涼風輝 様 ひさしぶりです。 湿っぽい日が続いていますが今年は比較的冷夏とのこと。この手紙を書いている時点では、実際にどうなるのかはまだわかりません。涼風様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。 幸いわたしたちは電気屋でもなければビール会社の社員でもありませんので、冷夏なのだとすれば、まあありがたいところでしょう。日本特有の湿度の高い暑さは、人をして「キレ」させ、通り魔事件だとか、バスジャックだとか、例年さまざまな事件を引き起こしています。もしかすると今年は、そういうのは少ないのかも知れません。いくらか涼しければ、そういう人たちのストレスも臨界内に留まるかも知れないからです。(※註1) もしそうだとすれば、おそらくそれは好ましいことなのでしょう。少なくとも、誰も悪いことだとは言いません。けれど、どこか釈然としないような気もします。 多少抽象化して云いますと、元来なら「キレ」ていたはずのものが、少しばかり状況が緩和されたからといって臨界内に留まることは、つねに正しいことなのでしょうか? たとえそれが暴力的かつ破壊的なものであったとしても、来たるべきものを避けることによって、かえって損なわれてしまうものがあるかも知れません。 こちらの近況といえば平穏無事そのものです。このままやっていこうとすればそれは可能だ、という程度の意味においてですが。 さて、どこまで整然と進行できるかはわかりませんが、順番にいきましょう。 前回の書簡において、涼風様は見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)を引用されました。(※註2)そこで、まずはあの本で展開されていた消費化社会モデルについて、ひとつ疑問を呈しておきます。見田宗介の議論はたいへん含蓄に富んではいるのですが、そのぶん現実とズレている箇所がうまく隠蔽されているように思いました。 見田宗介はあの本において、成熟した資本主義社会であるところの消費化社会は、大衆の「自由な欲望」を通じて自ら需要を生み出す能力を獲得しており、そのため、もはや周期的な恐慌を繰り返すこともなければ、最終的な需要創出の手段である戦争に訴える必要もなくなる、と述べていました。 したがって、資本主義社会における恐慌や帝国主義戦争の必然性を説く従来的なコミュニストの資本主義批判は、初期の資本主義には該当していたかも知れないが、消費化社会へと移行した今日の資本主義社会にはもはやあてはまらない。 彼の理論はこのあと、こうした消費化社会が完全無欠のようでいて実は外部からの簒奪に依存していることを暴いてゆくわけですが、それはいったん措くとして、ここまでのところ、果たしてアメリカや先進国における現状に合致していると言えるでしょうか? アメリカ=消費化社会という前提をひとまず受け容れたうえで考えますと、確かに涼風様も指摘されたとおり、かの国は自ら需要を発生させるシステムを有していると云いうるでしょう。銃社会についての指摘などはまさにそのとうりだと思います。 けれど、戦争――それに対する恐怖だけではなく実際の戦争行為も含めて――は、相変わらず最終的な需要創出の手段とされているように思えてなりません。あるいは「外部からの簒奪」を確保するために、かくも頻繁に戦争が必要なのだとしたら。 いずれにせよ、資本主義社会は依然不可欠なものとして戦争を抱え込んでいる、と云えるのではないでしょうか。 この箇所で見田宗介が言いたかったのは、従来的なコミュニストの資本主義批判、とりわけレーニンの『帝国主義論』はもはや超克されている、ということだったのではないかと思います。しかし、近年の国際情勢の動向を見るかぎりにおいては、いまだに『帝国主義論』の主張はかなりの妥当性を有していると云わざるを得ません。 まあだからといって、マルクス・レーニン主義がすべてにおいて正しいとか、旧共産圏は平和勢力であった等々を主張するわけではないのですが。 このあたり、涼風様はどのようにお考えでしょうか? 話を進めます。 涼風様が書かれた「恐怖=購買意欲を刺激するコード」というのは、率直に「軍需」をめぐる話だと解釈させていただきますが、よろしいでしょうか。 涼風様もご指摘のとおり、今回アメリカは、アフガニスタンという「最貧国」から攻撃を受ける、という新たなコードを獲得したことになるのでしょう。それと同時に、「恐怖=購買意欲を刺激するコード」の「恐怖」に代入される対象がつねに求められるという図式は、ずっと以前から変わっていないという認識も、おそらくは同意していただけることと思います。今回はたまたまそこにビンラディン、ないしタリバン、ないしアフガニスタンが代入された、というわけで、場合によってはそこにはフセインや金日成、あるいはパレスチナの「テロ組織」等々が代入されることもあるわけです。 しかし、だからといって9.11までもが当局によって看過されていたという噂が果たして事実かどうか、僕にはわかりかねます。そして、よくわからないままに、「それはありうることだ」などと思ったりもします。つまり、この都市伝説? を受け容れた、ということになるのでしょう。 「9.11は当局によって看過されていた」。この都市伝説? は驚くほど大勢の人たちによって受け容れられているわけですが、それだけ世間の人々は、昔から「当局は軍需の都合によって動く」という神話を根強く持っているのでしょう。僕もその例外ではありませんし、涼風様のなかにもおそらく……ということなのだと思います。 ところで、どうやらこの往復書簡の重要なテーマの一つは「現実」ということになりそうですね。 そこで、前回の書簡において涼風様が呈示された疑問について、馬頭なりに答えてみようと思います。すなわち、「それでは、仮に《9.11》がまったく重要でなかったとして、なぜこれほど多くの人々が《9.11》について『何か』を語ろうとしたがるのか?」についてです。 これは文学のほうで出ていた話ですが、「剥き出しのもの」と「幻想的なもの」、現代の読者はこの両極端にリアリティを求めていると馬頭は言いました。涼風様はこの指摘を妥当なものだと仰っていますが、もしそうだとすれば、9.11はその前者、すなわち「剥き出しのもの」に該当し、それゆえ我々を魅きつけたのではないかと思います。 再三引用されているジジェクの『「テロル」と戦争』では、世界貿易センタのタワー崩壊は「二〇世紀アートにおける現実界への情熱の恍惚(クライマックス)を指し示していた」と述べられています(p21)。そのうえでさらに、「誰もが反復脅迫と快楽原則を超える享楽jouissanceとは何かを、否が応でも経験することになったのだ。例のシーンを繰り返し観たくなり、(略)それから受け取る不気味な満足」……と続くわけですが、ここでジジェクが主張していることは、「剥き出しのもの」に現実を求める、そうした欲求をあの映像は過剰なくらいに満足させるものであった、ということなのでしょう。 「現実界への砂漠へようこそ!」 この『「テロル」と戦争』のサブタイトルは、大真面目にラカン的タームとして受け取るよりも、ジジェクのもう一つの含みである映画『マトリックス』におけるモーフィアスのセリフとして受け取るほうが、よりしっくり来るように思います。 つまり、「これまで現実だと思っていたものは、実はヴァーチャルな世界に過ぎなかったのだ」という、我々にはすでに素朴とさえ思えるメッセージとして。 「これまで現実だと思っていたものは、じつはヴァーチャルな世界に過ぎなかったのだ」と宣言すること、あるいはそうした認識に直面することが、恍惚や享楽でないはずがありません。それはキリスト教徒における「神の顕現」(エピファニー)とまったく同じように、「現実」教徒であるわたしたちにとっての「現実の顕現」(エピファニー)を告げる言葉なのですから。 いまこそ我々は「現実」に直面している――こうした感覚(錯覚?)が、人をして9.11を語らせる内的衝動となっているのでしょう。 馬頭が「9.11非重要論」に一定の信頼を寄せているのは、あの議論自体が、そうした誰でも抱きうる内的衝動(おそらく僕もその例外ではない)に対して、最も批判的だからという面もあります。 これは9.11が経済史的には重要かどうかという話とは、またべつの角度からの話になってしまいますが、涼風様はいかがお考えでしょうか(したがって経済史的あるいは軍事的には9.11は大いに重要であった、ということについてはまったく異論はありません)。 さて、「現実」というキーワードを携えたまま、話題を文学のほうへとスライドしてゆくことにします。さしあたっては、前回の書簡で村上春樹について尋ねられていますので、それにお答えしておきましょう。元来なら『海辺のカフカ』を読んでからこれを書くべきなのかも知れませんが、まあそれは近々読むということで、ひとまずご容赦いただくことにしましょう。 すでに言及されていることとは思いますが、村上春樹はしばしば題材として異界――時にはイドであったり、歴史であったりする――を扱うけれど、いつもある抑制が働いて、結局は「こちら側」に留まろうとする。すなわち日常を保守するイデオローグである。だからけしからん……という批判は、それなりに的を射ていると思います。そうでなくてはあれほどは売れないのだろう、とも思います。たいていの人は「生の深淵」だとか「異界」のことに少しばかりは興味があるでしょうが、決してそちらに行きたいとは思っていません。逆にあちら側に行ってしまえば、もはや村上春樹ではなくなってしまいます。それはおそらく、イェイツとかスウェデンボルク、あるいはユングやエリアーデといった人達の領域になるのでしょう。 イェイツ以下、今挙げたような人物たちの態度は、ある意味においては村上春樹より「誠実」だと言いうるでしょう。少なくとも自らのエクリチュールが向かう方向に、何ら抑制を課してはいないのですから。 ところが見方を逆にすれば、村上春樹の立場からこう反論することもできます。 「いいでしょう。あなた方が言及されるような夢や瞑想や抽象的思考こそが現実なのだとしましょう。僕もある程度はそのつもりで書いています。でもそれだけが現実なのでしょうか。スパゲティやジャズや女の子のしぐさは、現実ではないのでしょうか?」 じつのところ、村上春樹が社会的問題を契機として作品を書いたからといって、『アンダーグラウンド』『神の子どもたちはみな踊る』あたりを読んだかぎりでは、彼の言う「コミットメント」についてはいまひとつぴんと来ないのです。「コミットメント」というならば、より直接的な参加の手段があるにもかかわらず、それをはなから検討の埒外に置いているように思うのです。 それよりもむしろ、今述べたような日常と異界とのバランス感覚、どちらか一方のみを現実のよりどころとしない姿勢、といったあたりに彼の現実感、およびバランス感覚があるのだと思います。 次に平野啓一郎についても触れておきましょう。こちらも元来なら『葬送』を読んでから書くべきなのかも知れませんが、デビュー作の『日蝕』だけでもあれこれ語りたいことがありますので、まあ『葬送』については(以下略)。 『日蝕』は、たとえばエーコの『薔薇の名前』やユルスナールの『黒の過程』などと比べても通常のエンターテイメント性には欠けるけれども、そういう意地悪な比較はさておき、別の観点から、なかなかに興味深い作品であったと思います。 というのも、『日蝕』はモチーブが多少似ているというだけの理由で迂闊にもその系譜と見なされがちな、「ラディカルに反アクチュアルであることによってアクチュアルな」作家たち――すなわち最初の書簡で僕が挙げたボルヘス、ユルスナール、澁澤龍彦、寺山修司といった面々、あるいは涼風様が挙げた『指輪物語』、『エルリック・サーガ』、『アルスラーン戦記』、『フォーチュン・クエスト』といった作品の著者達――とはまた別の、独自のアクチュアリティに対する姿勢を持っているからです。 あの小説については、内容についてもいろいろと語りたいことはあるのですが、今回はひとまず、『日蝕』におけるアクチュアリティとはいかなる性質のものであるか、といった事柄についてのみ、ざっと述べることにします。 まず非常にペダントリーであること。彼はそれを指摘されたさい、「ペダントリーではない。必要ないことは一切書いていない」というように語っていたと思うのですが、むしろ彼はこう答えるべきだったのではないかと思います。 「ペダントリーでなにが悪いのか。古今東西のペダントリーに満ちた名作を見よ。むしろペダントリーを無条件で拒否することこそが思考停止ではないのか?」 次に「三島由紀夫の再来」という、誰が付けたか知らないけれどある意味とてもよくできたキャッチフレーズ。たとえば『決定版 三島由紀夫全集』に寄せて、いささかやり過ぎという気もしますが、彼はこんなふうに書いています。 三島由紀夫という作家は、天才を自覚し、自ら天才らしく振舞うことを好んだ数少ない本物の天才であった……(中略)……天才は欠点に於てすら多くを語る。是非とも三島の「全集」を手にしよう。(後略) (新潮臨時増刊『三島由紀夫没後三十年』所収、平野啓一郎「全集に寄せて」) こういう短い文章って、つい全部引用してはマズいんでしょうね? という話はともかくとして。 村上春樹にしても、町田康にしても、あるいは中原昌也にしても、とにかくこういう力の入れ方は、長い間「イケてない」ものとして敬遠されてきました。平野啓一郎のこうした売り方にも反発を感じる人は少なくなかったのですが、そうはいえ彼が読者達の、これまで他の作家では満たされなかった類いの欲求を満たしたのだということは認めざるを得ません。 「天才」がものした「名作」を読みたい、あるいは「面白い」ものではなく「読まなければならない」ものを読みたい、といういわば教養主義的文学観の復権の気運を、平野啓一郎はいちはやく察し、体現したのだと言ってもいいでしょう。 また同じ本のなかの対談で、三島由紀夫について、「(三島は)鴎外的な大時代的な文学を最後の世代として担おうとしていたわけで」と語るとき、彼はゼッタイ自分のことを云っている、少なくともそういう意気込みなんだ、と思うわけです。馬頭的には、それはどちらかといえば好感が持てます。 また作品がめいいっぱい「構築的」であることも、彼の場合は悪くない要素だと思います。ここでいう「構築的」というのは、プロットや登場人物の配置が記号的、ないしは計算づくだという意味においてです。これと対照的なのが、いわゆる感性重視、「霊媒的」ということになるでしょうが、近頃の作家は後者のタイプが非常に多く、ここでも平野啓一郎は確信犯的に時流に抗っているように思います。 おそらく少しばかり気障な感じがするというのが多くの人の平野啓一郎観なのでしょうが、それもキャラクター作りに成功している証左であると思います。それよりもむしろ、上に挙げたような、彼によって(結果的に?)為された幾つかの文学的要素の復権を歓迎するべきでしょう。たとえ自分がそれとは正反対のスタンスであったとしても。 もちろん批判したいところもあるのですが(なぜ萌えヒロインの一人くらい出さんのだ、とかなぜ主人公をもうちっと愛嬌あるふうに書かんのだ、とか)、平野啓一郎については、ここまで述べたところでひとまず涼風様の御意見を伺いたいと思います。前回の書簡を拝読したかぎりでは、涼風様も平野啓一郎については自前の論点があるように見受けますので。 それから、こちらは前振りだけで無責任にも涼風様にかずけてしまうことにしますが、サルトルについてです。 文学と現実との関わりについて語るうえで、涼風様もその名前と有名な問いを挙げられたサルトルは、きわめてクリティカルな座標を占めていると思います。 釈迦に説法という気もしないではないのですが、ご存じのように、実存主義とは現実を覆い隠すカーテンをすべて取り払った際の我々の認識のありようを問題にしている哲学である、とも言えます。ここでいうカーテンとは、たとえばキリスト教のような、世界観およびそれと一体となった倫理観を与えてくれるもののことですが、実存主義は、まずはそうしたア・プリオリな世界観および倫理観を排し、「われわれは剥き出しの現実の中に投げ込まれている」と主張します。 また彼は、「人間は拠り所とするべき本性をなに一つ持ち合わせていない。我々は選択し、そして行動することによって、自らの存在を規定するのである」と繰り返し述べています。 ところが我々の時代ときたらどうでしょう。ア・プリオリな世界観・倫理観を排するどころか、そうしたものが極端に希薄となった、実存主義的世界観(というのは矛盾した言い方かも知れませんが)の敷衍された地平において、その喪失感と虚無感、モラル・ハザードに喘いでいます。 かかる事態は、あるいは「大きな物語の凋落」と言い替えうるものなのかも知れません。実存主義は、自ら選ぶことを後押しする哲学だと、いくぶん単純化して言うことは許されるでしょうか。しかしそうだとしても、我々には「義勇軍に参加するか、母のもとに留まるか」といった明確な選択肢は与えられておりません。 「人間は自由の刑に処されている」――それはおそらくそのとうりなのでしょう。しかしこの言葉における自由の意味は、今日ではよりいっそう深刻なものとなっているように思います。 すなわち「あれか、これか」というような自由ではなく、選択肢の把握しづらい自由、選択肢の差異が希薄で、なにを選んでも結局は同じような気がしてしまう自由、これが私たちの時代における自由の困難さなのではないでしょうか。(※註3) この自由についての困難さは、「現実」の問題とも関連が深いと思うのですが、涼風様はどのようにお考えでしょうか。あるいは今日から参照した場合のサルトルについて、どのような見解をお持ちでしょうか。 さて、まだまだ語りたいことはあるのですが(「新しい歴史教科書を作る会」について、「サロン芸術」について、等々)このあたりで、ひとまずそちらに返します。 例によって話が多岐にわたっておりますが、どことどこをレスポンスするかはお任せします。新しい話題を提起していただいても、もちろん構いません。 話に出てきた『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、あいにく映画は見過ごしたのですが、DVDが発売されたら買って観てみようと思います。TRPGの話も、いずれ必ず語る機会があると思います。他にもあれこれと雑談じみた話もしてみたいのですが(たとえば文房具はなにを使っているとか、音楽はなにを聴いているとか)、ひとまずすべて保留します。 それでは、よろしくお返事をお待ちしております。例によって、急がずに書いていただければ結構です。どうぞお元気で。 |
二〇〇三年八月一三日 馬頭親王 拝 |
(※註1)
実際のところはどうだったのだろう? 幸か不幸か私たちは、警察関係者でも新興宗教の教祖様でもないので、今年はこの冷夏で凶悪犯罪の件数が増えたのか減ったのか、その統計データにアクセスする術はない。ただ、マスコミが喧伝するところに従えば、この夏の凶悪事件の代表格は「女子小学生4人が赤坂のマンションに監禁」と「12歳の少年が幼児をビルディングの屋上から落として殺す」の2件になるのではないか。これらはいずれも異常性愛と結びつけてクローズアップされたため、非常に「分かりやすい恐怖」を視聴者に呈示した。その意味では、バスジャックや通り魔事件のような「得体の知れない暴力」は今年は少なかった、のかもしれない。単にそんな事件が起こっていても報道されなかっただけ、かもしれないが。 (※註2) この先でも触れることになるので、見田宗介についても少しばかり注釈をつけてもいいだろう。1937年東京都生まれ。現在は……共立女子大学教授だっけ? 日本の社会学の大御所であり、『社会学事典』(弘文堂)の編集に携わるほか、『自我の起原』(岩波書店)など、真木悠介の筆名でも著書多数。……って、それ以上俺もよく知らん。カル・スタがニューアカ同様一過性のブームとして忘れ去られようとしている昨今、社会学自体の立場も危うくなりつつあるのか? そもそも社会学に「本流」なんてありうるのか? と思いつつ、『現代社会の理論』はやはり注目に値する書物だと思う。もちろん、そのまま鵜呑みにしてよいという意味ではないけれど。 (※註3) 自由論についてはJ.S.ミルに限らず、多くの論客による著書があることと思うが、前の註から見田宗介つながりで…… 「近代核家族は、近代的自我の、――市場システムの生産的な『主体』の再生産の装置でもあったことから、近代社会の古典形式は、思えば見事な戦略であった。けれどもそれは、矛盾を内包する戦略であった。産出されたものが産出するものの否定に向かう傾向を内包する形式であった。〈近代的自我〉は、〈近代的自我〉を再生産するような力を持った圧縮共同体を、必ずしも再生産するようには動機付けられていない。(中略)共同体の解体はまた、明るいものである。『都市の空気は自由にする』というヨーロッパのよく知られた言葉は、共同体からの解放のねがいをよく表現している。」(『思想』2001年6月号より「親密性の構造転換」見田宗介) ところで「解放(liberation)と自由(freedom)が同じでないことはわかりきったことであろう。解放は自由の条件ではあるが、けっして自動的に自由をもたらすものではないからである。」と語ったのはアーレント(『革命について』邦訳はちくま学芸文庫)だが。 |
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