涼風 輝 様 おひさしぶりです。といっても、今回は往復書簡のあいまに、掲示板のやりとりも少なくはなかったし、さほどご無沙汰というわけでもありませんね。 前回もそうだったのですが、この往復書簡の執筆にとりかかる頃になると、こないだからもう二ヵ月も経ったのか、となにやら奇妙な気分になります。このところ時間の流れるのが早くはないですか? ……というのはあまりにありがちな話題ですが、しかし時間とは《経過》するものであり、《経過》こそが時間の本質なのだとすれば、われわれの人生もひとつの《経過》として捉え得るのかも知れません。先日、電車に乗りながら、ふとそんなことを考えていました。 二ヵ月前の自分と今の自分ではなにが違うのか。確かなことは、そこに二ヵ月という時間が《経過》したという事実だけだと思うのです。そして今日と二ヵ月後の間に横たわる《経過》も同様です。 そうやって、まあ結論としては人恋しくなったりとか、なにやらありがちなところに行きつくのですが。 前回の書簡で涼風様が挙げられたアーティストや漫画家の名前は、たしかに半分以上はまったく知らないか、名前くらいしか知らないものだったのですが、これまでの文脈でいうと「剥き出しのもの」にリアルを感じるという路線がかなり咲き乱れているなあ、とは常日頃から思っていたところです。 それにしても、ひきこもりは「ヒッキー」、リストカットは「リスカ」、性的雑駁さは「武勇伝」などというレトリックまで標準装備されている昨今、これらのものが日常に及ぼす異化効果もほとんど無効化し、もはやそうした語彙によって指し示される世界をして「リアル」と呼ぶことは、それこそ流行歌や漫画のネタくらいにしかならないのが現状です。 しかし考えてみれば、「異化されたもの=リアル」という図式そのものが、倒錯だとも云えるのではないでしょうか。 我々がふだん目にしている風景は「リアル」ではない。「リアル」とはたとえば「真相」とか「実態」とか「舞台裏」といったイメージで示されるような何かなのだ、と我々は思い込んでいるわけですが、一体それはなぜなのでしょうか。もしかしたら、何者かの陰謀かも知れません。 『おもいっきりテレビ』や『発掘!あるある大辞典』で思い出したのは、長井秀和です。 「健康食品が買った人を長生きさせているのではない。買った人が健康食品会社を長生きさせているんだ。間違いないっ」 ……というのは、なにやら数年前のベストセラー『買ってはいけない』を彷彿とさせますが(※註1)、あの『買ってはいけない』を連載していた『週間金曜日』の編集代表に本多勝一がいることは、私にはたんなる偶然とは思えません。 というのも、かつて高校で歴史を習ったばかりの学生が、親の本棚に並んでいた本多勝一の『殺される側の論理』あたりをはじめて読んだ時に受ける衝撃と似たものが、ずっと薄められているとはいえ、長井英和にも感じられるからです。 本多勝一と長井英和を比較するのはいかにも荒唐無稽のようですが、たとえば前述のギャグで笑うためには、涼風様も指摘されているように「現代人は不健康である」というマインドコントロールを多くの人が受けていることに、多少なりとも自覚的である必要があるからです。 したがって本多勝一から政治性と重さを除去すれば、メディアが植え付けた世界観を共有している、「この社会の裏側で起こっている出来事には目をつぶり、表面の甘美さに酔わされている」読者(視聴者)たちを、その裏側に強引に連れ出すという活動において、長井秀和は彼を継承しているとは言えないでしょうか。 その裏側というのは、ある意味「リアル」と呼びうるものなのかも知れません。ちょうどマトリックスの裏側に到達したネオのように(これを書いている時点では、『マトリックス』は第二作までしか公開されていませんが……しかしP.K.ディックのようにその思想を云々しうるのは、おそらく第一作だけなのでしょう)。すなわち、先ほど述べた「異化されたもの」としての「リアル」という意味においてですが。 ところで、涼風様の前回の書簡を読み返してみて、次のような疑問が沸き上がってきました。すなわち、「それでは冷戦は《現実》だったのか?」ということについてです(《現実》というのは、ここまでの「リアル」と同義だと捉えていただいてかまいません)。 わたしが問答好きな、はた迷惑な学生であったころ、五つくらい年上の共産党員の知人が、冷戦について次のように語っていたのをふと思い出しました。 「冷戦というのは、アメリカとソ連が覇権を争っているんじゃないんだ。アメリカとソ連が、それ以外の世界に対して覇権を握っているということなんだ」 これが共産党の公式な見解と一致するのかどうかはよく知らないのですが、なるほど含蓄のある意見だと当時の私には思えたし、今でも一考に価する意見だったと思うのですが、いかがでしょうか。 彼の冷戦「パラダイム」に従うならば、冷戦時代とそれ以降の時代との違いは、結局のところ覇権国家たる「帝国」が二つであるか一つであるかの違いに過ぎないのではないか、というわけなのです。だとすれば、少なくとも冷戦時と同程度には、われわれは目に見えるありのままを《現実》と捉えてよいのかも知れません。アメリカは覇権国家であるとか、日本はアメリカに追従しているとか、年金制度は将来危ないとか。そういうことは文字どおりに「そうだと思う」とか「そうだと思わない」などと考えておれば、少なくとも次元が違うというほどには間違ってはいない、ということなのでしょうか。なにやらそれすらも怪しく思える今日このごろです。 (ちなみに、ハート&ネグリの『帝国』はいまひとつ食指が動かず購入に至っておりません。申し訳ない!) というわけで、これまでの涼風様とのやりとりのなかで、とりわけ《現実》をめぐる諸問題を念頭におきながら『スイヒラリナカニラミの伝説』を、次いで『ゼリイ・フィッシュの憂鬱』を、そして『天使の歌』を読ませていただきました。 まずは、『スイヒラリナカニラミの伝説』からわたしが抜書きしたこの小説のモチーヴを、掲示板と一部重複になってしまいますが、以下に並べます。 1. この小説は、われわれの《現実》を成立させるためには、「近代家族」という物語が必要であったことが表現されている。 2. 「近代家族」の物語は近年急速に衰退しているため、登場人物はみな《現実》感を喪失している。このことは、登場人物の誰一人として従来の恋愛感・家庭観を抱いていないことからもうかがえる。彼らは特定の恋人や子供をつくろうとしない。 「ねえ、見てよ」さっき投げ捨てた本をまた拾って、真秀が言う。「ハンバーガーばっかり食べて、ジーンズなんか穿いてると、精子の数が少なくなるんだって」 「それはいいことを聞いた。早速今夜から、ハンバーガーを食べるよ」 あるいは真秀が「恋人ごっこ」なるものをもちかけたように。 3. 「近代家族」イデオロギーの代役として、貨幣イデオロギーがわれわれの物語をつくりあげているという面もあるが、貨幣イデオロギーによってつくられる物語は貧困で、とうてい我々をしかるべき《現実》へと到達させてはくれないこと。 「どうしてお金が好きなの?」 僕はそう真秀に尋ねた。そうしたら真秀は、宇宙人でも見るような目つきで、僕を見た。何も分かってないのね。そう言われたような気分にさえなった。 「だってこれは、唯一の哲学で、世界の共通言語よ」 そんなことも知らないの?と、真秀は馬鹿にしたような表情を浮かべていた。まったく僕は、この世界と交信する言語をろくに扱えない、はみ出し者なのだ。だけど僕が望むと望まざるとに関わらず、この共通言語は僕の手の中を素通りして、勝手に世界のどこかに僕を接続してしまう。 この部分のテクストが暗示するのは、お金は「すべてを単一の言語に翻訳するこの世界のシステム」ではなく、「ある一つのものを除いたすべてを単一の言語に翻訳するこの世界のシステム」なのだ、ということである。そのある一つのもの、彼女の「本当に欲しいもの」とは何であったのか。 この対比は、たとえば『ヨハネ福音書』の「正統」なバージョンと、カタリ派などの異端につかわれていたオック語訳バージョンとの違いを彷彿とさせる。後者は、「すべてを単一の言語に翻訳するこの世界のシステム」が包括し得ないものの存在を示している。 はじめに言葉があった。 すべては言葉によってつくられた。 言葉によってつくられないものは、何一つなかった (ヨハネ福音書・ローマカトリック版) はじめに言葉があった。 すべては言葉によってつくられた。 ただ無だけが、言葉によらずにつくられた。 (ヨハネ福音書・オック語版) 4. 物語の喪失あるいは貧困は、言葉の喪失および貧困と連動していること。 5. そうした現状の世界の否定的象徴としてビッグ・マザーが置かれていること。 「今までお前が守られ育まれてきたのは、誰のためだと思っているのだ? 私を殺せば、お前は唯一の守りを失う。無秩序の、混沌の中に一人放り出され、傷ついてすぐに死んでしまうのだ。分かるだろう。私が戒律であり、順列であり、意味なのだ。私に刃向かうな!」 一九九五年の彼女が、死の直前に「――って、信じる?」と主人公に尋ねた、その「――」の部分は、我々がいまいちど獲得しなければならない物語であり《現実》だったのではないでしょうか。 彼女は、いわば「戦い続けることによって真の物語に到達できることを信じる?」と尋ねたのだと思います。 6. だが、新しい豊饒な物語を構築する手段として、構築的思考の「革命」は否定されていること。その代わりに、言語のもつ呪術的な力が賞揚されていること。 ここで前回の手紙の意趣返しに、こちらも歌詞をひとつ紹介します。 ジャリ・アルフレッド カンディンスキー・ワシリイ ツァラ・トリスタン ピカビア・フランシス(くりかえし) 産声は無秩序 パタフィジック ヒステリーは無意味な タシスム おもちゃのサンプラー 小犬の声で デュシャンも踊るか? アッサンブラージュ (中略) 破壊こうちく 破壊こうちく 体制 革命 新体制 図工の宿題 はさみと糊で ゾリロも絶賛? アルテ・ポヴェラ 定義付け無用 関連性無視 子供みたいなダダダダダイスト 残酷なうえに騒動が好き 子供みたいなダダダダダイスト (戸川純『ダダダイズム』) カヒミ・カリィも椎名林檎も、(よく知らないなりに)戸川純の子孫のようなものだと思っているのですが、(※註2)どんなものでしょう。さらには同アルバム(『ダダダイズム』)の次の曲『NOT DEAD LUNA』の出だしも添えておきます。 塩酸も飲んだし、頸静脈も切ったが 私は死ななかった 死にゃしなかった (中略) 5階から飛んだし 信号も無視した だけど死ななかった 死にゃしなかった (戸川純『NOT DEAD LUNA』) なにやら、今回のテーマにはうってつけではないでしょうか。 革命の夢は二十世紀とともに去り、二十一世紀の黎明をまのあたりに、スイヒラリ・ナカニラミという「呪文」が、『共産党宣言』に替わってわれわれの武器となります(という主旨に賛同するかどうかは別として)。 しかし結局のところ、言語のもつ呪術的な力においても、主人公の観念における戦いは勝利に至らず、ひとまず主人公は一命をとりとめるが、どうやら戦い判定負けに近かったらしい、というところでこの小説は幕を閉じます。 主人公は革命を信じることはできなかった。それは一つの挫折ではあるけれど、革命の代わりになりうる何者をも信じることができなかったとなると、事態はより完全な絶望に近いと云わざるを得ません。 「天使の歌」における安寿の歌にしても、いわば「スイ・ヒラリ・ナカ・ニラミ」と同じ呪文だったのだとすれば、涼風様はわれわれの《現実》をめぐる戦いの武器として、言語のもつ呪術的な力を唯一のものとするかどうか、揺れているように思うのです。それは、今後の涼風様の作品においてさらに展開されてゆく命題なのでしょう。 ホロコーストをめぐる涼風様の考察は興味深く読ませていただきましたが、さて、どこから切り込んだものやら、少々戸惑っております。 かくいう私は、ひところナチス関連の本を集めていた時期がありまして、今でも本棚の一角にナチスコーナーが存在しているのですが、その時集めるにあたってのテーマとして、いわゆるナチス生物学、文明論、それ優生学や人種論、安楽死といったものが念頭におかれていました。 一般に、ドイツにダーヴィニズムを受容したのはエルンスト・ヘッケルであると云われていますが、彼は当のダーウィンですら明示しなかったことを、ダーウィン進化論からの演繹として、非常な危険もかえりみずに推し進めてしまいます。それによって、ナチス生物学による人種差別の土壌がつくりあげられた、と云われています。 人間は類人猿から進化した存在であり、人間にも進化論を当てはめることができる。他に微生物であろうと国家や社会(社会進化論)も同様である。 (『ナチズムと動物』ボリア・サックス、青土社) すなわち、優れた人種は劣った人種を駆逐することによって、人類全体の繁栄に寄与するのだという理屈です。また優れた文明は劣った文明を……と言い換えれば、ナチス文明論の骨子は掴んだといっても過言ではないでしょう。 この理論は、一見するとダーウィンの提唱したものからはかけ離れているように思えるのですが、当時はドイツのみならずイギリスの生物学界においてもかなりの勢力を保持しており、さらには後にノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツといった大物まで一役買っていたそうです。ある意味ひじょうに明確な世界観に基いており、「どうして?」という疑問が沸き出る余地がまったくありません。なにしろ、「それは生物の摂理だからなのだ!」と云い切ってしまえるわけですから。 たとえば、今日の感覚でいえばとんでもなくおぞましい話ですが、遺伝子的に「劣った」障害者に生活保障と引きかえに断種をすすめたり、のちには病院で本人に告げぬまま安楽死をさせたりといった行為は、狂気というよりは論理的帰結として、「理性的に」行われたのです。このエピソードは、理性というものがいかに信用できないか、という証左でもあります。 「ホロコースト以後、物語は不可能となった」とよく云われますが、おそらくランズマンは、このテーゼに従った立場にいるのではないでしょうか。 涼風様が指摘されるように、ランズマンと対比したときに村上春樹が、「物語を完全に排除することは不可能である」という立場にいるのだとすれば、それは文学にとって、きわめて重要な問題だと思います。 さて、このあたりでうまくしめくくり、涼風様にバトンタッチという折、巷ではこんなニュースが流れていました。 日本にも「対応」と警告 ビンラディン氏が声明か カタールの衛星テレビ、アルジャジーラは18日、国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン氏の声明とされる音声テープを放送した。声明は日本など6カ国に対し、イラクを占領する米国への協力を続ければ「われわれは対応する権利がある」として、攻撃の標的になり得ると警告した。 声明が本物とすれば、同氏がイラクでの対米協力に絡み、日本を名指しで攻撃の可能性に言及したのは初めて。 (共同通信) さらに本日のニュースによると、どうやらこの音声テープは本物なのだそうです。 なにやら9.11以降のアメリカ人の《恐怖》が、少しは我々日本人にも実感できたような気がします。(※註3) それに、「日本など6カ国」などと云っていますが、こういう時、日本という国はどうも貧乏クジを引きそうな気がしませんか? ついでに言えば、日本のなかでもとくに自分の棲んでいる場所が貧乏クジを引きそうな気が。それが《恐怖》というもののメカニズムの一つなのかも知れません。 というわけで、お急ぎなく、お返事お待ちしております。あいも変わらず名古屋の自宅にて。 |
二〇〇三年十月二〇日 馬頭親王 拝 |
(※註1)
ちなみに『スイヒラリナカニラミの伝説』の中で真秀が読んでいる本がまさに『買ってはいけない』だったりするのですが……。 (※註2) それ言ったらみんな寺山修司の娘たちですがな、と軽くツッコミでも入れておくことにしましょう。(「あしたのジョー」の主題歌の作詞を寺山が手がけていたことを君は知っているか?) (※註3) この註を書いているのは2003年12月2日だが、前日の朝刊でちょうど、「イラクで邦人外交官2名が殺害される」というニュースが流れたところである。われわれは《恐怖》を実感しただろうか? 正直なところ、それはやはりどこか遠い場所の出来事として捉えられてはいないだろうか? 遡ること8年以上前、1995年の3月20日朝、私はJR総武線で船橋から御茶ノ水へ向かっていた。その日、営団東西線ではなく総武線を利用したのは、まったくの偶然でしかない。加えて私の両親はまさに、東西線や都営新宿線で出勤していたのだから、サリンの被害を免れたのは幸運以外の何物でもないのだ。それにも関わらず、私はあの事件に際して、恐怖を感じた記憶はない。だから私には、ニューヨークの熱情が理解できないのだろうか? ところで「成田空港を擁する千葉はテロが起きる可能性がある」ので自衛隊のイラク派遣に反対している堂本千葉県知事の発言(12月2日朝日新聞朝刊33面)というのはまた違った《恐怖》の発露と言えるのだろうか。 |
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