「あの空の青さが途方もなく気にかかるので……」





 馬頭親王  様


 まずは暑中お見舞い申し上げます……とはいえ梅雨も明けきらぬ昨今、こちら(千葉)は酷暑と梅雨寒が交錯する、不快指数高めの陽気が続いております。そちらはいかがでしょうか?
 馬頭様の真似をして、私の方も近況など少々。運転免許の更新時期が来たので、一日休暇を取って免許センターに行ってきました。特定任意講習を受講済みだったので更新はわずか三十分足らずで手続きが終了し、残った半日をどのように過ごそうかと考えた挙句、津田沼のテアトルシネパークで『ボウリング・フォー・コロンバイン』(※註1)を上映していることに思い当たり、映画でも見に行こうと決めたのでした。こちらは道中快適とは行かず、映画館に着いてみると上映時間は一日二回、午前十時十五分と午後八時。時計を見ると午後二時半。……おかげで近所のエクセルシオール・カフェで、一杯のアイス・メイプル・ラテと三冊の文庫本を相棒に、五時間にわたり時間つぶしをするという、二十余年のうちでも初めての経験をさせて頂きました。……いや、初めてじゃないかな。中学生の頃、発売直後のスーパーファミコンを買うために、量販店の店先に一晩並んだことがあったっけ。
 閑話休題。
 まずはTRPGの話……は一旦脇に置いておくこととして(機会があればそちらにも話題を振りたいと思いますが、今はそちらに話題を持っていく適当な理由が思いつかないので、またいずれ)9.11の話から始めさせて頂こうと思います。
 さて、件の同時多発テロに関しては、百家争鳴、有象無象も加わって、本当に様々な議論が戦わされたところです。「9.11非重要論」はそれらにとどめを刺すものであり、また、ヴェトナムやニカラグアや、記憶に新しいところではコソヴォに思いを至らせるとき、「9.11非重要論」も相当な妥当性を持った論であることを認めざるを得ません。
 しかし、私はここで一つの疑問に行き当たります。「それでは、仮に《9.11》がまったく重要でなかったとして、なぜこれほど多くの人々が《9.11》について『何か』を語ろうとしたがるのか?」
 馬頭様が先の書簡で引いたジジェクは、同じ論文『現実界の砂漠にようこそ!』の中で、以下のようにも語っています。

 ニューヨーク市民は「現実界の砂漠」に導き入れられた――いっぽうハリウッドに毒されているわれわれは、崩れ落ちる高層世界貿易センタービルの映像を見ても、巨額の制作費で撮られた大災害の息を呑むようなシーンしか思い出さないのだ。
(『現実界の砂漠にようこそ!』S.ジジェク、
現代思想vol29-13「総特集 これは戦争か」より)

 9.11同時多発テロは、政治史的にはさしたる重要性を持たず、到底ベルリンの壁やソヴィエト連邦の崩壊に及ばない――それは確かに、歴史=物語の伝統的な紡ぎ方に照らして、妥当な論ではないかと思います。一方、経済史的にはどうでしょうか。F.フクヤマが逆説的に明らかにしたように、われわれの生きる資本主義社会というのは決して不動の一枚岩ではなく、絶えず変化の波に洗われています。
 先に挙げたマイケル・ムーア渾身のドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』について、ここで少し言及しておきましょう。ムーアのここでの主張は至って明快です。彼は大企業・大メディアと政治が、本来なら銃犯罪を抑止する手立てをいくらでも取れるはずなのに、各々の権益のためにその努力を怠っていることを問題化します。彼の主要な論点として、メディアが受け手である大衆の恐怖心を煽ることと、購買意欲=需要を煽ることとが結びついている、という指摘があります。
 われわれの生きる現代資本主義社会は、その存立のために、常に新しい需要を開拓し続けることが不可欠であり、自ら需要を発生させる機能を組み込むことでシステムが完成したことを、既に見田宗介が指摘しています。

 このようにして〈情報化/消費化社会〉は、初めて自己を完成した資本制システムである。自己の運動の自由を保障する空間としての市場自体を、自ら創出する資本主義。人間たちの欲望を作り出す資本のシステム。資本制システムはここに初めて、人間たちの自然の必要と共同体たちの文化の欲望の有限性という、システムにとって外部の前提への依存から脱出し、前提を自ら創出する「自己準拠的」なシステム、自立するシステムとして完成する。
 〈情報化/消費化社会〉は、誤解されているように、「純粋な資本主義」からの逸脱とか変容ではなく、〈情報化/消費化社会〉こそが初めての純粋な資本主義である。
(『現代社会の理論』見田宗介、岩波新書)

 他方でこうした世界経済システムは、外部の環境に限界を持っているのですが(金子勝はこうした現状を「バブルのフロンティアが食い尽くされ始めている」(『長期停滞』金子勝、ちくま新書)と指摘しています)その話はひとまず置いて、ここでは一つの新しい議論が可能になったことに注目しましょう。つまり、今や世界全体を単一の社会システムとして語ることが可能になった、ということです。
 そんなものは今になって始まった議論ではないだろう、というのはもっともな意見です。ここでもベルリンの壁とソヴィエト崩壊に比して9.11のインパクトは小さい、そうした意見も十分に考えられるところです。
 しかし私は、この点において《9.11》を、それこそベルリンやソヴィエトより重要視したいのです。つまり、《9.11》において初めて、問題は「システムの内側の問題」として顕在化したのだ、と。
 《9.11》は、少なくとも現時点までの報道を見る限りでは、アフガニスタンという「持たざる国」を支配する独裁政権(タリバン)からアメリカという世界随一の「持てる国」への攻撃であった、という説明が可能です。ひどく乱暴な議論をしましょう。今や基軸通貨を持ち、世界市場の奥底まで入り込み、世界中のマネーがアメリカに還流するという世界経済システムを手に入れたアメリカが、結果として生み出した「最貧国」から攻撃を受けることによって、新たな「恐怖=購買意欲を刺激するコード」を獲得したのだとしたら?それは悲劇というよりむしろ、パクス=アメリカーナの覇権経済システム完成を知らせる、福音だったのではないか?
 ――想像するだにグロテスクな話ですが、私には未だに「当局は事前に同時多発テロの発生を察知していながら、何ら対策の手立てを取らなかった」という「CIA陰謀説」が頭にこびりついていて、離れません。それほどまでにあの同時多発テロは、アメリカという主体の存立において好都合だったのです。実際そんな陰謀説すら想起せずにおれないほど、《9.11》は、ITバブルが崩壊しつつあったアメリカ経済にとって、好材料として展開していったのでした。このメールを書いている二〇〇三年七月現在、アメリカを中心とした世界経済は、非常に好調です。
 馬頭様が「常に目覚めていることの困難さ」でも引いた、モフセン・マフマルバフを真似れば、こんな表現も可能でしょう。「私は、世界貿易センタービルは誰が破壊したのでもないという結論に達した。ビルは世界経済のために倒れたのだ。すべての富がアメリカへと帰る世界の経済システムのためだ。『自由と正義の国・アメリカ』の新たな碑文を建立するために、三千人もの人柱が必要だと知って砕けたのだ。」
 二〇〇一年九月十一日。あの日のニューヨークの空の青色が、とても美しかったことを記憶しています。きっと一生忘れることはないだろうと思います。しかし、あの日あの空の青はなぜあんなに美しかったのでしょう?テロの実行犯たちが、計画の成功率を一段と高めるために、晴天の日を選んだ、という理屈は通ります。けれどもそんな理屈さえ吹き飛ばすくらいに、あの日の空は、そう、絶望的なまでに美しかったのです。まるで映画の撮影のために、誰かがわざわざ最高のロケーションを用意したみたいに――。

 マフマルバフの指摘する、バーミヤンの仏像への関心の強さに対しアフガニスタンそのものに対する無関心、という非対称性、ひいては「豊かな国」の内側における関心ごとと外側における無関心、という非対称性については色々と考えを巡らせているところなのですが、差し当たっては仏像の破壊や世界貿易センタービルの破壊が、CNNあたりを通じて、「豊かな国」の人々――われわれも含みます――にどのように配信され、どのようなコードを通じて受容されたのか、が気にかかります。スペクタクル化された恐怖――それは私たちの目下共通のテクストとなっている『「テロル」と戦争』(S.ジジェク、青土社)においてジジェクも指摘していることですが。
 ――レトリックに頼ったあたりでひとつの限界に達したようです。能力不相応に語りすぎたようなので、ここでこの話題は一旦置いて、馬頭様にバトンを返したいと思います。「9.11非重要論」へのレスポンスとして妥当であったかどうか判断がつきかねますが、ここまでのところ、どうお考えでしょうか。



 政治の話を一休みして、文学の話をしましょう。
 私の(あるいは、私たちの間で共有すべき)問題意識についてあらかじめ確認しておきます。アクチュアリティだけが文学にとって重要だ、というわけではない、というのはまさにその通りです。私自身、『指輪物語』(※註2)や『エルリック・サーガ』、果ては『アルスラーン戦記』『フォーチュン・クエスト』まで、硬軟織り交ぜ長らくファンタジー世界の住人でありましたので、狭義のアクチュアリティの枠に文学を押し込めることはない、ということは、重々承知しています。
 他方で、「飢えた子の前で文学に何ができるか?」というサルトルの有名な問いが、今こそ問い直されるべきではないか、という危機感を抱いていることも事実です。アクチュアリティだけが文学ではありませんが、他方で文学と呼ばれるカテゴリの中に、ラディカルな部分は残されていなければなりません。
 馬頭様の前の書簡でも『リアリティ』という単語を二度ほど使っておられましたが、ここ数年、「リアルなもの」に対する社会的な欲求、あるいは需要が、増大しているように思えます。私のサイトで村上龍への書評「宮台センセイ、この坊やも救っちゃってください」を掲載した動機も、村上龍がこうした「リアリティへの欲求」にあまりにも安易に応えすぎていることに、少々腹が立ったことに端を発しているのですが。
 「澁澤龍彦や寺山修司、江戸川乱歩に稲垣足穂といった幻想怪奇な世界に逆説的なリアリティを求めている。」という馬頭様のご指摘は、まさに当を得ていると思います。「いま・ここ」にいるわれわれが文学作品と向かい合うとき、完全にプレーンな、中立的な状態で作品と向き合うことは不可能であり、読者は読者の置かれた立場、ポジションからのみ作品を読みうるのであって、このため、ヴィレッジ・ヴァンガードに代表されるように、読者がリアリティへの欲求を強めた結果、町田康や中原昌也に代表される「剥き出しのリアリティ」と、澁澤や寺山に代表される「幻想的なもの」との両極端からリアリティへの欲求を充足しようとしている、という状況は、まさに馬頭様の分析のとおりだと思います。
 裏返して言えば、中途半端に現実から遊離した文学は、もはやリアルなものとして受け入れられず、ただ受け流されるのみなのではないか。そういう危惧もあります。それはリオタールの言う「大きな物語の凋落」(※註3)の一側面として捉えることもできますし、マルキストじみた言い方をすれば、資本主義がその支配力を強め、すっかり労働者の社会となった現代では、パトロンによって現実世界から引き離され庇護される「サロンの芸術」のようなものは、もはや成立し得ない、と言えるかもしれません。(現代における「プロレタリアート文学」の可能性については、また別に考える余地があるでしょうが)
 「新しい歴史教科書を作る会」とそれに続く戦争責任論には、個人的に少々興味があるのですが、あれも各人のリアルを求める行為の一環だったのではないかな、と今にしてみると思います。歴史、すなわち自らのルーツとなる物語を紡ぐことへの欲求があれだけ高まったというのは、現実の「いま・ここ」のリアリティが損なわれていることの反映だったのではないでしょうか。
 文壇・論壇の現状はある意味、カルト宗教的と言えないこともないですね。『わしズム』や『新現実』『en-taxi』といった「○○責任編集」形式の雑誌がちょっとしたブームになっているのも、それぞれの小集団がそれぞれ信ずるところのリアルを形にしようとしている結果でしょう。そしてこれらの小集団はすべて、自らの集団に属するものの擁護に堕し、コップの中の論争、タコツボ的状態から脱することがありません。
 この閉塞的な状況を打破するために、文学が取るべき道としては、やはり問題をことばの問題として引き受け、ラディカルにことばを追求していくことが第一である、と私は考えるのですが、馬頭様はどうお考えでしょうか。
 ところで、最近私の中では、清涼院流水や西尾維新、舞城王太郎といった、メフィスト系の若手作家がちょっとしたブームになりつつあります。分類すればエンターテイメントの側に属する彼らは、しかしそんじょそこらの純文学を自称する連中よりよほど、深刻な形での言葉遊びに明け暮れています。それはある意味彼らの余裕の表れでもありますし、「純文学」サイドの怠慢を表すものでもあるのでしょう。馬頭様は、清涼院や西尾なんか、お読みになりますか?彼らの書くものは、どうお考えでしょうか?
 なお、平野啓一郎の『日蝕』については、いずれ私のサイトの書評で扱っていきたいと思っています。ある意味、以前に取り上げた中原昌也とは好対照であり、なおかつコインの表裏のように受け手に同一の傾向が見られるものとして。その前に西尾維新についてまとまったコンテンツを用意したいところなのですが。



 さて、ここまで大きく分けて「社会・政治」と「文学・文芸」の2つの話題について進めてきたわけですが、最後にこの両方に重複する「文学が社会へのコミットメントをどうとるか」ということについて、少々言及しておきたいと思います。
 村上春樹についてはどうお考えでしょうか。というのも、徹底した引きこもり作家である彼こそが、日本の文壇でもっとも積極的に「社会的問題」へのコミットメントを果たしている作家であると、私は考えていますので。
『羊』シリーズや『ノルウェイの森』ではどちらかといえば寓話作家的であった村上春樹は、一九九五年の大きな二つの事件以降、きわめて社会的な作家へと転向を果たしました。阪神大震災を契機とした物語集『神の子どもたちはみな踊る』地下鉄サリン事件の被害者インタビュー集『アンダーグラウンド』の2作については言うまでもなく、他の作品、例えば『ねじまき鳥クロニクル』や『スプートニクの恋人』においても、個人的な体験や自己の内面(イド=井戸)と、歴史=物語=戦争の記憶(象徴的に犬の喉を切る)とを切り結ぶ形で、「個人的なこと」と「政治的なこと」との間に横たわる、切り離しがたい何かを見つめようとします(「個人的なことは政治的なこと」とは近代フェミニズムのスローガンですが、この標語は文学世界にそのまま当てはめるには乱暴に過ぎるように思います)。
 この点において私は、少なくともマスコミ報道の後追いに堕している村上龍や柳美里に比べて、村上春樹の誠実さの方を評価したいのですが、馬頭様は村上春樹については、何かご意見をお持ちでしょうか。



 さて、すっかり手前勝手に持論ばかり展開してしまいました。
 話題があちこちに飛び火したり、書簡が長文化するのは基本的に歓迎すべきところですが、あまりあれもこれもと欲張って、お返事が遅くなりすぎてもいけませんので、今回はこのくらいで送ることにします。
 これからいよいよ夏本番、今年も暑い日が続くことと思いますが、どうぞお体にお気をつけください。お返事お待ちしています。

二〇〇三年七月一六日
涼風 輝  拝





(※註1) マイケル・ムーア[Michel_Moore]監督によるドキュメンタリー映画。2003年3月にアカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門賞を受賞したが、受賞の挨拶で『ブッシュよ、恥を知れ』とムーアがコメントしたのはあまりに有名。この『ボウリング・フォー・コロンバイン』は上映当初から日本国内でも話題沸騰で、国内で最初に上映した恵比寿ガーデンシネマでは、平日昼間でも満席の盛況ぶりだった。おかげで涼風は長らく見損ねていたので、今回見に行ったというわけ。

(※註2) いわゆる「ファンタジー」と呼ばれるジャンルの物語の、古典中の古典と言うべき作品。多くのTRPGやコンピュータRPGの世界観が、この『指輪物語』に拠っている。『ロード・オブ・ザ・リング』の表題で映画化されているので、最近はそっちの方が有名かも。なんて状況にちょっと寂しさを感じてみたり。

(※註3) J.F.リオタール[Jean-Francois_Lyotard]はその代表的著作『ポスト・モダンの条件』において、ポスト・モダン世界を「大きな物語の凋落」として扱っている。日本では八〇年代のニューアカ・ブームの際にちやほやされ、その後半ば忘れ去られつつも微妙にアカデミズムの世界に陰を落とす。今日び迂闊に『ポスト・モダン』なんて口にすると、文脈によっては笑い飛ばされるので注意が必要だ。






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