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目次
表紙
成子さん作品集
追悼文集
写真集


山口成子さんを偲ぶ

政友 和子 

このたび成子さんの突然の死は本当に驚きの一言に盡きました。つい間際まで活躍してらしたのに…。彼女のこれまでの数々の行動、活動には時代の推移を強く感じさせてくれました。
私は成子さんのお母様と共に肢体不自由者父母の会で、会長、副会長として御一緒に活動させていただき、その思い出が印象を強くしてますが、成子さんや亡き康彦はよく意見やアドバイスをしてくれました。そして親達と共に将来の事に常に視点をあてておりました。成子さんのお母様が現職のまま病に倒れ亡くなられた時のショックは、未だに忘れません。
当時の福祉体制は初期の段階でしたから、障害児者に有利な援助は一からの出発でした。親の活動と共に歩む姿勢を示した成子さんのパワーはお母様が亡くなられて、一段と努力と行動に移ってゆきました。そして、その人柄は何時も、お仲間に対しても外部との話合いの時でもやさしい笑顔で慈母のような表情で接してる姿でした。性格が皆さんに愛された由縁と思います。でも徐々に二次障害からくる更なる不自由な身体にもめげず頑張りやの成子さんには頭が下がりました。亡き康彦もお姉さんのように慕って障害者の生活向上や将来の福祉に対する希望を教えて貰っていました。亡き成子さんの教えの努力は、大きな成果と業績となり、現在では障害者とその家族に大きく貢献され、「HANDS世田谷」の組織となって大変助けられております。しかし、頑張りやの成子さんも力盡きたのですね。でも、成子さん功績は着実に根づきました。後継者の方々も続々と活躍しております。どうぞ、安心してお母様やヒコさんに報告して下さい。
最後に惜しみないエールを送りたいと思います。ありがとう成子さん感謝で一杯です!

以上


成子さん

東京大学ぼらんたす  松田 佳子

成子さん、あなたに初めてお会いしてからもう4年以上になるのですね。その4年間を、あまりの時の流れの速さに少し焦りつつ思い返すとき、一緒に食べてしゃべって笑った楽しい思い出や今となっては笑えるほろ苦い思い出が溢れてくると共に、あなたと過ごした時間の私への影響が思ったより深かったのだということに静かに驚くのです。くつろぎのひととき、他愛もないおしゃべり、そんな懐かしくてたまらない時間の合間に、時には日々の出来事を正直に可愛く愚痴り、時には世の中の理不尽さに悲しみ、さまざまに悩みながらも常に前を向いていたあなたの視線の眩しいまでの強さ。私の危うい楽観性に精神的タフさをプラスして補強してくれた主たるものは、まさにそれなのですね。 成子さん、あなたに出会えて本当に良かった。みんなであなたのことを話していると、おもしろいエピソードが次から次に出てくるのですよ。ダイエットが気になりながらも夜中に食べてしまうこと、夜の読書や映画の途中で必ずといっていいほど眠ってしまうこと、時代遅れのギャグetc. これからも思い出す度にきっと笑ってしまうのでしょうね。成子さん、あなたとたくさんの思い出を共有できて本当に良かった。またみんなでケーキを持って会いに行きますね。


成子さんの魅力

間々下 貴光   

 成子さんの介助をしていたときのことを思い出すと、私は、人の絆について、深く学んだということを実感しています。成子さんの介助は、去年の四月から今年の三月までと、他の専従の方に比べ、短いお付き合いでしたが、よく口論もし、感情がギクシャクしたり、一方で、共に喜びを分かち合ったりと、いつも感情が高ぶっている中で、介助をしていたという印象があります。それは、私がまだ慣れていないせいもあったかもしれません。しかしそれ以上に、成子さんが、仕事を超えた人間の絆を、すべての人に向けて惜しまなかった感情があったせいではないかとも思っています。私の中で、成子さんの高まっている感情を、意識的にか無意識的にか、維持させるように努めていたように思うのです。そうすることで、体が動かない成子さんの存在を肌で感じていたのだと思います。それが、人の絆を本当に深めていく力を生み出すという事を、成子さんから教えられたように思います。成子さんがいない今日であっても、お互いが培ってきた感情は、私の中で、生かされているように思うのです。成子さんは、まだまだやり残したことがあるかもしれないけど、成子さんの一生を振り返るとき、成子さんらしく、全力で、周りのためにも、自分のためにも、生きてきたんじゃないかと思います。本当に安らかな死に顔をみたとき、次は自分の番だなと思いました。

 


山口成子のこと

三浦 克敏

山口さんとのお付きいはちょうど10年。HANDS世田谷の介助会員と事務局長、介助者害者、専従契約、仕事のその他・・・。形を変え、ずっと続いていた。

入院し、見舞いに来てと言われても一度も見舞いに行かなかった私が、今回初めて病室を訪した。呼吸器をつけた彼女は、一瞬私を認めたようだった。だが、話すしか能がないと言っていた彼女にはもうそれすらできなかった。「たまちゃんとは色々行ったね」と彼女がよく言ったように元々外出用の介助者だった私は彼女とよく出かけた。

新しい物好き

新しいもの、でもあまり高くないものが好きだった。九五年にはパソコンを買ったが、メーカのものは買わず、介助者の職場購入にあわせて安く手に入れた。その結果メンテナンスが大変だった。その年にはパソコン通信をはじめ、翌年にはインターネット、ホームページも作ってインターネットイエローページにも載っていた(が、作りっ放し)。外国製の車いす、リフト付自動車、カラーの携帯電話。この部分を私はPDAという携帯コンピュータを使って書いている。これを見たら欲しがったろう。人が持っているものはとりあえずなんでも欲しがる人だった。亡くなる直前まで職場のデスクに最新のGHzCPUのコンピュータを欲しがっていた。

旅行好き

実に多くの場所へ、年に数回は必ず旅行している。私の介助経験の中で最も大変だったものもその中にいくつかある。海外へもフィリピン・アメリカ・ヨーロッパと繰り返し行っている。私も同行した96年のヨーロッパ旅行は介助者四人、期間一月程の問題の大個人旅行だった。

遊び好き

音楽、映画や絵画、買物など。新しい施設も好きで、私が同行したものには、出来たての新宿高島屋や、横浜ランドマークタワーなど。彼女は介助者に誘われればどこにでも顔をだした。

九三年七月四日の日記より〜

山口さんと一緒に映画『野生の夜に』を見にゆく。渋谷パルコパートV前、もの凄い映画であった。階段はキツい、入り口は一ヶ所、人は多い。帰り、用賀駅の階段を上がったところで、段を降りたときに車イスの骨の一本が完全に折れた。リクライニングがそのために不可能になってしまう程の重症で、無事に家に着いただけでも幸運と言えるだろう。〜

 

水谷 睦子 

初めに、成子さんに感謝。
成子さんに出逢えた事。成子さんが色々な人達に逢わせてくれた事に感謝です。 多くの人とすれ違う中で、声を掛け、肌が触れ合い、言葉を心で聞ける。人と人が出逢える時、それは奇跡に近いものと、いつも思っています。同じ時間と同じ空間を共有する、素晴らしさ。その奇跡は、水の中で起こりました。砧にある温水プールです。水に身を預け、大海に浮かぶ小船のように見えました。 一本の電話が鳴りました。一九九九年.一二月.二六日.初めてハンズ世田谷を訪ねました。四ヶ月程、私を探してくれたとの事、一〇時に、ちょっぴり遅れた彼女は、満面の笑みで再開することになりました。月に二〜三回 WATSU(水中リラクゼーション)を受けに来てくれる事となり、その週にあった事、障害について、旅行の事、食べ物の話、毎回色々な事を話し、語り合いました。成子さんは人を褒める事が上手く、つい、その気を出させてくれます。おしゃれにも気をつかって新しい水着をオーダーする話になりました。今日は、今日は、と楽しみにしていました。すごい、何と、セパレーツ水着でした。色が彩かで、水にとても美しく映る柄。帽子も水着に合わせた色は、彼女を美しく、可愛いらしく見せるものでした。 セパレーツ水着ゆえに、柄と柄との間に、無地の肉体、いや肌が何ともセクシーでありました。楽しい一時でした。最後に成子さんと約束をした事が一つありました。 それは「二次的障害について」本を出してくれる事です、二次障害「自分が生きているものを残したい。そして仕事も含め、生きがいとしたい」との思いでした。私が知りたかった事と、成子さんの思いと、重なった時でした。 私に多くの人達と逢わせてくれた事、成子さんが私に多くの奇跡を与えてくれた事に感謝です。


宮地 幸江 

 最初に訃報を耳にした時、とても信じられない気持ちでした。それと同時に、いつでも会えると思いつつしばらく連絡をとっていなかったことにとても後悔しました。成子さんは、私の人生において、大きな影響を与えて下さった方の一人であり、これからも、長いおつきあいをさせていただきたいと思っていたのに、本当に残念です。 成子さんとは、介助を通して一〇年近いおつきあいになりますが、その人柄、生き方に、とても魅力を感じていました。自分がいくら大変でも、常に周りの人々のことを考えている、そんな方でした。成子さんと一緒にいると、自然と元気が出てくるような、居心地のよさがありました。思い出すほどに、様々な気持ちがこみあげてきます。  成子さん、今まで本当にありがとう。そしてこれからも、天の上から私たちを見守っていてくださいね。


お成さん、ありがとう

宮前 武夫 

山口さんが亡くなったことは、未だに信じられない気持ちでいる。数年前に世田谷から町田へと引っ越して来てからというもの、会う機会もすっかり遠ざかっていたから、彼女が元気で活躍している姿だけを頭に焼き付けてきた私にとっては、なおさらだ。またこちらに来てからも、何回かおみやげを携えて来てくれていたから、ついまたあの人なつこい笑顔で「また来ちゃった」なんて、ひょっこり現れるのではないかと錯覚に陥ってしまう。 山口さんは光明養護学校時代の私の先輩だから、その付き合いも長かったはずなのだが、実際に活動を共にするようになったのは、学校を卒業してからだ。特に、HANDS世田谷の誘いを受けて働くようになってからは、何かにつけ気を配って貰いありがたい思いをした。そんな中で、学校時代には想像もできなかった、心の大きさや自立に対するひたむきさ、そしてそれを実行に移す行動力や情熱を見るにつけ、何か教えられる思いだった。 最後に彼女の声を聞いたのは、電話での会話で、確か今年の四月頃だったろうか。何か声が出にくそうな様子で、身体から絞り出すような声だった。今から考えれば、そのころはかなり頸椎の具合が悪化していたのだろう。「私、そろそろ仕事やめて、ゆっくり絵を描きたい」と言っていた言葉が、今でも耳に残っている。 きっと今頃は天国にどっしりと居座り、「あとは任せたわ」とばかりに気の向くまま好きな絵を描いているに違いない。最後に、重度障害者の「自立」・「介助」の問題をただ自分だけのことに終わらせることなく、全ての仲間たちのためにとHANDS世田谷を立ち上げ、自らの身体をも省みず道を切り開いてくれた山口さんに、心から「お成さん、ありがとう」と感謝の気持ちを捧げたいと思う。

成子さんへ

NPO・自立生活センターHANDS世田谷 望月 芳子 

 成子さんほんとうに逝ってしまったのですね。なぜ先にいってしまったの。しかも急いで逝ってしまったの。もっと話しをしたかったのに。あれこれ思い出します。私をHANDSに迎えてくれた日、それは肌寒く雨の本降りの午後でした。私が買い物から帰ってくると家の前に介助のYさんと紺のレインコートに身を包んだあなたがずぶ濡れになって待っていてくれましたね。確か約束していなかったので、そのまま帰ってしまわれたら、今の私はなかったかもしれなかったのです。そして私に、Y君や仲間達と一緒に自立生活センターを作ったので、手伝ってほしいといってくれましたね。 成子さんは常々言っていました「どんなに障害が重くても地域で自分らしく生きる」生きていいんだよ。と、あのふくよかな、ゆったりとした雰囲気のあなたを見ていると「私もできそう。やってみたい」と何と大勢の仲間達がそれぞれの自立生活を始めたことでしょう。成子さんこそロールモデルそのものでした。とはいえHANDSの草創期から責任ある立場にあり続け、きっと辛いこともあつたと思います。辛さ、嬉しさが混じったあなたの撒いた種は地域に根付き、関った人から人とつながれ日本中、いや地球上に撒かれ実をつけることでしょう。全力で駈け抜けていった成子さん。私のことをいつしか「おかあさん」と呼んでくれていました。もう聞けないのですね。 ほんとうにありがとう。お疲れさまでした。どうぞゆっくりお休みください。   

 合掌



紫陽花の別れ

森山 興平 

それは
六月の末であった
突然。
あなたの死を知らされた
あまりの驚きに
わたしはただ茫然とするばかり
とても元気で居られたのに
言葉がありません
あなたは
いつもニコニコと
誰からも
母親のように慕われ
集まりでは
つねに輪の中心でした・・・・・・
――庭の紫陽花に
その笑顔が浮かびます
ありがとう。
成ちゃん。
次の世でも
また友だちですよ

山口 節子 

成子が亡くなってから早いもので、百か日が過ぎました。こんなに早く亡くなるとは今でも信じられません。まるで悪夢でも見たような気がするからです。 入院する前、のどが痛いと言っていましたが、まさか、あんなにも早く悪化するとは思いもよりませんでした。もっともっと傍にいてあげればと思い出しては悔やまれて本当に残念に思っております。私にとっては、成子の所に行く事が楽しく存在がどんなにか大きかったことか、もっともっと生きていて欲しかったと・・・ 忘れもしないのは成子の出産の時が、強く記憶に残っています。その頃は私が高校三年生の時・・・ 難産で傷ついていた赤ちゃん(成子)が大変弱り切っていたのは、生まれた瞬間で、難産で力尽きた赤ちゃんが仮死状態だったのです、それが母体から羊水がでてから三日間もかかってやっと生まれたのがぐったりしては痛々しくとてもかわいそうでした。 ところが、ウイルスに入り込まれて、その高熱が出たのでいかにも死にそうで医者が太い太い大きな注射を細い足に打ったのが本当に痛々しかったのでした。おかげで身体が持ち直したのでほっとしましたが、今度は気になったのは乳房を吸う力が無く、乳を搾り、スプーンで無理矢理に飲ませました。手も全然動かずにだらーんと力が入らないのが印象的でした。普通の赤ちゃんとは違うなとか不安はありました。三ヶ月の赤ちゃんを病院の検診によると、脳性マヒ障害者と聞かされて、母である姉がどんなにか心を傷められ、育てていく事は大変難儀だったとか、私はよくわかったつもりでいました。 その時から成子の成長をそっと傍に見守っていたつもりでした。このような不自由な身体障害者である成子は一生懸命生きがいのあることを見つけながら健康な人に負けずに生き抜いてきたことに頭の下がる思いです。せめて私と同じ立場(耳の聞こえない障害者)になって、あっちこっちに一人で歩き廻りたいと口ぐせのように言われていました、それを聞いて、かわいそうでならないと思った事が、どれ程あったかわかりません。今度どこかの家に生まれ変わってくる時には健康な身体で、幸せに毎日を送ることを心より願っているのみです。 帰らない旅に出てしまいましたが、今でも、「ただいま」とにっこりと笑いながら帰ってくる成子を感じます。それでもそこにいるようでなりません。 納骨した後、家に車で着くなり、美しい蝶が空高く嬉しそうに飛び立ったのを見て、まるで生まれ変わったように思われて、なんだか哀愁じみた気持ちになりました・・・
「永遠に眠るなかれ」

山崎 富一 

成子ちゃんゆっくりおやすみなさい
私と成子さんとの出会いは、社会教育課主催(当時)の木曜青年学級(毎週木曜日に福祉やボランティアについて学ぶ自主的な学級のこと)に、お母さんの房子さん(故人)を招いた学習会へ一緒に参加されたのが最初だと記憶しています。すでに四半期(古い付き合いですね)が過ぎていますので間違っていたらごめんなさい。 山口成子さんとの思い出はたくさんありますが、そのなかでも世ボ連(世田谷ボランティア連絡協議会)の多くのメンバーと山口成子さんの軽井沢別荘で過ごした二泊三日は思いで深いです。当時20代を中心としたメンバーが一同に集うことで仲間意識が芽生えました。その結果、知る人が知る「世田谷福祉マップをつくる会」や「ハンディキャブを走らせる会」など世田谷の活動の中核を生み出してきたのです。その意味では、あの巨体の成子さん(大きなお世話と言われるかもしれませんが)の存在は大きかったのです。
 その後、私が世田谷ボランティア協会に就職したのち成子さんから障害者の介助や移動についてボランティア要請が寄せられました。私は、難しい要請に介助や介護の問題について一緒に考えませんかというのが精一杯でした。そこで生まれたのが「在宅ケア研究会」です。三年間さまざまな角度から検討を重ねてきました。こうした経過を踏まえて成子さんは自宅を利用してはじめたのがHANDS世田谷の前身でありました。その努力を基に現在の「HANDS世田谷」という当事者による組織をつくり上げたのです。その精神をこれからも守り育てたいと思います。

合掌

 

成子さんとの約束

山下 あずさ 

 その年の暮れ、私は介助生活者として精神障害者として嵐の中にいました。そんな時、成子さんが、「タミちゃん連れて遊びにおいで」と、声を掛けてくれたのです。HANDSの皆様にも可愛がっていただいてきた脊損の愛猫タミオと一緒に、成子さんの部屋で過ごした心安らぐ時を忘れません。  美大生時代に、「彼女が気になって絵が描けない」と医務室に『隔離』された苦い歴史。 「あずさちゃん、私そこでやめたら負けだと思ってね。障害者に生まれたのは、仕事だと思ってる」。柔和な笑顔の背後に静かに点りつづける炎のような意思を感じました。成子さんから自伝の口述筆記を頼まれた時、シナリオ教室に通っていた私は、「障害をもった女性が主人公の朝の連ドラ書きます。字幕と声の解説のついた、本物のバリアフリードラマのヒロインのモデルになってもらってもいいですか?」と意気込み、賛同してもらいました。そのときの嬉しさ。人は立場を越えて手をつなぐことができる、一緒に抑圧を変えていけるのだともう一度信じ直すことができたのは成子さんのおかげです。  今生を終えられ、ご自宅に戻られた成子さんの周りは清冽さに満ち、明るい光のような精霊のような存在がたしかに共にいるのを感じました。成子さん、やさしさを本当にありがとうございました。約束と、私の「仕事」を果たすまで、まだそちらに行けそうにありません。

成子さんへ

山田 美和 

 成ちゃんとの出会いは、一二年前、私が大学生の時だった。堀ノ内病院入院中の介助者募集のビラを見て、友人達と誘い合って病院へ行ったのが始まりだ。私はそれまで障害をもった人との接触など殆ど無かったが、介助を始めて新しい世界がぐっと広がった。人間的にも世田谷に、彼女に、育ててもらったという感がある。ソーシャルワーカーという仕事を選んだのも、彼女との出会いが出発点だったと思っている。介助から遠ざかって約二年。急な訃報に、にわかには信じ難かった。葬儀で、穏やかな顔をして眠る彼女に会い今までの様々なことが思い出された------出会った頃は、公共の乗り物を使って夜も遅くまでよく出歩いた事、勉強会、集会等あちこちに出掛けた事、恒例だった長電話、お風呂や泊まり介助の時には、議論したり語り合ったりした事等々------。もっともっと先に、こんな話を彼女としたかったのに、あまりに早いお別れに、心から泣いた。彼女は、障害を持つ者として、そして一人の人間として、弱い面も沢山見せてくれた。  いつだったか、HANDS世田谷の次の夢は、アトリエで障害のあるなし関係なく絵を教える事、と話していた。今頃、きっと天国で実現していることを信じて。
 成ちゃん、本当にありがとう。

 

成子さんに感謝

 山田 洋子 

 

「巨星墜つ」などと言えば、成子さんに『体のことですか』と返されそうだが、私にとって彼女の存在は正に「目のウロコが落ちる」程の感動の日々の連続でも在り、介助を離れてからも、自分の後の人生を変える大きな切っ掛けに成った、忘れ得ぬ人でありました。未だ保守的な世代に育った私は幼い頃、田舎の古い屋敷の奥に座敷牢が在ったのを鮮明に思い出す事が出来ます。詳細を知ったのは、成人以後のことですが、障害を持たれた方に接することが少なく、平成元年、夫の転勤で上京して、成子さんに御逢いしたのが初めてでした。御近所で数人の車椅子の方がバザーを開いておられ、「収益はどの様なことに活用されるのですか?」とお声をかけたのが始まりです。残存機能をフルに活用して一生懸命説明して下さる姿に感動して、私は成子さん達の虜になりました。ハンズ世田谷誕生一年前のことです。次の日まだ西も東もわからぬ新宿に彼女を助手席に乗せ車を走らせていました。七年間専従介助をさせて頂く初日の出来事でした。政党毎に区議会議員訪問陳情、助役訪問陳情、企業訪問と寄付金募り、大学講演と介助者募集等、あのインパクトの強い顔と体で説得してまわられました。渉外活動は得手で、恐らく健常者が百人かかっても太刀打ち出来ない位の活躍ぶりでした。営業畑の夫からお墨付きをもらう位、素養は備わっておられたと思います。「自分自身を述べ伝えることが私の使命」と誇りを持って話されました。残された私の使命は「お役に立つよう自分を活用します」。
キラ星の 光芒放ち 失せにけり
        かたき手と手の ぬくもり触れん


山口成子 様

山中 華代 

米国大学院留学、残り半年というとき、成子さんご他界の報告を受けました。今年一二月の修士号授与式の写真、成子さんに見てもらいたかった。 一九九五年春、亜細亜大学の特別講義を契機に、大学時代の四年間成子さんの介助に携わらせて頂きました。強靭かつ前向きな精神力、生きる力、暖かく、広大な人間性に引き付けられたのです。成子さんの介助を通じて学んだこと数え切れません。一度だけ衝突したこともありました。理由は忘れました。他愛もない親子喧嘩に似たようなものだったと思います。ときに親子のように、また友人のように、姉妹のように。映画を観に行ったり、食事や買い物に出かけたり、卒業祝いを兼ねて、温泉旅行に連れて行っていただいたり、渡米前の出発祝いをしていただいたり。この日、一九九九年七月三〇日、 私にとって成子さんにお会いした最後の日となってしまいました。 成子さんがご他界されたのが未だ信じられないのですが、それも多分彼女の魂が私の中で生き続けているからでしょう。留学の目的は、障害者、高齢者に関わらず、誰もが楽しめるレストランを社会に提供するために、Purdue University の Hospitality & Tourism Management でキッチン、ダイニングルームのレイアウト・デザインを専攻しています。成子さんの影響を受けた方々は沢山いらっしゃるとおもいます。それぞれの得意分野における頭脳、知識、技術の集結が住み良い社会を創造する原動力になると信じております。 成子さん、安らかにお眠りください。

 


 

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