつの頃からか結構大切な時間になっていました。そんな時間の中で、今よりももっと世間知らずだった私に、家事のこと、社会のこと、いろいろ教えてくださったのが成子さんだったと思っています。

私にはちょっとした野望がありました。私が卒業し就職するときには、成子さんにも別れを惜しみあってもらいたいものだと。そしてその後も、私の成長を見守って欲しいものだと。それが、こんな形でこんなに突然、私だけが成子さんとの別れを惜しむことになろうとは思いませんでした。幸い、成子さんのお墓は、私の住む寮から歩いて5分程のところにあります。少なくともあと1年半は、毎月成子さんに会いに行けます。待っていてください。

この4年間、本当にどうもありがとうございました。

 


成子さんを惜しむ

今井 志朗

成子さんが亡くなったと聞いた時、僕はどういう訳かわからないのですが、横山君の顔が思い浮かびました。HANDS世田谷を二人三脚で作り育ててきたという思いのほかに、ツーカーの中というか入り込めない絆がありました。これからどう横山君を見ていこうかと思いました。それから、次の日成子さんの家に駆けつけて、眠るように横になっている姿を見たとたん涙腺が破けたように悲しくて、悔しくて涙が止まらなくなってしまいました。

僕にとっても仕事上の心の支えでした。障害者としてどう生きた方がよいかなど学ぶ事が多かったです。ここで、成子さんとのひとつの思い出を書きます。三年以上前のことでした、全国自立生活センター協議会の総会が岡山でありました。その時のエピソードです。岡山での出来事ですが、夜ホテルに戻ってからのことです。6人で、宴会をはじめました。お酒の酔いがまわり、盛り上がってきたとき、Mさんが近いうちに結婚するという告白が始まりました。成子さんは、きょとんとした顔をして「へー、ほんとぉ・・・」と少し淋しげでした。でも、相手が分ると打って変わって大喜びで「それは、よかったねぇ!」と、ニコニコしていました。同僚どうしの結婚ということもあって、二重の喜びだったようです。今思うと、成子さんの気持ちの優しさが、そのふっくらとした笑顔が、印象に残っています。そういうことが、今までの付き合いの中で、数多くありました。

二度とその笑顔に会えないと思うと、淋しいです。遠い空から僕たちを見守ってください。


笑顔のすてきな成子さんへ

今井 理恵

私が始めて成子さんに逢ったのは、8年くらい前になるでしょうか、山梨で「車いす市民全国集会」を開催することになり、その為の学習会の講師に来ていただいた時でした。その頃の私はまだ、自立生活センターの存在をあまり知らなかった時でしたので、成子さんのような重度の障害を持っていても介助者を入れて自立生活をしていることにカルチャーショックを受けたことを覚えています。ただ、事務局の仕事の関係で講義をあまり聞くことが出来なかったのが残念です。

 その後、私も山梨のCILの設立から携わった中で、たびたびHANDS世田谷と山口成子という名を良く耳にするようになり、また、全国の集会でもお会いするようになりました。介助者を二人連れて参加している成子さんはかっこう良く見えたものです。

 私が上京し、まだHANDSのスタッフになる前に、自宅に尋ねてきてくれた成子さんは「私は介助派遣の仕事がしたいので一緒にやってくれないか」と、話を持ってきてくださいました。その時の熱意溢れるお話に何とかお手伝いできたらと思いましたが、その時の私はまだまだ勉強することが多く、とても成子さんのお話を受けられるような器ではないとお断りをしましたが、立派にHANDS世田谷を設立し、運営してきた成子さんがまだ何かをしようと考えていることに頭が下がる思いでした。

 私がHANDSのスタッフになってからは、あまりお話をする機会が少なくなってしまいましたが、声をかけてくれると「体にはお互いに気をつけようね」なんて言ってくれていたのに・・・・。でもあまり話は出来なくても成子さんがHANDSにいるだけでなんか温かさを感じさせてくれる人でした。あのふくよかな手を悪戯して遊ぶのが好きでした。

そんな時もただ、あの笑顔で答えてくれていた成子さん。

 今まで障害者運動お疲れ様でした。成子さんの願いだった介助者派遣はケアズ世田谷で受け継がれています。これからは私たちのことを見守っていて下さい。それとももう好きな旅行に出かけていますか?

 成子さんありがとう。

 

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