スイヒラリナカニラミの伝説
(02/32)

〈一九九九年七月一四日〉


 真秀のうなじが好きだ。茶味がかった黒色の毛の生え際を見ていると、何だかそれは人間ではなく、別の動物みたいに思えてくる。僕のペニスを口に含み、舌やら唇やらを動かしている真秀の姿を見ていると、それはまるで齧歯類の食事する姿に見えて、微笑ましい気分にすらなってくるのだった。
 手を伸ばすと真秀の尻に触れる。そこから性器へと指を滑り込ませる。真秀の陰毛は真秀の髪と同じく、完全な黒というより、やや茶色を帯びたような薄い色だ。真秀の白い背中が、びくり、と震える。その瞬間に僕は、真秀の口腔へと、射精した。
 胃薬を飲むときみたいな顔をして、真秀が僕の精液を飲み込む。それから、テーブルに放置されていた眼鏡をかけ直して、つまらなそうに、呆れたように、僕の方を見たのだった。
「楽しい?」
 真秀がそう尋ねる。わりとね、と答えて、僕は一万円札をテーブルに置く。真秀はその一万円札を手に取って、軽くキスをした。
「君こそ、楽しいの?」
「さあね」真秀は曖昧に笑う。「とりあえず、お金は好きよ」
 真秀は裸のまま立ち上がり、部屋の片隅に転がって一部始終を黙視していたハンドバッグを拾い上げ、中から財布を取り出して一万円札をしまった。真秀がキスをした一万円札。真秀の唾液と僕の精液が付着した一万円札。真秀はそれで新しいハンドバッグを買うのだ。それはとても象徴的な行為であるように思えた。
「ねえ、ほんとにさ。あと一枚出してくれたら、……しても、いいんだけど」
 ショーツに足をくぐらせながら、真秀はいつもと同じ台詞を繰り返した。だから僕の反応もいつもと同じで、苦笑いを浮かべながら、起き上がって、真秀に軽くキスをする。それだけだ。別段僕は、真秀とセックスしたいと思っているわけではないから。
 眼鏡をかけると真秀はまるで魔法が解けたみたいになる。そこにいるのはもう、僕のペニスから金と精液を吸い取っていく娼婦ではなく、期末テストの結果と来週発売のCDが気になっている、ただの高校生だった。僕も服を着ることにした。木綿のシャツに袖を通しながら、ふと鏡の中の自分と目が合うと、そこにいたのもやはり、取り立てて何の美徳も持ち合わせていない、仕事の後の退屈なサラリーマンの姿だった。


 二百年ともう少し前の今日、誰かが「革命!」と叫んで、それで何かが始まったらしい。だけどすべての参加者が自由を求めていたにも関わらず、そこでは誰一人自由を得ることができなかったのだ。ただ解放の物語とともに、牢獄で書き綴られた背徳と淫蕩の百二十日が、ばらまかれただけだった。
 結局僕らはまだこの星の重力圏から逃げ切れずにいて、真秀は僕のペニスを舐め、僕は真秀に金を払う。そんなことは革命の前にも始まっていたのだし、どうやらまだしばらくは終わらない。
「どうしてお金が好きなの?」
 僕はそう真秀に尋ねた。そうしたら真秀は、宇宙人でも見るような目つきで、僕を見た。何も分かってないのね。そう言われたような気分にさえなった。
「だってこれは、唯一の哲学で、世界の共通言語よ」
 そんなことも知らないの?と、真秀は馬鹿にしたような表情を浮かべていた。まったく僕は、この世界と交信する言語をろくに扱えない、はみ出し者なのだ。だけど僕が望むと望まざるとに関わらず、この共通言語は僕の手の中を素通りして、勝手に世界のどこかに僕を接続してしまう。
 そうだ、新聞代を払わなきゃ。僕はふと思い出した。来週あたりそろそろ、新聞屋が集金に来るはずだ。家賃と電気代とガス代、それに電話代と水道代、クレジットカードの引き落とし。銀行から自動的に引き落とされる類のものについては、僕はもう自分でも何と何を支払っているのか、把握していなかった。未だに原始的に、僕の住むアパートまで毎月金を受け取りに来る新聞代金の支払いだけが、どうやら僕はお金を払って生活を維持しているらしい、ということを思い出させてくれる。僕の知らない間に僕の通帳に書き込まれ、毎月こまめに増えたり減ったりするその数字に、僕はあまり感銘を覚えなかった。
 真秀は僕の部屋で勝手にテレビを見始めた。夕食の時間帯の番組は、やたらにコマーシャルばかりが多くて、いったい何を放映しているのか分からないような、そんな気がした。
 僕なんかよりテレビの方にずっと興味があるような、そんな真秀を放ったらかしにして、僕は机の上に置いてあったガラスの小瓶を手に取り、軽く振った。からから、という儚い音がして、それで僕は少しだけ、泣きたいような気分になった。テレビからはやたらに楽しげな音楽や笑い声が、垂れ流されてきていた。


 本来ならもうそろそろ、この世界が滅んでいてもいい頃だった。それなのに相変わらず毎日は退屈で、貨幣は極めて強固な哲学だった。窓の外は爆撃機だって青ざめるような大雨なのに、ブラウン管の内側では太陽の光があまりにも強烈で、それで僕は、新しいパラダイムが生起する余地はもうどこにもないのだ、と思った。