その代りに我々人間から見れば、実際又河童のお産位、可笑しいものはありません。……お産をするとなると、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と大きな声で尋ねるのです。……すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしていると見え、こう小声に返事をしました。 「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」 (『河童』芥川龍之介、新潮文庫) 馬頭親王 様 冒頭から引用で始める、という乱暴な構成を取らせていただきましたが、ご容赦ください。 ここで引いた小説『河童』は、言うまでもなく芥川の最晩年の代表作です。ここに描かれる河童の世界は、人間の世界よりも進歩した文明の世界である、と当の河童たちが自負しているところですが、とすると、芥川の死後七十年以上を経た今、われわれの世界は急速に河童化している、と言えるのかもしれません。 既にお察しいただけているかと思いますが、優生思想の話から参りましょう。メンデルの遺伝学とダーウィンの進化論は同時代の産物であり、世に出た当初は前者の光彩のまばゆさに後者が霞んでしまった、という経緯もありましたが、現在となってはこの両者の強力な結びつきが「新しい優生思想」の構築に寄与している、ということで、なかなか皮肉な状況と言えましょう。 ちょうど、『現代思想』の11月号が、「争点としての生命」と題を打って、生命倫理学の特集を組んでいます。収録された個々の論文にはいささか眉に唾をつけたくなる箇所もありますが、ともかく「優生思想=ナチスの口実=絶対悪」のような単純理解による思考停止状態に、一石を投じよう、という編集部の姿勢には好感が持てます。 ところでわれわれは、出生する前の胎児に意思確認をすることができるほど、河童的に進化してはおりませんが、例えば妊娠中に「この子は高い確率で障碍(※註1)を持って生まれてくる」と判断することができるようになりましたし、両親の遺伝情報から「この夫妻の間に生まれる子供は高確率で遺伝病を発症する」などということまで分かるようになってきました。 このことは、従来のフェミニズムの枠組みを大きく揺るがすことになるのではないかと思います。(フェミニズム、と安易に口走りましたが、フェミニズムと呼ばれるムーヴメントの中には諸派あり、例えば「サイボーグ・フェミニズム」と「第三世界・フェミニズム」を同列に扱うことが甚だ危険であることは、私も承知しています。(※註2)承知した上で、ここでは「多数派のフェミニズム」を指す語として用いさせていただきます) 90年代あたりまで、フェミニズムが主張する女性固有の権利のひとつとして「リプロダクティヴ・ライツ」というのがありました。簡単に言えば「子供を産み、育てる権利」のことです。つまり、「子供を産み育てることによる幸せを享受すること」あるいは「子供を産まないことを選択することによる自由を享受すること」は女性として当然に行使しうる権利であり、子供を産むか産まないかは女性の自己決定権の範疇に委ねられるべき事項である、という思想であったと理解しています。 しかし、たとえば今日において、生まれてくる子供が障碍を負う可能性が高い、と事前に知らされてしまったとき、母親はいかなる判断を下しうるのでしょうか。フェミニズムの文脈に基づき、リプロダクティヴ・ライツを行使して、この子供を出産しないことを選択しうるのでしょうか。それは暗黙のうちに、障碍者を排除する社会を容認することになりはしないでしょうか。 だからといって、われわれの社会はこの母親に「生まれてくる子供に障碍のある可能性が高いことを理由として、差別的取扱いをしてはならない」と強制することができるのでしょうか。それは少なくとも社会の現状を鑑みる限り、この母親に「今後長年にわたる多大な経済的/人的負担を強いる」ことともなります。 結局のところ考えても結論は出ないのですが、われわれの倫理や道徳は科学技術の進展にまったく追いついていないのですし、科学技術の進歩はわざわざ倫理が追いついてくるのを待ってくれたりもしません。 そうであるからといって、従来の価値基準を新しい技術の場に持ち込むことの帰結は、惨憺たるものです。相変わらずデカルト的なコギトのイメージで捉えられた個人が、人工授精/代理母/精子バンク/他者の卵子による妊娠/体細胞クローンといった技術のどこかに、倫理的なボーダーラインを引くことが可能でしょうか? 神でもコウノトリでもないわれわれヒトが、メロンの苗を選別するように、生殖についてあれがいいこれはだめだと言いうるのでしょうか? 前の書簡で馬頭様が挙げられたナチス文明論については、ざっくばらんに言えば進歩主義の帰結であり、「進化することはよいことだ」という信念の無邪気さについては、批判を加えることができると思います。とはいえ、現在の科学文明の発達に際し、もはやそれがよいものか悪いものかなどと判断を下すまでもなく、もう進歩は止まらない、という現状に対し、「昔に返れ」と叫んだところで詮無いことです。 したがって、もはや否応なしに進歩の道を進み続けるわれわれにあって、ナチス優生学に代わる倫理をわれわれは持ちうるのか、という問題になりますが、これがどうも難しい。馬頭様のご指摘のとおり、ナチス優生学(に限らず、ナチスの思想や運動の根底そのものに見られるのですが)はきわめて明晰な論理の帰結であり、われわれが「理性的」であろうとする限り、これを覆すほどの理論を構築するのは困難であるからです。 さて、ナチスという理性と普遍性のあり方については、『イェルサレムのアイヒマン』(ハンナ・アーレント、みすず書房)という魅力的なテキストを用意していたところなのですが、もっと魅力的な、分析しがいのあるテキストを入手してしまったので、ナチスの話題は次回以降に持ち越しとしましょう。ここで言う魅力的なテキストとは、既にお気づきかもしれませんが、『a pone』です。(※註3) 馬頭様のサイトで公開されています小説『a pone』を、大変興味深く読ませていただきました。今回はぜひともこの作品について語りたいと思うのですが、私の興味と知識の赴くままに作品を解釈させていただきますと、この小説は「男であることの不自由」と「男であることからの不自由」を見事に表したものとして、ジェンダー論の観点から非常に読み応えのある作品である、ということができると思うのです。 ひとまず、私なりのやり方で、この小説を分析させていただきます。 |
【『a pone』作品分析:その1】 @ この小説において、物語の主要な登場人物は〔グレゴリー・ブラウン〕と〔ヨーゼフ・ブラウン〕の二者である。 A グレゴリーとヨーゼフの両者は、対称的なキャラクターとして作中に配されている。 B グレゴリーは、伝統的な肉と霊の二元論における精神主義者の立場にある。それゆえ、肉体的な制限事項である「死」、またそれと等価である「性」を受容できない。 C ヨーゼフはまさにグレゴリーと対称的に、身体的なリアリティに律せられている。彼が己の内奥に巣食う欠落を満たすために選んだものは、暴力としての性であり、まさに刹那としての「死の固有性」そのものである。 |
まずこの作品における人物配置ですが、語り手である「わたし」、「ハインリヒ」「グレゴリー」「ヨーゼフ」の三兄弟、それにハインリヒの恋人であった「ヒルダ」の五人にほぼ絞られます。 その中でも、グレゴリーとヨーゼフの二人について語ることに、紙幅の多くが割かれています。したがって、物語の骨格を理解するためには、グレゴリーとヨーゼフがどのような物語を紡いだかを追うことが、いちばんの早道であると考えられます。 さて、この兄弟はきわめて対照(対称)的なキャラクターとして描かれており、それは西欧的な人間理解の伝統である「肉体」と「精神」の二元論の構図に当てはまります。つまり、通常人であれば備えている(ことを期待される)バランスに比して、グレゴリーは精神の側に、ヨーゼフは肉体の側に、大きく傾いている、というわけです。 この兄弟はそれぞれに破滅の道を歩みますが、グレゴリーの転落のきっかけを作ったのは「自らの意思に反して売春窟に押し込まれ、しかもそこで自らが不能であると宣告されたこと」という、きわめて「肉体的」な事項です。他方、ヨーゼフの破滅に向かうきっかけは「母性への思慕と餓えに由来する暴力的な衝動を、無謀な行動により開放しようとした末の身の破滅」という、こちらは「精神的」な領域にある引き金でした。 ここでわれわれは性が死と等価であることを思い出さなければなりません、と言えばいささかバタイユ的でしょうか。別段バタイユに限った話ではないのですが、エロスとタナトスの同一性、生殖活動は本来的に従前の個体の死を内包しているというのは、一般的に「よくある話」です。 グレゴリーはロジックの世界において、チェスの、あるいはチェス盤によって暗喩される何ものか(安易にそれを「人生」などと呼びたくはありませんが)の制約を飛び越え、自由に飛翔した、かに見えました。そんな彼に立ちはだかったのは、肉体の、あるいは物理的な、制約であったのです。 彼は作中で二度破滅に襲われ(そのうち二度目で決定的に破滅するのですが)、いずれの場合においても「小さな女の子にいたずらを働いたかどで半殺しの目に」遭います。ハインリヒの死によってもたらされた最初の破滅は「法学者の道を断念せざるをえなくなった」という経済的な破滅であり、二度目の破滅は「売春窟で性=死をかいま見、さらに盤上で敵ポーンの槍に貫かれて決定的な死の淵を見た」という肉体的な破滅です。これらはいずれも、彼の理性と論理に対し外的な要因が崩壊をもたらしたものであり、この破滅に対し彼が最後に取りえた行動は、幼い少女、おそらくは第二次性徴前の、「生殖から切り離された」対象に自らの性を結びつけることで、性=死の呪縛を回避しようとすること、しかありえませんでした。 対して、ヨーゼフはどうでしょうか。殺戮略奪何でもござれ、口を開けば強姦の話題しか出ない、その行動から見る限り、まさに粗暴としか言い表しようのない男として描かれています。 語り手「わたし」のヨーゼフ評は、ハインリヒの「英雄的」グレゴリーの「繊細」に対応する形で、ヨーゼフを「刹那」と言い表しています。まさにそのとおりで、ヨーゼフの行動原理は一貫して、刹那的な快楽を優先しており、グレゴリーのような論理的必然性とはまったくの無縁です。 絶えず暴力と性に自らの肉体を晒しているヨーゼフは、言うなれば常に死へと自らの肉体を開いているのであり、絶え間ない消尽の中に自らを放り込んでいるのだと言えるでしょう。 ところで「死」とは、個体に与えられた唯一の固有性であると言われています。ヨーゼフが破滅を迎えた雨の降るその夜、彼が何らかの不安や焦燥に襲われていたのだとすれば、その根源はヒルダの手紙にあったような、「チェスとはいったい何であり、また何であり得るのか、自分はいままで何をしてきたのか等々」であるのではないか、と読者である私は空想します。おそらく、こうした自我の不確定性による不安(アイデンティティ・クライシス)を振り払うために、ヨーゼフは常に「死の固有性」の方へ向かわざるをえなかったのでしょう。 そして、新入り相手に「強姦をやるときはかならず相棒と一緒にやることだ」と説いていたヨーゼフは、兄のグレゴリーを失い不安が絶頂に達したその夜、自らの言に反してたった一人で強姦に向かい、破滅します。理性的、という言葉はヨーゼフのキャラクターに似つかわしくないかもしれませんが、明らかに理性を欠いた行動に向かったヨーゼフは、自らの生命活動を維持しようという生物本来の本能を、アイデンティティへの不安が上回った状態に置かれていたのではないでしょうか。 さて、作中には「わたし」と「ブラウン三兄弟」のほかに、「ヒルダ」という重要人物が登場しますので、この点についても分析を加える必要があります。 |
【『a pone』作品分析:その2】 D 作中には〔ヒルダ〕という女性が、重要なキャラクターとして配されている。彼女はグレゴリーとヨーゼフの両者、特に後者にとって、《母》を象徴する存在である。 E 一方、二人にとって本来《父》の象徴であるべき長兄のハインリヒは、予め英雄としての伝説の中に封じ込められており、この意味において、父の座は空位である。 F ゆえにグレゴリーもヨーゼフも「母を手に入れるために父を乗り越える」という儀式を通過することができず、予め無限なる母への思慕に支配される運命にある。 |
だんだん胡散臭いフロイト主義者のような語り口になってきましたが、ご容赦ください。 物語中における役割分担という点から言えば、グレゴリーとヨーゼフの二人にとって、ハインリヒは父であり、ヒルダは母であるといえます。 近代的な家族社会において、「男の子」が成長の過程で女性の代表的モデルとして描くのは「母親」であり、フロイト的に言えばすべての少年の成長過程というのは「母親を獲得するために、父を打倒しようとする闘争」に集約されます。 ところが、グレゴリーとヨーゼフの兄弟にとって《父》であるべきハインリヒは、二人の弟がポーンとして歩み始めるより前に、英雄的な死を遂げているのであって、既に伝説的な存在となっています。このため、グレゴリーやヨーゼフが《父》を打倒・超越しようとするのであれば、既に伝説と化し、実体の定かでない何者かと格闘する以外にありません。 かくして父たる戒律とのせめぎ合いの場を予め奪われているグレゴリーとヨーゼフは、それぞれのやり方で、母たる情念を無限に膨張させていくことになります。簡単に言って、歯止めがきかなくなります。母たるヒルダの撞着=呪縛は、特にヨーゼフにおいて顕著に現れています(例えばヨーゼフが「わたし」を「ボルゾイ犬」と罵ることが、おそらくヒルダの口癖を真似たものであろうことは、ヒルダの子供らが同じ言い回しを用いていることから、推測できます)が、グレゴリーとてこの「母の呪い」から無縁であったわけではないだろう、と思います。 ヒトは自らの姿を認識するために他者の語らいに耳をすまし、鏡の向こうにあるものとして「(小文字の)他者」を認識することで間接的に自らの像を理解する……などと言えば、今度は付け焼刃のえせラカニストですが、こうした構図の中で「最初の他者」であるところの《母》が肥大化し、主体を独占することになれば、主体から「(大文字の)他者」へ通ずる回路は遮断され、結果、ヒトは自らの像を切り結ぶことができなくなります。この閉塞的な回路に侵入できる代表的な勢力が「父の法」であるわけですが、それが予め失われている以上、ヨーゼフもグレゴリーも母とのパラノイア的関係の中でアイデンティティの危機に陥り、それが臨界に達したとき、それぞれに見合った「過剰」を引き金とした破滅に達する、というのは、もはや必然であったと言えるのです。(※註4) さて、 |
【『a pone』作品分析:その3】 G ところで、この作品の表題は『the Pone』でも『pones』でもなく、不定冠詞を課された『a pone』である。 H このことから読者は、グレゴリーとヨーゼフの固有の物語ばかりでなく、名もなきポーン、まさに匿名のポーンであるところの〔わたし〕に目を向けなければならない。 |
ここまでグレゴリーとヨーゼフという「特定の/名を与えられた」人物の「物語」を追うことに紙幅を割いてきたわけですが、読者はこの作品の表題から、「不特定の/名もなき」人物の「物語−外」の物語への注意を喚起されなければなりません。 一般的な解釈としては、ブラウン三兄弟という「特定の/名を与えられた」人物の物語を、「普遍的な物語」として理解し、「人間一般の物語」へと拡大解釈していくやり方が想定されます。しかし、「ポスト=モダン」なんて単語そのものも古び始めた昨今、このように「大きな物語」に依存した読みを展開することは、果たして妥当でしょうか。 であるならば読者は、この「物語」から予め排除されてあるもの、物語の外側へと、目を向けなければなりません。物語から排除された存在、それは他でもなく、「名もなきポーン」であるところの語り手「わたし」です。 |
【『a pone』作品分析:その4】 I 〔わたし〕は作中で自ら語るとおり、「ハインリヒのように英雄的でもなく、グレゴリーのように繊細でもなく、ヨーゼフのように刹那でもな」く、それゆえにただ一人故郷へと無事帰還することができた。 J ブラウン三兄弟が、それぞれ己の信ずる道を追求するうちに破滅に陥ったのを見届けながら、〔わたし〕は一介の臆病なポーンとして生き残る。その〔わたし〕が最後に口にするのが「チェスというものは、ポーンが命なんだ(≒C’est la Vie)」という台詞である。 |
語り手である「わたし」は、臆病でしばしば王の命令に反し、ヨーゼフには「口先ばかりのボルゾイ犬」ヒルダには「甲斐性なしの宿六」と罵られ、己と周囲を美化して語る(ヒルダが彼の言うような育ちのいい令嬢でないこともまた、想像できます)ことによってどうにか自らの矜持を保っているという、矮小なポーンの一人です。 しかし「わたし」は、こうした名もなき微小なポーンであったがゆえに、ブラウン兄弟の荒れ狂う物語の渦からは予めはじき出され(「わたし」の側からはヒルダに求婚することでこの物語への参入を試みていますが、ヒルダは問答無用でこれを拒絶します)、その結果「死ぬこともなく、かといってプロモーションを果たすこともなく」ポーンとしての務めを終えます。 この「わたし」が作品の末尾で「チェスというものは、ポーンが命なんだ」と語るのを、どう理解したらいいでしょうか? 既にブラウン兄弟の破滅を見ながら、その破滅の物語に自らは浴さなかった「わたし」ですが、この最後の台詞からは、己の欠落を埋めようとするため過剰に走り破滅したグレゴリーとヨーゼフを見届け、もはや「アイデンティティの危機を克服しようともがき自ら破滅の道を選ぶ」か「不特定の名もなきポーンであることを受け入れることで生き残る」か、いずれかの選択肢しか残されていないこと、そしてどちらに転んでも結局「自我を確立する=ビルドゥングス・ロマンを全うする」ことは不可能であること、を見せ付けられ、「C’est la Vie.」(これが人生さ=仕方がないさ)と嘆く「わたし」の諦観を感じ取ることができるのではないでしょうか。 こうして、物語の外側から俯瞰する「わたし」の立場に着目したとき、この小説『a pone』は、以下のようにまとめることができます。 |
【『a pone』作品分析:総括】 ● 父たる法の介入を欠き、母とのパラノイア関係に置かれた個人は、もはや自我の確立としての物語を完遂することができない、アイデンティティ・クライシスの状態に置かれている。 ● こうした環境下において「生き残る」ためには、もはや自らの名を捨て、匿名のポーンとして生きる、つまりアイデンティティの確立を諦める以外にない。 |
さて、ここまでで『a pone』の作品全体をどのように見るかという私の立場を明らかにしてきたつもりですが、実は本論はここからで、「グレゴリーとヨーゼフを破滅に導いたものの正体」について、これまで見てきた内容を踏まえながら、再検証したいと思います。 「戦争は男たちがするもの。そして、とても愚かなものよ」 水汲みの壷を脇にかかえながら、いつの日かヒルダがそう云っていた。彼女の背に負われながらヨーゼフはすやすやと寝息をたてていた。 かくしてヨーゼフは躊躇なく兵舎を飛び出して行ったので、われわれは互いに顔を見合わせ、やっぱりあの三兄弟はこと下半身に関しては誰一人としてまともじゃないだとか、そもそも俺たちスタントン・タイプのポーンの形はなぜこんなにも亀頭に似ているのだろう、などと話し合い、やがて彼のことは忘れてしまったのだった。 ここでは、「ポーン=兵隊」「戦争」「ペニス=ファルス」が象徴的に等価なものとして、互いに交換可能な位置に置かれています。 手前味噌で恐縮ですが、拙作『スイヒラリナカニラミの伝説』の場合と比較してみます。『スイヒラリナカニラミ』の場合、「スペードのエース=剣=権力」「ペニス=ファルス」「ファルシオン=偃月刀」が等価なものとして交換される、という構図にあり、この点で『a pone』と近似しています。 また、「英雄」ハインリヒの勃起障害に象徴されるように、ブラウン三兄弟は誰一人としてペニス=ファルスをコントロールする(理性の支配下に置く)ことができません。この点も実は、『スイヒラリナカニラミ』の「僕」が、〈一九九五年三月二四日〉のエピソードの中で、ペニスをコントロールできなかったことと共通します。 こうした点から私は『a pone』が『スイヒラリナカニラミの伝説』と主題の共通する作品であると勝手に信じ、勝手に親近感を抱いているところなのですが、さて、馬頭様の作者としての意図は、いかがなものだったのでしょうか。 ところで『スイヒラリナカニラミの伝説』の舞台設定は「父たる戒律が喪失され、母(ビッグ・マザー)による一元的な支配が完成している体系」であり、ここで主人公たる「僕」は「ペニス=ファルス=ファルシオン」を武器として「母の支配」から逃れるべく「革命」を志しますが、「ペニスの支配権を取り戻すことができず」失敗に終わる、という構造になっています。 『a pone』の場合も、「父=ハインリヒが喪失され、母=ヒルダによる一元的な支配が完成している」状況下で「ペニス=ファルスの支配権を失ったグレゴリーとヨーゼフの兄弟が、前者は論理により、後者は暴力により、ペニスの支配権を回復し、母の支配を脱しようとする」が「いずれも手ひどい失敗に終わる」と要約すれば、『スイヒラリナカニラミ』とかなりの共通性を見ることができます。……というのは、少し強引にすぎるでしょうか。 さて、フェミニズムの一派に「レズビアン・フェミニズム」というのがあります。異性性愛の自明性を疑い、ジェンダー的な圧力を排除した先の性愛として「レズビアニズム」を想定し、異性性愛強制の「ファルス中心主義」を解体しようという試みです。 この「レズビアン・フェミニズム」を端的に表す標語として「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」というのがあります。 実のところ、この主張を初めて耳にした学生時代の私は、何やら妙に腹が立ったのです。それでは結局、男性主義の性暴力を裏返して、女性主義の性暴力へと転化しただけなのではないか、と。結局それは「ファルス中心主義」を脱し「ヴァギナ中心主義」へと移行しただけのことであって、フェミニズムが解体しなければならない「ロゴス中心主義」の、ますますの強化に寄与してしまっているのではないか、と思ったのです。 しかし最近、考えが変わってきました。レズビアニズムの過剰な称揚はいただけないにしても、先に挙げた標語「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」については、妥当性を認めてもいいかな、という気になってきたのです。 もちろん、だからといって「ペニスさえ介在しなければセックスは暴力的にならない」という短絡的な結論には結びつかないと思うのですが、ただ、「ペニス=ファルス」とは本来、暴力的な装置なのではなかったか、ということに思い当たっただけのことです。 であるとするならば、われわれ男性は、生まれながらにして、あるいは、少なくとも自らを少女の領域から切り離さざるを得ない第二次性徴以後において、暴力を自らと不可分なものとして有している、ということになります。しかもそれが、自らの理性の支配下に置くことのできない、コントロール不可能な暴力であるとしたら。 そうであるならば男性にとってのセックスとは、無限に赦しを乞う行為であるのかもしれません。ペニスの介在するすべてのセックスが暴力である限り、ペニスと不可分なものとして存立することができない「男−性」においては、すべてのセックスが暴力なのであり、暴力の受容を求める行為になってしまいます。 もちろん、ペニスのみがただ一方的に暴力装置であるかというと、そうとも限らないように思うのですが、差し当たりペニスを暴力と結びつけて理解することにして、非常に男性的な立場からセックスについて考えると、セックスとは暴力に対し双方の肉体が開かれ、暴力を相互受容する状態であり、それゆえに相手の同意を得ないセックス=レイプは暴力の強制であり、許しがたい犯罪である、ということになるのではないでしょうか。 ブラウン三兄弟の共通点として、暴力装置としてのペニス=ファルスをコントロールできない、ということを先に見てきました。 であるならばわれわれ男性は、いつ暴発するとも知れない暴力を常に抱え、持ち歩いているといえます。不発弾を背負って歩いているようなものです。しかも、まさかそう簡単に切り落とすというわけにもいきません。 近代家族のモデルにおいては、主体のビルドゥングス・ロマンを完遂するために「父の法」を介入させ、《父》《母》《自己》の三者関係により主体の存立を目指すことができましたが、こうした家族構造が瓦解し、《父》の座が空位になると、《母》と《自己》との関係が強まり、パラノイア関係に陥ります。このとき主体=ファルスは母の支配の影響を受け、ペニスは母によって馴化されます。結果「男」は自らの肉体と不可分な形で、自らの支配=所有の効力の及ばない「暴力」を内包することとなり、これはもはや「母−息子」のパラノイア関係を強めるための装置の一部分であるので、この暴力によりこの閉塞的な関係を打破することは不可能であるため、主体は逃げ場を失い、アイデンティティ・クライシスに陥る、というのが私の持論であるのですが……青臭い未熟な主張である点はお目こぼしください。 上記のような状況下では、「男」は「男であること」に起因する不自由に置かれており、しかも「自らの身体と不可分なものが、自らを支配する装置の一部として機能している」ため、この「男であることの不自由」は「男であることの不自由からの不自由」と表裏一体であるわけです。 振り返れば、グレゴリーとヨーゼフは、こうした「男であることの不自由」からの脱却を試みて闘争を仕掛け、挙げ句敗北したのではなかったでしょうか? グレゴリーはロゴスとしてのファルスを、ヨーゼフは暴力としてのファルスを、それぞれ自らの支配下に置こうとして、失敗した、といえるのではないでしょうか。 というわけで、私は『a pone』を以上のように読み、そして大変面白く読ませていただきました。 この書簡の冒頭で見てきたように、生命倫理が岐路に差し掛かっている昨今、ジェンダー論もまた分岐点に達しつつあるのかな、という印象を受けます。至近な例を挙げれば、私の住んでいる千葉県では最近、知事が議会に上程した「男女共同参画条例」案が、過半数を占める保守系の議会与党の揺さぶりにあい、会期内の議決を得ることができなかった、というちょっとした「事件」がありました。 その条例案に反対した理由というのが「この条例案は生得的な男女の性差や、日本社会の伝統的価値観を破壊する、行き過ぎたジェンダー・フリーである」といった内容であったことに、私は半ば苦笑し、残りの半ばで戦慄しました。 ちょうど先日の新聞記事で見たのですが(朝日新聞12月6日夕刊11面『海外文化』欄)、アメリカなどでも最近の保守勢力は「平等」や「人権」を武器にして、ポジティブ・アクションを攻撃するという新しい「作戦」を展開しているということです。(※ポジティブ・アクション…社会的少数者や被差別集団に対し、積極的に優遇施策を展開することにより、格差を是正しようとする政策のこと。例を挙げれば、障害者雇用比率の義務化、有色人種限定の奨学金制度、等) 県立病院における女性専用外来の設置、というのは堂本千葉県政における(数少ない?)成果のひとつであるのですが、ひょっとするとこれも、いずれ保守勢力から「男性に対する差別である」と攻撃されるのでしょうか? 滑稽な話ですが、笑ってばかりもいられません。 ともあれ、私は男性としてこの世に生を受けてしまったものですから、「男であることの/男であることからの不自由」と今後も付き合っていかなくてはなりません。そのとき、こうした「従来のフェミニズム理論が、新しい攻撃を受けて四苦八苦している」状況を無視して通ることはできませんし、自らの不自由なる暴力/暴力なる不自由を見直しながら、男女のいずれに対しても抑圧的でないパラダイムを、男性の立場から模索していかざるをえないのだろう、と、一介の(元)政治学徒として自覚しているところです。 そのようなわけで、自分と同世代かつ同性である馬頭様が、この先どのようなテクストを展開していくか、ということには非常に興味があるのです。今後の作品にも期待しています。 文末がきれいにまとまったので、今回の往復書簡はここまでにしましょう。 馬頭様の前回の書簡へのレスポンスというより、手前勝手な持論ばかり展開してしまった感がありますが、ご容赦ください。 また、話題の範囲もすっかり狭くなってしまい、この書簡に対する返事を書く馬頭様に負担をおかけすることにもなろうかと思います。非礼をお許しいただくとともに、今回の書簡の内容に囚われることなく、馬頭様の博識と探究心でもって、再び豊穣なお話を展開していただければ幸いです。 それでは――今回は何より、お返事が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます。次の書簡も楽しみにお待ちしております。 |
二〇〇三年一二月一〇日 涼風 輝 拝 |
(※註1)
老婆心ながら……「障碍」は「しょうがい」と読む。マスコミなどで通常用いる「障害」は「碍」が常用漢字でないための当て字なのだが、国の法律も「障害者基本法」になっているのだから仕方ない。したがって涼風は、特に法令上の問題として扱う場合は「障害」の字を、それ以外の一般的な場面では「障碍」の字を使うことにしようと思う。 (※註2) なお「サイボーグ・フェミニズム」とは、肉体を人工的に改造することにより、「男性/女性」という区分を超越した存在となるものを想定して、従来のジェンダーの枠組みを脱臼させようとする試み。「第三世界・フェミニズム」とは、『サバルタンは語ることができるか』(G.C.スピヴァク)という書物の名に代表されるように、従来のフェミニズムの理論が「白人富裕層」を中心に組み立てられてきたことを批判し、フェミニズム運動の内部にある/内部化された差別や不均衡を問題として取り上げる、いわばフェミニズムの脱構築。 (※註3) 『a pone』は馬頭親王様のサイト「馬頭親王の文章漂流記」に掲載されている短編小説。まだ読んでない人は是非読むべし。絶対読むべし。一日五回聖地の方に向かって深く頭を垂れながら読むべし。 (※註4) このへんの元ネタは「現代思想」1998年10月号所収の『バタフライナイフは他者の語らいを希求する〜ラカンのL図をめぐって』(下河辺美知子)を参照。 |
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