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目次
表紙
成子さん作品集
追悼文集
写真集

 


山口成子さん追悼文

樋口 恵子   

しげちゃん、オケイちゃんと呼び合っていた私たち。知り合ったのは、87年ごろですから14年間の時々を共有しながら、自立生活運動をともに進めてきました。
今でもハンズに行けば「オケイちゃん」と言って迎えてくれそうな気がします。
人に安心感を与える鷹揚な受け答え、ゆったりと時が流れていくしげちゃんとのひと時でした。
カナダ、アメリカ、フィリピンと海外にも一緒に行きましたね。「男性の介助者を入れることにした」と言う決断を聞かしてくれたとき、できるだけ身軽に動くことを羞恥心よりも優先したしげちゃんに、もっとバリアフリーが進んでいけば、解消できるのではないかと思ったものでした。
私の中に残っているしげちゃんは、「オケイちゃん相談があるので、時間を作って、会いたい」と言うことばが今でも私の耳に残っています。
私のほうが、どんどん忙しい日々を送ることになり、なかなかゆったりとした時間をしげちゃんともてなくなっていったある日、危篤の知らせを聞きました。数日前に、ともに自立生活運動を進めてきた女性障害者が亡くなったと聞いて心を痛めていたところに、突然入ってきた知らせでした。
これまで何人か仲間を失ってきましたが、私の中には、女性はピアカウンセリングとの出会いや、自分のありのままで無理をしない生き方を選んでいる人が多いから、と安心していたような気がします。
しげちゃん、ごめんなさいね。もっともっといっぱい話したかったよね。あなたのほんとうの強さ、優しさ、暖かさにみんなどんなに助けられていたか知れません。ほんとうにありがとう。私の中にあなたは生き続けます。


山口さん家の…成子さん 

食べることが大好きで、事業家だった山口成子さんを偲ぶ

光明養護学校・小学部同窓生、平田 浩二 

成子さんと言うと、40年程前の小学生時代を、思い出します。片親の一人っ子家庭に育ち、その母親が働いていた為退屈だった私は、当時から銭湯をされていた都立光明養護学校同学年の山口成子さん家に、お風呂に入ることを一つの目的として、かなり頻繁に遊びに行きました。ですから、成子さんを始め山口家のご家族、銭湯で働く従業員の方々に、大変お世話になったわけです。その頃の彼女は『小太りの食べることが大好きな女の子』といった印象で、成子さんというよりは『シゲコチャン』でした。
ご承知でしょうが、彼女のご家庭は、「お母様が世田谷区肢体不自由児者父母の会の会長職等で活躍され、銭湯等の経営はお父様が引き受けてお母様を支え、『シゲコチャン』の介護はご親族や銭湯の従業員の方々がされる」といった具合で、とても協力し合っているところという印象があります。
お母様が亡くなられて、成子さんが一人の障害者としての自立を模索され始めた後に、縁あって『HANDS世田谷』の設立準備に少しだけ関わらせていただいた際、彼女の活動家と事業家としての才覚を強く感じました。きっと、ご両親の良いところを受け継がれたのでしょう。お父様には少し反発していたようですが、彼の後を追うようにして逝ってしまったのがとても残念です。まだ早いよ!
 シゲコチャン…。ご冥福を心からお祈りします。

原色のお成さん         

藤村 和子

成ちゃん、カコちゃんと呼び合った仲
華道部で知り合い 先輩後輩の関係だった
花を生ける楽しさを身体で教えてくれた貴女
社交的なあなたにひかれた私
油絵という道を選んだ私達ふたり
二人の夢は砂が舞うように
脆くくだけ去った
恵まれた環境に甘んじる事なく
あなたは素早く発想の転換
介助を入れての自立生活
あなたが云った言葉の重み
当時は、解ってあげられない私だった
ご免ね成ちゃん
今 貴女が云っていた言葉
私の心に鮮明に響きよみがえる
夏のひまわりのように力強く輝きを増す
淡いパステルカラーの虹の希望と
実社会に暖色と寒色があること


教えてくれた貴女
良さも悪さもさらけだした貴女の生き方に
生きる意欲が与えられた仲間たち
も多い
貴女が蒔いた夢の種は
世田谷という地域の中で
根付き始めようとしている
環境が整えられずにいる仲間のことが
さぞ心残りだったでしょう
天国で再会した時は
良いおみやげ話しが語れるように
与えられた命を無駄に使う事なく
楽しく心の中のあなたと対話しながら
この悲しみを乗りこえて生きたい

二又 由希子 

6月19日、午後7時。

連絡を受け、病院へ向かう。途中、偶然会ったスタッフと共に2台連なって自転車を漕ぐ足は、何時にも増して回転が速い。何度も通ったことのある道だったが、きっと独りでは病院に辿り付くことが出来なかっただろう。
外は雨。あまりにも衝撃的な知らせだった。
お逢いしてから今まで、様々な姿を目で追ってきた。
知人が入院すると誰よりも先に大きなお花を持って駆けつける姿。
「スタッフの給料をあげよう」と、必死になって考えてくださっている姿。
ペーパードライバーの私が運転する車で、バックミラー越しに見た不安そうな姿。
「一人でいたいから」と、事務所の外でポツンとしていた後姿。
多くのことを口には出さずに耐えている姿。
人間は、欲を求めて生きている生き物だと、私は思う。
一つの事を手に入れると、もう一つさらにもう一つと次々と手に入れようとする。「欲張り」になる。しかし私は、「欲張り」でいいと思う。一つの事を追求し極め、本当に手に入れたいと思うのならば「欲」は、一つの術であると思う。
私が欲張りになれるのであれば―
成子さんと、もっと話がしたかった。
もっともっと、私の話を聞いて欲しかった。
成子さんが考えていることについて、もっと話し合いたかった。
「ゆっこ、それは違うのよ」と、小生意気な私を叱ってほしかった。
六月二三日。皆さんに見送られたまさにその時、私の姉が予定日より早く赤ちゃんを生みました。甥の年齢が、成子さんと離れてからの時間を私に知らせてくれるのですね。
「死」と「生」。「この世を去る命」と「この世に誕生した命」。
成子さんと過ごした時間を大切にします。ありがとうございました。



HANDS世田谷スタッフ
堀内 万起子 

追悼文?何を書こう。書きたくないなあ。それが今の正直な気持ちです。 今、HANDS世田谷の事務所でこの原稿を打っています。成さんが居ないとガラントヒロイヨ、コノ事務所。前の代田の事務所は狭かったですよね。トイレを使う時には四分の一場所を取られてしまうので外の道路へスタッフが移動したり、私達の机はシャッターを下ろしたガレージに手を加えたスペースにありました。 その頃、私は実家から通勤していて、よく成さんの車に便乗させて頂いてました。実家と成さん宅は運命的にも目と鼻の先でしたから。沢山の場所に連れ出してくれました。沢山の方々に会わせて頂きました。そして沢山の話を私にしてくれました。どれだけの沢山を私は成さんから受け取ったのでしょう。 あの笑顔、安心感、包容力・・・手のひらいっぱい、腕の中いっぱい。でも、もっと持てますよ、私。会いたいです。とっても。とっても。あ〜、だから書きたくなかったぁ。あっ、成さんが写真の奥でこう言ってる、「まき、XXXXX。」XXXは内緒。「有り難うございます、ガンバリますっ!」これが私の答えです。「ガンバラなくってい〜いんだって。(^0^)」「はい。」・・・ 師弟関係はまだ続いています。これからも叱咤激励宜しくお願いします。
大好きな成さんへ。まきより。

成子さんを偲ぶ

世田谷区施設サービス課障害者就労支援 前田 健一 

『出会う』
 気が付いたら長い間お付き合いいただいていたが、いつ頃知り合いとなったのか全く記憶がありません。振り返って数えれば、二〇年前とか数字が出てくるでしょう。しかし年数などは問題ではなく、私たちの間では言えるのは、障害者の、「完全参加と平等」並びに「主体性の尊重」の理念の実現という理想を目指す、生来の友人であっただろう事です。

『讃える』
 ふとした切っ掛けで山口さんは、障害者が地域で生き続けるためのシステム作りを考え、同志の仲間と用賀の自宅で開始したあの取り組みが「ハンズ世田谷」を誕生させたのです。あれから一〇数年、事務所開設、都地域福祉振興事業や国の市町村自立支援事業の実施、世田谷福祉のまちづくりネットワーク活動など次々と取り組みを重ね、ハンズ世田谷と障害者の地域生活支援を前進させて来た、素晴らしい、決意の人、山口さん。
 知る人はあなたの中に、ひまわり荘や梅ヶ丘実習ホームの開設で奮闘され、国際障害者年の年までの九年間、肢体不自由児父母の会三代目会長を勤められた、敬慕の人、あなたのご母堂山口房子様を みているでしょう。

『偲びつつ、謝す』
 先見の明と強い信念を持ちながら、偉ぶるでもなく、お母様に似たあの、人を包み込むふくよかな表情と「私がやらなければだれがやるのよ」との決意を滲ませて私の前に現れ、私の心に住みついてしまった山口さん。
 入院時のお見舞い、愚妻の葬儀でのお志しありがとうございました。
あなたさまのご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

 

山根幸子

「その線がまさにあなたの個性なのだから、それを生かした絵を描 けばいい。」
山口さんが美大に入学して、みんなと同じように描けなくて悩んでいたとき、ある先生に言われた言葉だそうです。それ以来、希望を持って、つらいことがあっても何とか卒業できたの、私がとても好きなエピソードです。上野毛の急坂を、パトカーに先導されて、電動車椅子をジグザグ運転して下りてきたという話もありましたね。5〜6年ぐらい前はよく一緒に旅行にも行きました。秋田、岡山、そして九十九里……。そんなときはいつもお互いに若き日の武勇伝を語り合っていましたね。グルメの山口さんと海の町を旅するのはとても楽しいことでした。 仕事でも随分お世話になりました。常時難問が山積みでしたが、山口さんが怒ったり、説教をしたりといったシーンは思い出せません。何も言わなくても、多くのことを感じさせ教えてくれる人でした。無邪気さと威厳をこんなに自然な形であわせ持った人を、私はほかに知りません。 最後にお会いしたとき、そろそろゆっくりしたいなあ、とぽつりと。何言ってんのよ、といつもは笑っていた私も、それもいいわね、などと言ってしまいました。ちょっとひと休みしたら、天国でまたいっぱい武勇伝をつくってね。いつかどこかで会えるよね。

山口さんを偲んで

HANDS世田谷 事務局長 横山 晃久 

山口成子さんとの出会いは養護学校を卒業して、父母の会青年部の部長をしていた時からの御付き合いで、28年間一緒に活動をしてきた大親友でした。山口さんとはいろんな活動をしてきた仲間として、思い出がいっぱいあるのですが、とても残念たまりません。私としては、片腕をもぎ取られた様で、悔しい気持ちでいっぱいです。
 私が初めて山口さんと会ったのは、青年部の活動の中で28年前の旅行の時でした。伊豆の修善寺にバスに乗って26人ぐらいで、皆で楽しく一泊旅行に行ったことです。
 それから山口さんとの付き合いが始まり、私の家まで電動車椅子を1人で操作して2時間かけて遊びに来て、いろんな事を話し合っていました。夏は汗を吹き出して、私の家に着いたら、洋服の着替えを持ってきており、すぐに着替えていました。また冬には寒いと言いながら、汗をかいていました。山口さんと私は何でも言い合えて、相談が出来合う関係でしたので、とても寂しいし悔しい思いがいっぱいです。
 そして15年前から、安心して重度障害者が地域で暮らしていくためには、介助者の問題が一番大きく、「世田谷」という地域でこの問題を解決していこうとハンズ世田谷の準備会を作りました。それから2年後の春にハンズ世田谷は、山口さんのアトリエを安い部屋代で借りて設立しました。
 山口さんの死が余りにも急だったので、この場をかりて山口さんの病状と病院の対応を載せて頂けます。6月16日の朝に風邪気味だったので、近くの医者に行ったのですが、休みだったので関東中央病院に行きました。診察を受けた結果、肺炎なので緊急に入院した方がいいと医者に言われて、その場で入院しました。それから医者のとった態度が、腑に落ちない事だらけでした。普段から山口さんは呼びかけの反応が鈍く、しばらく間を置いてから返事が返ってきます。ところが看護婦が呼びかけてもすぐに返事が出来なかったので、医者も看護婦も慌てて人工呼吸器を体の中に入れないと、心臓が止まってしまうのでと言われて呼吸器を入れました。ところが体の状態が悪くなる一方で、改善の兆候が見られませんでした。口から人工呼吸器を体の中に入れているので、意識はあってもしゃべれず医者のされるがままの状態でした。それからもう一つ腑に落ちない事は、肺炎で入院したにも関わらず、レントゲンの写真を見ても肺には何一つ影も無く、肺炎でないことが解ったのでした。それから点滴の種類が余りにも多かったので、問い詰めたところまともな答えが返ってこないで、「何でも効く薬なので心配しないで下さい」と言うだけでした。といった具合で山口さんは亡くなりました。山口さんの死を無駄にしないように、病院関係者に対して、重度障害者の生活状況と言語障害者の対応の仕方を書いたマニュアルを当事者である我々が作成するといった行動を起すべきです。それが山口さんの死を無駄にしないために、僕らの出来る事ではないかと考えます。
山口成子さんお疲れ様でした。山口さんの笑顔が僕らの心の中にいつまでも残っています。心よりご冥福をお祈りいたします。
最後に今でも、山口さんは長い旅行に行ってる様な気がして、いつでも『ただいま』と帰ってくるような気がしてなりません。とても亡くなったとは思いません。


僕と山口成子さんのこと

     吉田 知未 

 成子さんが亡くなった。
 成子さんと初めて会った時のことは、忘れた。最後にいつ会ったかも思い出せない。初めて会ったのは僕が大学に入って、ボランタスで上田さんを紹介され介助を始めたころだから、1992年。卒業してからは顔を合わせてないので、五〜六年は会っていない。
 大学時代、これぐらいの時間(今は深夜の一時ごろ)、によく成子さんから電話がかかってきた。自立して生活していくこと、『HANDS世田谷』のこと、世田谷の仲間のこと、ボランタスがこれからどうなっていけばいいか・・・必ず二、三時間は話してたような気がする。といってもほとんど成子さんが話すのだが。今のボランタスのメンバーも、いろんな形で成子さんのメッセージを受け取っていると思う。ボランタス、が現在の活動の形になったのは、成子さんと、上田さんの力によるところが大きい。学習会や『お宅訪問』(家にみんなで押しかけて生活の様子をみせてもらい、いろんな話をしたのです)にも、いつも力になってくれた。僕達にとても期待していた。僕達を、育てよう、という熱意を感じた。昔、上田さんに「もし結婚するなら上田さんと成子さんに仲人をしてもらおうとおもっているんです」と言ったら「仲人ってのは、夫婦がやるもんなんだよ」と笑われたことがことがあった(そんなことも知らなかった)が、何の留保もなく信頼できるのは、上田さんと、そして成子さんだった。
 ずいぶんと世話になったのに、久々に再会したときは亡くなっていた。僕などが追悼文を書くのは心苦しい。成子さんすみません。
 でも、亡くなってしまった人にはもうなにも伝わらないのだから、追悼文は結局、成子さんではなく、僕自身、残った人たちへのメッセージになってしまう(だけどそれでいいと思う)。ある人は「大切な人を失った時に嘆くのは、間違っている、嘆くのは失う前にその人とすべきことしなかったからだ、だから僕達は今のうちにその人とできるかぎりのことをしなくてはならない」と言って、誰かが亡くなる度に僕はこの言葉を思い出す。山田圭さんの時もだ。結局のところ、メッセージはこれになる。でもボランタスのメンバーは、特に成子さんの介助に入っていた人はショックだったと思います。僕もなんともいいようがない。ただ、成子さんが望んでいたことを、思い出して、成子さんがいなくなった後でも何か続けていってほしいと思う。
 告別式の会場には多くの人が集まった。僕も成子さんと最後のお別れをした。やりたくてやり残したことがたくさんあっただろうに、と遺族の方が言われていた。どうだったのだろうか。
 成子さん、これまでありがとうございました、お疲れ様でした。安らかにお眠りください。

 


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