「誘惑されてあるミツバチはキイロスズメバチの夢を見るか?」





 馬頭親王  様


 盆も明けてからようやく夏らしい日差しが戻ってきた、かと思えば間髪おかず秋になだれ込んでしまったような今日この頃です。馬頭様はいかがお過ごしですか? ……などと、時候の挨拶らしきものから始めて、何やら無難を装ってみたりします。
「列車のコンパートメントに、今まで互いに会ったことのない二人の英国人がたまたま向い合わせの席に坐ったとしたら…(中略)…まず間違いなく、その日の天気のことについて話し始めるに違いない」とは、P.トラッドギルの『Sociolinguistics』(邦題は『言語と社会』岩波新書)(※註1)の有名な冒頭部分ですが、投球フォームに入る前の肩慣らしのキャッチボールだと思って、どうかお付き合いください。
 さて、私の方は先日、この書簡でも話題に上りました『ヴィレッジ・ヴァンガード』に行ってまいりました。お台場のパレットタウン店に行ってきたのですが、店舗面積が狭いこともあって、本よりはグッズが幅を利かせている状態でした。どこまでが『ヴィレッジ・ヴァンガード』の主義によるもので、どこからがお台場という土地柄に合わせたものなのか、判断がつきかねる部分はあるのですが(御茶ノ水店とか六本木店とかと見比べてみればいいのでしょうけれど)、レトロ・ポップを基調とした品揃えは、かつてコーネリアスやカヒミ・カリィにどっぷり心酔していた「元渋谷系」の私としては、新しさよりむしろ懐かしさを感ずるものでした。
 文芸書の棚より漫画の棚が充実していたので何やら眺めていると、『稲中卓球部』や『浦安鉄筋家族』あるいはおおひなたごうの短編集が並んだ分かりやすい棚の隣に、古屋兎丸や岡崎京子や高野文子あるいは南Q太という、別の意味で分かりやすい棚があって、無性に懐かしくなってきたのですが(あ、全然分からない話だったら読み飛ばしてください、すみません)、ほとんど同列に、ももち麗子の作品がずらりと並んでいたのは、さすがにちょっと引きました。イマドキの若い子たちはこういうモノに「リアル」を感じるのかいな、と少々年寄り口調で呟き、通り過ぎることにしました。

 リストカットもセックスもファッション。深刻ぶるのも哲学ぶるのもスタイル。
 これだけ濃密なエゴがひしめきあっているのを見かけると、ちょっと吐き気がします。
 自分のことはヴィレッジ・ヴァンガードの高い高い棚に上げて。

 ヴィレッジ・ヴァンガードで思い出したので、少しばかり音楽の話から始めようと思います。
 本来であればまず「馬頭様はどんな音楽を聴きますか?」などとお尋ねすべきかと思いますが、先に自分の趣味から話し始めてしまうことをご容赦ください。高校を卒業後、大学にも行かず予備校に行くふりして御茶ノ水界隈でぷらぷらしていた十九の頃、カヒミ・カリィのファンになりました。カヒミ・カリィはご存知でしょうか。フレンチ・ポップを踏襲したメロディラインと、独特のウィスパーボイスによる歌い方で、かつて「渋谷の歌姫」と持て囃され、アニメ「ちびまる子ちゃん」のオープニングテーマまで歌った(『ハミングがきこえる』作曲はコーネリアスの小山田圭吾)、いわゆる「渋谷系」と呼ばれたジャンルを代表した女性アーティストです。
 公私ともにパートナーであった小山田圭吾との破局を迎え、カヒミ・カリィは急激に失速します。メディアへの露出はぱたりと途絶え、CDショップではどんどん端の方へ追いやられていきました。それと時を同じくするかのように、かつての「渋谷系」は新宿、池袋、下北沢と飛び火を続けて拡散し、気がつけば小沢健二なんてどこ行ったのかも不明で、今やかつてのスタイルを保ちながら生き残っているのは、慎吾ママから松浦亜弥まで手広く手がける小西康陽ただ一人、というのが現状です。
 ところで、ここに名前が挙がったカヒミ・カリィや小沢健二、小西康陽といった渋谷系のアーティストが作り上げる楽曲は、いずれもほとんどやけっぱちと言うべきオプティミズムに満ちています。彼らにとって世界は、日常は、常に美しいものに満ちている。美しくなければならない、という強迫観念のようなものがあって、それが車や食品のCMソングに重宝された理由であるように思えます。(そんな渋谷系の中で小山田圭吾はやはり異彩を放っているのですが、細かい話は置いておきましょう)
 これらの渋谷系アーティスト全盛期、私の身体感覚からは1995年〜97年くらいを想定していますが、この頃日本音楽シーンのメインストリームに位置していたのは、小室哲哉であったと記憶しています。小室哲哉の音楽は極めてシステマティックであり、機械的です。それはバンド・サウンドの終焉を告げるものであり、音楽が反権威の象徴からシステムの内部機関へとその位置づけを180度転換した瞬間だと言えるのでしょう。すると、渋谷系の悲壮なまでの現実楽観主義は、こうした「システム化された音楽」および「システム」そのものへの、一種のアイロニーであったのかもしれません。
 hideが謎の死を遂げたのが1998年頃でしょうか。モーニング娘。が「LOVEマシーン」以降、あまりに露骨なシステムの受容の仕方を展開し(彼女らの大半が十代前半の少女であることを考えると、われわれはモーニング娘。の音楽を、児童ポルノでも見るような目つきで見なければいけないのでしょう)、他方で椎名林檎はリストカットや摂食障害の少女を思わせるような、自らの肉体の痛みより他にリアルなものを認めない、これまた露骨な姿勢を提示します。
 1995〜2000年くらいの、ほんの5年程度の出来事なのですが、音楽シーンを手がかりに振り返ってみる限り、ずいぶんと子供たちが夢を見ることのできない時代になってきてしまったのだな、と感じます。音楽を通じて子供たちにメッセージを送ることのできる立場にある大人たちが、この世界の背後に凄まじく堅牢なシステムの存在を見出しながら、それと正面から対峙することを徹底して回避します。その間に、椎名林檎に代表されるホンモノの子供たちがリアリティを求めて自らの心身を傷つけ、さらにその姿自体が見世物となり商品として流通する、というこの病的な環境は、はてさて、どうなんでしょう。

  リーマン OL ギャル子 ギャル男君
  父ちゃんも母ちゃんも みんなみんな
  オギャーとこの世に生まれたときは
  丸裸さ Go ! Go ! Go ! Go !
   (『そうだ!We’re alive』モーニング娘。)

  どうして 歴史の上に 言葉が生まれたのか
  太陽 酸素 海 風
  もう充分だった筈でしょう
  (中略)
  終わりにはどうせ独りだし
  此の際虚の真実を押し通して絶えてゆくのが良い
   (『本能』椎名林檎)

 単なる前フリのつもりが、音楽の話が長くなってしまいました。
 実を言うと、ここまでの往復書簡で話題に上った、見田宗介『現代社会の理論』についての話から始めようと思って音楽の話を持ってきたのですが、どちらが主題か分からなくなってしまいました。ごめんなさい。
 結論から言えば私も、「ココア・パフ」で世界は救えまい、という感想を抱いています。
 さて、見田宗介は井上陽水を引くことで、「誘惑されてあることの恍惚と不安」として、〈大衆化/消費化社会〉の自己準拠システムの根幹を成す、欲望(=需要)すなわち誘惑されることと、個人の幸福とは共存可能である、という楽観的な観測をしています。
 ところが現実には、馬頭様もご指摘のとおり、最終的需要の創出=戦争は、なくなるどころか、消費化社会が進展すればするほど、より露骨な形で、市場の必要に駆り立てられる形で、姿を現し続けています。
 この現状に対して見田宗介に読み違えがあったとすれば、「誘惑」が現実には、消費者の快楽に訴えかけるものばかりではなく、消費者の恐怖に訴えるものであったためではないか、と私は考えています。……などと言うと、まだ『ボウリング・フォー・コロンバイン』を引きずっているようですが。
 実際、見田宗介は『現代社会の理論』の第2章(44p〜)で、農薬を例に挙げて「必要」を自己創出するシステムについて詳細に触れているのですが、それにしてはどうして「ココア・パフ」に代表されるような「情報化」により、「自然収奪的でなく、他社会収奪的でない……需要の無限空間」(148p)というような、永久機関か賢者の石のような楽天的な展開を夢想できるのか、不思議です。
 現実には、食品市場を支配するのは「ココア・パフ」的なイメージを付与された商品ではなく、『おもいっきりテレビ』や『発掘!あるある大辞典』で取り上げられた、アロエであったりニガリであったりするわけです。もちろんそこでは、実際に体にいいから買うのではなく、「これを食べると健康によい」というイメージの方を買っているのだ、という意味で、見田宗介の理論は正しい、と言うこともできるのですが、ここで決定的なのは、「健康によい」というイメージは、「ココア・パフ」の「ふんわかとしたお菓子のイメージ」(146p)とは対照的に、消費者のマイナスの感情に訴えかけることで、購買を促すものであることです。
 こうした「健康によい」イメージの背後では必ず、「現代人は不健康である」という思想が脈打っています。今日攻撃されるのは肥満でしょうか肩こりでしょうか、それともドロドロ血でしょうか。消費者たちはテレビを見て、自らの不摂生を恥じ、しかしだからといって人間ドックで精密検査を受けたりするわけでもなく、ただアロエヨーグルトを買いにコンビニに走るだけなのです。これって、消費の構造としては、相変わらずの農薬の事例にそっくりではありませんか?
 見田宗介が竹田青嗣を介して間接的に引いた、井上陽水のスタンスについては、乱暴に言えば「この社会の裏側で起こっている出来事には目をつぶり、表面の甘美さに酔わされていよう」ということだと思います。音楽の話に戻ります。井上陽水は松任谷由美と同様に『ニューミュージック』の潮流を起こした創始者であり、彼らの音楽を契機に現代のジャパニーズポップスが誕生したのですが、これと引き換えに「終わった」ものは、自らの身近な問題を直截に引き受ける音楽である『フォークソング』でした。
 陽水らによるニューミュージックの流れが始まったのは、1980年前後のことであると認識しています。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が世に出たのが同じ頃であるのは、単なる偶然ではないと思います。してみると、これに続くバブル経済だとか、ニューアカブームといったものも、この流れに沿ったものだったのでしょうか。この社会の裏側は見ないことにして、甘美なものに酔った結果?
 実体経済から遊離した幻想が一人歩きした状態を指す「バブル」という語が典型的なように、上に挙げたような80年代文化の類は、「現実から遊離していること」がひとつの特徴であったように思います。90年代から現在に至る「リアルへの揺り戻し」はこれら80年代カルチャーへのカウンターとも言えるのではないか、とまで言うと、この往復書簡のキーワードである「リアル/リアリティ」に強引に結びつけすぎ、でしょうか。
 いずれにしても、現在の市場で多大なインパクトを誇るのは、「リアリティ」の側により強く寄り添う方のものであり、その意味で市場の展開は、80年代よりなおいっそう、見田宗介の言う「環境の臨界」の好例である、農薬の消費構造に近いものとなっています。今や市場はその規模において70年代に戻っただけでなく、その構造において、もはや60年代に戻ったといえるのではないでしょうか。

 ですから――ようやく結論らしきものに行き当たりますが――現代社会が最終的需要としての「戦争」を、超克するどころか、なおいっそう必要としていることは、必ずしも現代における新しい局面ではなく、50年代、60年代に繰り返してきた問題系の繰り返しである、あるいは同じ根の問題がなお悪化している、ということの表れではないでしょうか。
 この意味で当然、資本主義社会は構造的に未だ戦争を必要としていると言わざるをえず、伝統的なコミュニスト的立場からの批判も相変わらず当てはまるのだろう、と思います。

 ところで、「『冷戦の勝利』ということについて……膠着をつき崩したのは、『自由世界』の、情報と消費の水準と魅力性であり、いっそう根本的な所では、人間の自由を少なくとも理念として肯定しているシステムの魅力性である」(122-123p)という見田宗介の主張は、ある意味フランシス・フクヤマと同じ穴に嵌まっているような気がしませんか?だとすればわれわれはジジェクに倣って「いまだ妖怪は徘徊している=『共産主義者宣言』はむしろ今こそアクチュアルなのである」と宣言することによって、見田宗介の現代社会分析に異を唱えることもできるのでしょう。
 そういえば、ハート&ネグリ『帝国』(以文社)はもう読まれましたか? 私も昨年のブームに乗って買い漁ったはいいものの、50ページくらい読んだところで止まっているのですが。



 思いつくままにお話を進めることをお許しください。
 文学の話、村上春樹の話に行きたいのですが、その前に『ショアー』について触れたいと思います。(※註2)『ショアー』はご存知でしょうか。サルトルやボーヴォワールの学友でもあるジャーナリスト、クロード・ランズマンによって撮影された、9時間にわたる記録映画の超大作です。この映画においてランズマンは、ナチスにおけるユダヤ人虐殺、いわゆる「ホロコースト」について、サヴァイバーたちの証言を集めることで、この〈表象不可能な出来事〉を構成しようとします。

『ショアー』に出てくる生き残りたちは、だれ一人として「私は」と言わない。…(中略)…彼は「われわれは」と言い、死者たちのために語り、死者たちの代弁者となる。私はといえば、ユダヤ民族に全体として妥当するある構造、ある形式を構築したいと思っていた。スピルバーグとは正反対だ。彼にとって絶滅は書き割りにすぎない。人の目をくらますホロコーストの暗黒の太陽に彼は直面していないのだ。
(『ホロコースト、不可能な表象』クロード・ランズマン、『ショアー』日本語版同梱ブックレットより)

 ランズマンはこう言って、スピルバーグの『シンドラーのリスト』を、メロドラマであるとして批判します。ランズマンはホロコーストについて語るとき、物語性・ドラマ性を徹底的に排除することで、〈不可能な表象〉であるホロコーストを〈記憶〉として〈分有〉しようとします。
 一方、村上春樹はというと、『ショアー』が日本で公開されたほんの数年後に、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした『アンダーグラウンド』を出版しています。同じような「サヴァイバーたちの証言集」であるにもかかわらず、村上春樹はランズマンとは見事に正反対の立場を取ります。『アンダーグラウンド』の前書きから、少し長めに引用してみます。

 そのような姿勢で取材したのは、「加害者=オウム関係者」の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである。(中略)
 おそらくそれは一般マスコミの文脈が、被害者たちを「傷つけられたイノセントな一般市民」というイメージできっちりと固定してしまいたかったからだろう。もっとつっこんで言うなら、被害者たちにリアルな顔がない方が、文脈の展開は楽になるわけだ。そして「(顔のない)健全な市民」対「顔のある悪党たち」という古典的な対比によって、絵はずいぶん作りやすくなる。
 私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。ないわけがないのだ。それはつまりあなたであり、また私でもあるのだから。
(『アンダーグラウンド』村上春樹、講談社)

 物語を徹底的に排除したランズマンと対照的に、村上春樹はまさに物語の力でもって、既存の物語を解体しようとします。毒を以て毒を制す、ではないですが、ある一方の物語の暴力に対し、村上春樹は、別方向の物語を持ってくることによって、カウンターパンチを食らわそうとしているのです。
 この両者を対比したときの直感的な感想として、私は、ランズマンにはある種の無邪気さを、村上春樹にはある種の苦しみを感じます。ランズマンは『ショアー』の3、4部で既に兆候のあったとおり、その後ユダヤ国家=イスラエルの正当性とその軍備強化を称揚するような記録映画『ツァハール』を製作します。しかも、おそらく私の想像するところ、ランズマンは自分の作った映像が受け手にどのような影響を与えるか、「強いイスラエル万歳」と受け止められるのではないか、ということについて、まったく無自覚です。
 村上春樹はおそらく――ランズマンの拠って立つところを根本から揺るがすのですが――「物語を完全に排除することは不可能である」と覚っているような部分があるのではないでしょうか。ですから村上春樹は、物語の暴力を退けるための手段として、ランズマンのように物語そのものを回避することはせず、ただ、正反対の物語を持ってきて提示する、という、博打のようなことをやってのけたのだ、と私は考えているのですが、……少しばかり村上春樹を好意的に読みすぎでしょうか。
 馬頭様も触れておられるとおり、村上春樹の誠実さは、バランス感覚というか、安易に「向こう側」に行ってしまわない、というところにあるのだと思います。再び『アンダーグラウンド』の「はじめに」から、これも少し長めに引用します。

 記憶している限りでは、それほど「切々とした」という文面ではなかった。またとくに起こっているというのでもなかった。どちらかといえば物静かで、むしろ「愚痴っぽい」ほうに近かったかもしれない。「いったいどうしてこんなことになってしまったのかしら……?」と戸惑っているような感じもあった。(中略)
 でもそのあと、何かにつけてその手紙のことを思い出した。「どうして?」という疑問は私の頭から去らなかった。それはとても大きなクエスチョンマークだった。(中略)
  そして、やがてこうも思うようにもなった。
 その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の激しい暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常な世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それは何の説得力も持たないんじゃないか、と。その二種類の暴力をあっちとこっちとに分別して考えることなんて、彼にとってはたぶん不可能だろう。
(『アンダーグラウンド』村上春樹、講談社)

『神の子どもたちはみな踊る』における村上春樹のスタンスは、この「どうして?」という言葉でこそ表せるのではないか、と思います。なぎ倒された高速道路の橋脚が、繰り返しブラウン管に映し出され、それは本当にハリウッド映画を見ているようで、「これが現実だ」といかにニュースキャスターが繰り返したところで、われわれの口をついて出るのは「どうして?」以外にありえない。その「どうして?」の距離感を保ち続けながら小説のスタイルで書き上げられたのが、この『神の子どもたちはみな踊る』という短編集なのではないでしょうか。
 思うに、村上春樹は「こちら側」に留まろうとして留まっているのではなく、向こう側に「たとえ行きたいと願ったところで行くことができない」のではないか、と私は考えています。それは例えば『スプートニクの恋人』で、ヒロインが主人公を置き去りにして一人「向こう側」へ行ってしまい、主人公はヒロインを追いかけ続けた挙句結局「向こう側」への扉を開くことはどうしてもできず、そのうちヒロインは「ねえ帰って来たのよ」と、電話越しに、主人公の奔走を馬鹿にするように、言う――というようなお話の筋に、顕著に現れているのではないでしょうか。
『アンダーグラウンド』『神の子どもたちはみな踊る』で示された、村上春樹の「どうして?」の距離感は、「こちら側」と「向こう側」の距離感のあいまいさと、「向こう側」を「こちら側」に近づけることの難しさを、同時に現しているように思います。それは、自分が「向こう側」に簡単に到達できるのだ、という無邪気な感覚(例えば、朝日新聞の夕刊に『8月の果て』を連載し、新聞報道をそのままなぞったような従軍慰安婦の描写を続ける柳美里のような)よりも、はるかに誠実であるように思うのですが、いかがでしょうか? 村上春樹の肩を持ちすぎでしょうか?

 実を言うと、2001年9月11日の映像を、リアルタイムでテレビで見ていたのですが、そのときの私の感想は「何だこりゃ?」でした。「現実教徒」のわれわれにとっては、あの映像は「これが現実だ!」という恍惚、あるいは享楽を与える、この上ない強烈なメッセージであったはずなのですが、にもかかわらず私は、崩れ落ちるビルディングを眺めながら「これは現実か?」というような、相変わらずかそれ以上に、現実の感覚が肉体から遊離してそのへんに浮かんでいるような、不思議な身体感覚を感じたのです。あのときの私には、享楽に酔わされている自分と、すっかり醒めている自分との二者が同居していたことを記憶しています。
 今にして思うとあの感覚は、村上春樹の「どうして?」と同じものなのではないかな、と考えています。
 ところで、もしお時間があれば、私のサイトに掲載している小説『スイヒラリナカニラミの伝説』を読んでいただけませんでしょうか、と意地汚く宣伝してみます。原稿用紙250枚を超える作品ですので、あまり厚くない文庫本を一冊読むくらいの労力は要りますから、無理にとは申しません。ただ、ここまで取り上げてきたような、現実教徒であるがゆえに現実から遠ざけられていることの苦悩というようなものを、私なりに表現しようとした結果ですので。



 ここまでで、馬頭様からのメールに半分くらいお応えしたつもりですが、もうずいぶんな長文になってしまいました。このまま話を広げていくとどんどん際限がなくなっていきそうですから、ここで一度馬頭様にお返ししたいと思います。未消化の部分が多くなってしまいましたが、どうぞご容赦ください。
 平野啓一郎『日蝕』については、いずれ私のサイトの書評という形でお応えしたいと思います。というより、この書簡の中で扱うと、この件だけでずいぶんな長文になりそうな気がするからです。ただ、きわめて簡単に思うところをまとめますと、「閉塞感の強い時世に大衆が一人の『天才』にすべてを押し付けるのは無責任な姿勢ではないか?」と、平野啓一郎本人はともかく、読者あるいはプロモーションのあり方に批判的です、と申し上げておきましょう。
 あとは、サルトルですか。『嘔吐』を読んで、あまりぴんとこなかった、というのが正直な感想だったりしますが(※註3)……もう少し勉強してから、お返事を返そうと思います。私の現代思想・哲学に対するスタンスは、ロック=ノージックの批判から入ったこともあって、主体の批判(=脱構築?)と、そこから派生するアイデンティティの不安から、現代の希薄さ、自由の困難さを語ることになるのだと思いますが。
 それでは、少し遅くなってしまいましたが、これで送らせていただきます。お返事お待ちしております。

二〇〇三年九月二一日
涼風 輝  拝





(※註1) この邦題もひどい。本来なら『社会言語学』とでも訳すべきところだが、まぁ訳が古い(1975年)のだから仕方あるまい。トラッドギル[Peter_Trudgill]はこの社会言語学という学問の創始者。大学の教養科目として受講した社会言語学のゼミナールでレポートを課され、私はいわゆる「皇室敬語」、皇室報道で乱発される「〜されました」「〜られました」の分析でレポート書いた。楽しかった。参考文献も『女性セブン』とかだし。どうでもいいか。

(※註2) 『ショアー』が学術研究や教育目的以外では販売されない、というこの状況も何とかならないもんだろうか。9時間の映像なんて、自宅に持ち帰らずしてどうやって見ろと? アポなしで研究室に突撃し「ショアー貸してください」とのたまう得体の知れない他学部の男子学生二人組に、快くビデオ4巻を貸し出してくだすったK先生。今でも感謝いたしております。

(※註3) 存在の不快や肉体の不快といった問題は、現在ではもはや当たり前すぎて、却って『嘔吐』が本来有するセンセーショナルさを失わせているのかもしれない、とそれこそももち麗子とか読みながらふと思う。なお詳細はこのサイトに掲載した私の小説『ゼリィ・フィッシュの憂鬱』を読んでいただけると……って、また宣伝かい。






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