| 目次 | |||
|---|---|---|---|
|
干しイチジク 岩崎 裕子 私は大学でぼらんたすというサークルに入り、成子さんと出会いました。月二回、一年続いた介助。それを私にふと思い出させてくれた、最近の出来事を書こうとおもいます。 一週間前、草津温泉へ旅行したとき。土産物屋さんで『干しイチジク』を目にした瞬間、「ゆうちゃん、干しイチジク食べてみて。もらったんだよ。」「え〜こんなの初めてみました!不思議な味ですね。」という成子さんとの会話と、ほんのり甘い味を思い出したのです。干しイチジクは、干しぶどうや干しリンゴと共に、健康食品コーナーに並んでいました。どう見ても草津の名産ではないでしょう。でも、成子さんの家で見て以来再会していなかったので、うれしくて買ってしまいました。 似たようなことがもう一つ。昨日、折り込み広告の中に『スウェット』の文字を見つけたとき。反射的に「成子さん、今日は何着ます?」「えーっとね、Tシャツとスウェット(のズボン)」という記憶がよみがえりました。成子さん、家ではスウェットが多かったなあ。そうして私はチラシの店へスウェットを買いに走る…までには至りませんでしたが。 思いがけず成子さんを連想する出来事は、これから先もたくさんあると思います。それらはいつ訪れるんだろう?楽しみです。 |
|
成ちゃんへ 上田 要 あなたが旅立って、早三ヶ月が過ぎてしまいました。 電話で話す度に「僕の後をついてこないで」と言っていたのに、先に行ってしまいましたね。気が早や過ぎます。 50前後のおばさんとおじさんが、お互いに「上ちゃん」「成ちゃん」と呼び合える関係でいられたのは、少なくとも僕にとっては幸せでした。夜の電話では、お互いのプライベートなことまでも、サンザン語り合いましたね。今から思うと、僕にとってあなたはちょっと大きな妹だったような気がします。 いろんな人から、大きな存在だったという言葉を聞きます。それだけエネルギーを持っていた人だと、あらためて感じています。エネルギーは、決して永遠なものではありませんでした。もうちょっと出し惜しみして欲しかった。「愚かな兄」は、つい愚痴を言いたくなりました。でも、こんなに光り輝いた人生を送れるなんて、ちょっとうらやましい。 またいつか近いうちに、ふたりで愚痴を語り合おうね。 |
|
お疲れ様でした 成子さん 碓井 輝子 成子さん 今でもハンズで元気で活躍されているような気がします。 貴女とは確か「マップをつくる会」で初めてお会いしたと思いますが、その頃の私は施設に入所していましたので「マップ・・・」が閉会するとすぐ帰途につき、貴方ともお話するチャンスもなくとても惜しいような思いです。 あれから20数年、成子さんが先頭に立ちハンズを設立しご活躍されていることを知った時、正直言って驚きました。「へぇー、成ちゃんてなんて行動力のあるひとなんだろう」私よりも若く、障害も軽いとは言えない彼女が同じ障害を持った私たちの為に「ハンズ世田谷」を設けたなんて、本当に頭が下がります。障害の程度や年齢ではなく意思の強さ、そして実行力が成子さんに備わっていたのですね。もちろん頭脳明晰でもあったのでしょうね。どれをとっても私にはかないません。性格も穏やかであったとか、怒った成子さんを知らない、口を揃えて皆さんが言ってるようです。 身体も大きい成子さんでしたが、心も大きくみんなを包こむような温かさがあったのでは、今もハンズの事務所でみんなと談笑しお仕事をされていると思ってしまいます。事務所の近くに住みながら滅多に顔を出さない私です。その為に生前の成子さんにもお目にかかることも余りなかったことなのでまたいつかどこかの集まりで、お会い出来るのではと錯覚してしまいます。 でも現実にかえると成ちゃんはもういないのですね。 私も成子さんを慕った皆さんと同じ気持ちでお悔やみを申し上げたいと思います。 「成子さん、ありがとう、安らかにお眠り下さい」 |
|
山口成子さん追悼文集 早稲田大学教授 卯月 盛夫 シゲちゃんと知り合ったのは、たしか1993年頃だったと思います。私が世田谷まちづくりセンター所長の時、ファンドの助成を受けたいと、やって来ました。福祉のまちづくりを当事者の立場から進める事は重要なので、是非応募して下さいと伝え、翌年から助成がスタートしました。 九五年に、私は早稲田大学に移りましたが、「世田谷区福祉のいえ、まち条例」制定の際には、「福祉のまちづくりネットワーク」の請願書作成等のお手伝いをしました。この頃、シゲちゃんが突然大学の研究室にやってきて、私の「参加のまちづくり」という授業を受けたいと言ったのには、びっくりしました。研究室は実は10階で、通常10階には止まらないエレベーターを守衛さんに止めてもらって来たのです。 九六年には、シゲちゃんの強い希望で、私の家族を含めていっしょにドイツ旅行をしました。私はあらかじめホテルのエレベーターや扉、トイレ等の寸法や仕様をチェックして、シゲちゃんが泊まれる比較的安いホテルを探しました。施設訪問には、リフト車の手配をしました。おいしいソーセージやビールも共に楽しみました。 今思い起こすと、私はシゲちゃんに実に多くの事を教えてもらったような気がします。彼女は「社会運動家」であると共に、「教師」だったのです。現状を厳しく見つめながらも、いつも笑顔で理想を語る人でした。こんなシゲちゃんが急逝してしまったことは、大きな社会的損失で、実に残念です。 |
|
しろくましげのぶ 大出 敦夫 しげちゃんと初めて出会ったのは、15年ぐらい前だったろうか。その後あちこちの会議などで顔をあわせるようになり、1988年にはサマーキャンプ実行委員会で総務という係を一緒にやった。このときは結構大変で、夜10時に会議が終わった後、モスバーガーとかで夜中の2時頃まで打合せをやるとか当たり前で、その後しげちゃんをよく家へ送って行ったりしたものだった。 そんな無理がたたったのか、この年の夏にしげちゃんは当然倒れて入院してしまった。当時CPの人は40才くらいまでしか生きられないとか聞いていて、自分でも根拠もわからず納得していて、しげちゃんはずっと入院したままか、寝たきりになってしまうと思っていた。 ところが、いつのまにか復活して1990年には「ハンズ世田谷」を立ち上げ、しっかり表舞台にも出てくる、海外旅行にもいったりしていた。「ハンズ」が出来て二年ぐらいしたころ、「在宅ケア研究会」のアンケート調査でしげちゃんの担当になり、聞き取り調査に伺った事があった。あまり無理をさせちゃいけないかなという私の気遣いをよそに、朝の五時頃まで延々と話を聞かされた。この頃からこれまた何の根拠もないが、しげちゃんは僕より先には絶対に死なないと思うようになった。 これまで、信じたくない死に何回か対面してきたが、しげちゃんの死は信じられない死であった。しげちゃんが亡くなった二日後にうまれたうちの子猫は、『しろくましげのぶ』という名前がついた。 |
|
成 ・冒険家は信念と勇気がないと、やっていられません。嵐の向こうに新しい土地が待っていると、自分を信じる勇気がなければ、すぐに挫折してしまうでしょう。 ・冒険家は多少楽天家である必要もあるでしょう。まわりの人に何と言われようと、雲行きが怪しかろうと、「何とかなるさ」と開き直れるようでなければ、先には進めません。 ・冒険家は1人では旅はできません。船乗りや料理人、みんなに信頼され、それぞれの立場を考えてそれをまとめて行かなくてはいけません。 ・冒険家はロマンチストでなくては務まりません。夢を語って、それに魅せられた人たちが集まり、旅を進めていくのです。 成子さんはこれらの条件を全て満たした『冒険家』です。成子さんの拓いた道が、これからもたくさんの人同士を結びつけていくことでしょう。その続く限り、『冒険家』成子さんは、ずっと生き続けています。...と思って、僕もがんばっていきます。 |
|
成子さんとともに 大村 恵実 共に生きるということを、成子さんはよく語っておられた。成子さんの家に行っていたころの私は、洗濯も母親任せ、料理もほとんどしたことがないような状態であったから、成子さんはほとほと困り果てておられたに違いない。それでも朝になると、「えみちゃんどうもありがとう」と言ってくださって、かえって恥ずかしいような気持ちになったものである。気が利かないので成子さんから注意されたこともしばしば。相手の立場に自分を置いてみる、ということを口では簡単に言えても、なかなかできていない自分自身を知った。また、自分では日々意識せずにしていることを、成子さんが言葉にすることで、新鮮な発見も多くあった。成子さんと一緒に過ごすときとは、私にとっては自分の視野の狭さに気づかされることだったから、つらいと感じることも正直いってあった。激しく叱咤されるわけではなく諭される分かえって落ち込み、しょんぼり帰った日のことを覚えている。 私は成子さんと共に生きることができたろうか。そう問うてみる時、自分が成子さんに対してできなかったこと、成子さんには話せなかったこと、成子さんから聞けなかったこと、ばかり思うこともある。でもそれ以上に、成子さんと話したこと、成子さんから教えてもらったことが、自分のなかで生きているのを強く感じるときがある。だから、今も成子さんと私は、ともに生きているのだと思う。 |
|
「成子さんに贈る手紙」 小川 夕 それは突然の出来事でした。丁度成子さんの介助をやめてから一年と半年ぐらいたったある晩、いつも泊まりの介助に入っている川田さんからの電話が鳴り成子さんが亡くなったと聞きました。あまりにも突然すぎて本当の事なのか嘘なのか、自分の心の中では嘘であってほしいと願いながらも成子さんの顔と一緒に居た頃の色々な思いでが一度に頭の中を旋回していました。 毎日の介助に入らなくなってからも何回か出会うことがあり、そのたびに「夕はげんきにしてる?」と気にかけてくれていた成子さん。偶然とは言え何か理由があってこの世で出会ったのでしょう。あまり長い期間一緒に居たわけではないけど成子さんの人生の一齣を共に過ごせたことを感謝します。 そして成子さんの死によって一つ私自身が気づかされたと言うか実感したことは、見えないけれども人は死と背中合わせに生きていると言うことでした。身近な人の死はとてもショックでした。でもそれによって今生きている自分が出来ることは何なのかと言うことも考えました。 最後に成子さんへこの世に生まれてきてくれてありがとう!沢山の贈りものをありがとう! |
|
前略 山口成子様 荻野 陽一 荻野です。そっちに逝っちゃって「忘れた」なんて言わないで下さいよ。 「オギちゃん、髪、切ったの。」「髪、染めたの?なかなかいいよ」そんな言葉が聞けなくて寂しいです。どんなに大変な状況でも、貴方はいつもそうやって、ボクに笑顔で声をかけてくれましたね。可愛がってもらったなって実感、スゴクあります。 今のボクを作ってくれた一人として、当然、貴方の存在、大きいですよ。ありがとうございます。貴方の替わりなんてできるわけないし、やる気もないですけど、貴方のあの笑顔はお手本にして、いつも笑顔でいられるように、そして一人でも多くの人を笑顔にできるように頑張ります。 いつかそのうちボクもそっちに逝きますけど、もう少しこっちにいますね。そっち、住みやすいですか。ボクが逝くまでに住みやすくしといてくださいよ。じゃあまたお便りします。 |
|
輝ける日々の思い出 小佐野 彰 あれは確か1985年頃の初夏だったと思う。今は無き「梅丘保健所」の会議室に、比較的若い6人の障害のある人達が集まっていた。その内の1人が当時三五歳の山口しげこさんであり、弱冠27歳の私だった。30代の横山さんや安部さん、そして上田さんも参加していた。 私達は、自分達はもとより、世田谷の若い障害のある人達のためにも、何とか介助者をふやすための計画を立てていた。個人的に学生の介助者を集めるだけでは個別の関係で終わってしまい、次の世代につながらない可能性がある。そこで、各々が計画的に様々な大学に行き、サークルを作ろうと話し合った。山口さんの「世田谷の将来のために介助者を集めよう!」という意見が印象的だった。 その後のそれぞれの活躍によって、現在の東大「ぼらんたす」との関係が生み出されたが、その頃から山口さんは、いつも障害のある人全体を意識していた。 あれから16年、お互いに忙しくなり、近年はあまりゆっくりと話す機会を持てなかったが、あの山口さんの意見に象徴されていることが、私たちの原点になったと思う。常に自分のことだけでなく、重い障害を持つ仲間達を意識することが、今の活動につながっていると信じたい。 成ちゃん、そうだよね! |
|
山口成子さんへ 男鹿 芳則 山口さんと最後に会ったのが、いつだったのか思い出すことができない。亡くなる何日か前、ふと成子さんとずいぶん会っていない事を思い出していたのが、今でもなぜか不思議に思える。人間、長い短いは人それぞれだが、いつか人生の終わりが来るのは、宿命である。現代人の大半は、目先の小さな目標に向かってこの人生を送っているのではないだろうか。しかし、あなたは何か大きな目標に向かって、歩き続けていた。その思いは、あの1年間の活動で、十分感じとる事ができた。まだ、やり残した事がまだ多くあったであろう。だが、日々様々な、しがらみで不自由に生きている私にとって、目標に向かってガンガン進んで行けた、あなたの行き方は、何とも羨ましい限りであった。人生とは、見た目だけでは何が良くて、何が悪いのか分らないものだ。慰めでしかないかもしれないが、もう十分な成果を出したよ、残りは後の人達に任せ、ゆっくり休んでください。いつか、私達もそちらに行きますから。 |
|
参加者は隣どうしで話しなどをして静かに待っていた。センターに務めの浅い私は、会議のリーダーが定刻にこない。どうしてなのと思っていた。しかし、非難めいたことも言わずに待っている。その人は誰なのか、先を急ぐ私はあせりながらも興味を持った。 その人、山口成子さんが目を細め、会釈をしながら入ってきたとき、私は何もかもすっきりと飲み込んでしまったような気がした。 その後、成子さんとは会議、研修等でお会いすることはあったが、じっくりお話しする機会もなく、「また、ゆっくりね」が2人のいつもの挨拶だった。だが、暖かいコミュニケーションをいつ感じていた。ともにリーダーをしてのピアカンセリングでは、不安と自信のなか真摯にセッションする彼女の姿に感動した。 お父さんの葬儀に参列できなかった私はあとで電話してみた。仕事に戻っていること、日常のこと、そして体の調子が少しすぐれないことなども言っていた。心なしその声は普段よりもさらに小さかった。でも最後に、「マーシャー、電話してくれて嬉しい―」と声をあげて言った。こうして成子さんの事を書いていると、その甘い声が楽しく淋しく思い出される。 |
|
「ありがとっ、成子さん」 金子 亜由美 「成子さん、私の中ではいつもニコニコ笑っているという印象です。 |
|
ひまわりのような笑顔 金重 泰行 僕は、HANDS世田谷に見習いで来て3年くらい経ちますが、最初のうちは事務所の雰囲気に慣れるのに精一杯で緊張していて、事務所の人とはほとんど話しをしたことがありませんでした。よくいろんな人と話すようになったのは、この1年ぐらいのことなので山口成子さんとはあまり話しをしたことがありません。数えるほどで思いではとくにこれといってないのです。ただひとつ印象に残っているのは、事務所にも写真が飾ってあるように笑顔と笑い声です。最近なって聞いたことですが、山口成子さんはピアカンセリングなどで「ひまわり」という呼び名がついたそうです。僕は、その呼び名は、とても山口さんらしくて、合っている呼び名だなぁと思いました。ひまわりの花と山口さんの笑顔がぴったり合っている気がしたからです。僕が最後に山口さんと話しをしたのは、亡くなる2〜3週間前で初めていろんな話しをしました。僕も、二十歳を過ぎて色々と制度を使えるようになり、これからは、自立についてなど相談したりして、いろんな話しをしていこう思っていた矢先の出来事でとても残念です。 山口さん天国でも、ひまわりのような笑顔を忘れないで、HANDS世田谷やJILますますの発展と障害者・健常者などと区別なく、すべての意味において平等で平和で幸せな、世の中になるように祈って、見守っていてください。 今まで本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。 |
|
「嬉しい。」 上西 周子
大学院2年目の夏、希望の就職先、建設省の面接で、5年間の介助者経験を話した。面接官の感触は良好。だけれども心には後ろめたさが残っていた。私にとって成ちゃんと過ごした時間は何か特別で、面接でそのことを話すことは、宝物を、自分を高く売るための道具にしたような不遜な行為に思えた。 |
|
「どこに巡業に行ってるの?山口さん」 岸本 隆 「タカさん、夏にそちらに巡業に行きたいと思っているのでよろしくね」と、3月にもらった電話が最後になってしまった。 |
| 目次 | |||
|---|---|---|---|