「必然的に起こりうる或るジレンマについて」





 涼風 輝  様


 おひさしぶりです。
 涼風様からいただいた書簡を眺め、さてどのように斬り込んでゆくかと思案に暮れたあげく、とにかく書き始めてしまえ、とデスクトップに新しいファイルを作成したまさにその時、ヤマト運輸から小荷物が届きました。
 おおかた注文した本かあるいはCDには違いないのですが、インターネットによる通販など日常茶飯事なので、いったい何であるかは開けてみるまでわかりません。で、開けてみたところ、中味は『萌える英単語もえたん』……。
 ちなみに(笑)という記号は、これまでこの往復書簡ではなるべく使わないように気を配ってきたつもりでしたが、さすがに『もえたん』到着にはなかなかの脱力感を味わいましたので、本題は仕切りなおして明日からとさせていただくとともに、一回だけ使わせていただいてよろしいでしょうか。
 いんくタン激燃え〜(笑)(※註1)
 
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 さて、前回は拙作『a pone』に対する丁寧な批評、有難うございます。ただ、周知のとおりあの小説は『イェルサレムのアイヒマン』とは違い、分析の対象となり得る、つまりそれだけの価値のあるテクストであるといういかなる声価も得てはおりませんので、果たして二回にもわたって採り上げてよいものかどうか、一抹の躊躇を感じております。
 しかし、いっぽうで涼風様の緻密な批評に多少なりとも応えてみたいという誘惑はたいへん強いものでしたし、一つの作品について論議を深めてゆくことも、この往復書簡の流れのなかでときおり必要なことではありましょう。次にそのような機会があれば、なるべく世間から評価を受けた、あるいはなにがしか瞠目せざるを得ないテクストを選ぶことにして、今回は僭越ながら、『a pone』について涼風様にレスポンスさせていただくことに、まずは専心させていただくことにします。

 ……と云った端から、それにしても前々回、すなわち『革命、体制、新体制……』における『スイヒラリナカニラミの伝説』に対する感想が、涼風様の批評に比べていかにも言葉足らずだったことが悔やまれます。
 馬頭はあの小説を読んで、こういっては何ですが「徒手空拳せざるを得ない」主人公たちに強烈なシンパシーを感じたものでした。なにより敵が「ビッグ・マザー」という以上に具現化し得ない存在だというのは、それを具体的な何かにしてしまっては涼風様が定めたかった標準から外れてしまうため、敢えてあのように抽象的な存在に留めたのだと受け取っております。たとえば敵を「資本家」に置き替えればマルクス主義になるし、「男性」に置き替えればフェミニズムに、「現代日本の漠たる閉塞感」にすれば『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』に見られる悪しき村上龍イズムになってしまう、というように。
 もっとも『スイヒラリナカニラミの伝説』にかぎらず、涼風様の小説ではつねに閉塞感が重要なキーワードとして大きなウエイトを占めておりますが、それは決して現代日本の漠たる閉塞感などではない。涼風様の照準は、もっとマクロな「生きていること空虚さ」といったレヴェルでの閉塞感を問題にしているのだと見受けました。
 それこそが我々をとりまく古くて新しい命題なのであって、きわめてアクチュアルかつ普遍性なテーマと云い得るのではないでしょうか。かつて掲示板のやりとりで、わたしが「ビッグ・マザー」をグノーシス主義におけるデミウルゴス(造物主であり、地上の支配者でもあるところの敵対者)になぞらえたのは、そうした『スイヒラリナカニラミの伝説』に見られる世界観の拡がりを捉えたかったからです。
 
 主人公と真秀とのやりとりのなかで、貨幣がすべてであるのかそうでないのか、という箇所がありましたが、あれを捉えてわざわざ『ヨハネ福音書』の二つのバージョンを引用したのは、直接的には二人のやりとりを別の図式で表わしてみたかったからなのですが、水面下では、わたしが『スイヒラリナカニラミの伝説』をグノーシス主義の観点から読み解こうとしていたことの顕れでもありました。
 すなわちこの小説の主人公は、つねにビッグ・マザー=デミウルゴスの原理に収斂されないものを求めている。これはグノーシス主義者の基本的態度でもあるわけですが、このシーンにおける真秀との対話は、きわめて現世的かつ強力であるがゆえに、まぎれもなくビッグ・マザー=デミウルゴスの側に属する「貨幣」という価値観に対して、それに収斂されない別の価値観を模索していたのではないかと思うのです。(※註2)
 別のシーンでもやはり、デミウルゴスとグノーシス主義者の対決を暗示するシーンが多い……などと考えながら読むのは涼風様にとってははた迷惑な話かも知れませんが、たとえば、
 
 「ねえ、見てよ」さっき投げ捨てた本をまた拾って、真秀が言う。「ハンバーガーばっかり食べて、ジーンズなんか穿いてると、精子の数が少なくなるんだって」
 「それはいいことを聞いた。早速今夜から、ハンバーガーを食べるよ」

 
 というシーンにしても、きっちり子孫を残せという、これまた絶望的に異議を唱えがたく、それゆえビッグ・マザー=デミウルゴスに依るものに他ならないイデオロギーに対し、主人公は敢えて反抗することによって、そこに収斂されない新しい価値観を創造しようとしています。その収斂されないものこそが、『ヨハネ福音書』における「ただ無だけが、言葉によらずにつくられた」ということばによって云い表わされる、グノーシス主義者が目指すべきプレローマ界への道標なのです(ちなみにプレローマ界とは、グノーシス主義者が目指すべき「この世の外側」であり、魂の故郷である……というのは、なにやら循環論法めいていますが)。
 実際、すべてが言葉によってつくられたのか、それとも言葉によらずにつくられたものがあるのかというのは、かくのごとく大問題なわけですが、「スイヒラリナカニラミ」という言葉ならぬ呪文が、言葉=ロジックによらずにつくられたものとして主人公の戦旗となることは、ビッグ・マザー=デミウルゴスの原理から超越しようと試みる主人公にとって、きわめて必然的なことのように思われます。したがって「スイヒラリナカニラミ」という呪文が、つねにロジックによらずに、夢やシュルレアリスムのように挿入されることもまた必然です。さらには、アリスやファルシオンといったファンタジーめいたシチュエーションが登場することも、言葉=ロジックに叛旗をひるがえす戦いを繰り広げているわけですから、やはり必然なのではないでしょうか。
 
 一九九五年の彼女が、死の直前に「――って、信じる?」と尋ねたとき、彼女はビッグ・マザー=デミウルゴスの原理に収斂されない世界の存在を信じるかどうか、そこにたどり着けることを信じるかどうかを尋ねたのだと云っても、前々回に馬頭が「戦い続けることによって真の物語に到達できることを信じる?」と尋ねたのだと解釈したことと、さほど矛盾しないのではないか思います。ビッグ・マザー=デミウルゴスによって与えられた物語は、所詮は偽りの物語であり、われわれも毎日、職場やデートや飲み会などでそれを演じているわけですが、果たしてその原理の外などあり得るのか。
 ここで率直に「あり得る」と云ってしまえるのは、よほど能天気な人か、宗教家か共産主義者か村上龍のような人たちで、少なくとも一九九五年の彼女は、それを信じ続けることができませんでした。主人公に「――って、信じる?」と尋ねたそのとき、その瞬間に彼女は信じることをやめたのです。
 ビッグ・マザー=デミウルゴスの原理に収斂されない世界の存在――それは、結局のところ「生きる意味」とも云い変えることができるものであり、人生は生きるに値しない、あるいは自分は生かされるに値しないと考えたヒロインは、ここで命を絶ちます。というより、閉塞感によって殺された、と捉えるべきでしょう(涼風様の小説における重要なキーワード……と馬頭が勝手に決めつけた「閉塞感」に、なんとか話が戻ってきました)。
 敵はいつでもわれわれの命を奪うわけではありませんが、しかし生きることの意味は、つねに敵によって奪われています。――それでも主人公は、とにもかくにもこの場面を、そしてこの小説すべてを「生き残る」ことによって、戦いを続けることだけは表明したわけです。
 
 コリン・ウィルソンは『夢見る力』のなかで、ハックスレー、イエイツ、ワイルド、サルトル、ベケット、トールキン、ラヴクラフトといった作家群をとりあげて、彼らが共通して描こうとしたテーマとは、「人生は生きるに値しない」ということである、と畏るべき総括をしております。よしんば二〇世紀文学の到達点が「人生は生きるに値しない」という一つのテーゼであったとしても、馬頭はそうした文学史観自体にはさほど異議はありません。
 問題は、涼風様やわれわれの文学、すなわち二十一世紀の文学が、それに対するいかなるアンチテーゼたり得るか、ということに尽きるのだと思います。涼風様の小説のテーマは、そのように敷衍されるのではないでしょうか――というのが、馬頭が読み取ることのできた範囲での『スイヒラリナカニラミの伝説』の旋律です。
 
 少々グノーシス主義の振り回し方が手前味噌な気もし、またどこか気付かぬうちに大変失礼なことも述べたてているのではないかと危ぶんでおりますが、誤解のないよう申し添えておけば、馬頭は『スイヒラリノナカニラミの伝説』を読み、その勢いと、現実的・文学的という二つの意味でのアクチュアリティに大変感銘を受けました。やっぱり小説は「力作」がいいですね、というのが当初の感想であり、前々回や今回述べた事柄は、やや冷静になってから紡ぎ出されたコトノハですのでご容赦ください。
 なおグノーシス主義については、興味を持たれましたらマドレーヌ・スコペロ『グノーシスとはなにか』、あるいは大貫隆『グノーシスの神話』あたりから読み始められることをオススメします……と云っておくことによって、上の文章がグノーシス主義についてどうにも説明足らずであることの免罪符としておきます。
 
 *
 
 さてここから、裏口からそそくさ逃げるわけにもいかず『a pone』の話となるわけですが、まず涼風様の分析を読んで感じたことは、きわめて精緻であるとともに、必然的に涼風様自身の問題意識が強く反映されているということでした。
 なるほど云われてみれば『a pone』を書いた馬頭も男性であれば、読んでいただいた涼風様も男性。さらにこの小説の登場人物もおおむね男性ばかりです(このあたり、主人公以外は女性登場人物の比率が高い涼風様の小説とは対照的ですが、これは何を意味するのでしょう)。
 では男性とはいかなる存在であるかと言えば、涼風様も「男−性」と書かれたとおり、男の性(せい、さが)を持つ、ということに尽きるでしょう。
 前回涼風様が採り上げた「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」というレズビアン・フェミニズムの論理なのですが、これまであまり深く考えたことはなかったものの、漠然とそのように感じていましたし、云われてみればまったくその通りだと思います。それについて即座に思い出したのは、かつて高校の担任か誰かに聞かされた、原始人のセックスについてのエピソードです。
 それによると、原始人のセックスは男が女の後頭部を棍棒で殴って気絶させ、気を失っている間に性交するというものなのだそうです。もちろん近親相姦などあたりまえ。あげくに力加減を誤って殴り殺してしまうこともあるけれど、べつだん罪悪感を抱くわけでもない、というような話でした。
 思ってみれば高校教師の訓話(?)というのはきわめて信憑性が低く、彼らは都市伝説まがいのエピソードやテレビでやっているような俗流科学に、平気でお説教をかぶせて生徒に「喰わせる」わけですが、話の真偽はともかく、純粋にロジックとしてこのエピソードを介したあとに再び「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」という論理に戻ってくると、ある一つのことに気付かされます。
 それは、「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」という論理は、そうであればこそ「ファルス中心主義」を解体する以前に「レイプ」という概念自体を解体してしまうのではないか、ということです。
 セックスとは暴力であるというのはまさにそのとうりだと思います。そして文明社会が、「許容されたセックスは暴力ではない」という理屈を後付けしたわけですが、レズビアン・フェミニズムの人たちや涼風様が仰るとおり、じつは許容されていようといまいと、セックスが暴力であることには変わりがないというのが実際のところで、むしろ世間の通念であるところの「許容されたセックスは暴力ではない」という欺瞞は、折にふれ当事者あるいは社会に見えざる軋轢をもたらしているのではないでしょうか。
 
 『ブラウン三兄弟』はこのことに対し、三者三様の欺瞞によって逃げ廻っていたのだと云い得るのかも知れません。すなわち、
 ハインリヒ(おれは英雄だしハンサムだし女ほうから寄ってくるのだからそのあたりのことは深く考えずとも赦されるだろう)
 グレゴリー(僕は高尚かつ形而上的なのだから、そんな問題に関与する義務はない)
 ヨーゼフ(そうだあらゆるセックスは暴力であると同時にレイプなのだ! だからおれは暴力だってレイプだっていっこうに厭わない。おれのすることと、旦那が女房にすることと、なにが違うというのだ!?)

 というように。
 
 セックスとは不可分に暴力でありかつレイプであることを知ってしまった「男−性」たちにとって、セックスに対し欺瞞でない向き合いかたなど果たして可能なのでしょうか?
 もちろん涼風様も云われているように、「暴力に対し双方の肉体が開かれ、暴力を相互受容する状態」だと理解するのが、セックスに対する受け止めかたとしては最も妥当な着地点ではあります。少なくとも、「許容されたセックスは暴力ではない」という欺瞞に比べれば、より深い認識に基いた考えだと云い得るでしょう。しかし、それすらも根本的な疑問を棚上げすることによって、ひとまずの解決を得ている論理なのではないでしょうか。
 突き詰めれば、そもそも人間はなぜ動物と違って「それ」が暴力でありかつレイプであることを知ってしまったのか。どうしてそんなことを認識する必要があったのか。
 ……などと云いながらも、われわれ「男−性」はなんの不都合もなく日々セックスを行ない、また行うための相手を捜し歩くわけですが。
 
 しかしこうして見ると、三男ヨーゼフの言動は最も正統性があるように思えます。なにしろ彼だけが、「許容されたセックスは暴力ではない」という文明の欺瞞を衝いているわけですから。ところが、周知のとおり現実には、三男ヨーゼフのような人物こそが最も許されざる存在であるということは、いかにも奇妙なねじれのように思えます。
 涼風様が指摘された次男と三男のシンメトリーでいえば、次男グレゴリーはかつて法学者の道を目指しており、売春という法の境界線上の領域にも踏み込むことなく、彼の観念とは裏腹に文明=法の内側に留まり続けました。ところが三男ヨーゼフは逆に、つねに文明=法の外側に位置し、これまた売春という法の境界線をまたぐことを(この場合は外から内へということですが)拒否しております。
 
 ……余談ですが、優れたフェミニズムは決してやみくもに男性を糾弾するわけではなく、われわれに新たな視点を呈示してくれるという点で、じつに興味深いと思います。また、そうであればこそフェミニズムが社会にとって有益なものたり得るのだとも思います。
 昨今フェミニズムにいかなる潮流があるかといったことについてはまったく疎いのですが、少なくとも上野千鶴子や小倉千加子らの著作を読んだかぎりでは、率直にこんなに面白い本はもっと読まれるべきだと思いました。リプロダクティヴ・ライツや「ペニスの介在するすべてのセックスは、レイプである」という論理にしてもそうですし、例えば娼婦についても、上野千鶴子はさらっとこんなことを云っています。
 
 「買売春をふくむ性産業は、誤解を受けているようですが、女が自分の性を男に売るビジネスではなく、男が男に女の性を売るビジネスです」
 (上野千鶴子『発情装置』、筑摩書房)

 
 では『スイヒラリナカニラミの伝説』における主人公と真秀の関係には、買い手と商品のほかにどこに売り手が居たのか? ということになりますが、それこそは「マトリックスは、どこにでも干渉している」とモーフィアスが云うように、「ビック・マザー=デミウルゴスはどこにでも干渉している」と解釈すべきでしょう。直接的には、それは貨幣の誘惑というかたちで表れていますが、いずれにせよ主人公と真秀の関係が、いかなる革命にも結びつかない不毛なものとして描かれているのはきわめて妥当なことのように思えます。
 
 話を戻します。
 ヨーゼフはつねに法の外側に留まりますが、意図的にそうしているわけではありません。エオン・エキスは『強姦の形而上学』のなかで、セックスにおいては強姦こそが最も男性的であるがゆえに価値が高く、売春はそれに比べると少し価値が下がり、和姦は最も価値が低い「男にあるまじき行為」だと論じています。これは一見ヨーゼフの言動に合致するようですが、むしろそのような正当化の論理を必要としないところにヨーゼフの眼目があると云えるでしょう。
 だとすれば、ヨーゼフは決して自らアウトローたらんとしていたわけではなく、むしろ自らに誠実であろうとしたがゆえに、文明=法によって否応なくアウトローの座に放逐されてしまったのだと捉えるべきではないでしょうか。
 ヨーゼフの論理は、あるいは文学の、哲学の、独身者の論理と置き替えることもできるのではないかと思います。そして文明=法の論理というのは、社会人の、そして妻帯者の論理です。実際、愛する恋人や伴侶や子供や家庭を持つ人間は、さらに云えば安定した社会的地位や経済環境を持つ人間は、そうであればあるほど、ヨーゼフのような人間を脅威に感じ、許せないと結論づけることでしょう(ここで、ヨーゼフをいかに裁くかという村人たちの話し合いのなかで、比較的エスタブリッシュな村人たちは彼を殺すことを提案したけれど、独身の、持たざる女性であるところの当の娘によって赦された、というエピソードを思い出していただいても構いません)。
 率直な例を挙げれば、わたし自身、仕事だの恋愛だのがうまく行っている時期にはヨーゼフのような人間は許せないと思い、テロリズムやサブカルチャーを疎んじますが、逆にうまく行っていない時期には、そうしたものを賞揚したくなるということについて身覚えがあります。
 今回の分析には涼風様の問題意識が反映されている、と先ほど述べたのは、このようなジレンマについて、涼風様は読みながら強く意識されていたのではないか、と勝手に推察する次第です。ここでは詳しく触れるわけには行きませんが、涼風様自身の環境の変化もあったことですし……と思うのですがいかがでしょうか(←この二行は不都合でしたら削除しても構いません)(※註3)
 
 少々強引を承知で、これを『9.11』の問題に置き換えてみますと、「うまく行っている」アメリカはテロリズムを嫌って平和と自由を賞揚し、「うまく行っていない」ビンラディン及びアルカイダのメンバーは、逆に聖戦とテロリズムを賞揚していました。
 日本人である我々も、愛情のある家庭を持つ者ならひとしく犠牲者の遺族の哀しみを共有し、テロリズムを憎んだことでしょう。しかし同時に、ラディカルたらんとする者ならば、多かれ少なかれビンラディンにシンパシーを感じたのではないでしょうか。
 そしてこれら二つの相反する感情は、しばしば同じ人間に宿り、ジレンマと化すのではないかと思うのです。たいていの人は、後者に魅かれつつも結局のところ前者を選びます。
 すなわちビッグ・マザー=デミウルゴスに反感を抱きつつも従属を強いられ、文明=法をつまらないと感じつつもその内側に留まり、ビンラディンにシンパシーを感じつつも結局はアメリカを追認し、仕事をやめたいと思いながらも律儀に通勤し、貧富の差を憎みながらもさしあたって一身上は金が欲しい、といった具合に。
 
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 しかし『a pone』についてのレスポンスは、多少なりとも一般的なテーマに繋ぐことが出来たと思われるこのあたりで、ひとまずひと区切りとします(そそくさ)。
 果たして『スイヒラリナカニラミの伝説』および涼風様の『a pone』の分析に対し、ピントの合った応答が出来ているかどうか、まことにおぼつかない心境です。まあしかし、涼風様なら多少無茶なパスでもなんとか拾ってくれるでしょう……ということで、ひとまずこのあたりでそちらに寄越しますがよろしいでしょうか?
 
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 それにしても、実にこうなんというか、語りたいテーマというのは尽きないものですね。小林よしのりもTRPG(いつか出したる)も、ジジェクもナチスも『萌え単』も……(って最後のは関係ないか)。
 最後に云うのもなんですが、ようやく寒さの盛りも過ぎ、多少なりとも活動しやすい時期がやってきました。これはわたしにとっても涼風様にとっても有り難いことだと思います。さしあたって私は、来年に備えて冬物の在庫処分セールを狙いたいな、などと小説や評論と同時進行で構想しております。ほんとうに、いずれお会いできると面白いと思うのですが、(※註4)このところ遠出する用事があまりないのが悔やまれます。
 
 それではひとまず、今回はこのあたりで筆を置かせていただきます。
 今後も涼風様の活躍に大いに期待しております……といっても決してせかしているわけではなく、のんびり時間のあるときに返信していただければと思います。


二〇〇四年一月二十八日
馬頭親王  拝





(※註1)  も、燃えでつか? 萌えでわなく燃えでつか? 俺の拳が真っ赤に燃えますか? そしてやはりインク先生ではなくいんくタンですかその辺りがいちばん重要なのだが是非明らかにしていただきたい。

(※註2)  この場合、「デミウルゴス」を「大きな物語」に置き換えればポストモダンの文脈に、「構造的な搾取」に置き換えればマルキストの文脈に、「ハルマゲドン」に置き換えればかつてのオウム真理教の文脈に……なるのかどうか分かりませんが。
 ともかく、何か「巨大なもの」「絶対的なもの」との対立の構図というのは、古典的な「物語」の基本構造に忠実であるわけで、そのへんを意識したからこそこの小説のタイトルが、スイヒラリナカニラミの「伝説」であったわけです。

(※註3)  (苦笑)

(※註4)  涼風としても、馬頭様とは是非一度オフラインでお会いしたいところ。免税のえらそなスコッチウィスキーでも用意しつつ。……ってそれじゃアル中同盟の会合だな。






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