涼風輝 様 まずは手短かに、近況からご報告いたします。 先日、岐阜の現代陶芸美術館へ行ってきました。「ロシアアヴァンギャルドの陶芸展」を観るためでしたが、途中の国道19号は天気、景色、道の空き具合ともに快適でしたし、磯崎新がデザインした現代陶芸美術館のたたずまいも、ついでに観ておくぶんにはそれなりに興味を引かれるものでした。 そして肝心の展覧会も予想以上の充実ぶりで、マレーヴィチやカンディンスキーのデザインしたカップやソーサー、ロドチェンコの設計図をもとに実際には作られなかった作品を再現した「ロドチェンコ・ルーム・プロジェクト」など、さまざまに刺激的でした。 カップやソーサーは、作品名が『トラクターを運転する農婦』だの『働く者食え』だのといった、旧ソ連独特のエキセントリックなものばかりでした。ちょうど雑誌『Pen』(※註1)の七月一日号が、この展覧会に連動して「東欧&ロシアのレトロ・デザインを見直せ」という特集を組んでおりますので、興味をもたれたらご一読ください。 ソ連の話は後でまた出てくるのですが――どうやら僕のなかで、ソ連が只今ブームのようです。こないだからヤフーオークションで旧ソ連製のスプーンだの、コモソール(青年共産同盟)バッジだの、プロパガンダカードなどを買い漁ってはいじくっております。 それにしても、「Pen」とか「サライ」とか「シンラ」とか「大人の隠れ家」とか、あのての雑誌に興味を持ちはじめたら、もしかすると中年の入り口なのかも知れませんね。 さて打ち合わせ段階から話題もちきりの同時多発テロなのですが、最後にメールした時にお知らせしましたとおり、「常に目覚めていることの困難さ」にある程度まとまった意見を掲載しておきましたので、お手数ですがまずはそちらをお読みいただければと思います。 そこで拙いながらも展開した議論を補強するかたちで、この書簡ではもう少し広い視野から――すなわち現代史そのものを視野に入れて語り始めたいと思います。 あのコンテンツを書くために同時多発テロやテロリスムそのものについていくつか本を読んだのですが、興味深かったのは、幾人もの論者に見られる「9.11非重要論」とでも呼ぶべきものでした。つまり9.11は衝撃こそ大きかったものの、その歴史的意義については過度に大きく見積もるべきではない、という意見です。 これはコンテンツで論じた「タリバン非重要論」よりもずっと頻繁に目にする意見でした。では、その含蓄はどうなのでしょう? たしかに「区切り」という意味では、ベルリンの壁崩壊からソ連邦解体に至るプロセスのほうが、9.11よりはるかに重要だったと言えるでしょう。また湾岸戦争やこないだのイラク戦争と9.11を比べてみても、同じことが言えるのではないか。 涼風様の影響もあってこのごろ読んでいるスラヴォイ・ジジェク(※註2)は、多分に皮肉を込めてこんなふうに云っています。 それではあらゆるところで響いていることば、「9月11日の後ではすべてが変わる」とはなんのことなのか。意味深くも、このことばはけっしてそれ以上掘り下げられない――なにを言いたいのかはじつは知らぬまま、なにか「深い」ことを言おうという空虚な身振りなのである」(現代思想vol.29-13『総特集 これは戦争か』) 僕自身、9.11についてあれだけもったいぶった文章を書いておきながら云うのもなんですが、あの事件は冷戦以後のパラダイムを変化させたわけではなく、「顕在化」させたに過ぎない。だから事件そのものの規模は大きく悲惨であるとはいっても、これによって歴史がまったく新しい段階を迎えただとか、そんなふうには思えないのです。 しかしそう言うと、「顕在化」したパラダイムというのはなにやら『文明の衝突』のようなものに聞こえるかも知れない。しかしコンテンツでも書きましたが、ハンチントンの本は「いえてる感」によって成り立っている典型的なベストセラー論法で、まあ当たるも八卦当たらぬも八卦、みたいなものですよね。 『文明の衝突』、というより民族対立は、冷戦時代にだってけっこうあったのではないでしょうか。たとえば、ソ連のアフガン侵攻はどうでしたか。 あの戦争は、たしかに表面的にはソ連がアフガニスタンに社会主義政権を擁立しようとして始めた、きわめてイデオロギッシュな戦争でした。けれどそこには、冷戦以前どころか二〇世紀以前から続いている、ロシア人とアラブ人のそもそもの民族対立があります。 アフガン・ゲリラたちにしても、アメリカの強力な庇護を受けていたという点では確かに代理戦争をやったようなものでしたが、彼等自身の動機は純粋なナショナリズムだったはずです。ラディンなどはその最たる例だと思います。 ……と、ここまで話を振ったところでおもむろに話題を変えます。というのは単に、同時多発テロおよび現代史については、このあたりで涼風様のレスポンスをふまえたほうがよいと思うからです。 専門からいっても、元来ならば上の話題については涼風様のほうから始めたほうがよかったのかも知れません。まあそれはやむを得ないとして、ここまでのところ、どのようなご意見をお持ちでしょうか。 さて、いろいろ語りたいことはあるのですが、ひとまずはTRPG(※註3)……ではなくて文学についてです(いやTPPGでも大いに結構ですが)。 『涼風文学堂』の「はじめにお読みください」を拝読するかぎり、涼風様は文学について、いかに言葉が現実に食らいついてゆくのか(ゆけるのか)という関心をお持ちのように見受けました。あ、勝手に自分の言葉にしてすいません。 僕は神話・民話といったものが好きですし、それを題材とした綺譚もの、たとえばボルヘスやユルスナール、日本でいえば澁澤龍彦などがかなり好きですので、必ずしも文学にアクチュアリティが必要だとは思いませんが、涼風様もなにもアクチュアリティだけが文学にとって重要だと仰るわけではないと存じます。そういうこととして了解させていただきますが、かまいませんね? 涼風様は「はじめにお読みください」のなかで、町田康や中原昌也の名前を挙げておりますし、書評「王様は裸だ、と叫び出すことのできない哀れな大人たちのために」でも中原昌也を取上げております。 まったく偶然にも、このごろ僕は町田康と中原昌也の小説をそれぞれ数冊ずつ読んだのですが、これを読んだ動機はたしかに、文学の言葉はいかにして「いま、ここ」に食らいついてゆけるのか、という涼風様が抱いている問題意識に近いものでした。 『ヴィレッジヴァンガード』はご存知でしょうか? 町田康や中原昌也はもちろん普通の書店にも置いてありますが、ヴィレッジヴァンガードでは主役級の位置を占めています。 ヴィレッジヴァンガードに来る客と町田康や中原昌也を読む読者とは、おそらく同じようなものを期待しているのだと思います。つまり「現実に食らいついてゆく」ための処方箋という役割が、町田康にも中原昌也にも、そしてヴィレッジ・ヴァンガードにも期待されているのではないでしょうか。そうであれば、ヴィレッジ・ヴァンガードの他の商品がたとえば根本敬であったりドラッグ本・鬼畜本のたぐいであったりすることにも納得がゆきます。ああいう「剥き出しのもの」にわれわれはリアリティを感じ、ああいうものを求めている。さもなくば正反対の、澁澤龍彦や寺山修司、江戸川乱歩に稲垣足穂といった幻想怪奇な世界に逆説的なリアリティを求めている。いずれにせよ、そうとうに「重症」なことだと思います(悪い、というのとは少し違いますが……)。 ところで僕は、両者のうちでは町田康の完成度の高さのほうを評価したくなります。中原昌也のスピード感もわからないではないのですが(おそらくその部分では町田靖を凌駕していると言えるのではないでしょうか)、構成力、文体の洗練度、人物描写や情景描写といった部分で、他の小説より楽しめたとは決して言えないのがしんどいです。 ところで平野啓一郎ってどう思います? ホームページの書評コーナーで『日蝕』か『葬送』、できれば両方やってもらえません? いえご自由にしていただいていいのですが。 さて、あまりまとまっているとは云えませんが、このあたりでひとまず涼風様のお返事を待とうと思います。むやみといろいろな話題をふったのは、今後の展開に幅を持たせるためと思いご了承ください。 いろいろな話題ついででいえば、東浩紀と笠井潔の対談本『動物化する世界の中で』というのもありましたね。べつだんこの企画はあの本を真似したというわけではないのですが、時期が重なったため多少は意識しました。しかし、決裂をおもしろがるという風潮にはどうもなじめない。やはり噛み合った議論のほうが読んでいて得るものが大きいと思うのですがどうでしょうか。 もちろんすべての話題にお答えいただく必要はありません。お好きに取捨選択してください。また涼風様のほうから持ち出したい話題がありましたら、ぜひともお書きください。 それでは――僕のほうは七月もソ連ブームではないかと思います。飽きっぽいのでそう長く続くとは思えませんが。 涼風様からの返信が届くころには相当に暑くなっているでしょうね。 お返事お待ちしております。 |
六月二十九日 馬頭親王 拝 |
(※註1)
阪急コミュニケーションズhttp://www.hankyu-com.co.jp/より月2回発売の、小金と若干の暇を持った層をターゲットにした男性誌。ワールドトレンドが7割、食い物と車と万年筆その他もろもろで残り3割。いつも行く美容室で涼風も愛読してるってのは内緒だ。 (※註2) スラヴォイ・ジジェク[Slavoy_Zizek]……1949年、スロヴェニア共和国リュブリアナ市生まれ。リュブリアナ大学社会科学研究所教授。ラカン派マルキスト。歯に衣着せぬ(実も蓋もない、とも言う)物言いと、多作が特徴。邦訳で読めるものは『為すところを知らざればなり』(鈴木一策訳、みすず書房)、『いまだ妖怪は徘徊している!』(長原豊訳、情況出版)ほか多数。最近『現代思想』(青土社)でよく見かけるのは、何か事件があるとすぐに何か書いてくれるから、とりあえずジジェクさえ載せておけば雑誌が共時性を失わないですむのだろう、きっと。 (※註3) 「テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム」の略。知らない人には説明するのが難しいので、「まあ、やってみれば分かるよ」といって紹介されるのが一般的。ダイスと演技力とノリのいいメンバーがあれば、いつでもどこでも遊べるゲーム。RPGと聞いて「ドラクエ」等のコンピュータRPGしか思いつかない輩は、つべこべ言わずまず遊べ。 |
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