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目次
表紙
成子さん作品集
追悼文集
写真集

お成さんと私

塩崎 美弥 

 初めて会ったのはいつだったのか憶えていませんが、いつの間にかお成さんのペースにはめられちゃったという感じです。お成さんと私には、共通の知り合いがあちこちにいました。その中の介助者さんたちと一緒にダイエット計画を考えた事がありました。ある時テレビを見ていたら、通信販売の金魚運動をする「ゆれっこ」というダイエットマシーンをやっていて、私は「正にこれだ!」と思わずにはいられませんでした。私はプレゼントしたいと思いましたが、少し高いなと思い安くなったら買おうと思っていました。なぜかというと「お成さんが動けないから機械に動かしてもらおう!」と思ったからです。あの時は、マジでそう思いました。お成さんはうちに遊びに来て、私の車椅子に無理矢理乗り、本当にパンクしてしまいました。逆にお成さんのおかげで、お風呂用のリフトに乗って私が遊びました。でも、私とお成さんの体の大きさが違うからリフトが合わなくって怖かったです。別の日にはお成さん家で「のぶ兄スープ」を作って食べました。「おいしい、おいしい」と言って何杯も食べてくださいました。(のぶ兄スープとは、キャベツを丸ごと使った料理です)  あとは、恋の話とか色々な話をしました。いつもお成さんは、穏やかな顔をして聞いてくれました。やはり、色々な人と付き合って、色々なことを経験して、色々な事を感じて考えていてすごいなと思いました。いい先輩だと尊敬していました。今頃は天国で、介助者募集のビラを配っているのかなぁ、そして楽しく暮らしているのかなぁと、感じる今日この頃です。

二度目の恋焦がれ

志村 紀久雄 

これは、二度目の手紙です。でも三度目がないなんてとても信じられません・・・。 一度目の手紙は、もう5〜6年前になるでしょうか。あなたを、「自立の家をつくる会」の役員に招こうということで「ハンズ世田谷」に申し入れの手紙を書きました。次の年からは、相互に役員を派遣しあい、いずれは合併も・・・という夢の出発点でした。このだいそれた計画は「夢」に終わりましたが、その後、何回か話をする機会があり、けっこうお互いの考えが共通していることがわかってきました。
私のライフワークにもなった「障害のある人の医療問題」では、あなたは関東中央病院にはじめて車椅子で入院し、脳性麻痺とは何かを院長やインターンに熱っぽく語り、理解してもらうための奮闘ぶりを三時間にわたったインタビューで話してくれました。このときのあなたの体験や努力が、病院によって受け継がれて、システムとして定着していれば今回のような不幸な出来事はおきなかったと考えると、残念でなりません。
こういうことを少しでも減らすために、のこり少ない人生?を過ごそうと思う。
それがあまりにも早く逝ってしまったあなたへの二度目で最後の手紙です。


杉山 美保子 

 私は、入院をしていた成子さんの姿を知りません。私の知っている成子さんは・・・元気(?)で、大きくて(笑)、よく食べて、「な〜んか、楽しいことない?」とよく言って、などなど。こんな記憶でとまっています。だから、最期の姿を見たときも、今でも、心のどこかで、騙されているのでは?!と思うこともあります。
 成子さんと出会ったから、「私の人生こんなに変わりました。」なんてことはありませんが、いろいろな意味でよい経験をさせてもらったと思っています。そして、成子さんの周りにいる多くの方々とも出会うことができて、嬉しかったです。
 本当にありがとうございました。



無題

鈴木 範夫 

前略

 そちらの居心地はいかがでしょうか。こちらも元気でやっております。
山口さんがそちらへ行かれることを知った時は大変驚きました。そして今もなお、寂しい思いは消えておりません。 思い起こせば山口さんと初めてご挨拶したのは私がHANDSの自立生活プログラムを受講していたころのことでした。その時の印象は「大きくて最強のドCP」な方だなと思い、ちょっとビビッた記憶があります。でも、親しみやすいキュートな方であることがわかるにはそう時間は掛かりませんでした。  私がHANDSにお世話になってからも、あまりサシでお話する機会があまりなかったのですが、そちらへ行かれる数ヶ月前、私の将来の事やHANDSに対する思いなどを長時間聞いていただいたことがありましたがご記憶でしょうか。あの時はだいぶナマな事をいってしまいましたが、否定することなく笑顔で聞いて、さりげない形でアドバイスしていただけたことはとてもありがたく、これからの励みとなりました。  今ごろそちらで何をしていらっしゃるのでしょうか。いい男見つかりましたか。いずれ必ずそちらへお伺いします。それまではこちらで、しなやかに、したたかにやっていきたいと思っています。  またお会いできることを楽しみにしています。 敬具

鈴木 有希

私が成子さんにはじめて会ったのは大学の教室でした。
そのころはまさかこんなふうに成子さんのことを想って
そしてこんなふうに想い出として文章をかなければいけない日がくるなんて 思いもしなかったけれど。

 昨年の4
月、成子さんといっしょに観にいった夜桜のように成子さんの笑顔は人を惹きつける魅力がありました。
 いままでいろんな人に出逢って、今の私があるのはそんなたくさんの出逢いのおかげですが成子さん以上に影響力があった人はいません。
 自分がこれから何をしていこうか悩んでいたときに成子さんに出逢っていろんな気持ちを聞き、そして私自身も感じ、成子さんのように自分らしく活きている人のそばにいたいなって実感できました。
 成子さんの周りにいた誰もが思っているようにもっともっといろんな話したかったし、まだ聞きたいことも聞いて欲しいこともいっぱいありました。
 でもこうしてみんなから愛される成子さんに出逢えたことを心から感謝しています。
 これからは成子さんを愛していたみんなを遠くから見まもっていてください。
 きっとみんなを通していろんなものを見ていろんな経験ができますね!


成子さんの伝言

HANDS世田谷事務局員 鈴木 洋子

早すぎた成子さんの死。まさかこんなに早く逝ってしまうとは思ってもいませんでした。今年の二月にはHANDS世田谷の10周年記念パーティーを行い、10周年記念誌も作ったばかりでした。10周年記念誌の中で成子さんは「究極的には自立生活センターが必要のない社会や、制度が整って行けば何もいうことはありません。その時が来るまでがんばるつもりです。」と書いていました。10周年を迎え、これからさらに皆でがんばっていこうと再確認した矢先の出来事だったので、残念としか言いようがありません。
成子さん=HANDS世田谷というような感じだったので、成子さんのいない事務所はなんとなく違った感じがします。成子さんは常に皆のことを考えて気を使ってくれていました。「たまにはご飯でも食べに行こうよ〜」と息抜きをさせてくれるために誘っていただいたこともありました。成子さんの人柄でどれだけ助けられたかわかりません。亡くなってからも、一度だけ夢に会いにきてくれました。ほんの一瞬の夢だったのですが、成子さんはいつもの穏やかな口調で「洋子、笑顔を大切にね…」そう一言だけ私に伝えてくれました。成子さんが夢の中で私に伝えてくれたこと、大切にしていきたいと思います。
今でも「みんな、げんき〜?」とひょっこり事務所に戻ってきそうです。成子さんの事ですから、目には見えなくても事務所で皆を見守っていてくれているのでしょう。成子さんこれからもHANDSを見守っていて下さいね。


山口成子さんを偲んで

須山 恵美子

最近あまり会う機会もなく過ぎてしまいましたが、たまに会うと『首が痛い』『腰が痛い』と顔をしかめて訴えていました。しかし、亡くなった知らせに驚き、お宅で対面した顔は、大変安らかな全ての痛み、苦痛から解き放されたものでした。
 50歳と言えば、一般的にはまだまだこれからというときです。自らが重い障害をもちながら、だからこそ出来る障害者自身の立場から、障害者の生きることに焦点を当てた活動を始められ、まさに大河の一滴として努力されたことが全国の障害者に大きな影響を与えています。本当に燃え尽きるべくして燃え尽きた一生だったとおもいます。
 思い起こせば、私がこの道に入った最初の仕事で山口成子さんに会い、結果として今も、あの当時のことが私の仕事をするうえでの原点となっています。その意味でも、私にとっては大きな影響を与えてくれた、いつまでも忘れられない人です。今後も、成子さんやその仲間の皆さんが、努力して土壌を耕してくださいましたので、障害のある人もない人も共に力を合わせて生きて行くことこそ当たり前の社会となるよう自分も努めていきたいと思います。 謹んで、ご冥福をお祈り致します。

しげちゃんへ

町田ヒューマンネットワーク 堤 愛子 

  しげちゃん。
 あなたと初めてお会いしたのは、私が20歳の大学生のとき。
 日本肢体不自由児協会の春のキャンプで、私がボランティア・リーダーに応募し、担当のキャンパーになったのがあなただったね。キャンプの前に、ドキドキしながらあなたの家を訪ねたこと、いまでもハッキリ覚えているよ。あなたがにこやかな笑顔で迎えてくれて、ホッとしたこともね。
 同じ障害者でありながら、「リーダー・キャンパー」と異なる立場だったことで、当時はいろいろ悩んだけど、その後自立生活センターの活動に関わるようになってからは、同じ「ピア・カウンセラー」という立場で、ピア・カウンセリングや障害者の自立生活を広めてきたよね。カナダの国際会議にも、いっしょにいったよね。
 六年前、町田の「とりあえずの家(体験室)」に新潟の女性がプログラムを受けに来たときは、しげちゃんがずいぶんフォローしてくれたよね。うれしかった。ありがとう。
 しげちゃん、いままで本当にご苦労さま。
 障害者運動は、私たちがちゃんとあとを引き継いで行くから、ゆっくり休んでくださいね。


「一緒に頑張ろうよ」と言った仲間

自立生活センターたいとう代表 鶴岡 和代

山口成子さんが他界されて三ヶ月が経とうとしています。今でも信じられなくて時折「鶴さん、元気?」と電話がきそうな思いでいます。
15年前、私は寮護施設に入所していて「自立を目指して上京」を繰り返し、ヒューマンケア協会等のピアカウンセリング集中講座や自立に向けたセミナー等に参加していました。ある時、山口さんに初めてお会いし、とてもにこやかに話しかけてくれました。当時、私は札幌いちご会の小山内美智子さんが自立の憧れとなっていました。小山内さんに「私は自立したいんです。」と言った時、『私のようになればいい・・・』と言われて、自分はどうしたらいいのだろうと思っていました。山口さんにこの話しをした時「鶴さん、一緒に頑張ろうよ。同じ仲間だから・・・。大丈夫だよ。」と言ってくれたのです。そしてそれから三年後、私は親兄弟が住んでいる台東区で自立生活を始めました。いろいろな事を山口さんに相談し、一つ一つの悩みや問題を乗り越えてきました。山口さんが「一緒に頑張ろうよ」と言ってくれたことが大きいのです。自立生活センターたいとうを設立出来たのも、山口さんの励ましや支えがあったからです。勿論、山口さんを取りまく仲間達も私を応援してくれていますが、やはり山口さんとの出会いは、私にとって大きかったのです。これからも「一緒に頑張ろうよ。仲間だよ」と言う言葉通り、手をつないでいろいろな事を話しながら生きていきたいと思っていました。手の届かぬ所にあなたは行っているけれど、きっと今も「鶴さん、一緒に頑張ろうよ」と熱いオーラのようなものを送ってくれているのでしょう。


中門 あき子 

今日は日曜日で、成子さんの好きな歌番組が始まるところです。どこで見ているのだろう?約束なのでニューヨークの報告します。マンハッタンでは、ほとんどのバスにリフトが付いていて運転手さんも当たり前として動いていました。でも地下鉄は古いので、エレベーターのある駅は数えるくらいです。繁華街ではたくさんの車いす人とすれ違いました。今度成子さんとお出かけするのはいつになるのかなぁ。絶対またどこかで会って、いっぱい話そうね。とりあえず今は、いろいろありがとうのお礼を言っておかないと。たくさんたくさんありがとう。 アリガトね。またね。またね。


山口成子さん追悼文

 ヒューマンケア協会代表 中西 正司 

 山口さんが自立生活センターを設立したいといってきたのはヒューマンケア設立後二年後くらいであった。どちらかというとおとなしくて、後の彼女を想像させるような強烈な印象はなかった。
 続いて運営委員になってくれとの再三の依頼があった。とても余裕がないと、お断りしても何度も何度もお電話を頂き、その熱意と情熱に驚かされたことを思い出す。
その後もNPO法人を立ちあげる時にも相談に来られた。いつも謙虚で、あらゆるものを学び、吸収しようという姿勢が美しかった。時には筋を通して頑固な面を見せることもあった。リーダーとしての要件を備えた数少ない女性がいなくなってしまった。
 自立生活センターハンズ世田谷の基礎を作った山口さんのご冥福を祈ります。

    成子さんへ

中村 健一 

集中して仕事をしていると相手の中に
成子さんの存在を感じる(ような気がする)時があります。
しばらく落ち込んでいましたが(ほんとうです)
そう感じられるようになってからまた元気になりました。
成子さんから学んだことはたくさんあります。
(成子さんを反面教師として学んだことも含む)
でも、まだまだ自分のものにはなっていません、僕にとってこれからの課題です。
嵐のように忙しかった昼間の成子さんの介助の間に時々ぽっかりと現れた暇な時間、ゆったりとくつろぎながら、いろんなことを話し合ったあの時間が懐かしいです。
いつかまた、あのときのように語り合いたいです。



成子さん私達を見ていてね

CIL立川 野上 温子

 

成子さんが逝ってしまってから、随分と長い日々が過ぎ去りました。とても寂しくなりました。貴女が急に亡くなったと聞いたとき、私は久しぶりに大泣きしてしまいました。今や天下のHANDS世田谷になって、その名をこの業界に馳せているけれど、立ち上がりの時から付き合い、その発展ぶりを見てきた私としては、その中心にいつも成子さんがいたことを想い出しています。
センターの職員採用や労務管理、会計のことなど、基礎作りの時代によく相談を受け、一緒に考えたものです。いつも地味な所で、骨をおっていましたね。貴女の柔和な笑顔がいつも周りの人に安心感を与え、皆を包み込んできましたね。貴女には、人を集め取り込んでいく才能があったのだと思います。
貴女は、自分の障害についても柔軟に受け止め、だんだんに重度化していく肉体とも素直に向き合って、仲間達にロールモデルとしての存在感を示してきたと思います。貴女にたくさん、私は救われました。仕事の上でも、生き方の上でも。
ピアカン講座でも、何回もご一緒しましたね。みんな貴女と作ってきた想い出、あなたと一緒に作ってきた自立生活運動でした。私にいろんなものをプレゼントしてくれてありがとう。
これからも、私達を見ていてね。そして、私達に進むべき道を教えてね。パワーを、送り続けてね。

故・山口成子さんを偲ぶ

在宅サービス課長 萩原 賢一

 このたびの山口成子さんの悲報には、大きな驚きと悲しみを味わった。成子さんが理事長を務めておられたNPO法人HANDS世田谷には、区もいくつかの事業を委託しており、仕事上も日頃からお付き合いがあったし、活動家である氏の姿はさまざまな場でよくお見かけしていたからである。突然としか言いようがない。残念至極である。  成子さんのお仕事や活動面での功績や、その情熱や先駆性は他の方の論に譲るとして、私にとっての氏の思い出を少し記したい。 8年程前、私が区立総合福祉センターに勤務していた時、壁に飾ってあった大きな絵を作者にお返しする事になった。その作者が成子さんであり、私が彼女と初めて直接お話しをするきっかけとなった。明るく奔放なタッチの絵でお返しするのは残念だったが、ご本人もお気に入りの作品だったようである。ご自宅まで作品を運び、少し絵画談義をしたのを覚えている。障害が重くなられたのか、「昔のように、絵を描けなくなりました。」と、少し寂しそうであったが、丸い眼鏡の奥の眼は、芸術家のやさしい眼であった。  私は、絵は全くの素人であるが、見ることだけは好きである。機会があれば、美術大学で専門教育を受けられた成子さんから、仕事を離れて美術の講釈を受けてみたい、と内心思っていた。しかし、それも今はかなわぬこととなってしまった。
 地域での障害者の自立生活支援に積極的に取り組んで来られた山口成子さん、さぞ無念だったと思います。安らかにお眠りください。

合掌


服部 千加子   

成子さんの介助者として1年間、月に1回夜勤のみさせていただきました。腰上げがなかなか身につかず下着をおろすのに手間取ってしまい、尿器が間に合わない事や、お風呂のお湯の温度がぬるくなってしまった事もありましたが「いいよ。いいよ。」と笑って許してくださいました。『やせなければいけないんだよね。』といいながらも数分後には「ケーキを買ってきて。」と頼む事もあり、迷いながらも買ってきて一緒に食べた時の満面笑顔を見ると、よかったと思ってしまうものでした。いろいろお話を伺う中で、前向きに生きることや人への気づかいなどたくさんの事を学ばせて頂きました。ありがとうございました。成子さんは大きな星になった。ふと夜空に星を見つけたときそう思います。今も天国で大好きなケーキを召し上がっているのでしょう。


山口成子さんの死を悼む

光明養護学校同窓会 会長 春田 文夫   

 私自身今年の夏に還暦を迎え、周辺におめでたいことは皆無に近く、先輩や友人の訃報に接する事ばかりになってしまいましたが、成子ちゃんの死には考えさせられる課題があると思っています。彼女は家内と同級生で親しかったため、自然私も電話では良く話をさせてもらいました。脳性まひと一言でいっても、個人差と言うか障害状況は各々違っており、正に百人百通りの様子を呈しておりまして、共通しているのは「全身障害」という何とも厄介な障害であることです。健常者といわれる人たちにもいろいろとあるように、障害者にもいろいろおりますが、彼女は抜群の頑張り屋さんでした。彼女の前向きで積極的な生き方には、私自身のようなズボラな人間にとってはとっても真似の出来ないところがありました。しかし、この頑張り過ぎたことが結果的には命を縮めてしまったか、と考えると、誠に残念ではあります。彼女が亡くなられる数日前に、何処かの集会で「山口さんが風邪をこじらせて軽い肺炎で入院している」という話を聞きましたが、まさか退院の無い入院になるなど考えていませんでしたから、ある意味で「成子ちゃんにとっては良い休養になる」と思っていました。お通夜の晩に、妹さんご夫妻から病院での様子をお聞きしました。私が「課題がある」と前述したのは、「脳性まひ者と医療」の問題についてですが、彼女の入院先では「初めて脳性まひの患者を診た」とか、「やたらとオーバーな治療をしているように見えた」というお話からでした。私も家内も何らかの理由から入院体験を持っていますが、いつも大きな不安を持ってベッドにいるといえます。ある時は、ドクターに「脳性まひの講義」をしたこともあれば、「全身麻酔」で、もう一歩でアウトということなどもありました。彼女の死から、医療問題にもっと積極的に我々が取り組まなければならないと、強く感じています。彼女の死に顔が、ちょっと悔しそうに見えたからでもあります。

 

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