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目次
表紙
成子さん作品集
追悼文集
写真集




木村 知香子

成子さんと介助者として関わったのは2年4ヶ月で、成子さんの介助者の中では、長くも短くもないと思う。最初に出会ったのは、大学二年生の春、サークルの勧誘ビラを配っているとき、隣で成子さんと介助の山田さんが介助者募集のビラを撒いていた。大学の授業も少なく、暇を持て余していたので、間もなく2回の研修を経て、介助者になった。

それからしばらくは、私の独りよがりだが、かなり「いい子の介助者」だったと思う。成子さんのアクティブな生活に共鳴し、差別に一緒に憤慨し、深夜でも言われるとおりにこなした。「知香はよくやってくれるよ」と言ってもらうと、素直にうれしかった。もちろん、時間のアバウトさや、約束が延び延びになってしまうことなどに、不平不満は言っていたと思うが。

初めて介助に入ってから、2年余りたってから、1ヶ月の無謀なヨーロッパ旅行に出かけた。その旅の中で、介助をすることの難しさ、当事者と介助者の関係の微妙なバランスの難しさ、危うさを初めて身にしみて感じた。私の目から見たら、知らない土地では成子さんの指示も的確ではなく、そのおかげで介助者が大変な思いをしているように思えた。成子さんから見たら、本人の意向を確かめもせず、どんどん事を進めていくことに我慢できなかったのだと思う。あの状況は、「お互い様」だったんじゃないかなあ(ねえ、成子さん)。とにかく大変だったのは確かで、二度と同じことをしようとは思わないが、今思えば得たものは実に大きかった。

結果的に、成子さんの介助は、その旅行を機にやめてしまったが、その旅行から5年たった今も大学院で障害者の自立生活・介助者との関係を主な研究テーマにしている。成子さんとの出会いが、今の自分の核となる部分にあると思う。本当に感謝している。


「成子さん、ありがとう」

木村 直美 

 ある日の事務局会議で「今年は、箱根あたりに慰安旅行に行きたいと思います。次回の会議までに、良い所をピックアップしてきまぁす。」と嬉しそうに話していた成子さん・・・。そして次の日の朝、事務所に「今日は体調が悪いので休むから、悪いけど○○さんに電話しておいてね。」との電話。それがまさか成子さんの最後の声・言葉になるなんて・・・。今でも信じられません。

 私が成子さんに初めてお会いしたのは、まだ事務所が代田にある頃でした。その時の第一印象は、何事に対してもはっきりとおっしゃる方で、特に「介助を入れること」に関しては誰よりも厳しく考えていらっしゃる方だというのが強くありました。成子さんからの質問に上手く答えられないでいると、あのメガネの奥からギョロっと睨まれているようで、最初はとても怖い存在でした。でもその鋭い「眼」で様々な人を見て、介助者を育てて来られたのだと思います。

 また半面、「優しさ」も充分に持っている方でもありました。ハンズに入って間もないある日のこと「なお、お茶飲みに行かない?」と声をかけて下さったのです。三時間余りも、色んな話をした後、成子さんが「こういうピアカンもたまには良いよね」とニコッと一言。その言葉が、妙にホッとさせてくれたのが今でも記憶にあります。そのように私の中では、いつしか、「怖さ」とは別に「安心できる人」に変わっていったのです。そして、この2月には『十周年』を迎え、成子さんも肩の荷が少し下りたのか「これからは、好きな事をやらなきゃね」と言っていたのに、何故こんなにも早く逝ってしまわれたのだろう。成子さんが、何だかひょっこり帰って来そうな・・・。そんな気さえします。成子さんはハンズにとっては勿論のこと、私にとってもとても大きな、そして大切な方でした。

 成子さん、いつまでも、あなたのことは忘れません。そしてありがとう・・・・。


山口成子さんを偲んで

神山 雄二 

私が、山口成子さん(以下、成さん)と初めて会ったのは、10年以上前のことです。 当時、私は頸椎症を患い、1年間入院したその後、都の障害者センターに入所し、リハビリと職能訓練を受けていました。
その職能訓練で私の担当であった、赤塚さんに連れられて行ったのが、成子さんのお宅兼「HANDS世田谷」の事務所(たぶん?)でした。
さほど広くも無い部屋の真ん中に、成子さんが車椅子に乗った状態で、ドカッといた記憶があります。その時は、それで終わったのですが……。
今から考えれば、縁があったのでしょう。その6年後、晴れて『HANDS世田谷』の正式なスタッフに加えさせてもらいました。正式なスタッフになる前に、二年程ILPを手伝っていましたが………。
21世紀に入った直後の1月と4月、私は頸椎症が原因と思われる身体の不調をおぼえ、1ヶ月ずつ病欠をしてしまいました。
そして、「これは、体力的に限界」だと考え、私がこれ以上病欠をして『HANDS世田谷』に迷惑をかけられないと退職を申し出、受理されました。
その一月後、成子さんが幹事となって、私の「送別会」をしていただいたのです。
そして、その又1月後、成子さんは亡くなってしまいました。
あまりにも唐突で、成子さんが亡くなった事自体信じられませんでしたし、それに一ヶ月前には、あんなに元気で、私の「送別会」までしてくれたのに………。
山口成子様、私は貴女の事を終生忘れません。色々な意味でお礼を述べます。「本当に、ありがとうございました。」


成子ちゃんへ

小島 静江

成子ちゃん、こんなにも早くお別れする事になるなんて夢にも思いませんでした。成子ちゃんと私は同じ学校の1年違いの先輩・後輩でしたが在学中はぜんぜんと言って良いくらいお話しなかったですね。むしろ学校を卒業してから家が近かった事も有ってだんだん親しくなり、よく2人で近くのデパートに出かけたり、映画を見に行ったり,今から考えるとあの頃が私の青春だったかも知れませんね。又、成子ちゃんを通して地域活動をなさっていらっしゃる方々ともお会いする事が出来ました。今もその頃の方々とは時々ですが、お話します。でも、成子ちゃんとはしばらく違う道に進んでしまいお会いする事も無いままに時が過ぎていきましたが、お父様がお亡くなりになられた事から又お話しするようになりハンズにも入会させて頂きました。
これから昔のようにお話しが出来ると思っておりましたのに残念です。しばらくは何だか頭がボーとして居りましたが最近少しづつ成子ちゃんの事を考えられるようになりました。いままで大変な事をいろいろ乗り越えられて来られて本当にお疲れ様でした。どうか天国でゆっくりお休みする事が出来ると良いですね。

 ご冥福をお祈り致して居ります。


「焼きさんま定食?」            

友人 小林 祐美

数年に1度の割合で、お誘いの電話がかかってきた。「バシさん!ちょっとお話しがしたいんだけど・・・」成子さんのお誘いだとなかなかことわれなく、中町の成子宅へ。
 「いらっしゃい!」「焼きさんま定食みたいだけどいい?」「私の家で来客の方に魚が出るって最高のおもてなしヨ!」その時僕は、心の中で「本当かよ!はめられているのでは・・・」と思うのでした。成子さんは、人をおだてるのが本当に上手でした。
 二人でそれぞれが活動しているエリアの近況報告をしあい、そして本題へ。ハンズや自立の家、そして世田谷の福祉の将来について、私が乗れる最終電車に間に合うぎりぎりまで語りました。どうすれば障害のある人が地域で安心して生活し続けられるのか、成子さんは、猛烈な勢いでまくし立て、私は言葉をはさむ事もままならない状態が多かったことを、強く印象に残しています。しかし、後半は、私が話している時間が長かったかも。
 障害があろうがなかろうが、年齢が上であろうが下であろうが、成子スマイルでやさしく対応し、どんな事でも語り合えた山口さん。もう直接お会いすることは不可能だけど、あなたの夢は、障害のある人やそれを支援する多くの人の心に引き継がれ、実現に向け歩んで行くでしょう。天国から、いっぱい応援して下さい!


ぷにぷに

小松 美穂

成子さんといえば、『ぷにぷに』というイメージ。あの安心感のある『ぷにぷに』が私は大好きです。いつも会うたびに、触らせてもらっていましたね。自分が不安な時や切羽詰っているときは思い出します。あの『ぷにぷに』。成子さんは、世田谷に私を産んでくれた人だから? あの『ぷにぷに』は私の故郷なのかもしれません。

今年の5月に自立の家をつくる会の総会に出席してくれたとき、久しぶりに『ぷにぷに』…いや成子さんに出会うことができました。なんていうか、成子さんに会った時の私は、お母さんが幼稚園にお迎えにきてくれた時の子供のような感覚で、成子さんとお話していたように思います。ただ嬉しくてはしゃいじゃうような・・・。いつも成子さんに会う時は少しの緊張とたくさんの懐かしさが入り混じって、冷静な大人として対面することができなかった(本当はキチンとした私を見て欲しいのだけど)。成子さんにはいつまでたっても子供な奴にみえたでしょう? でも最近ちょっと気づいたんですよ。私は成子さんの前ではやっぱりお母さんの懐に帰っていく子供みたいでいたいのかもしれない。でもそろそろ独り立ちしないとね。成子さん、甘えさせてくれてありがとう。

まだまだ不安定な私ですが、これからはあの『ぷにぷに』を思い出して、がんばっていくからね。


近藤 沙千子 

成子さんの家は、いつもきれいで、きちんと整頓されている。いつもいつも身の回りをきれいにしておくのは大変なことだと思う。体がだるい時、忙しい時、疲れているとき…いろんな時があるけれど、私はいつもいつも周りをきれいにできていない。成子さん自身が掃除をするわけじゃないけれど、整頓する場所を決めたり、散らかっていることに気づいたり、介助の人に頼んだりするのは成子さん。体が動かないから汚くても仕方が無いの、次から次に介助の人に頼むの大変でしょう、って言うことだってできるのに、言い訳をしない。何か都合の悪いことがあるとついつい言い訳をしたくなるのが人間じゃない?でも、障害を言い訳にしない成子さんはかっこいいなあって思う。毎日毎日仕事があって、疲れることもあるし、体も自分の思うように動かないのに、それでも、毎日毎日身の回りをきれいに整えている姿は本当に尊敬してしまう。障害があっても無くてもきちんと自立生活ができるって言うことを、成子さんは自分自身がピシッ、ピシッと生活することで上手に示してくれたなあって思う。

成子さん、向こうの世界でも、今までどおり、きれいに生活していってください。そして、今までいろんな事を教えてくれて、どうもありがとうございました。



「成子さん、天国にはステキな男性がいますか?」

齋藤 明子

追悼とは悲しい作業である。成子さんがもうこの世にいないということを忘れよう忘れようとしてきた。どこかで生きているが、お互い忙しくて会えないだけ。彼女が生きているときもそんな具合だったので今もそうだと思おうとしている。でも彼女の不在は確実に私たちの暮らしに大きな影を落としている。『HANDS世田谷』の理事会に行っても彼女のあの太陽のような笑顔は無い。横山さんとの絶妙の掛け合いも無い。第一横山さん自身が心の一部をどこかに置き忘れてきたような様子をしている。
私が成子さんで最も素晴らしいと思っていたのは社会に対して大きなビジョンを持っていた事だ。ともすれば男性の障害者リーダーたちの興味が障害分野に限られていたときに、彼女は障害者ばかりでなくNPOやマイノリティや『まちづくり』やアートや他の国のことに興味を持っていた。だから身体障害者の自立生活センター運動が軌道に乗って私の役割があまり無くなってしまった後でも成子さんとは共通の話題がたくさんあった。
彼女は障害者と、障害に関係なく暮らしている人々との間に『橋を架けられる』人だった。
ポストCP症候群のために障害が重くなっても、運命をうらんだりすること無く積極的な生き方と笑顔を忘れなかった。成子さんの心残りはこの世では結婚したいと思うような男性に巡り合わなかったことだろう。だからこの文のタイトルが彼女への質問?である。
きっと答えはイエスに違いない。なぜなら彼女はどこにいても本当にステキな人だから。


まちセン 齋藤 啓子 

しげちゃんは、私の大学の先輩です。通信教育学部で、しげちゃんは油絵を勉強していました。私はデザイン分野でしたが、同じ大学ということで急に親近感が増しました。
私がその大学で助手をしていたとき、千葉県の筋ジスで車いすの女性が通信教育学部に入学を断られるという事件があり、なんとか入学できるようにしようと、大学の先生2人と一緒に本人に会いにいったことがあります。交渉の末、彼女は入学し卒業し精力的に個展を開いています。最近こそ障害のある人の入学も当たり前になってきましたが、20年前は、特別な対応をされている時代でした。
しげちゃんは私より年上です。しげちゃんが入学したときは、どうだったの?と聞いたことがあります。さぞかし大変だったのではないか、と思っていました。でも、しげちゃんの答えは「楽しかった」。大変だったこともしゃべっていたと思うのですが、いま記憶に残っているのは、にこにこしたしげちゃんの笑顔とその言葉です。
あー、その頃からすでに大物だったんですね。
ハンズが設立された当初、学生何人かで事務所におじゃましました。机といすの狭い隙間にどーんと座って、「あたしはねー、みんなの先輩なんだよねー」とやっぱりにこにこしていました。
でも、私は肝心のしげちゃんの絵を見たことがまだありません。いつか、じっくり鑑賞したいなー。しげちゃん、いいでしょ。


斎藤 千枝子

9月24日、成ちゃんの夢を見た。

広いホールに大勢の人がいて、壁際の椅子に成ちゃんが座っている。ちょっとずつ、滑り落ちそうになっているので、そばに行ってひょいと抱き上げたら、あんまり軽くてびっくり、笑いながら、何か言っているけど、耳を近づけても、良く聞こえない。「もう、自由になったんだよ」って、言いたかったのかな?


同時代を共に猛進してきたお成さん


美麻遊学舎 五月女 精子

  入院する前日、大好物のケーキを堪能したそうですね。さすがお成さん。
あなたと私の欲求は重なることが多く、介助という関係をこえた出会いから始まったような気がします。
 相手の都合や気持ちなどおかまいなしに、時折だだっ子に変身のお成。突然、あなたの恋するお方に会いたいと言い出して、ある日の深夜、それも雨の中押しかけて一晩中困らせてしまったこともあったけれど、「わがままなお成」と思いながら、一途にひた走るお成の愛らしさについつい共感しあうわが身あり。
 今年、27歳の娘が3歳前からの付き合いでありながら本音を出し合えないこともずい分あった。
 お成の介助日に高熱を出した娘。さて弱ったぞ、友人に代わってもらおうとTELしていると「成ちゃんが待っているから早く行って」とお布団から息もたえだえの娘。介助時間は迫ってくるし、娘のそばにはいたいし、結局、介助にむかったのだが、体中に広がる矛盾を押し殺しながら‥‥。この日の出来事は、介助者一人一人のテーマでもあることに気づきながらもすぐにはお成に伝えられずにいたことがある。
 この10数年間、消化不良のまま会えずにいたが、若き頃に語り合っていたことを、ひたすら実現に向かって突き進んできたお成。とびきりすきだったひまわりにかこまれたお成は、相も変わらず、いいえむしろ若々しくパワフルで充実感に満ちあふれていた。
 世田谷から縁あって信州に移り住み、この夏でまる四年たち、二年半前に、私たちの生活の場の遊学舎が原因不明の出火で全焼。ゼロからの出発ではありますが、お成たちと動いてきたことが全てまろやかなエネルギーとなっていることを実感。
 糀作りからはじまるみそ・しょうゆ仕込み、地域通貨の店《えにしだ》作りをしている最中です。
 お成、ありがとう。

 


しげちゃんのこと

うらら 

  はじめて会ったときから、すでに私たちふたりともCPの二次障害が始まっていて、二次障害友達として会うと、ぼそぼそっとからだのことについてしゃべってたような気がします。身近な人が手術するのを聞いたりしながら、しげちゃんも私も「進められてる人だけどねー、医者に」と言いつつ、しげちゃんはそのまま逝ってしまいました。私は、とり残されてしまったようで、「しげちゃん、どうしたらいい?」とつぶやいてしまいそうです。
 私は、あまり遠くには行きたくなくて、国立のスポセンにしげちゃんが来て、何かの会議で出会うのがほとんどでしたね。(でも、中野やハンズのピアカンにも行ったことあるなぁ)。そうすると、来るだけでしげちゃんは疲れてしまうのか、車椅子に乗ったまま「スー」っと居眠りをしているようでした。そのしげちゃんの寝顔がとても平和でかわいかった。目覚めたとき、あの細い目がちょっとづつやっと開いて、私が見ていると気が付くと、にたっと笑うのです。眠っているしげちゃんのつきたての鏡もちがつぶれたような顔(しげちゃんゴメン!)と、照れくさそうな目覚めの顔が何とも言えず、心に残っています。
 それでもしげちゃんはやる気満々で、ハチマキなんかしちゃって、その意欲だけは十分でした。私は内心で「まあまあ、気持ちはわかるけど、寝てていいよ」と思っていました。なんかこの文章、しげちゃんに読まれたら「いやだなぁ、うららは」と言われそうです。今度スポセンで会ったら、そう言われたいな。だから、さよならは言いません。


みんなを乗せて

                              篠部 洋介 

そうそう、この前ふと「成子さんてトトロに出てくる『ネコバス』みたいだなぁ」と思いました。
初めて成子さんにお会いしたのは、3年ほど前でしょうか、介助会員になって間もない頃でした。事務所でまごまごしていた僕に向かって「こんにちは、今はなにをやっているんですか...(モロモロの話し)」「僕はこれこれこういう人間で...あとちょっとで学生という身分が終わる予定なんですが...」「HANDSで人を探しているんですが、就職しませんか?(ニコッ)お給料は安いですけれども(アハッ)」と、僕はいきなりの就職プロポーズを受けました。「わしみたいなもんに声をかけるなんて、よっぽどここは人が足りないのかな?」と勝手な心配を抱く一方で、実は内心ちょっぴりうれしかったんです。寒い日にあったかいふとんにくるまれた時の気持ちにいちばん近いかなぁ、ここにしばらくいたいなぁって。
いつの間にか僕も『ネコバス』に乗っていたみたいでした。みんなと楽しく、わいわいがやがや。あたたかくやわらかい気持ちで。
今日も新しいひとが乗ってきましたよ  成子さん


山口成子さんと私

佐山 文信

 山口成子さんとは、昔、用賀にある福祉訓練所のひまわり荘で出会った。
それがきっかけで、福祉に興味を持ちはじめた。
その次は、介助者集いの会。
それと、自立の家をつくる会に行ったら、あなたがいて私は驚いた。
嬉しかったからぼちぼちとその会に参加する事を決めた。
そして、皮工芸のサークルに行ったらそこにもあなたがいてびっくりした。
極めつけは、ハンズ世田谷に私はスタッフとして働いていたら、あなたがいた。
そんな運命だった。
あなたは若輩者の私に優しく色々な事を教えてくれた。
失敗した時には、怒ってもくれた。
一緒に泣き、笑ったあなたの大きい心の愛情で私をつつんでくれたから、
私はここまで来る事ができた。
 そんなあなたが、ずっとずっと大好きだった。
 山口成子は、偉大。


シゲ!待っててナ!その内いくからさ

世田谷ボランティア連絡協議会 澤畑 勉(ヒゲ)

母さん、父さんに会えたかい?
世ボ連も雑居まつりも、シゲの母さんにはお世話になりっぱなしだったから・・・よろしく伝えておいてヨナ!
 シゲとヒゲ―ふたりとも20歳の半ばからの青春は、世田谷の活動にあったよネ!世ボ連づくり、木曜青年学級、雑居まつり、けやき学級、ハンディキャブの運営・・・みんな若かったナ!何でも出来ると思ってたし、何でもしてきたよナ!青年学級の合宿で西湖のボートに乗ったこと(もう少しでしずむとこだったんだ・・・)、最初のハンディキャブセレモニーで電動のシゲを乗せたら、リフトが動かなくなったこと(ヒューズがとんじゃったんだ)、世ボ連の合宿をシゲの軽井沢の別荘でやったこと・・・。
 シゲ!たくさんの思い出をありがとう。シゲと会えてよかったよ。同じ時代を生きてきた仲間を失うのは、くやしいけど・・・誰もが行く先だから・・・
 シゲ!待っててナ!その内いくからさ。

 


 

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